黙示録講解

(第473回)


説教日:2021年8月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(226)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばからのお話を続けます。
 これまで、この約束がすでに私たちの間で原理的・実質的に成就していることを示しているエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話ししてきました。
 6節には、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 ここに記されていることは1章20節ー23節に記されている、神さまがキリストになされたことに、私たちをあずからせてくださっているということを示しています。
 詳しい説明は省いて、今お話ししていることにかかわることをまとめておきます。
 今は、1章20節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と記されている、栄光のキリストが、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられるということと、このことは、私たちが「キリスト・イエスにあって」、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しているということを意味しているということをお話ししています。
 そして、先々主日と先主日には、神さまは創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったので、人がどのようにその使命を果たしたかについての評価をされるということ、そして、その使命が歴史的な使命なので、その評価は歴史の終わり、すなわち、「終わりの日」になされるということについてお話ししました。
 今日も、これからお話しすることと関連することをまとめてから、さらにお話を進めていきます。
 このことの根底には、父なる神さまの永遠からのみこころがあります。
 具体的には、引用はしませんが、エペソ人への手紙1章4節ー5節には、神さまが、永遠において、私たちご自身の民を愛してくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者」とし、さらに「ご自分の子」としようとされたことが示されています。
 神さまが私たちを「御前に聖なる、傷のない者」としてくださることは、私たちがご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことを踏まえています。神さまは永遠のみこころにおいて、そのような私たちを「御前に聖なる、傷のない者」としようとされたのです。そして、その上で、さらに、私たちを「ご自分の子」としようとされました。
 また、ローマ人への手紙8章29節には、神さまが、永遠において、私たちを「御子」を「長子」とする神の家族に加えてくださって、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしようとされたことが示されています。
 そして、その永遠のみこころを実現するために、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。このことには豊かな意味がありますが、今お話ししていることとのかかわりで言いますと、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおした時に、そのことへの報いとして、最初に造られた時の神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光の状態にある者、すなわち、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるためのことでした。
 しかし、最初の人アダムは神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、父なる神さまの永遠からのみこころは実現しなくなってしまったかのようになりました。
 けれども、神さまは、やはり、永遠のみこころにしたがって、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。
 御子イエス・キリストは最初に造られた時のアダムと同じ、神のかたちとしての栄光にある、まことの人として来てくださいました。そして、その地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされて、最後に、私たちの罪を贖うために十字架におかかりになりました。そして、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、すべて、私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。
 これによって、「終わりの日」に執行されるべき、私たちの罪に対する最終的なさばきは、この「キリスト・イエスにあって」、すでに執行されて終わっています。ですから、私たちは、決して、罪の刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 そればかりでなく、御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、より豊かな栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださいました。父なる神さまは私たちを、この「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」くださいました。これによって、私たちご自身の民を、人が最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者、すなわち、「御前に聖なる、傷のない者」、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるという、父なる神さまの永遠の初めからのみこころが実現しています。


