黙示録講解

(第475回)


説教日:2021年9月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(228)


 本主日も黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからのお話を続けます。
 今は、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばについてお話ししています。
 このみことばは、1章20節ー23節に記されている、神さまがキリストになされたことに、私たちをあずからせてくださっているということを示しています。
 1章20節には、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と記されています。そして、2章6節は、神さまが私たちをこの「キリスト・イエスにあって」――私たちを御霊によってキリストと一つに結び合わせてくださって――キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、キリストと「ともに天上に座らせて」くださったということを示しています。
 神さまがキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」ことは、エペソ人への手紙1章20節ー23節においては、二つのことを意味しています。
 一つは、21節前半に記されていることで、神さまが「ご自分の右の座に着かせた」栄光のキリストを「すべての支配、権威、権力、主権の上に(高く)置かれた」ということです。
 これは、栄光のキリストが「すべての支配、権威、権力、主権」との霊的な戦いに、原理的・実質的に、勝利しておられることを意味しています。それで、2章6節は、神さまが私たちをこの「キリスト・イエスにあって」霊的な戦いにおける栄光のキリストの勝利にあずからせてくださっているということを示しています。
 もう一つは、1章21節後半ー22節前半に記されていることで、神さまが栄光のキリストを「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の(はるか)上に置かれた」ということと、「すべてのものをキリスト(直訳「彼」)の足の下に従わせた」ということです。
 これは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を、天上において父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが、原理的・実質的に成就しておられるということです。それで、2章6節は、私たちがこの「キリスト・イエスにあって」、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。
 このようにして、私たちは、父なる神さまの右に座しておられる栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代に属している者としていただいています。そして、その御霊に導いていただいて、来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている歴史と文化を造る歩みをしています。
 この二つのこと、すなわち、父なる神さまの右に座しておられる栄光のキリストが、すでに、霊的な戦いに、原理的・実質的に、勝利しておられることと、神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に、成就しておられるということは、切り離し難くつながっています。なぜなら、霊的な戦いは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに現されているみこころの実現を阻止しようとして働いている「すべての支配、権威、権力、主権」、すなわち、暗闇の主権者であるサタンや悪霊たちとの戦いだからです。

          *
 このこととの関連で注意したいことが二つあります。
 第一に、終わりの日に再臨される栄光のキリストがサタンや悪霊たちを最終的に滅ぼされたとしても、それだけでは、霊的な戦いに勝利したということにはならないということです。というのは、サタンや悪霊たちは、自分たちが神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落した時から、さばきを受けて滅びるべき者であることを知っていて、なお、神さまが創造の御業においてお示しになったみこころが実現することを阻止しようとして働いていましたし、今も、また、終わりの日まで働いているからです。
 ですから、霊的な戦いは、突き詰めていきますと、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに現されているみこころの実現をめぐる戦いです。それで、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に、成就しておられることは、霊的な戦いにおいても決定的に大切なことなのです。
 第二のことをお話しする前に、このことと関連することをお話ししておきます。
 サタンや悪霊たちの根本的な動機と目的は、神さまに逆らうこと――徹頭徹尾、神さまのみこころに逆らい、神さまのみこころの実現を阻止すること――です。そのようなサタンや悪霊たちの状態を神学的には「絶対的堕落」と言います。
 これに対して、人も「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていますが、「」が、ご自身の一方的なあわれみによって備えてくださった一般恩恵によって、人が罪によって堕落し切ってしまわないように支えてくださっています。そのような人の状態を神学的には「全的堕落」と言います。どういうことかと言いますと、堕落の範囲としては、人の心もからだも含めたすべてが罪によって腐敗してしまっていますが、堕落の程度としては、腐敗し切ってしまっているわけではないということです。注意すべきことは、たとえば、人の理性は罪によって腐敗していないというようなことは聖書のみことばの教えではないということです。
 先主日お話ししたことを、ほぼ、そのまま繰り返しますが、詩篇14篇1節には、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されています。ここで「心の中で」と言われているときの「」は、ヘブル語のレーブ、レーバーブ(「」)が表している、人の内的なあり方の全体――知性(理性)、感情、意志のすべてを含めた、人格の中心になっているもの――を示しています。ですから、人の理性も、「神はいない」という大前提に立って働いています。
 このように、堕落後の人は「神はいない」という大前提に立ってすべてのことをしています。
 これに対して、サタンや悪霊たちは「神はいない」と言ってすまそうとすることはありません。というのは、ヤコブの手紙2章19節に、

