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説教日:2021年8月8日 |
先主日には、神さまは創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったので、人がどのようにその使命を果たしたかについての評価をされるということ、そして、その使命が歴史的な使命なので、その評価は歴史の終わり、すなわち、「終わりの日」になされるということについてお話ししました。 今日お話しすることと関わっていることをまとめておきます。 このことの根底には、父なる神さまの永遠からのみこころがあります。エペソ人への手紙1章4節ー5節に、 神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されており、ローマ人への手紙8章29節に、 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 と記されているとおりです。 神さまは永遠において、私たちご自身の民を愛してくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者」とし、さらに〔法的に〕「ご自分の子」とし、〔実質的に〕「御子のかたちと同じ姿」にしようとしておられます。そして、そのために、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。それは、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおした時に、そのことへの報いとして、最初に造られた時の神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光の状態にある者、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるためのことでした。 しかし、最初の人アダムは神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、父なる神さまの永遠からのみこころは実現しなくなってしまったかのようになりました。 けれども、神さまは永遠のみこころにおいて、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった私たちを「御前に聖なる、傷のない者」としようとしてくださっていますし、その上で、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしようとしておられます。そして、この永遠のみこころを実現してくださるために、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。 御子イエス・キリストは最初に造られた時のアダムと同じ、神のかたちとしての栄光にある、まことの人として来てくださいました。そして、その地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされて、最後に、私たちの罪を贖うために十字架におかかりになりました。これによって、私たちの罪――すでに犯してしまった罪だけでなく、これから犯すであろう罪も含めたすべての罪――に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、すべて、私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。 これによって、「終わりの日」に執行されるべき、私たちの罪に対する最終的なさばきは、この「キリスト・イエスにあって」、すでに執行されて終わっています。「キリスト・イエスにある」私たちは、「キリスト・イエス」の十字架の死による罪の贖いの完全さのゆえに、決して、罪の刑罰としてのさばきを受けることはありません。繰り返しの引用ですが、ヘブル人への手紙10章12節ー14節に、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されているとおりです。 そればかりでなく、御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、より豊かな栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださいました。父なる神さまは私たちを、この「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」くださいました。これによって、私たちご自身の民を、人が最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者――「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるという、父なる神さまの永遠の初めからのみこころが実現しています。 それで、 私たち「主」の民は、今すでに、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代に属している者になっており、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る歩みをしています。 ここで、これと関連するみことばを見てみましょう。コリント人への手紙第二・5章17節には、 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されています。 ここに記されていることは、とても簡潔な言い方で表されています。それを直訳調に訳すと、 ですから、もしだれかがキリストに(あるなら)、新しい創造。古いものは過ぎ去った。見よ。それらは新しくなっている。 という感じになります。 前半の、「もしだれかがキリストに」には動詞がないので、「ある」を補います。言うまでもなく、「だれかがキリストにある」ということは、その人が、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって、栄光のキリストご自身と一つに結ばれている状態にあることを意味しています。 また、「新しい創造」には動詞がないばかりでなく、主語もはっきりしません。この部分の訳し方については二つの見方があります。 一つは、新改訳のように、個人的なこととして、 その人は新しく造られた者です。 と訳すことです。 もう一つは、より包括的に全被造物にかかわること(宇宙論的なこと)として、 そこには新しい創造があります。 と訳すことです。 この後の方の理解を取るとしても、個人的なことがなくなってしまうわけではありません。「もしだれかが」と言われているときの「だれか」は単数形ですので、ここでは個人的なことが言われています。