黙示録講解

(第474回)


説教日:2021年8月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(227)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばからのお話を続けます。
 今は、この約束がすでに私たちの間で原理的・実質的に成就していることを示しているエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話ししていますが、6節には、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 ここに記されていることは、神さまが1章20節ー23節に記されている、キリストになされたことに、私たちをあずからせてくださっているということを示しています。
 1章20節には、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と記されています。
 神さまがキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」ことは、エペソ人への手紙1章20節ー23節においては、二つのことを意味していますが、今お話ししているのは、二つ目のことです。
 それは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を、天上で父なる神さまの右に座しておられる栄光のキリストが、原理的・実質的に成就しておられるということです。そして、このことは、また、私たちが「キリスト・イエスにあって」、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。
 それで、私たちは、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代に属している者としていただいています。そして、御霊に導いていただいて、来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている歴史と文化を造る歩みをしています。


 このことと関連して、これまで、神さまは創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったので、人がどのようにその使命を果たしたかについての評価をされるということ、そして、その使命が歴史的な使命なので、その評価は歴史の終わり、すなわち、「終わりの日」になされるということについてお話ししてきました。
 すでにお話ししたことを、補足を加えながら、振り返っておきます。
 今回で4回繰り返すことになりますが、このことの根底には、父なる神さまの永遠からのみこころがあります。
 エペソ人への手紙1章4節ー5節には、神さまが、永遠において、私たちご自身の民を愛してくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者」とし、さらに「ご自分の子」としようとされたことが示されています。
 また、ローマ人への手紙8章29節には、神さまが、永遠において、私たちを「御子」を「長子」とする神の家族に加えてくださって、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしようとされたことが示されています。
 この二つの箇所には、同じことの法的なことと実質的なことという二つの面が記されています。
 エペソ人への手紙1章5節に記されている、神さまが私たちを「ご自分の子」にしてくださることは、法的なことです。この「ご自分の子にしようと」と訳されていることばは、直訳調に訳すと「ご自分の養子にしようと」となります。固有の意味での父なる神さまの子は、永遠において父なる神さまから生まれておられる御子イエス・キリストです。私たちは、私たちの契約のかしらとなられ、まことの人としての性質を取って来てくださって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストと、御霊によって一つに結び合わされて、父なる神さまの養子としていただいています。それが、ローマ人への手紙8章29節に記されている、私たちを「御子」を「長子」とする神の家族に加えてくださったということです。
 その当時の法では、養子も実子と同じ権利・特権をもっていました。その子であることによるさまざまな権利・特権の中心にあることは、個人的に、親しく父なる神さまを「アバ、父」と呼ぶことです。本来、これは御子イエス・キリストの権利であり、特権ですが、御子イエス・キリストにあって養子とされた私たちも、その権利・特権を与えられています。ローマ人への手紙8章15節に、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする[直訳「養子とする」]御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されており、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されているとおりです。
 これらはすべて法的なことであり、私たちは、すでに、神の子どもとして、「御子」を「長子」とする神の家族に迎え入れていただいていますし、父なる神さまに向かって、個人的に、また、お互いが心を合わせ声をそろえて、「『アバ、父』と叫びます」。これは、すでにそうなっていることであって、そうなりつつあるということではありません。
 この法的なこととともに、もう一つの面として、実質的なこともあります。それは、ローマ人への手紙8章29節に記されているように、神さまが、永遠において、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしようとされたことです。
 このことは、法的なこととは違って、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているように、すでに始まっていますが、「栄光から栄光へと」ということばに示されているように、私たちの地上の生涯をとおして継続していくことです。そして、その完成は、ピリピ人への手紙3章20節ー21節に、

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

と記されているように、終わりの日に再臨される栄光のキリストが私たちのからだを「ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えて」くださることによっています。

 このように、神さまは永遠のみこころにおいて、私たちご自身の民を「ご自分の子」にしようとされるとともに、「御子のかたちと同じ姿」にしようとされました。
 そして、このことを実現するために、神さまは、創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。
 その際に、神さまは神のかたちとしてお造りになった人をご自身との契約関係にあるものとしてお造りになりました。
 実際には、神である「」は、神のかたちとしてお造りになった人だけでなく、ご自身がお造りになったすべてのもの――人や御使いたち(サタンや悪霊たちも御使いとして造られています)のように人格的な存在だけでなく、生き物や植物、さらには、無機的な物質をも含めたすべてのもの――を、ご自身との契約関係にあるものとしてお造りになっています。
 そのことは、そのことを示そうとして記されているわけではありませんが、エレミヤ書33章20節ー21節に記されている、

もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。

という「」のみことばや、25節ー26節に記されている、

もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。

という「」のみことばから汲み取ることができます。
 このように、神さまが創造の御業とともに全被造物と結んでくださった契約を「創造の契約」と呼びます。
 そして、契約の神である「」は、ご自身の契約に基づいて、またご自身の契約に真実な方として、お造りになったすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ、支えてくださり、導いてくださっています。そのことを、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、観察や実験をとおして、法則として捉えています。またそれで、神である「」との契約関係のあり方も、神さまがお造りになったそれぞれのものの特質にしたがって、違っています。人や御使いたちのように人格的な存在との契約関係は、愛にある人格的な関係です。
 このように、神さまはすべてのものをご自身との契約関係にあるものとしてお造りになりました。この全被造物を包み込む契約、創造の契約の中心にあるのは、神さまが神のかたちとしてお造りになった人との契約です。そのことは、エペソ人への手紙1章21節に後半が引用されている、詩篇8篇6節に、

 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることから汲み取ることができます。
 このみことばは、神である「」が神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れています。「」が「万物」(すべてのもの)を神のかたちとしてお造りになった人の「足の下に置かれ」たということは、「万物」を「人に治めさせ」たということで、「」が「万物」を「」の主権の下にあるものとされたことを意味しています。
 とはいえ、これは人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前のことです。神である「」が契約の主として、ご自身の主権の下にあるすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ、支えてくださり、導いてくださっているように、神のかたちとして造られている人も神である「」から委ねられたすべてのものに真実を尽くして、それぞれの特質を生かしつつ支えていくように召されています。
 実際に、最初に造られたときの状態の人は、創世記2章15節に記されているように、エデンの園を耕していました。それが歴史と文化を造る使命において「地を従えよ」と言われていることを実現することでした。また、19節ー22節に記されているように、生き物たちとの親密な関係を築いていました。当時の文化においては、名をつけることは、主権を行使することですが、それによって、関係性を築くことを意味しています。ここでは、人が「ふさわしい助け手」を探し求めて、すべての生き物たちに愛といつくしみを注いだことを汲み取ることができます。
 もちろん、人には、あらゆる点において、被造物としての限界があります。この「地」を越えて宇宙に広がっているものには手が届きません。けれども、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、この広大な宇宙に広がっている「すべてのもの」(「万物」)が造り主である神さまによって造られたものであり、造り主である神さまの栄光を現していることを知っています。そして、そのゆえに、一切の栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝します。
 ですから、神さまが神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命は、神である「」の契約の枠の中にあります。
 そして、神である「」は、神のかたちとして造られている人との契約において、祝福を約束してくださっていました。それは、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおした時に、そのことへの報いとして、最初に造られた時の神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光の状態にある者、すなわち、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるためのことでした。
 しかし、最初の人アダムは神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、アダムをかしらとするすべての人がアダムにあって罪を犯して、御前に堕落してしまった者、死の力に捕らえられてしまっている者として生まれてきますし、実際に、罪を犯してしまっています。それが、かつての、私たちのあり方であり、私たちはエペソ人への手紙2章1節のことばで言うと「自分の背きと罪の中に死んでいた者」でしたし、3節のことばで言うと「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
 けれども、神さまは、やはり、永遠のみこころにしたがって、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。
 御子イエス・キリストは最初に造られた時のアダムと同じ、神のかたちとしての栄光にある、まことの人として来てくださいました。そして、その地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされて、最後に、私たちの罪を贖うために十字架におかかりになりました。そして、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、すべて、私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。
 これによって、「終わりの日」に執行されるべき、私たちの罪に対する最終的なさばきは、この「キリスト・イエスにあって」、すでに執行されて終わっています。ですから、私たちは、決して、罪の刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 そればかりでなく、御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、より豊かな栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださいました。父なる神さまは私たちを、この「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」くださいました。これによって、私たちご自身の民を、人が最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者、すなわち、「御前に聖なる、傷のない者」、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるという、父なる神さまの永遠の初めからのみこころが実現しています。

