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説教日:2021年7月25日 |
このことと関連して、改めて、心に留めておきたいことがあります。 今は、来たるべき時代、新しい時代は、私たち「主」の契約の民の間で原理的・実質的に実現しています。その完全な実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによる新しい天と新しい地の創造の御業によっています。 その栄光のキリストは、新しい天と新しい地を創造される前に、すべての人をよみがえらせ、最終的なさばきを執行されます。このことにかかわるイエス・キリストの教えを記している、ヨハネの福音書5章27節ー29節に、 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。 と記されているとおりです。 ここに記されていることについて、かなり前にお話ししたことを、補足を加えながら、まとめておきますと、ここでは、すべての人がよみがえることが示されていますが、そこには決定的な違いがあって、「善を行った者」がよみがえるのは「いのちを受けるため」であり、「悪を行った者」がよみがえるのは「さばきを受けるため」であるということが示されています。そして、その違いは、「善を行った」ことと「悪を行った」ことの違いによっていることが示されています。 ここに出てくる「善」と「悪」はどちらも中性形の形容詞の複数形で、冠詞によって実体化されています。それで、文字通りには、「善いこと」と「悪いこと」を表しています。この場合の「善い」という形容詞は、基本的に、質的によい状態を表します。また、「悪い」という形容詞(ファウラ、ファウロスの中性・複数形、対格)は、道徳的に悪い状態を表すときに用いられています。 また、ここで「善を行った者」と言われているときの「行う」ということばは「行う」ことを表す一般的なことばです。このことばは人にも神さまにも用いられます。これに対して、ここで「悪を行った者」と言われているときの「行う」ということば(プラッソー)は、人だけに用いられています。このことばは、しばしば、その行いが悪いとされる場合に用いられています。 それでは、ここで、「善を行った者」と言われているときの「善を行う」ことと、「悪を行った者」と言われているときの「悪を行う」ことは、どのようなことを意味しているのでしょうか。 そのことを理解するために、3章18節ー21節に記されていることを見てみましょう。そこには、 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。 と記されています。 18節では、 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。 と言われていて、人がさばかれるかさばかれないかを決定するのは、「御子」すなわち「神のひとり子」を信じるか、信じないかということにあることが示されています。 ここで「御子を信じる者」と言われているときの「信じる」ということばと、御子を・・・信じない者」と言われているときの「信じない」ということば(その前の「信じる」の否定形)は、どちらも現在分詞で表されていて、ずっとその状態にあることを示しています。また、 神のひとり子の名を信じなかったからである。 と言われているときの、「信じなかった」は完了時制で表されていて、かつて「神のひとり子の名を信じなかった」状態が、その後もずって続いていることを示しています。 すべての人はアダムにあって契約の神である「主」に対して罪を犯し、御前に堕落してしまっています。それで、生まれながらに自らのうちに罪を宿しており、神である「主」に対して罪を犯します。それで、人は生まれながらにさばかれるべきものです。 これに対して、神さまはご自身の「ひとり子」を贖い主としてお遣わしになり、この方によって、罪を贖ってくださいました。それで、この「神のひとり子」を信じる者はさばきを受けることはありません。しかし、この「神のひとり子」を信じない者は、自らの罪に対するさばきを受けることになります。 19節では、 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。 と言われています。 この「光」は、神さまが遣わしてくださった「神のひとり子」のことです。しかし、人々は、その「光よりも闇を愛した」と言われています。そして、その根底には、「自分の行いが悪い」という根本原因があると言われています。ここでは、そのために、人々が「光よりも闇を愛した」こと自体がさばきであることが示されています。 そして、20節では、 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。 と言われています。ここで「悪を行う者」と言われているときの「悪」ということば(ファウラ)と「行う」ということば(プラッソー)は、5章29節で「悪を行った者」と言われているときの「悪」ということばと「行う」ということばと同じことばです。 ここでは、その、 悪を行う者はみな、光を憎み(む) と言われています。この場合の「憎む」は現在時制で表されていて、ずっと憎み続けていることを表しています。それで、ここでは、「悪を行う者はみな」、「光」すなわち「神のひとり子」を憎んでいるということが示されています。 この「光を憎む」ということは注意深く受け止めなければなりません。 この「光を憎む」ということは、その前の19節で「光よりも闇を愛した」と言われていることを受けています。ここには、「光」を愛することと「闇」を愛することの明確な区別があり、「悪を行う者はみな、光を憎みむ」と言われています。すべての人がそのどちらかのあり方をしていて、そのどちらでもないという中間の状態はありません。 どうしてそうなるのかと言いますと、このことの根底には、より根本的な人のあり方があるからです。 その、根本的な人のあり方とは、神さまは創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、初めから、神さまとの愛の交わりに生きる者としてお造りになったということです。人は神さまによって造られたものであり、そのいのちを初めとして、存在のすべてを神さまによって支えていただいて生きています。その意味で、すべての人は、造り主である神さまと無関係に存在してはいません。