黙示録講解

(第471回)


説教日:2021年8月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(224)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばと関連するお話を続けます。
 この約束は、すでに、原理的・実質的に私たちの間で成就しています。これまで、そのことを示しているみことばの一つであるエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることを取り上げてきました。
 そして、今は6節に記されている、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

というみことばについてお話ししています。
 まず、いつもお話ししている基本的なことをまとめておきます。ここに記されていることは1章20節ー23節に記されている、神さまがキリストになされたことに、私たちをあずからせてくださっているということを示しています。
 その最も基本的なことは、神さまが1章20節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と記されていることに、私たちをあずからせてくださって、私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」くださったということです。
 神さまがキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」ことは、メシア詩篇の一つである詩篇110篇1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることがイエス・キリストにおいて成就しているということを意味しています。
 このことはエペソ人への手紙1章20節ー23節においては、二つのことを意味しています。
 一つは、神さまが「天上でご自分の右の座に着かせた」栄光のキリストを、

 すべての支配、権威、権力、主権の(はるか)上に置かれた

ということです。この「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「」が「あなたの敵」(複数)と呼んでおられる存在で、暗闇の主権者であるサタンをかしらとする悪霊たちのことです。それで、ここでは栄光のキリストが霊的な戦いに、原理的、実質的に勝利していることが示されています。そして、このことは、神さまが、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」くださった私たちを、霊的な戦いにおけるキリストの勝利にあずからせてくださっている、ということを意味しています。
 もう一つのことは、エペソ人への手紙1章21節後半に、

 今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の(はるか)上に置かれた

と記されており、続く22節前半に、

 また、神はすべてのものをキリスト(直訳「彼」)の足の下に従わせた

と記されていることです。
 この22節前半に記されている、

 神はすべてのものを彼の足の下に従わせた

ということは、詩篇8篇6節に、

 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているみことばの、

 万物を彼の足の下に置かれました。

を引用しています。
 このことは、神さまが神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命が、イエス・キリストにおいて、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。そして、このことは、また、私たちが「キリスト・イエスにあって」――キリストと一つに結び合わされて、キリストと「ともによみがえらせ」、キリストと「ともに天上に座らせて」いただいている者として、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。
 それで、私たちは、今、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に遣わしてくださった御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代に属している者であり、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る歩みをしています。


 神さまは創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。それで、神さまは人がどのようにその使命を果たしたかということについての評価をされます。そして、その使命が歴史的な使命ですので、その評価は歴史の終わり、すなわち、「終わりの日」になされることになります。
 このことに関して、一つの疑問がわいてきます。
 それは、「終わりの日」は、人が契約の神である「」ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためにあるのではないかということです。別の観点から言いますと、もし人が「」に対して罪を犯していなかったら、人類の歴史はそのままずっと続いていたのではないかという疑問です。
 今日は、このような疑問を足がかりとして、先主日お話ししたことを別の観点から見て、補足するお話をしたいと思います。
 このような疑問はもっともなものです。私自身も、かつて、そのように思っていたことがありました。たとえば、ローマ人への手紙3章19節には、

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

と記されていますし、ヘブル人への手紙9章27節にも、

 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

と記されています。これを前後のかかわりで見ると、26節後半ー28節には、

しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

と記されています。
 神さまの創造の御業と贖いの御業を貫く大きなみこころをきちんと理解できていなかった私は、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったなら、終わりの日にさばきが執行されることはなかったし、救いも必要がなかったはずである。だから、人類の歴史はずっと続いていたはずであり、終わりの日もなかったと考えていました。そのために、

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

と記されていることを読むと、ここでは、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってくださり、終わりの日には、その救いを完成してくださって、私たちを人が最初に神のかたちとして造られた時の、神さまとの関係に回復してくださるために現れてくださる(再臨される)ということが示されていると考えていたのです。
 これはある意味では間違ってはいないのですが、これが神さまの創造の御業と贖いの御業をとおして現されているみこころのすべてではありません。
 このことは御子イエス・キリストの十字架の死の意味にかかわっています。このことについて理解するためには、イエス・キリストの十字架の死の意味を理解する必要があるのです。
 御子イエス・キリストの十字架の死には二つの意味があります。
 一つは、私たちご自身の民の罪を負って十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことです。このことは、私たちが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、そして、その私たちの罪を赦してくださるために必要なことでした。しかし、これは、