 このようなことを踏まえて、初めに触れた、神さまは創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったので、人がどのようにその使命を果たしたかについての評価をされるということ、そして、その使命が歴史的な使命なので、その評価は歴史の終わり、すなわち、「終わりの日」になされるということについて、お話ししたいと思います。
 これには二つのことがかかわっています。
 一つは、生まれながらの人はすべて、アダムにあって神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。その状態にある人は「「自分の背きと罪の中に死んで」いて、実際に罪を犯してしまいます。
 その状態にある人のことは、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されています。ここで「心の中で」と言われているときの「」は、ヘブル語のレーブ、レーバーブ(「」)が表している、人の内的なあり方の全体――知的、感情的、意志的なすべてを含めた、人格の中心になっているもの――を示しています。ですから、

 心の中で「神はいない」と言う

ということは、その人のものの見方、考え方、感じ方、生き方の根底に「神はいない」という大前提があって、その人はものの見方、考え方、感じ方、生き方のすべてにおいて、造り主である神さまを神とすることがないということを意味しています。
 すべての人は神のかたちとして造られていて、歴史と文化を造る使命を委ねられています。それで、すべての人は歴史と文化を造ります。しかし、それは歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまのみこころに反する、神さまを神とすることがない歴史と文化であり、造り主である神さまの栄光を現すどころか、自らの罪を現す歴史と文化です。
 それで、神さまは、終わりの日に、人がどのようにその使命を果たしたかについての評価をされますが、それは、これらすべてのことに現されている罪に対する「さばき」が執行されることになります。
 もう一つのことは、私たちも、かつてはそのような状態にあって歩んでいました。私たちは「自分の背きと罪の中に死んでいた者」でしたし、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。しかし、先ほどお話ししたように、「終わりの日」に執行されるべき、私たちの罪に対する最終的なさばきは、私たちのために十字架におかかりになった「キリスト・イエスにあって」、すでに執行されて終わっています。ですから、私たちは、決して、罪の刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 そればかりでなく、父なる神さまは私たちを、この「キリスト・イエスにあって」、人が最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者、すなわち、「御前に聖なる、傷のない者」、「ご自分の子」としてくださいましたし、ご自身の右に着座された栄光のキリストが遣わしてくださった御霊のお働きによって私たちを「栄光から栄光へと」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださっています。
 それで、私たちは、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊、すなわち、「御子の御霊」によって、父なる神さまを、個人的に、また、お互いが心を合わせ声をそろえて、「アバ、父」と呼ぶことができる神の子どもとしての特権にあずかっています。そして、御霊に導いていただいている神の子どもとしての近さと、親しさにおいて、「」を神として礼拝することを中心として、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりのうちに生きています。これが、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊に導いていただいて、来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている歴史と文化を造ることの中心、中核にあることです。
 そのようにして神の子どもたちが、御霊に導いていただいて造る来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている歴史と文化は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、すでに成し遂げてくださっている完全な贖いによって、まったくきよめてくださって、新しい天と新しい地の歴史と文化へとつながるものとしてくださいます。

 ここで、改めて、心に留めておきたいことは、このすべてのことは、父なる神さまの一方的な愛から出ていて、まったくの恵みによっているということです。
 エペソ人への手紙1章5節には、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されています。ギリシア語では、「愛をもって」が冒頭に出てきて強調されています。[注] これは永遠における神さまのみこころです。

[注]以前お話ししたことがありますが、ここには、「愛をもって」と訳されていることば(エン・アガペー、このことばは、ギリシア語では4節の最後に出てきますが、節の区切りは霊感されていません)が、この後に出てくる「」にかかる(「神が愛をもって」)か、その前に出てくる「聖なる、傷のない」にかかる(愛にあって聖なる、傷のない)かの問題があります。私はその時にお話ししたいくつかの理由によって、この新改訳の訳の方がよいと理解しています。

 また、歴史におけることを記している、2章4節ー5節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されています。
 さらに、永遠における神さまのみこころを記しているローマ人への手紙8章28節には、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されています。ここで「あらかじめ知っている人たち」と言われているときの「あらかじめ知っている」(ギリシア語では一つのことば)ということは、セム語的な発想で(それゆえ、ヘブル的な発想でもある)、私たちの言う「あらかじめ愛している」に相当します。
 また、歴史的なことを記している、ヨハネの手紙第一・3章1節には、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。

