黙示録講解

(第479回)


説教日:2021年10月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(232)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきました。
 これまで、10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばについてお話ししてきました。
 これまで注目してきたことは、この10節の後半において、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることです。
 これは、これまでの言い方を繰り返しますと、「私たちが良い行いに歩むように」なるのは、初めから終わりまで――私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったことから、「私たちが良い行いに歩む」歩みを御霊によって最後まで導いてくださって、やがて完成に至らせてくださることまで――のすべてが、ただ、ただ、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによることであるということを意味しています。
 そして、この10節に記されていることは、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばを踏まえています。
 すでに、繰り返しお話ししてきたことですので、詳しい説明は省いて、結論的なことだけをお話ししますと、この6節に記されていることは、私たちが、すでに、「キリスト・イエスにあって」、「御霊」によって特徴づけられ、「御霊」によって造り出される「来たるべき時代」、「新しい時代」に属していて、その歴史と文化を造る使命を果たしているということを意味しています。
 かつて、私たちは「この世」、「この時代」に属していて、「肉」によって特徴づけられ、「肉」によって造り出される「この世」、「この時代」の歴史と文化を造っていました。
 それは、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、「肉」が生み出す、造り主である「神はいない」という根本的な前提、基本的な発想の上に立っている歴史と文化です。
 しかし、今、私たちは、私たちの罪のために十字架におかかりになって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊に導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりの中で、神さまの愛を受け止め、神さまの愛に応えて、神さまを愛して礼拝することを中心として、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たしています。


 今は、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

というみことばについてお話を始めたところです。
 ここで、

 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と言われているときの「自由」は、1節で、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と言われているときの「自由」です。
 その「自由」は、神の子どもとしての「自由」で、とても豊かな意味をもっています。それについては改めてお話ししますが、それとともに、この「自由」には、消極的な面もあります。その消極的な面とは、ここで、

 再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい

と言われているときの「奴隷のくびき」から解放されて「自由」な者とされたということです。
 この場合の、かつて私たちが「奴隷のくびき」を負わされていた状態とは、4章3節で、

同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

と言われているときの「もろもろの霊」と訳されている「ストイケイア」の下に「奴隷となって」いた状態のことです。
 すでにお話ししたことの結論的なことですが、この「『この世の』ストイケイア」は「この世のもろもろの霊」を表すというより、自らの罪の本性が生み出す――それは個人的な側面ですが、より広くは、「御霊」と対比されている「」が生み出す――「神はいない」という根本的な原理によって規制され、縛られている、「この世の」――「この時代の」――ものの見方、考え方、発想、価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、教え、決まり、習慣、風習、伝統などを表していると考えられます。そして、堕落後の人は、それぞれが属している時代と文化と社会によって現れ方は違っていますが、このような「ストイケイア」によって成り立っている時代と文化と社会の中に生まれてきて、「子どもであったとき」から、それらの中で育ってきて、それらが自然なものとなって、身に付いてしまっています。
 それで、「『この世の』ストイケイア」「の下に奴隷となって」いる状態の人は、「肉」によって特徴づけられ、「肉」によって造り出される「この世」、「この時代」の歴史と文化を造ってしまいます。
 このようなことから分かりますが、今取り上げている、5章13節ー14節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されているみことばは、私たちの主イエス・キリストが私たちを、「『この世の』ストイケイア」「の下に奴隷となって」いる状態から解放してくださって、神の子どもとしての自由を与えてくださっていることを踏まえています。

 ただ、先ほど引用した1節において、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と記されていることから分かりますように、私たちは、なおも、「堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないように」気をつけなければなりません。
 というのは、私たちはこの世にある間は、私たちの本性が完全にきよめられていなくて、私たちのうちには、なおも、罪の性質が残っていて、私たちは罪を犯すことがあるからです。
 その私たちは、自分が生まれてきて、育ってきた時代と文化と社会を成り立たせている、「『この世の』ストイケイア」、すなわち、「御霊」と対比されている「」が生み出す、「神はいない」という根本的な原理によって規制され、縛られている、ものの見方、考え方、発想、価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、教え、決まり、習慣、風習、伝統などに馴染んできたので、それらが、言わば潜在意識のように染み込んでしまっていて、それらから完全に脱却しているわけではありません。
 そのために、私たちが受け入れている福音のみことばが証ししていることさえも、キリスト教的に脚色された「『この世の』ストイケイア」によって歪められてしまい、その結果、私たちが「再び奴隷のくびきを負わされ」てしまう危険があるのです。
 ガラテヤ人への手紙3章1節ー5節でパウロが、

