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説教日:2021年10月3日 |
このことと関連して、ピリピ人への手紙2章13節に記されているパウロの教えを見てみましょう。 そこには、 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 と記されています。 ここで「みこころのままに」と訳されている部分については見方が別れていますが、これについてお話ししますと、かなりややこしいことになりますので、この部分はおいておいて、今お話ししていることとのかかわりで、いくつかのことをお話しします。 ここでは「神」ということばが最初に出てきて強調されています。新改訳2017年版でも「神」が最初に出てきますが、やや強調の意味合いは伝わりにくくなっています。 また、ここでは、定動詞も、分詞も、不定詞も含めて、全体が現在時制で表されています。これによって、ここに記されていることが、一般的な教えというより、まさにこのことが、今の私たちにとっての、変わらない、現実であるということが伝わってきます。 このようなことを踏まえて、これを、先ほどの「みこころのままに」と訳されている部分を除いて、直訳調に訳すと、恐ろしくぎこちなくなりますが、 神なのです。あなたがたのうちに働いてくださっていて、志を立てるようにしてくださっており、働くようにしてくださっている方は。 あるいは、エペソ人への手紙2章10節に見られる「実に」という言い方を使いますと、 あなたがたのうちに働いてくださっていて、志を立てるようにしてくださっており、働くようにしてくださっている方は、実に、神なのです。 というような感じになります。 さらに、ここで神さまが「あなたがたのうちに」働いてくださっていると言われているのは、それが、パウロがしばしば教えている、私たちのうちに住んでいてくださる御霊によることであるということを意味しています(ローマ人への手紙8章4節「御霊に従って歩む私たち」、9節「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです」、14節ー15節「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」、ガラテヤ人への手紙3章2節「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」、14節「それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」、4章6節「あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」など) また、ここでは、神さまが、私たちに「事を行わせてくださっている」だけでなく、私たちに「志を立てさせ」てくださっているとも言われています。 この「志を立てる」ということば(セロー[ここでは、その不定詞の現在時制、セレイン])は、ただ単に「願うこと」や「欲すること」を表すこともありますが、ここでは、「不屈の決意」(O'Brien, NIGTC, p.287)を表しています。 当たり前のことですが、神のかたちとして造られていて、自由な意志をもっている人格的な存在である私たちは、何かをする時には、自分がその何かをしようとします。人に強制されて何かをする時にも、その強制を受け入れるのは、やむなくであっても、私たちの意志によることです。 そうではあるのですが、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、ローマ人への手紙8章5節ー8節に、 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。 と記されているときの、「肉に従う者」であり、「肉のうちにある者」です。 ここでは、「御霊」と「肉」が互いに対立していることが示されています。この「肉」(サルクス)は肉体(ソーマ)のことではありません。この「肉」ということば(サルクス)は物質的な「肉」を表すこともありますが、「御霊」と対比されて用いられるときには、特殊な意味合いを伝えています。それは、「御霊」が来たるべき時代、新しい時代を特徴づけ、動かしている動因であるのに対して、「肉」は「この世」「この時代」、「古い時代」を特徴づけ、動かしている動因であるということです。 堕落後の人は、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されているように、その考え方(知性)も感じ方(感情)も願い求めること(意志)も、すなわち、人格的な働きのすべてが、自らの罪の本性が生み出す、「神はいない」という根本的な原理によって規制されてしまっています。このような状態にある人を動かして「この世」「この時代」、「古い時代」を造り出しているものが「御霊」と対比されている「肉」です。 しかし、堕落後の人は、自分がこの「肉のうちにある者」であり「肉に従う者」であることを知りません。それは、先主日お話ししたように、堕落後の人は、ガラテヤ人への手紙4章3節で、 同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。 と言われているときの「もろもろの霊」と訳されている「ストイケイア」の下に「奴隷となって」いるからです。 この「『この世の』ストイケイア」は「この世のもろもろの霊」を表すというより、自らの罪の本性――より広くは、「御霊」と対比されている「肉」――が生み出す、「神はいない」という根本的な原理によって規制されている、「この世の」ものの見方や発想や価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、決まり、習慣、風習、伝統などを表していると考えられます。そして、堕落後の人は、時代と文化と社会によって現れ方は違っていますが、このような「ストイケイア」に満ちているの中に生まれてきて、「子どもであったとき」から、それらの中で育ってきて、それらが自然なものとなって、身に付いてしまっています。そのために、自分が、この「『この世の』ストイケイア」を生み出す「肉のうちにある者」であり「肉に従う者」であることを知ることができません。そして、それがかつての私のあり方でした。 先ほどお話ししましたように、エペソ人への手紙2章10節に記されている「良い行い」は、御霊に導いていただいて、来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている歴史と文化を造る歩みをしている私たちの「良い行い」であり、来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている「行い」のことです。 このようなことから、ピリピ人への手紙2章13節で、 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 と言われているときの、「志を立てさせ」てくださるということは、神さまが私たちに、御子イエス・キリストに対する信仰によって、御霊に導いていただいてこの「良い行い」を行おうとする「不屈の決意」を与え続けてくださるということです。 もう一つのことですが、ここで、 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 と言われているときの、「事を行わせてくださる」ということば(エネルゲオー[ここでは、その不定詞の現在時制、エネルゲイン])は、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて」と言われているときの「働く」ということば(エネルゲオー[ここでは、その分詞の現在時制・男性、主格、エネルゴーンで、これに冠詞がついていて、実体化されて「働く方」、「働いておられる方」を表しています])と同じことばです。 