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています

と記されているように、サタンや悪霊たちは、造り主である神さまが最も現実的な方であることを知っているからです。そして、そのサタンや悪霊たちの根本的な動機と目的が、徹頭徹尾、神さまに逆らうことなのです。
 けれども、サタンや悪霊たちは、もともとは、神さまによって御使いとして造られたものであり、被造物としての限界があります。そればかりか、神さまによってそのすべてを支えていただいて存在しています。そのようなサタンや悪霊たちは、直接的に神さまと霊的な戦いを戦うことはできません。それで、神さまの創造の御業において現されたみこころの実現を阻止しようとして働いているのです。その神さまのみこころの中心にあるのは、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されているみこころです。
 ですから、サタンや悪霊たちは人を不幸に陥れようとして働いているのではありません。人がとても幸せであると感じるようになっても、その人が、造り主である神さまを神とすることさえなければ、まったく構わないのです。典型的な例としては、この世の宗教のように――また、かつての私たちのように――神は人を幸せにしてくれるためにあると考えていて、自分は幸せだから神などは必要ないと考えている人がいれば、サタンや悪霊たちとしてはそれでいいし、そのような人がどんどん増えてほしいわけです。
 いずれにしても、サタンや悪霊たちにとっては、人は神さまに敵対するための「手段」でしかありません。後ほど、さらに、このことに触れたいと思います。


 第二のことは、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことの意味にかかわっています。
 神さまは三位一体の神――その実体あるいは本質において一つであり、御父、御子、御霊の三つの位格においてある神――であられます。そして、詳しい説明は省きますが、ヨハネの福音書1章1節に、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されているように、「ことば」すなわち御子は永遠に存在される神であられます。そして、「ことばは神とともにあった」と言われ、さらに、「この方は、初めに神とともにおられた」と言われて強調されているように、御子は、永遠に、御父との御霊による無限の愛の交わりのうちにあられます。神さまはその本質的な特質である愛において永遠に、また、完全に充足しておられます。
 そして、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されているように、天地創造の御業を、御父のみこころにしたがって遂行されたのは、永遠に御父との無限の愛の交わりにおいて、まったく充足しておられる御子です。
 このことから、天地創造の御業は父なる神さまが御子によって、ご自身の愛をご自身の外、すなわち、造り出される世界に向けて注がれた御業であったということを汲み取ることができます。
 このことは先主日お話しした神さまの契約、すなわち、「創造の契約」と深くかかわっています。先主日お話ししたことでこのことにかかわっていることをまとめておきましょう。
 神さまは、ご自身がお造りになったすべてのもの――人や御使いたち(サタンや悪霊たちも、もともとは御使いとして造られています)のように人格的な存在だけでなく、生き物たちや植物たち、さらには、無機的な物質をも含めたすべてのもの――を、ご自身との契約関係にあるものとしてお造りになっています。
 そして、神さまは、ご自身の契約に基づいて、またご自身の契約に真実な方として、お造りになったすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ、支えてくださり、導いてくださっています。
 このことから分かるように、神さまがお造りになったすべてのものをご自身との契約関係にあるものとしてお造りになったことの根底には、神さまが創造の御業において、ご自身の愛を造り出される世界のすべてのものに注いでくださったことがあります。そして、神さまがその愛を創造の御業においてだけでなく、創造の御業が終わった後も、注ぎ続けてくださっているのは、神さまが創造の御業とともに結んでくださった契約、すなわち、創造の契約によっています。
 先主日は、神さまが創造の御業とともにすべての造られたものと契約を結んでくださったことを踏まえて記されているみことばとして、エレミヤ書33章20節ー21節と25節ー26節に記されているみことばを引用しました。そのうちの20節に記されているみことばに注目してみましょう。そこには、

はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、

と記されています。ここで、

 主はこう言われる。

と言われているときの「」は契約の神である「」、ヤハウェです。そして、この「」は、ここでは、ご自身が「昼と夜」と契約を結ばれたので、「昼と夜が、定まった時に来る」ということを踏まえて語っておられます。神さまがお造りになった歴史的な世界の時間の流れ中にあって存在している植物たち生き物たちそして、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人にとって、その生長や活動や働きの最も基本的なリズムを生み出している「昼と夜が、定まった時に来る」ということは、神さまがご自身の契約に基づいて、真実に、それらを支え、導いてくださっているからです。
 これに対して、「心の中で『神はいない』と言う」人は、「昼と夜が、定まった時に来る」のは地球が自転しているからだと言うでしょう。もちろん、私たちもそのことを知っています。その私たちは、さらに、地球が規則正しく自転しているのは、ヘブル人への手紙1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されている御子によることであるということも知っています。今日の私たちの知識に合わせて言えば、御子がご自身の契約に基づいて、物質の最小単位である素粒子――原子の1億分の1と言われているレプトンやクォークを百分の1ミリの砂粒にたとえれば、人間は太陽系ほどの大きさになると言われています――の一つ一つから、一般的に、470億光年の彼方にまで広がっていると言われている宇宙の全体に至るまで、小さなものや大きなもののそれぞれを、その特質を生かしつつ、また、それぞれの関係あり方も支えてくださっていることの中で、そのうちの一つの事象として、地球が規則正しく自転し、「昼と夜が、定まった時に来る」ということです。
 そのように、神さまは、創造の御業においてお造りになったすべてのものを、ご自身の契約に基づいて、一つ一つ、今日に至るまで、また、終わりの日に至るまで、さらには、いつまでも続く新しい天と新しい地においても、真実に、それぞれの特質を生かしつつ支え、導いてくださっていますし、くださいます。そして、そのことに、神さまが御子イエス・キリストによって遂行された創造の御業において、ご自身の愛を造られたすべてのものに注いでくださったことが現されています。そして、その神さまの愛を受け止めることができるのは、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人です。
 それで、神である「」は、ご自身の契約に基づいて、人の間にご臨在してくださり、人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださいました。人は神である「」の御臨在の御許において、「」の愛を受け止め、その愛に応えて「」を愛するという、「」の契約の祝福にあずかっています。神さまが神のかたちとしてお造りになった人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命の核心は、すべての造られたものに注がれている神さまの愛の現れであるいつくしみや真実さなどを汲み取りつつ、一切の栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することにあります。
 神さまが造られたすべてのものを支えてくださり、導いてくださっていることは、機械的になされることではなく――神さまには「機械的」「反射的」「自動的」ということは当てはまりません――、人になぞらえて言うと、神さまは素粒子の一つ一つをも、ご自身が向き合うようにしてご覧になってくださり、心を込めて支えてくださっています。さらに、植物や生き物たち一つ一つをも、向き合うようにしてご覧になってくださり、いつくしみと真実をもって、支えてくださり、導いてくださっています。
 どうしてそのように言えるかというと、それは契約の神である「」が、無限、永遠、不変の方であるからです。もちろん、この無限、永遠、不変は、神さまだけに当てはまる無限、永遠、不変であって、被造物世界の時間と空間の中にある私たちの理解を、それこそ、無限に越えています。私たちが考えることができるのは、時間的にいつまでも続くという量的な永遠であり、空間的にどこまでも広がっているという量的な無限であり、時間の流れの中にあっていつまでも変わらないという不変でしかありません。
 私たちは契約の神である「」が無限、永遠、不変の方であることを、有限であり、時間的であり、変化するこの世界との関係、私たちそれぞれとの関係においてだけ理解することができます。
 たとえば、「」が永遠であられるので、「」は「初めであり、終わりである」方です(イザヤ書41章4節、44章6節、48章12節、黙示録1章17節、2章8節、21章6節、22章13節)。この歴史的世界を始められた方であられ、終わらせる(一つの区切りをつけられる)方であられるとともに、その間に起こるすべての物事を治めておられる歴史の主です。
 また、契約の神である「」が無限の方であられるので、「」はご自身がお造りになった壮大な宇宙の全体を完全に知っておられると同時に、私たちそれぞれを、それぞれと向き合うようにして、完全に知ってくださっています。
 壮大な宇宙のすべてを完全に知っていてくださる神さまは、また、マタイの福音書10章29節ー30節に、

二羽の雀は一アサリオン[一デナリの十六分の一]で売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。

と証しされている方です。また、それで、私たちは、詩篇139篇1節ー6節に記されているように、

 よ あなたは私を探り 知っておられます。
 あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ
 遠くから私の思いを読み取られます。
 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
 私の道のすべてを知り抜いておられます。
 ことばが私の舌にのぼる前に なんと
 あなたはそのすべてを知っておられます。
 あなたは前からうしろから私を取り囲み
 御手を私の上に置かれました。
 そのような知識は私にとって
 あまりにも不思議
 あまりにも高くて 及びもつきません。