ただ、この後の方の理解では、その人(個人)は、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって、すでに現実になっている「新しい創造」の世界に属している――当然、その人は新しく造られている――ということが示されていることになります。 これに続いて、 古いものは過ぎ去った と言われているときの「古いもの」は複数形ですし、 見よ。それらは新しくなっている。 も複数形です[注]。このことと「新しい創造」ということばから、その前でも、 そこには新しい創造があります。 というように、全被造物にかかわることが示されていると理解することもできます。 [注]この場合には、「それら」を表すことばはありませんが、「新しい」という形容詞の主格が複数形です。 また、動詞「なっている」が単数形であるのは、主語をも表す「新しい」という形容詞の主格が中性形の複数であることによっています。中性形の複数であ主語が動詞の単数形を取ることについては、D. B. Wallace, Greek Grammar Byond the Basics, pp. 399-400. を見てください。 また、「過ぎ去った」は(不定過去時制で表されていて)過去にすでに起こってしまっていることを示しています。そして、 見よ。それらは新しくなっている。 の「新しくなっている」は(完了時制で表されていて)過去に起こっていることの結果が今も続いていることを示しています。 さらに注目したいことがあります。 ここで、 もしだれかがキリストにあるなら と言われているときの「キリスト」は、この前の14節ー15節に、 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。 と記されている「キリスト」――その愛によって、私たちご自身の民すべてのために死んでくださり、死者の中からよみがえってくださった「キリスト」です。それで、 もしだれかがキリストにあるなら と言われているときの「だれか」は、「自分のために死んでよみがえっ(てくださっ)た」キリストとともに死んで、キリストとともによみがえっている人ですが、ここで特に注目したいのは、その人が「キリストの愛」に捕らえられ、「キリストの愛」に包まれている人だということです。 先ほど、「だれかがキリストにある」ということは、その人が、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって、栄光のキリストご自身と一つに結ばれている状態にあることを意味していると言いました。今お話ししたように、「キリストの愛」に捕らえられ、「キリストの愛」に包まれることなくして、御霊によって、キリストと一つに結び合わされることはありえません。「だれかがキリストにある」なら、すなわち、だれかが御霊によって、キリストと一つに結び合わされているなら、その人は、必ず、「キリストの愛」に捕らえられ、「キリストの愛」に包まれています。 そして、その人は、「自分のために死んでよみがえっ(てくださっ)た」「キリストに」あって、「キリストの愛」に捕らえられ、「キリストの愛」に包まれている者として、常に、「キリストの愛」を受け止め、その愛に応えつつ生きることになります。それが、 もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる ということの根底にあります。 そのようにして、「キリストに」あって――御霊によって、栄光のキリストご自身と一つに結ばれて、新しく造られ、「新しい創造」の世界に属している人は、「キリストの愛」に捕らえられ、「キリストの愛」に包まれている者として、常に、御霊に導いていただいて、「キリストの愛」を受け止め、その愛に応えつつ、「新しい創造」の世界の歴史、すなわち、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造るようになります。 終わりの日に再臨される栄光のキリストは、人がどのように歴史と文化を造る使命を果たし、どのような歴史と文化を造ったかを評価されます。その評価は、大きく分けると、神である「主」との関係のあり方によって、二つに分けられることになります。 一つは、かつての私たちのあり方(に当たること)で、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった状態にある人に対する評価です。 その状態にある人は、エペソ人への手紙2章1節ー3節に記されていることばを用いると、「自分の背きと罪の中に死んで」しまっているために、造り主である神さまを神とすることはなく、「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでい」ます。その状態にある人は神さまのみこころに従うことはないし、従うことはできません。 その状態にある人が造る歴史と文化は、造り主である神さまの栄光を映し出すどころか、自らの罪を映し出すものであり、「この世の流れ」、すなわち、この世、この時代の歴史と文化です。それで、この状態にある人に対して、「終わりの日」になされる神さまの評価は、この世、この時代の歴史と文化を造り出してきた人の罪と、その現れである歴史と文化に対するさばきとなります。 もう一つは、今の私たちのあり方(に当たること)です。 父なる神さまは一方的な愛と恵みによって、私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」くださいました。その私たちはすでに、「キリスト・イエスにあって」、人が最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者として新しく生まれており、「ご自分の子」、すなわち、神の子どもとしての身分と特権にあずかっています。 それで、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と記されており、ガラテヤ人への手紙4章6節に、 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されているように、私たちは神の子どもとして、御子の御霊に導いていただいて歩んでいます。そして、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼びかけることができる近さと親しさにおいて、父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、そして、お互いの愛の交わりに生きることにおいて、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る歩みをしています。 私たちは神の子どもとしての身分を与えていただいて、「御子が長子」となってくださっている神の家族に加えていただいています。