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説教日:2021年9月19日 |
まず、2章10節に記されているみことばについてのお話の前置きのようなことに触れておきます。 このみことばは、全体が一つの文で表されていて、後半が、前半に出てくる「良い行い」を受けている関係代名詞で導入されて、前半につながっています。日本語には関係代名詞がありませんので、新改訳2017年版のように、二つの文に別けて訳したほうが分かりやすくなります。 また、このみことばには、基本的に、理由を表す接続詞(ガル)があります。しかし、これが理由を表すとしますと、この10節に記されていることは、この前の8節ー9節に、 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 と記されていることの理由を示していることになります。 けれども、10節に記されている、 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 ということが、どのように8節ー9節に記されていることの理由を示しているのか説明するのが難しくなります。それで、この場合は、「明確化を示すもの」(BDAG[ギリシア語のレキシコン]が二つ目に挙げています)と理解したほうがよいと思われます。そうしますと、8節前半に記されている、 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。 ということを、8節後半ー9節では、 それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 というように、そのことにかかわる「・・・ではない」という否定的なことを説明しています。そして、10節では、 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 というように、そのこと(「恵みのゆえに・・・信仰によって救われた」こと)にかかわる肯定的なことを説明していると考えられます(参照・Larkin, p.34)。 そうであるとしますと、この10節に記されている、私たちが「良い行いをする」こと、また、「私たちが良い行いに歩む」ことは、私たちが「恵みのゆえに・・・信仰によって救われた」と言われている救いに含まれていることになります。言い換えますと、みことばが示している「救い」は、ただ、死と滅びからの救いや罪の力からの解放ということだけでなく、「良い行いをする」こと、「良い行いに歩む」ことへの救いであるということです。 これらの前置きのようなことを踏まえて、10節に記されていることを見ていきましょう。 前半では、 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 と言われています。 最初に出てくる「実に」ということばはギリシア語の原文にはありませんが、これは、10節の冒頭に、神さまを指す「彼の」ということばが出てきて強調されていることによっていると考えられます[先ほど触れた前置詞ガルは、「後置接続詞」と呼ばれるもので、文の頭には出てこないで、一語(あるいは一つの句)の後に出てきます]。極端な直訳調に訳しますと、 神の作品なのです。私たちは。(あるいは)なんと、神の作品なのです。私たちは。 という感じでしょうか。いずれにしても、私たちは、自分が「神さまの」作品であるということに思いを向けるようにうながされています。 これには、さらなる説明が続いていて、 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 と言われています。[注 この部分は、「造られた」と訳されていることば(クティスセンテス 動詞クティゾーの不定過去分詞・受動態・男性・複数)によって導入されていて、その前の「私たち」のことが説明されています。] (ギリシア語の順序にしたがって)まず注目したいのは、「造られた」と訳されていることば(動詞クティゾー)です。 新約聖書の中では、このことばの主語はすべて神さまです。そして、このことば(クティゾー)は「その前には存在していなかったものを創造する、あるいは造る」(Louw and Nida[によるギリシア語レキシコン] 42.35])ことを表します。また、「この語群[この動詞(クティゾー)と、その名詞形(クティシス、クティスマ、クティステース)]のすべてのことばは、創造者としての神、あるいは、神の創造と被造物たちに言及している」(EDNT[新約聖書釈義辞典]vol. 2, p. 325a)と記されています。 さらに、この「造られた」と訳されていることば(クティスセンテス)がいわゆる「神的受動態」で、その主語が神さまであることは、その前の「実に、私たちは神の作品であって」ということばからも分かります。 ですから、ここでは、私たちは神さまによって新しく創造されたものであることが示されています。 次に注目したいのは、「キリスト・イエスにあって」(エン・クリストー・イエースー)ということばです。 このことばは、この新改訳2017年版の「キリスト・イエスにあって」という訳とともに、「キリスト・イエスによって」とも訳すことができて、見方が別れています。新改訳2017年版が「キリスト・イエスにあって」と訳しているのは、このことばが6節ー7節で、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。 と言われていることに、2回出てきて、どちらも「キリスト・イエスにあって」ということを表していると考えられることと、5節でも、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。 と言われていて、4節ー10節においては〔その前の1節ー3節においては、私たちのかつてのあり方、生き方が記されています)、神さまの愛と恵みが「キリスト」と結び合わされている私たちに注がれていることが繰り返し示されて、強調されていることによっているからでしょう。 さらに、このことは、コリント人への手紙第一・5章17節に、 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されていることとも符合しています。 このように、エペソ人への手紙2章10節では、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったということが示されています。この場合の(2章10節に示されている)「新しさ」は、これまでお話ししてきたように、私たちが「キリスト・イエスにあって」、また、「キリストとともに」、御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代に属している者としていただいているということを意味しています。 このことを踏まえて、これに続いて「良い行いをするために」と言われていることに注目してみましょう。 この「良い行い」は複数形です。それで、この「良い行い」はさまざまな点で、さまざまな形で、また、いつもなされることです――後半において、「私たちが良い行いに歩むように」と言われていることは、私たちの生き方のことで、「歩む」ことは生きることを意味しています。 ここで「良い行いをするために」と訳されていることば(エピ・エルゴイス・アガソイス)は、文字(字義)どおりには「良い行いのために」です。注意したいのは、この「良い行いのために」ということは、神さまが私たちをご自身の「作品」として、「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったことの目的を表しているということです。 4節からの流れに沿って言いますと、まず、4節ー5節に記されているように、「あわれみ豊かな神」が、 私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。 そして、6節に記されているように、 キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 これによって、私たちは、すでに、御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代に属している者としていただいています。それを言い換えれば、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったということです。 ですから、ここで言われていることは、決して、神さまに新しく創造していただくようになるために、「良い行い」をするということではありません。 これらのことから分かりますが、10節で、 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 と言われていることは、最初の創造の御業において、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを踏まえています。 