――もちろん、人ばかりでなく、この世界に存在するすべてのものは、あらゆる点で神さまに支えられて存在しています。 ですから、よく耳にすることですが、人はもともと神とは無関係な状態状態にあるけれども、何らかの必要があって、本当はいるかどうかも分からない神というものを考えるようになって、宗教を生み出したので、神を信じる人々と、神を信じない人々がいるようになった、というようなことではありません。 神さまによって愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られた人は、実際に、神さまの愛を受け止め、それに応えて、神さまを愛する愛の交わりに生きていました。しかし、そのように生きていた人が、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それでも神さまは、愛とあわれみをもって、人のいのちを初めとして、存在のすべてを支えてくださっています。 しかし、罪によって堕落してしまった人は、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されているように、造り主であり、愛とあわれみをもって、真実にすべてのことを支えてくださっている「神はいない」として生きています。それで、「神はいない」として生きることは、神さまの愛とあわれみをはねつけながら生きることです。それがヨハネの福音書3章20節で「悪を行う者はみな、光を憎む」と(現在時制で)言われているときの「悪を行う」ことに当たります。つまり、「悪を行う」ことは造り主であり、愛とあわれみをもって、真実にすべてのことを支えてくださっている神さまとの関係のあり方のことで、その神さまとの関係を罪によって損なってしまっている状態にあって生きることです。その意味で、罪によって堕落してしまった人は、神さまの御前に罪を積み上げながら生きています。そして、それは、そのまま、かつての私たちの生き方でした。 それでもなお、神さまはご自身の御子を贖い主としてお遣わしになって、ご自身の愛をさらに豊かにお示しになっています。それも、御子が私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださったことによって、ご自身の愛をこの上なく豊かにお示しになっています。 これらのことに現されている神さまの愛を信じ、受け止めることは、この私の罪を贖うためには、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、私の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、すべて私に代わって受けてくださらなければならなかったということから始まります。それは、自分が神さまに対してどんなに深い罪を犯して生きていたかということを悟ることであり、その意味で、それまで見えていなかった自らの罪が、自分自身に明らかにされることです。それが、その罪を悔い改めて、神さまが遣わしてくださった御子の御許に行くこと、すなわち、御子を信じることにつながっています。 このようなことを踏まえると、20節で、 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。 と言われていることを理解することができます。 さらに、21節には、 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。 と記されています。 ここで「真理を行う者」と言われているのは、死海文書にいくつか出てくる表現で、そこでは、「真理」は律法と結びつけられているようです。ここでは、「真理」は御子イエス・キリストと結びつけられている(参照・エペソ人への手紙4章21節「真理はイエスにある」)ということでしょう。 ここでは、その「真理を行う者は」「光の方に来る」、すなわち、父なる神さまが私たちを愛して遣わしてくださった御子の御許に来て、御子を信じるようになると言われています。そして、それは「その行いが神にあってなされたことが明らかになる」ためであると言われています。「その行い」は複数形で、「なされた」は完了時制で表されていて、なされた行いが継続してなされていることを伝えています。それと調和して「光の方に来る」ということは現在時制で表されていて、常に、「光の方に来る」ことを示しています。 ここで注目したいことは、「その行いが神にあってなされた」と言われていることです。それは「その行いが」自分の力によってではなく、御子イエス・キリストにある、父なる神さまとの愛の交わりにあって、神さまの御力によってなされたということです。そして、そのことこそが、神さまのみこころにかなっていることです。そのことによって、讃えられるのはその人ではなく、神さまであり、神さまの愛と恵みに満ちた栄光です。 その人は、そのことが「明らかになるように、光の方に来る」と言われています。「その行いが神にあってなされた」ということは、「光」、すなわち、父なる神さまが私たちを愛してくださって遣わされた御子イエス・キリストの御許に行き、御子イエス・キリストを信じ、信頼して歩むことによって明らかになります。 これらのことに照らして、5章29節で「悪を行った者」と言われているときの「悪」とは何かということを理解することができます。その「悪」は、父なる神さまが遣わしてくださった「光」すなわち御子を憎んでいることの現れです。この「光」を憎むことは、3章19節に記されている「光よりも闇を愛したこと」の現れですし、18節に記されている「御子を信じる」ことと対比されることです。 このように、5章29節で「悪を行った者」と言われているときの「悪」は、この世において一般的に考えられている悪ではなく、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとの関係において考えられる「悪」です。もちろん、父なる神さまとの関係においてと言うことができますが、御子イエス・キリストとの関係を離れては、父なる神さまとの関係はあり得ません。 このことは、5章29節で「善を行った者」と言われているときの「善」についても当てはまります。それは、この世において一般的に考えられている善ではなく、父なる神さまと父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとの関係において考えられる「善」です。