黙示録講解

(第477回)


説教日:2021年9月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(230)


勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきました。
 先主日は、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばを踏まえて記されている10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばについてお話ししました。
 まず、先主日にお話ししたことで、今日お話しすることと関連していることをまとめておきます。
 それは、10節後半において、

 神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることです。
 ここでここでは、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われています。
 これは、先週日の言い方をそのまま繰り返しますが、「私たちが良い行いに歩むように」なるのは、初めから終わりまで――私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったことから、「私たちが良い行いに歩む」歩みを御霊によって最後まで導いてくださって、やがて完成に至らせてくださることまで――のすべてが、ただ、ただ、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによることであるということを意味しています。


 このことを踏まえて、今、私たちが、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊に導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりの中で、神さまの愛を受け止め、神さまの愛に応えて、神さまを愛して礼拝することを中心として、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たす者として歩んでいるということにかかわることをお話ししたいと思います。
 このこととのかかわりで取り上げたいのは、これまでも繰り返し取り上げてきた、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

というみことばです。
 ただし、今日は、このみことばの文脈上の背景となっていることをお話しすることになります。
 ここで、

 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と言われているときの「自由」は、1節で、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と言われているときの「自由」です。
 ここ1節では、この「自由」ということば(エレウセリア)が冒頭に出てきて強調されています。この強調は、「私たちを解放してくださいました」と言われているときの「解放する」ということば(エレウセロオー「自由を与える」、「自由にしてあげる」を意味する)が、「自由」ということばと動詞とその名詞という関係にあることによってさらに強調されています。これを直訳調に訳すと、

 自由のために、キリストは私たちを自由にしてくださいました。
あるいは、
 自由へと、キリストは私たちを自由にしてくださいました。
という感じになります。
 これは、ガラテヤ人への手紙では、その前の4章1節ー7節に、

つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されていることを踏まえています。
 3節で、

 私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

と言われているときの「もろもろの霊」と訳されていることば(ストイケイア)が何を指しているかについては、いまだ議論は続いている状態です。[注]

[注]このストイケイアの単数形のストイケイオンということばは[以下のことについては、おもに、EDNT,vol.3, pp.277b-278a.を参考にしました]、(1)たとえばアルファベットの文字など、一連のシリーズを構成する要素を表わしています。ここから、「初歩的な教え」(ヘブル人への手紙5章12節)、「初歩的な規則・原則」などの意味が派生したと考えられます。(2)古代の宇宙論においては、たとえば、エンペドクレスが考えた世界の構成要素としての「地(土)・水・火・風(空気)」の4元素(彼は、これらの4元素の結合や分離によってこの世界の生成と消滅を説明しました)などのような、世界の構成要素を表わしています。(3)天を構成する天体などを表わしています(ペテロの手紙第二・3章10節、12節「天の万象」)。(4)ヘレニズムの混交主義においてはそれらが神格化されて礼拝されていたことが示されているとも言われています。しかし、シュライナーは、明確に、ストイケイアが悪霊たちのことを指していることを示しているものは、新約聖書の時代の後になるまではないと述べています(Shreiner, Galatians, 2010, p.269. )。また、この点がはっきりしないということは、EDNTにも示されています。

 新改訳第3版は「幼稚な教え」と訳していました。これは、その前の「子どもであったときには」ということに合わせて理解されていると考えられます。しかし、その「下に奴隷となっていました」ということはこれに合わないのではないかと思われます。ヘブル人への手紙5章12節に出てくる「初めの初歩的な教え」(直訳)は、そこからさらに成熟した者となるよう進むべきものという意味であって、奴隷化するというような否定的な意味合いを伝えてはいません。
 ここで「この世のストイケイア」と言われているときの「この世」(ホ・コスモス)は神さまがお造りになったこの世界のことではなく、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される来たるべき時代、新しい時代と対比される、肉によって特徴づけられ肉によって動かされている「この世」のことで、歴史的には、同じガラテヤ人への手紙1章4節に、

キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

と記されているときの「今の悪の時代」、より一般的には、来たるべき時代、新しい時代と対比される「この時代」のことです。
 それで、「この世のストイケイア」と言われているときの「この世」は、エペソ人への手紙2章1節ー2節で、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

と言われているときの「この世」に当たるものです。
 そうであれば、ガラテヤ人への手紙4章3節の「この世のストイケイア」も、新改訳2017年版の「この世のもろもろの霊」でいいのではないかと思われます。しかし、そうであれば、エペソ人への手紙6章12節に、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されている中に出てくる「もろもろの悪霊」というような明確な言い方ができるはずです。それなのに、このガラテヤ人への手紙4章3節で、わざわざ、意味がそれほど明確ではない、ストイケイアということばが用いられているということの説明ができません。
 それで、このストイケイアが表しているのは、エペソ人への手紙2章1節ー3節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているときの、「この世の流れ」を生み出すうえでの究極の働きをしている「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」〔単数〕、すなわち、サタンをかしらとする「もろもろの悪霊」というより、御霊と対立している「」が生み出す「この世の流れ」を構成しているもろもろの要素を指していると考えたほうがよいと思われます。
 具体的には、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、堕落後の人の罪の本性が生み出す、「神はいない」という根本的な原理による、ものの見方や発想や価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、決まり、習慣、風習、伝統などです。かつての私たちは、それらの中に生まれて、「子どもであったとき」から、それらの中で育ってきて、それらが自然なものとなって、身に付いてしまっていました。
 かつての私たちもそうでしたが、「この世の流れ」の中に生まれてきて、その中を歩んでいる状態にある人は、サタンや悪霊たちの存在や働きに現実的に触れることはできません。また、サタンや悪霊たちは、「この世の流れ」を生み出す「神はいない」という根本的な原理による、ものの見方や発想や価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、決まり、習慣、風習、伝統などをとおして、働きかけてきます。
 コロサイ人への手紙2章18節に出てくる「御使い礼拝」や、ローマ人への手紙1章22節ー25節に記されている、異邦人が「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えて」、これらのものを拝んで仕えているということは、これらのさまざまな社会的な制度、決まり、習慣、風習、伝統などの一部を形成しています。
 これらの祭儀的・宗教的なものは「この世の流れ」の中枢にあるとしても、そのすべてではありません。歴史の流れの中にあっては、これらの祭儀的・宗教的なものが片隅に追いやられた啓蒙時代以降の流れもあります。しかし、それでも、サタンをかしらとする「もろもろの悪霊」たちは、人々が自分たちは啓蒙されたものであって、神などは必要ない、神などいないと考えていることを用いて、その働きを進めています。