 このことを理解することは大切なことです。というのは、しばしば、「創造の回復」という標語とともに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によって、私たちは神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになったときの「本来のあり方」に回復されていると言われることがあるからです。
 これはまったく間違っているとは言えません。また「創造の回復」ということは、創造の御業と贖いの御業には深いつながりがあるという、大切なことを理解しようとすることです。けれども、より厳密には、これまで繰り返しお話ししてきたように、私たちは「キリスト・イエスにあって」――、まことの人となってきてくださり、十字架におかかりになって私たち罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストと一つに結ばれて――人が最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者としていただいています。
 その意味で、これは「創造の回復」というより、「創造の回復」を越えたことで、「創造されたときの状態の栄光化」と言うべきことです。また、神さまが永遠のみこころにおいて、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしようとされたというときの「御子のかたち」は、神さまが創造の御業において人を「神のかたち」にお造りになったときの「神のかたち」の回復というより、「神のかたち」がさらに栄光化された状態です。
 ただ、これは、新約聖書が示している終末論的な視点における「すでに、そして、いまだ」という状態にあって、原理的・実質的に実現しているということで、その完全な実現は終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます。
 これもすでにお話ししていることの再確認ですが、この「すでに、そして、いまだ」という状態は、基本的に、イエス・キリストにおいて起こっていることです。これは歴史において神である「」が遂行された贖いの御業によって、今から2千年前に、歴史の現実になっていることです。そして、そのことに基づいて、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって、イエス・キリストと一つに結ばれている、私たち「」の契約の民も、「すでに、そして、いまだ」という状態にあります。
 イエス・キリストの十字架の死は、その時に、終わりの日に執行されるべき、私たち「」の民の罪に対する最終的なさばきが、イエス・キリストに対して執行されたということです。また、イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにおいて、終わりの日に栄光のうちによみがえるべき私たち「」の民の「初穂」として、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。それで、イエス・キリストにおいては、終わりの日に起こるべきことが、「すでに」今から2千年前に起こっています。
 私たちはこのイエス・キリストにあって、「すでに」、キリストとともに死んでおり、キリストとともによみがえって、新しく生まれています。そして、イエス・キリストを信じる信仰によって、神さまの御前に義と認められており、御子を長子とする神の家族に迎え入れていただいている神の子どもとしていただいています。
 これらのことは、徐々にそうなって行くということではなく、一回的なこと、すなわち、私たちの地上の生涯において一度だけ起こったことで、「すでに」、神さまが御霊によって私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださって、私たちがイエス・キリストを信じた時に起こっています。
 人が生まれることは生涯の初めに一度だけ起こることですが、生まれた人はその後、ずっと生きていきます。そのように、イエス・キリストにあって新しく生まれた私たちは、今も、新しく生まれた者として生きています。また、御前に義と認めていただいている者、神の子どもとしていただいている者として生きています。
 それとともに、先主日も引用した、コリント人への手紙第二・3章18節に

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているように、私たちは、御霊のお働きによって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」います。これは、神学的には「聖化」と呼ばれることで、御霊が私たち自身を、「栄光から栄光へと」と言われているように、徐々に、「主と同じかたちに」変えてくださっていることです。
 この「主と同じかたち」は、栄光を受けて死者の中からよみがえられた「栄光のキリストのかたち」のことで、ローマ人への手紙8章29節に出てくる「御子のかたち」に当たります。
 私たちが「主と同じかたちに」造り変えられていくことは、私たちが御霊によって栄光のキリストと一つに結ばれて、新しく生まれた時から始まっています。そして、私たちの地上の生涯をとおして続くことですが、私たちの地上の生涯においては完成することはありません。
 このことの完成は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることによってもたらされます。ピリピ人への手紙3章20節ー21節に、

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

と記されているとおりです。
 また、コロサイ人への手紙3章4節にも、

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

と記されています。これは、神学的には「栄光化」、あるいはそれを短縮して「栄化」と呼ばれます。

 ここで、このことに触れているヨハネの手紙第一・3章2節を見てみましょう。
 そこには、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されています。
 ここでは、

 キリストが現れたときに、私たちはキリストに似た者になる

と言われています。
 ここで「キリストが現れたとき」と言われているのは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されることを指しています。そのときには、私たちは栄光の「キリストに似た者」――ローマ人への手紙8章29節に出てくる「御子のかたちと同じ姿」に当たるもの――になります。もちろん、それは、先ほど引用したピリピ人への手紙3章21節に記されていたように、栄光のキリストが、私たちをご自身の死者の中からのよみがえりにまったくあずからせてくださって、「私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えて」くださることによっています。
 このことは、先ほども引用した、コリント人への手紙第二・3章18節に、私たちは、御霊のお働きによって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いると言われていることが完成することを意味しています。
 ここで、注目したいのは、その時には、私たちは、

 キリストをありのままに見る

と言われていることです。
 このこととのかかわりで、まず、取り上げたいのは、改めて引用しますが、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているときの「鏡のように主の栄光を映しつつ」と訳されていることばです。
 少し込み入ったお話しになりますが、この部分については、おもに、二つの理解の仕方があります。
 一つは、新改訳2017年版(第3版も)のように「鏡のように主の栄光を映しつつ」と理解することです。もう一つは、「主の栄光を鏡の中にあるように見ながら」と理解することです。
 ここで用いられている動詞(カトプトゥリゾマイ、カトプトゥリゾーの中態の現在分詞)は、新約聖書ではここだけに出てきます。そして、この形すなわち中態[注]では、基本的に、「鏡の中にあるように見る」ことを表しますが、新約聖書以外においては、時には、能動態の「鏡に映す」とか(「鏡」のことは視野の外に置かれて)「反映する」という意味に用いられることもあるようです。それで、翻訳もほぼ二つに分かれています。