それは、なによりも、父なる神さまが私たちを愛して遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることから始まります。6章28節ー29節には、人々の、 神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。 という問いかけに対して、イエス・キリストが、 神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。 とお答えになったことが記されています。そして、私たちを愛して十字架におかかりになった御子イエス・キリストの愛に応えて、御子イエス・キリストを愛することを動機とし、御子イエス・キリストを信じ、信頼してなされたことが、「善を行った者」と言われているときの「善」です。 5章29節で、 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。 と言われているときの「善を行った者」の歩みの核心にあり、その歩みを根本的に支えているのは、私たちを愛して、私たちのためにご自身の御子をも遣わしてくださった父なる神さまの愛であり、私たちのために十字架におかかりになって、私たちの罪を贖ってくださった御子イエス・キリストの愛です。また、それと切り離すことができないのですが、その父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に応えて、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛する私たちの愛であり、父なる神さまと御子イエス・キリストに対する信仰と信頼です。 しかし、私たちは自分の力で、父なる神さまがご自身の御子をも遣わしてくださった愛と、十字架におかかりになっていのちを捨ててくださった御子イエス・キリストの愛を理解し受け止めたのではありません。 エペソ人への手紙2章では、1節ー3節に、かつての私たちのあり方が、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。 私たちは「自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」、「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」。この状態にあった私たちは、まさに「光」を憎み、「光よりも闇を愛し」ていました。それで、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であり、「よみがえってさばきを受ける」べき者でした。 しかし、続く4節ー6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されています。 神さまは「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」し、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」。すべては、「あわれみ豊かな神」さまの「私たちを愛してくださったその大きな愛」によっていますし、「恵み」によっています。 神さまが「私たちを、キリストとともに生かして」くださったので、私たちは新しく生まれ、「私たちを愛してくださったその大きな愛」を知ることができるようになりました。 ここで、 キリストとともに生かしてくださいました。 と言われていることは、私たちがキリストと一つに結び合わされていることを示しています。それは、ここでは明記されていませんが、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に遣わしてくださった御霊のお働きによることです。 その御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちをその贖いの御業にあずからせてくださっています。その御霊の私たちに対する最初のお働きが、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださったことです。 父なる神さまはこの御霊によって、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちを御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずからせてくださって、私たちを罪と死の力から解放してくださいました。そして、私たちを「キリストとともに生かしてくださいました」。そればかりでなく、神さまは、さらに、私たちをキリストと「ともによみがえらせ」てくださり、キリストと「ともに天上に座らせてくださいました」。 これまで繰り返しお話ししてきたことの再確認でもありますが、御子イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことは、終わりの日に執行されるべき私たちの罪に対する最終的な刑罰が御子イエス・キリストに執行されたことを意味しています。それで、私たちの罪に対する最終的な刑罰は、すでに、執行されて終わっています。 そして、御子イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、終わりの日に起こるべき死者のよみがえりが、イエス・キリストにおいて起こったことを意味しています。それで、その御子イエス・キリストにあっては、来たるべき時代、新しい時代がすでに2千年前に始まっており、今日においても、私たちの間の現実になっています。 このように、神さまが、御霊によって、私たちを「キリストとともに生かして」くださり、キリストと「ともによみがえらせ」てくださったことによって、私たちは来たるべき時代、新しい時代に属している者となっています。そして、御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きるとともに、お互いの間の愛の交わりに生きることを中心として、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る者としていただいています。 |
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