 私たちの負い目をお赦しください。
 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

という「主の祈り」の第5の祈りのことばで言いますと、これは私たちが神さまに負っている罪の「負い目」(負債)を御子イエス・キリストが私たちに代わって返してくださったということです。
 もしこれが御子イエス・キリストの十字架の死の意味のすべてであったとしたら、これにあずかる私たちは、罪をすべて赦されて、もはやさばかれることがないという状態になるだけです。それがどのような状態であるかについては、いろいろな考え方があることでしょうが、おそらく、元の状態に戻ることで、最初の人アダムとエバと同じように、罪を犯すこともあり得る状態で、初めからやり直しをすることになっていたことでしょう。
 しかし、イエス・キリストの十字架の死には、もう一つの意味があります。
 ピリピ人への手紙2章6節ー8節には、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されています。
 ここには、「神の御姿であられる」御子イエス・キリストが、「ご自分を空しくして」まことの人としての性質を取って来てくださることから始まって、十字架の死に至るまで、父なる神さまのみこころに従いとおされたことが記されています。その意味で、イエス・キリストの十字架の死は、イエス・キリストの誕生から始まる地上の生涯をとおしての従順の頂点であるということが示されています。
 そして、続く9節に、

 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。

と記されているように、父なる神さまは御子イエス・キリストの完全な従順への報いとして、イエス・キリストをより豊かな栄光の状態によみがえらせ、「高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」。
 これは、エペソ人への手紙1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されてるいことに相当します。
 御子イエス・キリストがまことの人としての性質を取って来てくださったというときの、まことの人としての性質は、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになった時の人としての性質です。言い換えると、イエス・キリストがお取りになった人としての性質は、最初の人アダムの人としての性質と同じであり、神のかたちとしての栄光の状態にあります。
 そのイエス・キリストが、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたということは、創造の御業において神のかたちとして造られた時の人の状態より、さらに豊かな栄光の状態によみがえられたということです。
 これは、まことの人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストが、最初の人アダムが神である「」のみこころに従いとおしていたなら、そのことへの報いとして受けていたであろう、より豊かな栄光の状態によみがえられたということを意味しています。
 また、これは、御子イエス・キリストがご自身のために、より豊かな栄光をお受けになったということではありません。御子イエス・キリストはまことの神であられ、その栄光は無限の栄光です。ですから、イエス・キリストはご自身のために栄光をお受けになる必要はまったくありません。イエス・キリストがより豊かな栄光を受けられたのは、お取りになった人としての性質においてであり、それによって、イエス・キリストは、被造物としての限界の中にあって、この上なく豊かな栄光の状態に入られたのです。それは、ひとえに、私たちご自身の民をその栄光にあずからせてくださるためのことでした。コリント人への手紙第一・15章20節に、

今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と記されているとおりです。
 この「初穂」ということば(アパルケー)は、穀物だけでなく動物も含めて、「」へのささげ物においてささげられるべき「最初のもの」を表しました。穀物であれば、その年に最初に実った実のことで、それを聖別して「」にささげました。その意味でこれは「最初のもの」を表しますが、その後に実る実との一体性にあって、その全体を代表しているという意味合いを伝えています。また、ローマ人への手紙11章16節には、

 麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。

と記されています。ここでも「初穂」と訳されたことば(アパルケー)出てきますが、ここでは「初穂」の性質が「初穂」と一体とされているものの性質〔ここでは「聖い」〕を示しており、「初穂」のあり方が「初穂」と一体とされているもののあり方であることを示しています。
 ですから、

 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と言われているときの「眠った者」(複数形で、完了時制の分詞に冠詞をつけて実体化しています)は、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストと一つに結ばれている人々で、肉体的に死んだ人々のことです。イエス・キリストにあって、肉体的に死んだ人々は、今、霊魂をまったくきよめられて、天において、「」との愛の交わりのうちに生きています。その人々は地上にある者〔私たち〕の視点から、信仰の眼をもって見ると、イエス・キリストにあって「眠った者」です――完了時制はある時に「眠って」その後ずっと眠っている状態にある人々を表しています――。天の御国で寝ているわけではありません。「」との愛の交わりのうちに生きています。
 イエス・キリストはこの人々との一体にあって、この人々の「初穂として」栄光を受けて「死者の中からよみがえられました」。それで、この人々は、終わりの日に、「初穂」であるイエス・キリストとの一体にあって、イエス・キリストの栄光にあずかって死者の中からよみがえります。
 さらに注目したいのは、同じ15章13節に、

 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

と記されていることです。同じことは16節にも、

 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

と記されています。
 私たちはイエス・キリストがよみがえったから、死者の復活があると考えています。それはそのとおりです。それと同時に、死者の復活があるからイエス・キリストは死者の中からよみがえられたとも言えるのです。
 ここに記されていることは、私たち「」の民の復活(よみがえり)とは無関係にイエス・キリストだけがよみがえることはない、ということを意味しています。言い換えると、神さまのみこころは私たち「」の民を、より豊かな栄光によみがえらせてくださることであり、そのためにイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったということです。
 このことの根底には、父なる神さまの永遠からのみこころがあります。エペソ人への手紙1章4節ー5節に、

神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されており、ローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されているとおりです。
 神さまは永遠(の前)から、私たちご自身の民を愛してくださって、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしようとしておられたのです。そして、そのために、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。それは、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおした時に、そのことへの報いとして、最初に造られた時の神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光の状態にある者、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるためのことでした。
 しかし、最初の人アダムは神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、父なる神さまの永遠からのみこころは実現しなくなってしまったかのようになりました。[注]