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。

と切々と問いかけているのは、ガラテヤの教会の信徒たちがそのような事態に陥っているからです。
 具体的には、すでにお話ししたように、割礼を受けてモーセ律法を守らなければ義と認められない(救われない)と教えていた、「ユダヤ主義者」、すなわち、2章12節で「割礼派」と呼ばれている、ユダヤ人クリスチャンに惑わされてしまっていました。そして、そのために、「再び奴隷のくびきを負わされ」てしまう危機に直面していました。
 この3章1節ー5節で、パウロは、ガラテヤの教会の信徒たちにとって大切なことを示しつつ、彼らが直面している危機を警告しています。1節では、ガラテヤの教会の信徒たちには、

 十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出された

と言われています。これは、同じ、ガラテヤ人への手紙の1章4節ー5節に、

キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

と記されていることと対応していると考えられます。

 この対応関係についてお話しするためにも、ここで、1章4節ー5節に記されていることを見てみましょう。
 1章1節ー5節には、この手紙の読者たちに対するパウロの挨拶が記されています。
 それで、この4節ー5節に記されていることは、その挨拶の最後に記されていることになります。
 4節冒頭の、「キリストは」は、3節で、

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

と言われている挨拶の後半(日本語では前半)の最後に出てくる「主イエス・キリスト」を受けている関係代名詞で表されています。ですから、3節ー4節では、日本語にすると、ギリシア語の順序を無視することになりますが、

私たちの父なる神と、私たちの父である神[直訳「神また父」]のみこころにしたがって、私たちを今の悪の時代から救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださった主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

と言われています。
 この挨拶は、

 恵みと平安があなたがたにありますように。

という祝福の祈りから始まって、その「恵みと平安」が「私たちの父なる神と主イエス・キリスト」(ギリシア語ではつながっています)によってもたらされたものであることが示されています。
 「恵み」は、パウロの手紙では、とても大切なものとして示されていますが、このガラテヤ人への手紙では特に大切なものです。それで、ここでは、これが、「私たちの父なる神と」、「私たちの父である神のみこころにしたがって、私たちを今の悪の時代から救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださった主イエス・キリストから」の「恵み」であることが説明されています。
 また、この祝福の祈りに出てくる「平安」は、「私たちの父なる神」が、「主イエス・キリスト」によって成し遂げてくださった贖いの御業によって「私たちを今の悪の時代から救い出」してくださって、「新しい時代」、「来たるべき時代」に属する者としてくださったことによってもたらされた「平安」、「平和」です。
 また、ここで、「主イエス・キリスト」のことが、4節で、

私たちの父である神のみこころにしたがって、私たちを今の悪の時代から救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださった

方であると説明されていることから、イエス・キリストがこのような方であることがとても大切なことである、ということを汲み取ることができます。
 そして、この手紙の最初に記されている、祝福の祈りの中で示されている「主イエス・キリスト」が、

私たちの父である神のみこころにしたがって、私たちを今の悪の時代から救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださった

ということは、この手紙全体の根底にあることであると考えられます。
 それと同時に、父なる神さまのことが、「私たちの父なる神」そして「私たちの父である神」というように「私たちの」父なる神さまであることが繰り返し示されていることも、とても大切なことです。というのは、これは、父なる神さまが私たちを愛してくださり、その「恵み」によって、私たちを「主イエス・キリスト」が成し遂げてくださった救いの御業にあずからせてくださって、ご自身の子としてくださっているということを示しているからです。
 ことに、4節で、「主イエス・キリスト」が、