[注]英語には能動態と受動態がありますが、ギリシア語には中態もあります。ここに出てくる現在時制では、語形は受動態と同じですが、意味は能動態的なものです。能動態の意味と区別がつかないことや、それに再帰的な意味合いがあったり、それとはまったく違う意味があったりすることがあります。

 新改訳の「鏡のように主の栄光を映しつつ」という理解は、EDNT, (『新約聖書釈義辞典』)vol. 2, p.274bが示すように、その前の7節に、

イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。

と記されていることは、モーセの顔が「」の栄光を反映させていたことを示しているので、同じように、ここ18節でも「」の栄光を反映させることを意味していると理解しているのではないかと思われます。
 新改訳の理解がそのような理由によっているかどうかは、私には分かりませんが、このEDNTが示す理解には問題があると考えています。
 まず、踏まえておきたいことは、この18節が示そうとしていることの中心は、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことにあるということです。そして、それは何によっているかということが問題となります。
 ここに出てくるモーセの顔の肌が輝きを放っていたことを記している出エジプト記34章29節後半ー30節には、

モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。

と記されています。
 これは、イスラエルの民が、こともあろうに、そこにモーセが登って行った、「」がご臨在されるシナイ山の麓で、金の子牛を作って、これを「」ヤハウェであるとして礼拝したこと、また、それによって「」の契約を破ってしまったこと(参照・32章19節、契約文書を破棄することは契約を破棄することを意味しています)、そして、それでもなお、「」がモーセのとりなしを聞き入れてくださったことを背景としています。
 「」がモーセのとりなしを聞き入れてくださったことを受けて、33章18節ー20節には、

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

と記されています。
 モーセは、当然、滅ぼされるべきイスラエルの民をなおも赦してくださり、約束の地まで導き入れてくださる「」の栄光を見せていただきたいと願ったのです。
 そして、34章1節ー28節には、モーセが「」の命令に従って再びシナイ山に登っていって、「」の栄光の御臨在に接したことが記されています。34章5節ー8節には、

は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、の名を宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。

と記されています。そして、続く9節ー28節には、モーセが「」にとりなしをし、「」が契約を更新してくださったので、モーセが「」の戒めを聞いて、それを書き記したことが記されています。
 モーセの顔の肌が輝きを放つようになったのは、「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」「」の栄光の御臨在に触れて、「主と話したため」のことでした。
 ただ、それはモーセの「顔の肌が輝きを放っている」だけのことであり、やがて消え去るものでした。それは、「」がモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」と言われ、33章23節に、

 あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。

と記されていることによっています。ここには「」が出てきますが、ヘブル語では「」ということば〔パーニーム〕は「御臨在」をも意味しています。古い契約の限界の中にあったモーセは、直接的に、出エジプト記34章5節ー8節に記されている「」の栄光の御臨在の御前に立って、顔と顔を合わせるように向き合うことはできませんでした。ただし、出エジプト記33章11節に記されているように、モーセは古い契約の「地上的なひな型」である幕屋にご臨在された「」の栄光の御臨在の御前に立って、顔と顔を合わせるように向き合っていました。
 しかし、私たちはヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているように、古い契約の下での限界の中でモーセに示された「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」「」の栄光の御臨在の本体である御子イエス・キリストの栄光の御臨在に接しています。そして、ヨハネの福音書14章9節に記されているように、イエス・キリストは、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と証ししておらます。
 私たちはこの御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの御臨在の御許に住まう神の子どもです。そして、この御子の御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができる近さと親しさにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きています。
 モーセの顔の肌が輝きを放ったのは表面的なことであり、一時的なことでした。しかし、私たちは内側から「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いきます。これは一時的なことではなく、地上の生涯の終わりまで続くことですし、ヨハネの手紙第一・3章2節に記されているように、「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者に」なります。
 ここでも、私たちが「キリストが現れたときに、キリストに似た者に」なるのは、私たちが「キリストをありのままに見るから」であると言われています。このように理解しますと、コリント人への手紙第二・3章18節においても、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくのは、「主の栄光を鏡の中にあるように見ながら」のことであると理解したほうがよいと考えられます。