[注]父なる神さまの永遠からのみこころ(永遠の聖定におけるみこころ)が実現しないということはありえません。
 エペソ人への手紙4節に記されている、私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ということに示されているように、父なる神さまの永遠からのみこころは、人が罪によって堕落することとそのための贖いがなされることも含んでいます。その父なる神さまの永遠からのみこころが実現しないかのようになったというのは、被造物としての限界がある私たちが、歴史的なことの成り行きを見たときの捉え方のことです。

 けれども、神さまはその永遠からのみこころを実現してくださるためにご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、その地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされて、その従順に対する報いとしてより豊かな栄光をお受けになって「眠った者の初穂として」死者の中からよみがえってくださいました。先ほど引用したコリント人への手紙第一・15章20節と続く21節ー22節を合わせて引用しますと、そこには、

今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

と記されています。
 これらのことを踏まえると、父なる神さまのみこころは、永遠の初めから、創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人が歴史と文化を造る使命を果たす上で神さまのみこころに従いとおした時に、そのことへの報いとして、最初に神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光をもつ者――「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださることにあったことが分かります。
 そして、そのみこころを実現してくださるために、人がどのように歴史と文化を造る使命を果たし、どのような歴史と文化を造ったかを評価されます。その評価は、神さまが定められた歴史の区切りの時、すなわち「終わりの日」になされます。
 ですから、初めに上げた疑問に戻りますと、「終わりの日」があるのは、人が契約の神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためではありません。また、もし人が神である「」に対して罪を犯していなかったら、人類の歴史はそのままずっと続いていたのでもありません。
 その「終わりの日」は、創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事に則して言いますと、神さまが天地創造の御業の第七日を閉じられる時――創造の御業以来、今日まで続いてきている歴史に区切りをつけられる時――です。そして、本来ですと、その「終わりの日」は、すべての人がどのように歴史と文化を造る使命を果たし、どのような歴史と文化を造ったかを、神さまが評価される時であり、そのことへの報いとしてのより豊かな栄光を与えてくださる、祝福に満ちた時であったはずです。
 もちろん、それでこの世界の歴史が終わってしまうわけではありません。神さまが天地創造の御業の第七日を閉じられる「終わりの日」には、神さまが創造の御業においてお造りになった世界が、神である「」のより豊かな栄光の御臨在のある世界にふさわしく栄光化されます。その栄光化される新しい世界も歴史的な世界です。その新しい栄光化される世界の歴史を、今ここにいる私たちの視点から、信仰の眼をもって見ると、来たるべき時代、新しい時代の歴史となります。そして、最初に造られた時の、神のかたちとしての栄光よりさらに豊かな栄光を与えられる人々が、その栄光化された世界の歴史と文化を造る使命を果たすようになっていたはずです。
 しかし、実際には、すべての人が、アダムにあって、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、人の本性は罪によって腐敗してしまい、罪とその結果である死の力に捕らえられてしまいました。その結果、すべての人が造り主である神さまを神とすることはなく、神さまに逆らって働いている暗闇の主権者であるサタンの圧政の下にある者となってしまいました。その状態にある人は神さまのみこころに従うことはないし、従うことはできません。その状態にある人が造る歴史と文化は、造り主である神さまの栄光を映し出すどころか、自らの罪を映し出すものです。これによって、「終わりの日」になされる神さまの評価は、人の罪と、その現れである歴史と文化に対するさばきとなってしまいました。
 そうであっても、それによって、神さまが永遠(の前)から、私たちご自身の民を愛してくださって、「ご自分の子」、「御子のかたちと同じ姿」にしようとしておられたみこころの実現が阻止されてしまったのではありません。
 先ほどお話ししたように、神さまはその永遠からのみこころを実現してくださるためにご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって、まことの人としての性質を取って来てくださいました。そして、私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。これによって、「終わりの日」に執行されるべき、私たち「」の民の罪に対する最終的なさばきは、イエス・キリストにあって、すでに執行されて終わっています。
 さらに、御子イエス・キリストはその地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされて、その従順に対する報いとしてより豊かな栄光をお受けになって「眠った者の初穂として」、すなわち、私たち「」の民との一体にあって、死者の中からよみがえってくださいました。ですから、「終わりの日」に起こるべき死者の中からのよみがえりは、イエス・キリストにあって、歴史の現実となっています。
 これによって、来たるべき時代、新しい時代の歴史は、イエス・キリストにあって、始まっています。私たち「」の民は、イエス・キリストにあって、キリストとともにより豊かな栄光によみがえっており、「ご自分の子」――神の子どもとしての身分と特権にあずかっています。それで、私たちは御子の御霊に導いていただいて、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼びかけることができる近さと親しさにおいて、父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまとの御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きて、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る歩みをしています。


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