と記されています。
 私たちは「自分の背きと罪の中に死んでいた者」でしたし、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」が、私たちの思いをはるかに越えた神さまの愛――ご自身の「ひとり子をお与えになったほど」の愛(ヨハネの福音書3章16節)――によって神の子どもとしていただいて、「御子」を「長子」とする神の家族に迎え入れていただいています。そして、今も、その愛に包んでいただいて、御霊によって導いていただく神の子どもとして歩んでいます。この歩みの中で、私たちは来たるべき時代、新しい時代の本質をもっている歴史と文化を造るのです。
 これらのことを念頭に置いて、マタイの福音書25章14節ー30節に記されている「タラントのたとえ」に出てくる「一タラント預かっていた者(しもべ)」のことを考えてみましょう。
 長いたとえですので、引用はしないで、今お話ししていることにかかわることをまとめておきます。
 主人が旅に出るに当たって、しもべたちに「ぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡し」ました。新改訳の欄外には、「1タラントは6千デナリに相当。1デナリは当時の1日分の労賃」と注釈されています。ですから、1タラントであっても6千日分の労賃で、週に1回、安息日に休みますから、大雑把に言えば、約20年分の労賃ですので相当な金額です。
 5タラント預かったしもべは、それで商売をして5タラント儲け、2タラント預かったしもべは、2タラント儲けました。しかし、1タラント預かったしもべは、「地面に穴を掘り、主人の金を隠した」というのです。
 主人が「ぞれその能力に応じて」5タラント、2タラント、1タラントを預けたということ、そして、5タラント預かったしもべは5タラント、2タラントを預かったしもべは2タラント儲けたということから、主人がそれぞれのしもべをよく知っていて、それぞれにとって「ちょうどよいもの」を預けた、ということを汲み取ることができます。このことは、エペソ人への手紙4章7節に、

 私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

と記されていることを思い起こさせます。
 やがて旅から帰って来た主人はしもべたちと清算をました。これは、今お話ししている終わりの日における評価に当たることです。
 主人は、5タラント預かったしもべと2タラント預かったしもべに対して、まったく同じことばで、

よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

という称賛のことばを与えました。
 これがまったく同じことばであったことは、主人は、自分がどれだけ儲かったかということではなく、しもべたちが忠実であることを願っていたことを示しています。それぞれのしもべをよく知っていて、それぞれにとって「ちょうどよいもの」を預けた主人は無理な要求をしているのではありません。
 しかも、「多くの物を任せよう」ということばは、主人が与えた報いです。このような報いを与えることが主人の目的の一つであったと考えられます。それだけではありません。「多くの物を任せよう」ということばは、このしもべがこの経験をとおして、より成長していることを示唆しています。これも主人が願っていたことの一つでしょう。
 そして、最も大切なことは、主人が最後に言った、「主人の喜びをともに喜んでくれ。」ということばです。これは、主人としては、このことの目的が、しもべと喜びをともにするためのことであったということを示しています。
 主人はしもべのことを、本当に、心にかけています。
 さまざまな賜物のことを記しているコリント人への手紙第一・12章では、最後の31節に、

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。

と記されています。そして、続く13章においては、それらの賜物を用いて何をしたとしても、また、どんなに大きなことをしても「愛がなければ」空しいということが示されています。
 このようなことを踏まえて、1タラント預かったしもべが主人に言ったことばに注目してみましょう。
 マタイの福音書25章24節ー25節には、

ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。

と記されています。
 これについては、一つのことだけを取り上げます。
 それは、このしもべは主人のことを、主人の思いをまったく分かっていないということです。
 このことにおいて、主人は自分がどれだけ儲かるかということを考えてはいません。それで、「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める」ようなことはありません。
 この主人が指し示している神さまは、神さまのために差し出すものは何もないどころか、ご自身に敵対して歩んでいた者、御怒りによって滅ぼされるべき者であった私たちを、ご自分の子としてくださるほどに愛してくださり、ご自身との愛の交わりにあるいのちの豊かさにあふれさせてくださっています。
 しかし、私たちが、神さまのさばきが恐ろしいから、さばかれないために何かをしようと思うことがあるとすると、「それで私は怖くなり」と言っている、このしもべと同じようなワナに陥ってしまいます。
 ヨハネの手紙第一・4章18節には、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

と記されています。
 神さまのさばきが恐ろしいから神さまのために、あるいは、誰かのために何かをしようとすることは、自分の身を守ろうとすることであって、真に神さまやその人を愛することではありません。「恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです」。
 それで、神さまのさばきが恐ろしいから神さまのために、あるいは、誰かのために何かをしようとすることは、永遠からのみこころにおいて、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしようとされ、今すでに、私たちのうちに、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な特質ををもつ「御霊の実」を結ばせてくださり、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変え」てくださっている「御霊なる主の働き」を妨げることになります。
 そればかりではありません――それ以上にと言うべきでしょうか。それは、ご自身の御子をも与えてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちが決してさばかれることがないようにしてくださった、神さまの愛を無にすることです。


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