 このようなことを踏まえて、ヨハネの手紙第一・3章2節において、終わりの日には、私たちは、

 キリストをありのままに見る

と言われていることについてお話ししますと、言うまでもなく、これは、私たちが栄光のキリストを眺めるようにして見ることではありません。
 古い契約の下で、モーセが「」の栄光の御臨在の後ろを見たということでさえも、「」と語り合うという交わりがありました。そうであれば、ヨハネの手紙第一・3章2節で「キリストをありのままに見る」と言われていることには、もっと豊かな、栄光のキリストとの愛の交わりがあると考えられます。
 また、ここでは、

私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と言われていて、私たちは「キリストをありのままに見る」ことによって、「キリストに似た者に」なることが示されています。しかし、これは、単なる原因と結果を示しているのではなく、この二つのことが一つのことの裏表であることを示していると考えられます。

 [以下は、礼拝説教においてはお話ししなかったことです。説明不足があると考えて、補足します。]
 マタイの福音書5章8節には、

 心のきよい者は幸いです。
  その人たちは神を見るからです。

という、イエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えは3節ー10節に記されている八つの教えの一つです。ここには「幸いです」と言われている人々が出てきます。これらは別々の人々というより、同じ人々でありえます。そして、その原型は、やはり、この教えを語っておられるイエス・キリストご自身です。
 このことを踏まえた上でのことですが、この「」は私たちがイメージする感情を中心とする心ではなく、ヘブル語のレーブ、レーバーブが表している、人の内的なあり方の全体――知的、感情的、意志的なすべてを含めた、人格の中心になっているもの――を示しています。そして、この「心のきよい」状態は、基本的に、神さまとの関係のあり方におけることです。
 それで、この「心のきよい者」も、神さまの贖いの恵みにあずかって「キリストに似た者」としていただいている人々です。ここでは、その人々は「神を見る」と言われています。この「見る」は未来時制で表されていますが、これは、これには「終わりの日」におけるその完全な実現があるということを表しています。その完全な実現は、ヨハネの手紙第一・3章2節に記されています。
 ここで注目したいのは、「心のきよい者」としていただいた人々が「神を見る」と言われていることです。詳しい説明はしませんが、ヘブル人への手紙12章14節にも、

聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

と記されています(10節も見てください)。
 [補足は以上です。この続きの最初の部分は、この補足を踏まえて、言い方を変えています。]

 これらのことから、私たちが「キリストに似た者に」なることによって、私たちは「キリストをありのままに見る」ようになる、とも言うことができます。しかも、私たちが「キリストに似た者に」なることも、栄光のキリストとの愛にある親しい交わりの中で実現することです。
 ですから、私たちが「キリストをありのままに見る」ようになることと、「キリストに似た者に」なることは、互いに循環するような形で―― 一方が原因となって他方がより豊かにされると、そのようにして豊かにされた方が原因となって、もう一方がさらに豊かにされるという形で――深く豊かになり、それによって、栄光のキリストとの愛にある親い交わりがさらに深く豊かになっていくと考えられます。。
 さらに、私たちが「キリストに似た者に」なることは、私たちが「神の子ども」としての実質を最も豊かな意味でもつようになることを意味しています。
 2節は、

 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

ということばで始まっています。そして、これに先立って1節には、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。

と記されています。
 父なる神さまが限りなく豊かな愛を与えてくださったことによって、私たちは「すでに」神の子どもとしていただいています。そして、その父なる神さまの限りなく豊かな愛のうちにある私たちは、終わりの日には、栄光のキリストとの愛の交わりにおいて、栄光の「キリストをありのままに見る」ようになり、栄光の「キリストに似た者に」なります。これは、そうなって終わることではなく、永遠に続くばかりでなく、永遠に深く豊かになっていく神の子どもとしての祝福を意味しています。


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