神さまの本質的な特質が愛ですので、神のかたちとして造られた人の本質的な特質は愛です。そして、人には、神さまについてのわきまえが与えられており、その心には契約の神である「主」を愛し、契約共同体の隣人を愛する愛を導く愛の律法が記されています。また、この世界が造り主である神さまの栄光を映し出すものとして意味ある世界であるとともに、歴史の進展とともに神さまの栄光をより豊かに現す、歴史的な世界として造られているということへのわきまえと、歴史と文化を造るために必要な賜物として、さまざまな能力が与えられています。 このように、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現す歴史と文化を造り出すように召されています。そして、歴史と文化を造る使命を果たすことの中心に、自分たちの間にご臨在してくださっている神である「主」との愛にあるいのちの交わりに生きることの中で、「主」の愛を受け止め、その愛に応えて、「主を愛し、「主」を神として礼拝することがあります。 10節に記されていることには、さらに踏まえていることがあります。それは、神さまによって、神のかたちとして造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていること、そのために、神のかたちとしての栄光と尊厳性を損ない、本性を腐敗させてしまい、罪と死の力に捕らえられてしまっていることです。 それで、まことの神であられる御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださいました。私たちはこのようにして御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださった栄光のキリストと結び合わせていただいて、すなわち、「キリスト・イエスにあって」新しく造られ、新しく生まれています。 これまでお話ししてきましたように、エペソ人への手紙では、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、最初の創造の御業において神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されているみこころを実現してくださるためであったことが示されています。そして、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、「天上で」キリストと「ともに座らせて」くださったのは、私たちが来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化、すなわち、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たすようになるためのことでした。 それで、ここで、 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 と言われているときの「良い行い」(複数形)は、私たちが御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化、すなわち、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たすことの中でなされるものです。 10節後半には、 神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 と記されています。 ここで、 私たちが良い行いに歩むように と言われていることは、1節ー2節で、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 と言われていている、かつての私たちのあり方と生き方と対比されています。 かつての私たちは「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」と呼ばれているサタンに従って、「この世」「この時代」の歴史と文化を造る者として歩んでいました。しかし、今は、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊、ガラテヤ人への手紙4章6節に、 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されているように、神さまに向かって「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」によって導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりの中で、神さまの愛を受け止め、神さまの愛に応えて、神さまを愛して礼拝することを中心として、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たす者として歩んでいます。 ここでは、さらに、 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 と言われています。この「その良い行い」は、その前に出てくる「良い行いのために」の「良い行い」を受ける関係代名詞(ハ)で表されています。ここに記されていることは、その前の部分と深くつながっています。 また、「あらかじめ備える」ということば、プロエトイマゾーは、「あらかじめ」を表す接頭辞「プロ」と「備える」を表す動詞「ヘトイマゾー」の組み合せによっています。 これについては、神さまが「良い行いをあらかじめ備えてくださ」っているということはおかしなことであるということから、この部分を(関係代名詞を継続的に訳しますが)、 神がその良い行いを私たちのために定めてくださいました というように訳されることがあります(REB[改定英訳])。 このことばは新約聖書では、ここのほかローマ人への手紙9章23節に出てくるだけです。そこには、 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。 と記されています。 ここで「あらかじめ備えられた」と訳されていることばが「あらかじめ備える」ということば(プロエトイマゾー)です。この「あらかじめ備えられた」と訳されていることばは受動態のようにも感じられますが、これは能動態で、主語は神さまです。ここでは、神さまが永遠からのあわれみ深いみこころによって「あらかじめ備えてくださった」ということを意味しています。 それで、この用例からも、エペソ人への手紙2章10節で、 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 と言われていることも、神さまが永遠からのみこころによって「その良い行いを」「あらかじめ備えて」くださったということであると考えられます。 確かに、神さまが「良い行いをあらかじめ備えてくださ」っているということはおかしなことと感じられることでしょう。 しかし、これは、「私たちが良い行いに歩むように」なるのは、初めから終わりまで――私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく創造してくださったことから、「私たちが良い行いに歩む」歩みを御霊によって最後まで導いてくださって、やがて完成に至らせてくださることまで――のすべてが、ただ、ただ、神さまの一方的で主権的なな愛と恵みによることであるということを意味しています。 また、ここで、 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 と言われていることが、神さまの永遠からの愛に基づくみこころによることであり、それゆえに、ただ、ただ、神さまの主権的で一方的な恵みによって備えてくださっているものであるということは、とても大切なことです。というのは、神さまの永遠のみこころは、サタンを含めてどのような被造物も、その実現を阻止することができない、この上なく確かなことであるからです。 それはまた、私たちにも当てはまります。 私たちが、神の子どもとしていただいているのに、なおも犯してしまう罪がどんなに深刻なものであるとしても、神さまの永遠のみこころの実現を阻止することはできないことは、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業の完全さを示してくださったことによって、明らかにしてくださっています。 私たちは、悔い改めと信仰――これらも神さまが私たちのうちに生み出したくださったものです――によって、常に新たに、神さまの愛に包んでいただき、御霊に導いていただいて、神さまを愛し、お互いに愛し合うことによって「良い行いに歩む」ように、招いていただいています。 |
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