ここでは、神さまこそが、私たちのうちに働いてくださっている方であることが示されています。そして、それによって初めて、私たちも働くことができるということが示されています。 この「働く」ということばは、エペソ人への手紙1章20節で、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた と言われているときの「働かせた」ということば(ここでは不定過去時制)と同じことばです。また、このことばは、「大能の力」に当たることばの名詞形でもあります。[注] [注]少しややこしいのですが、この「大能の力」は関係代名詞で、その前の19節で 神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 と言われているときの「神の大能の力の働き」の「働き」(エネルゲイア)を受けています。それで、20節の「大能の力」は、19節の「働き」(エネルゲイア)を意味しています。そして、20節では、神さまがこの「働き」(エネルゲイア)を「キリストのうちに働かせた」(エネルゲオー)と言われています。 ですから、エペソ人への手紙2章19節ー20節では、神さまが「キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた」ご自身の「大能の力の働き」は、「私たち信じる者に働く(直訳「私たち信じる者への」「働き」であるということが示されています。 このようなことに照らしてみると、ピリピ人への手紙2章13節で、 神なのです。あなたがたのうちに働いてくださっていて、志を立てるようにしてくださっており、働くようにしてくださっている方は。 と言われているときの、神さまは、ご自身の「大能の力の働き」を「キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせた」という、その「大能の力の働き」をもって、私たちの「うちに働いていてくださっていて」、私たちを「働くようにしてくださっている」と言うことができます。 もう一つ同じ、ピリピ人への手紙から引用しますと、1章6節には、 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 と記されています。 ここで「あなたがたの間で良い働きを始められた方」と言われている方は神さまのことです。 そして、神さまが「始められた」と言われている「良い働き」(エルゴン・アガソン)は単数形で、エペソ人への手紙2章10節に出てくる「良い行い」(エルガ・アガサ)はこの複数形です。 この神さまが「始められた」「良い働き」が何を指しているかについては、見方が別れています。 一般的には、ピリピにある教会の信徒たちのある特定の働き(それが何であるかについても見方が別れています)のことではなく、より包括的な、神さまがその一方的な恵みによって備えてくださった、キリスト・イエスにある救い(ピリピにある教会の信徒たち救ってくださったこと)を指していると理解されています。というのは、もしこれが信徒たちの働きのことであれば、「あなたがたの間で[あるいは「あなたがたのうちで」]良い働きを始められた方」とは言われないで「あなたがたをとおして良い働きを始められた方」と言われていたと考えられるからです。また、ここでは、「キリスト・イエスの日が来るまでに」と言われているように、「終わりの日に至るまで」が視野に入れられていて、終わりの日に至まで続く働きであると考えられるからです。 その一方的な恵みによって備えてくださった、キリスト・イエスにある救いにあずからせてくださった神さまは、必ず「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」というのです。 そして、先ほどの2章13節に、 神は・・・あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 と記されていることは、神さまが一方的な恵みによって備えてくださったキリスト・イエスにある救いにあずからせてくださった私たちが、その救いの中にあって生きる時のことを述べていると考えられます。 これらのことを、エペソ人への手紙2章10節で、 神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 と言われていることに当てはめますと、神さまは、常に、御霊によって、私たちのうちに働いてくださって、私たちに、イエス・キリストに対する信仰にとどまり続け、御霊に導いていただこうとする「不屈の決意」、そして、御霊に導いていただいて「良い行い」を行おうとする「不屈の決意」を与え続けてくださり、実際に、「良い行いに歩むようにしてくださっている」ということになります。 この「不屈の決意」は、私たちが、どのような場合にも、まったく揺るぐことがないという意味ではありません。さまざまな試練や困難、あるいは、誘惑や惑わしに会って、揺るぐことがあっても、なお、また、常に、イエス・キリストにある神さまの愛と恵みを信じることへと戻っていき、主であるイエス・キリストに信頼して、御霊によって歩むようになる――神さまがそのように導いてくださる――ことに現れてくる決意です。 そして、1章6節で、 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 と言われていることは、神さまが一方的な恵みによって備えてくださった、キリスト・イエスにある救いには、神さまが、やはり、その一方的な恵みによって、常に、「私たちが良い行いに歩むように」してくださることも含まれていることを示していますし、そのように包括的な救いを必ず、「キリスト・イエスの日が来るまでに・・・完成させてくださる」ということを示しています。 ですから、これらすべてのことにおいて、私たちが誇るべきことは何もありません。ただ、「主」の愛と恵みに満ちた栄光がほめ讃えられるべきなのです。 私たちは、最初に触れました、4節ー6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されていることは「あわれみ豊かな」神さまの主権的で一方的な愛と恵みによっているけれども、私たちが救われた後の歩みは、自分自身の力で歩んでいかなければならないとか、そのように自分自身の力で歩んでいかないと、神さまも助けてはくださらないとか、終わりの日に、義と認められ、救われるのは、救われた後の行いによっている、というような考え方に気をつけましょう。それは、ガラテヤ人への手紙3章3節に、 御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。 と記されていることに当たります。 このような考え方は実際に見られますし、いつの間にか忍び込んでくるもので、これらに惑わされると、「『この世の』ストイケイア」の「下に奴隷となって」しまうことになり、「御霊によって」ではなく、「『この世の』ストイケイア」を生み出している「肉によって」歩むことになってしまいます。そして、そのような歩みは自らの業績を誇ること、自らの行いを頼みとするようになることへとつながっていきます。このような誇りに対して、パウロはガラテヤ人への手紙6章12節ー13節で「割礼派」の人々の誇りのことを述べた後、14節において、 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。 と記しています。 |
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