 ガラテヤ人への手紙4章においては、このストイケイアが出てくる3節に続いて、4節ー7節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。
 これは、3節で、かつてこの世のストイケイアの下に「奴隷となっていました」と言われている人を、神さまが「ご自分の御子」によって、自由にしてくださったことを示しています。
 「時が満ちて」ということは、神さまがお立てになっておられる救いのご計画において定めておられた時が満ちてということです。そして、神さまが「ご自分の御子」をお遣わしになったことによって、贖いの御業の歴史において、古い契約の下にあって約束されていたことが成就する新しい契約の時代が始まったことを意味しています。
 神さまは「ご自分の御子」を「女から生まれた者」、すなわち、まことの人としての性質を取ってきてくださった方としてお遣わしになりました。また、「律法の下にある者として」ということは、神さまがお与えになった「律法の下にある者として」ということを意味しています。3章10節には、

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。

と記されています。これは、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の状態にあるすべての人に当てはまることです。自らのうちに罪の本性を宿している人は、自分がなすすべてのことに罪の汚れが現されてしまい、自分としては律法を守っていると思っていても、すべてを完全にご覧になっておられる神さまの御前でよしとされることはありません。ローマ人への手紙3章9節に、

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

と記されており、19節ー20節に、

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

と記されているとおりです。
 しかし、イエス・キリストは最初に神のかたちとして造られた時の人としての性質を取って来てくださいました。そして、その生涯をとおして、父なる神さまのみこころに従いとおされました。ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されているとおりです。
 このイエス・キリストの十字架の死について、ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節には、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されています。
 これが、4章4節ー7節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されていることへとつながっています。
 5節で、

 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり

と言われていることは、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、「私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出して」くださったことによって実現しています。具体的には、御子イエス・キリストが私たちの契約の「かしら」として来てくださって、私たちの契約の「かしら」として、十字架の上で、私たちご自身の契約の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことによっています。
 そればかりではありません。私たちの契約の「かしら」として来てくださった御子イエス・キリストは、その十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、神さまの御前に義をお立てになりました。それは、ご自身の契約の民である私たちのために義を立ててくださったということです。ローマ人への手紙5章18節ー19節に、

こういうわけで、ちょうど一人[アダム]の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人[キリスト]の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられますすなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

と記されているとおりです。また、ガラテヤ人への手紙2章16節には、

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

と記されています。
 私たちは「イエス・キリストを信じることによって義と認められ」ただけではありません。父なる神さまは義と認めてくださった私たちを、さらに、子としてくださいました。ガラテヤ人への手紙4章5節ー7節で、

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と言われているとおりです。
 ガラテヤの信徒たちは、「ユダヤ主義者」あるいは「割礼派」(ガラテヤ人への手紙2章12節)と呼ばれる人々(ユダヤ人クリスチャン)に惑わされてしまっていました(参照・ガラテヤ人への手紙3章1節「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」)。
 「ユダヤ主義者」は、割礼を受けてモーセ律法を守らなければ義と認められない(救われない)と教えていました。一般に「エルサレム会議」と呼ばれている会議のことを記している使徒の働き15章の1節には、その会議が開かれた背景のことが、

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

と記されています。また、会議の中でのことを記している5節には、

パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。

と記されています。
 これに対してパウロは、先に引用した5章章1節で、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と言っていました。また、これに続いて、2節ー4節では、

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

と言って、説得しています。
 パウロは、さらに、2章21節において、

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

とも述べています。
 これらのことから分かりますが、ユダヤ主義者たちの、割礼を受けてモーセ律法を守らなければ義と認められない(救われない)という教えも、「この世のストイケイア」の一例なのです。
 十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けてよみがえってくださったイエス・キリストを信じて義と認められ、神の子どもとしていただいた私たちが、いつの間にか――たとえば、人と自分を比べたりして、自分はちゃんとできているから、神さまに受け入れられていると感じるようになったりして――自分の行いによって義と認められようとするようになったとしますと、それは、再び、パウロが言う「この世のストイケイアの下に奴隷となって」しまうことです。それでは、私たちは「キリストから離れ、恵みから落ちて」しまいますし、「キリストの死は無意味になってしまいます」。
 ですから、私たちはエペソ人への手紙2章10節で、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることを、深く心に刻みたいと思います。
 繰り返しになりますが、これは、「私たちが良い行いに歩むように」なるのは、初めから終わりまで――私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったことから、「私たちが良い行いに歩む」歩みを御霊によって最後まで導いてくださって、やがて完成に至らせてくださることまで――のすべてが、ただ、ただ、神さまの一方的で主権的なな愛と恵みによることであるということを意味しています。


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