と契約の神である「」に告白します。
 今この時、この世界に神さまを礼拝している神の子どもたちの群れがどれほど多くても、また、神の子どもたちがどれほど多くいても、父なる神さまは、ご自身の契約(この場合は、救済の契約)に基づいて、御霊によって、また、御子イエス・キリストにあって、その一つ一つの群れの間にご臨在してくださり、一人一人に親しく御顔を向けてくださり、一人一人に限りない愛を注いでくださり、それぞれの思いと、それぞれが発することばの一つ一つを、汲み取ってくださっています。
 このように私たちが神さまを礼拝することは、すでにお話ししたように、私たちが来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造ることの中心にあることですが、それとともに、私たちが霊的な戦いを戦う上でも、先ほどお話しした、霊的な戦いは神さまが創造の御業において現されたみこころの実現をめぐる戦いであるということ(とかかわってはいますが、それ)とは別の大切な意味を持っています。
 それは、先ほどお話ししたように、霊的な戦いにおいて、サタンや悪霊たちにとっては、人は神さまに敵対するための「手段」でしかないということにかかわっていることです。
 これに対して、これまでお話しいてきたことから分かりますが、創造の御業において現された神さまのみこころの中心には、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになった人に、お委ねになったことがあります。その場合、神さまはご自身の契約に基づいて、人の間にご臨在してくださって、人をご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださるために、ご自身がご臨在される所として聖別されたエデンの園に、人を住まわせてくださいました。そして、人がそこで、委ねられたさまざまな植物の手入れをし、生き物たちのお世話をすることによって、それらをお造りになった神さまの知恵の豊かさ、それらをはぐくみ育ててくださっている神である「」のいつくしみに触れながら、見えない神である「」の御臨在を身近に感じ取ることができるようにしていただいていました。そして、時に応じて、神である「」の御臨在の御許に近づいて、「」を神として礼拝することを中心とした、愛の交わりに生きることができました。
 これらのことは、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまは、決して、人をご自身の「事業」のための手段としてはおられないということを意味しています。先主日にお話しした「タラントのたとえ」で1タラントをあずかったしもべが主人に対して「あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だ」と言ったこととはまったく違うのです。
 そして、このことに、霊的な戦いの両陣営のあり方の本質的な違いが現れています。
 さらに、サタンと悪霊たちの陣営についていいますと、絶対的に堕落してしまっているサタンと悪霊たちには神さまの本質的な特質である愛のかけらもありません。ですから、彼らは神さまを憎み、神さまに敵対するという点で一致していますが、お互いの間に愛の絆があるわけではありません。それで、これは推測ですが、かしらであるサタンは悪霊たちを手下として使っているだけであり、お互いがお互いを利用し合っているだけでしょう。絶対的に堕落しているわけではない人の世界にも似たようなことが見られることがある、ということから、まったく的外れの推測ということでもないと考えられます。とはいえ、サタンと悪霊たちの場合は、さまざまな思惑があって裏切ることがある人の世界とは違って、神さまに徹頭徹尾敵対し、神さまのみこころの実現を阻止するという、完全に一致した目的があるために、分裂はしない(参照・マタイの福音書12章25節ー26節)ということでしょう。
 このことと関連して注目したいのは、エペソ人への手紙1章22節ー23節に、

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されていることです。
 先にお話ししたように、

 神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた

と記されていることは、父なる神さまの右に座しておられるキリストが、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられることを示しています。このことを受けて、

 キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

と記されています。これは、神さまが「すべてのものの上に立つかしら」である「キリスト」、すなわち、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられるキリストを「教会に与えられた」ということです。また、これに続いて、

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されています。[注]

[注]ここで「すべてのものをすべてのもので満たす方」と言われているときの「すべてのもので」と訳されていることば(エン・パスィン)は「すべての点で」(BGAD, 3rd ed., p. 783b; NIV; A. T. Lincoln,WBC, p. 77; P. T. O'Brien, PNTC, p. 151.) を表す可能性があります。

 ここでは、教会は歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられる「キリストのからだ」であると言われています。そして、キリストのからだである教会には、「すべてのものをすべてのもので満たす方」である栄光のキリストご自身がご臨在してくださって、満たしてくださっていると言われています。
 このことには豊かな意味がありますが、今お話ししていることとかかわっていることだけに触れておきます。
 歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられる「キリストのからだ」である教会は、このかしらであるキリストとの一体にあって、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造るように召されています。ここでは、その際に、かしらであるキリストは教会を手段として用いるのではなく、むしろ、「すべてのものをすべてのもので満たす方」として教会にご臨在してくださり、教会を満たしてくださっていると言われています。また、夫の妻に対する関係をキリストと教会の関係に重ねて記している5章25節には、部分的な引用ですが、23節で「教会のかしら」であると言われている、

 キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた

とも記されています。教会は、このようなキリストの愛に満ちた御臨在に満たされて、その愛を映し出すことにおいて、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造るように召されています。
 今お話ししている、霊的な戦いの状況にあっては、教会を建て上げるということが「事業化」されて、信徒の方々や働き人が「手段化」されてしまうようなことがあれば、それは御霊によるものとして特徴づけられ、御霊によって造り出される来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造ることにはなりません。教会がキリストのからだである教会として建て上げられることは、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されているように、私たちが神の子どもとして、御霊によって導かれて、「愛をもって互いに仕え合」うことによっていますし、そのことにおいて、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化が造り出されていきます。


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