私たちの父である神のみこころにしたがって、私たちを今の悪の時代から救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださった

と説明されていることは、「主イエス・キリスト」が成し遂げてくださった救いの御業が「私たちの父である神」から出ているということ、しかも、父なる神さまの私たちへの愛から出ていることを示しています。そして、このことの大切さは、最後の5節に記されている、

 この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

という頌栄文から汲み取ることができます。
 ですから、ここでパウロが祝福の祈りで求めている「恵みと平安」には、さらに新しいことがあります。それをも含めると、この「恵みと平安」は、父なる神さまが私たちを愛してくださって、「主イエス・キリスト」によって成し遂げてくださった贖いの御業によって、私たちをご自身の子としてくださり、「新しい時代」、「来たるべき時代」に属する者としてくださった「恵み」であり、そのことによって、神の子どもとしてくださった私たちにもたらしてくださった「平安」、「平和」です。
 パウロは、この手紙の挨拶においてこのように記した後、続く6節において、すなわち、本文の冒頭において、

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。

と記して、いきなり、また、待ちかねていたかのように、ガラテヤの教会の信徒たちが直面している危機のことに触れています。パウロがどのような思いでガラテヤの教会の信徒たちのことを考えていたか――彼らのことをどんなに心にかけていたかを汲み取らないではいられません。
 さらに、このようなことを考えますと、先ほど引用した3章1節ー5節において、

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。

とパウロがガラテヤの教会の信徒たちに切々と問いかけていることの、切実さがよく分かります。
 私もみことばに仕える牧会者として襟を正されます。また、同時に、いろいろなことを反省させられます。

 このようなことを踏まえて、もう少し、お話を進めて行きますが、先ほど触れたように、3章1節に、

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。

と記されていることは、1章4節に、

キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

と記されていることと対応していると考えられます。
 文脈から切り離して、ただ、

 十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出された

ということだけを見ると、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったということを述べているように思われます。
 確かに、ここではそのことが示されています。
 けれども、それだけではないと考えられます。というのは、これに続く2節ー3節に、

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

と記されているからです。
 2節に出てくる、

 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。

ということばは、日本語でもそうですが、冒頭に置かれていて強調されています。
 そして、これは、1節で、

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。

と言われていることを受けての問いかけです。
 この2節ー3節に記されている問いかけは、ガラテヤの教会の信徒たちが「御霊を受けた」ことについての問いかけです。
 また、この問いかけでは、ガラテヤの教会の信徒たちが「御霊を受けた」ことは確かなことであることが踏まえられています。
 そして、ガラテヤの教会の信徒たちが受けたと言われている「御霊」は、この「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、造り出している「御霊」です、そのことは、3節において、パウロが、

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

と問いかけていることから分かります。というのは、ここでは、この「御霊」が、「この世」、「この時代」を特徴づけ、造り出している「」と対比されているからです。
 これらのことから、この場合には、ガラテヤの教会の信徒たちに「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出された」ことは、古い契約の下にあった時代から始まっている神である「」の救いの御業の歴史において、イエス・キリストが十字架につけられたことによって、「」の契約の民の罪の贖いが成し遂げられ、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史が始まっているという、パウロの福音の宣教の核心にあることが示されたということを意味していることが分かります。
 この「御霊」は、すでにお話ししたように、3章13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されている「御霊」であり、4章4節ー6節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されている「御子の御霊」、すなわち、私たちを父なる神さまの子どもとして導いてくださる「御霊」です。
 ここで、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と言われていることは、この手紙の挨拶において、パウロが、父なる神さまのことを「私たちの父なる神」、「私たちの父である神」と呼んで、「私たちの」父なる神さまであることを繰り返して強調していることと呼応しています。
 そして、この「御霊」は、私たちが、今取り上げている、5章13節ー14節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されている教えに従って歩む時に、私たちにこの愛のうちを歩む力を与えてくださり、私たちを導いてくださる「御霊」です。16節に、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と記されているとおりです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第478回)へ戻る

「黙示録講解」
(第480回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church