これは法的なことで、すでに私たちの現実になっています。それで、私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きいますし、お互いの愛の交わりに生きています。 それだけではありません。コリント人への手紙第二・3章18節には、 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されています。私たちは、実質的にも、「御霊なる主の働き」によって、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。 このことは、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と記されているように、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合い」つつ歩むことによって、私たちそれぞれのうちに、また、私たちの間に愛が育って、豊かになっていくことによって実現します。 ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節には、 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 と記されています。 この「御霊の実」は単数形で一つの実です。そして、この一つの実には「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という9つの人格的な特質があります。これらの人格的な特質は一つの実としてのまとまりをもっています。それで、この実は、人格に相当するものであると考えられます。 大切なことは、これが「御霊の実」と呼ばれていることです。これは、この実が、私たちが自分の力によって生み出すものでも、自分の力で育てるものでもなく、御霊が私たちのうちに生み出してくださっていて、御霊が育ててくださるものであるということを意味しています。この御霊は、先ほど引用した、コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されている御霊です。 それで、御霊が私たちを「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変え」てくださることと、御霊が私たちのうちに生み出してくださっている「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という9つの人格的な特質をもつ実を、さらに豊かに育ててくださることは同じことを別の言い方で表していると考えることができます。ガラテヤ人への手紙5章16節に、 私は言います。御霊によって歩みなさい。 と記されているように、私たちが御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合い」つつ歩むとき、御霊が私たちそれぞれのうちに、また、お互いの間において「御霊の実」をさらに豊かに育ててくださいます。 とはいえ、ガラテヤ人への手紙5章では15節に、 気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。 という警告も記されています。 ここで用いられている「互いに、かみつき合ったり、食い合ったり」ということばは、野獣同士が争っていることを思い起こさせるものです。これは、その前の13節ー14節に記されている、「愛をもって互いに仕え合う」ということと正反対の状態を示しています。 これは、この手紙の読者であるガラテヤにある教会の信徒たちの間に、実際に、あった状態であると考えられます。どうしてこのようなことが起こるかということについては、改めて説明するまでもありません。神の子どもとしての身分を与えていただき、神の家族に加えていただいていて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、さらに、お互いの愛の交わりに生きている私たちのうちに、なおも、罪の性質が残っているからです。 先ほどは16節に記されている、 私は言います。御霊によって歩みなさい。 というみことばを引用しましたが、そのみことばも含めて16節ー17節前半に記されているみことばを引用しますと、そこには、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。 と記されています。 ここでは、「御霊」と「肉」が互いに対立していることが示されています。この「肉」(サルクス)は肉体(ソーマ)のことではありません。このことば(サルクス)は物質的な「肉」を表すこともありますが、「御霊」と対比されて用いられるときには、特殊な意味合いをもっています。「御霊」が来たるべき時代、新しい時代を特徴づけ、動かしている動因であるのに対して、「肉」は「この世」「この時代」、「古い時代」を特徴づけ、動かしている動因です。 ですから、15節に記されている「互いに、かみつき合ったり、食い合ったり」することは「肉の欲望を満たすこと」の現れです。 私たちは自分の力によって「肉」の働きを止めたり、「肉」の働きから自由になることはできません。ただ、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合い」つつ歩むことによって、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る時に、「この世」「この時代」、「古い時代」を特徴づけ、動かしている「肉」の働きから自由にされていることが現実のこととして現れてきます。 終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、私たちがどのように、また、どのような来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造ったかについての評価をされます。私たちが御霊によって導いていただいて造った、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化は、新しい天と新しい地の歴史と文化へとつながっていくと考えられます。そのことは、コリント人への手紙第一・3章10節ー15節に記されている、 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。 というみことばから汲み取ることができます。 それとともに、栄光のキリストは、私たち自身を新しい天と新しい地にふさわしい栄光によみがえらせてくださり、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る者としてくださいます。 |
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