黙示録講解

(第469回)


説教日:2021年7月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(222)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばと関連するお話を続けます。
 これまで、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばを取り上げてきて、今は、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることについてお話ししています。
 ここに記されていることは1章20節ー23節に記されている、神さまがキリストになされたことに、私たちをあずからせてくださっているということを示しています。
 その最も基本的なことは、神さまが1章20節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と記されていることに、私たちをあずからせてくださって、私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださったということです。
 神さまがキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」ことは、詩篇110篇1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることが栄光のキリストにおいて成就しているということを示しています。
 そして、このことはエペソ人への手紙1章20節ー23節においては、二つのことを意味しています。
 第一に、神さまが「天上でご自分の右の座に着かせた」栄光のキリストを、

 すべての支配、権威、権力、主権の(はるか)上に置かれた

ということです。この「すべての支配、権威、権力、主権」は、暗闇の主権者であるサタンをかしらとする悪霊たちのことです。ここでは栄光のキリストが霊的な戦いに、原理的、実質的に勝利していることが示されています。このことは、私たちが「キリスト・イエスにあって」霊的な戦いに、原理的・実質的に勝利しているということをも意味しています。
 第二に、エペソ人への手紙1章21節後半に、

 今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の(はるか)上に置かれた

と記されており、続く22節前半に、

 また、神はすべてのものをキリスト(直訳「彼」)の足の下に従わせた

と記されていることです。
 この22節前半に記されている(直訳)、

 神はすべてのものを彼の足の下に従わせた

ということは、詩篇8篇6節に、

 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているみことばの、

 万物を彼の足の下に置かれました。

を引用しています。
 これによって、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命が、栄光のキリストにおいて、原理的・実質的に成就しているということが示されています。このことは、また、私たちが、「キリスト・イエスにあって」、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。
 私たちは、今、父なる神さまの右に着座されたキリストが遣わしてくださった御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る歩みをしています。
 このことと関連して、改めて、心に留めておきたいことは、メシアの国の王としてのキリストの栄光のことです。というのは、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造ることは、メシアの国の王としてのキリストの栄光を現すことであり、それが神さまの栄光を現すことにほかならないからです。
 そのキリストは無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださいました。


 マルコの福音書10章42節ー45節には、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えについては、いろいろな機会にお話ししてきたので、簡単にまとめますと、この教えは、35節ー37節に記されているように、十二弟子のうちの「ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネ」がイエス・キリストに、

 あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。

とお願いしたことから始まっています。41節に、

 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。

と記されていることは、十二弟子のすべてに同じ思いがあったことを示しています。そして、38節に記されているように、イエス・キリストが、

 あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。

と言われ、42節ー43節前半に記されているように、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。

と教えておられることから、弟子たちが、その当時のユダヤ人の間で一般的に見られた考え方でメシアの栄光を考えていたことを汲み取ることができます。それは、メシアの国はこの世の国々の権力の序列の最も高いところにあるということです。そして、そのメシアの国の最高位に王であるメシアが君臨し、その次のメシアの右と左に座る者は、自分たち十二弟子のうちの誰かであるというような考え方です。
 そのことは、9章34節に記されているように、これより前にすでに、弟子たちが、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかということをめぐって争っていたことからも分かります。しかも、それは、その前の31節に記されているように、イエス・キリストが、

 人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる

と教えられたことを受けてのことでした。弟子たちが、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかということをめぐって争っていたのは、このイエス・キリストの教え、特に、メシアの苦難と死のことが理解できなかった(32節)からでした。
 10章35節以下でヤコブとヨハネが、

 あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。

とお願いしたことでも、その前の33節ー34節に、

ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 契約の神である「」、ヤハウェが約束してくださったメシアが、ユダヤ人の指導者たちによって異邦人に引き渡されて、殺されるというようなことは、その当時のユダヤ人たちにはまったく考えられないことでした。それは弟子たちも同じです。
 しかし、イエス・キリストは、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

と教えておられます。
 すでにお話ししてきたことの繰り返しになりますが、これは、メシアの国の栄光は、メシアの国がこの世の国々の権力の序列の頂点にあることによっているのではなく、この世の国々の権力とは本質的に異なっていることにあるということを示すものです。
 具体的には、この世の国々の権力は、イエス・キリストが、

異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

と教えておられることにあります。
 その権力の序列の頂点には、暗闇の主権者であるサタンがいます。
 そのことを示すみことばの例ですが、イエス・キリストがメシアとしての働きを始められた時、まず、荒野でサタンの試みに会われましたが、その時のことを記しているルカの福音書4章5節ー7節には、サタンが、イエス・キリストに「世界のすべての国々を見せて」、

このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。

と言ったことが記されています。また、ヨハネの手紙第一・5章19節にも、

 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

と記されています。
 もちろん、サタンは神さまからこの世の国々の権力と栄光を任せられているのではありません。それは、サタンが罪を犯して神さまの御前に堕落してしまっている人々を、言わば、不法に「実効支配」しているだけのことです。
 これに対して、メシアの国の王である「人の子」すなわちメシアの栄光は、ご自身の民の上に立って、彼らから仕えられることにあるのではなく、彼らに仕えること、しかも、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことにあるというのです。メシアであるイエス・キリストはこのような権威と栄光を父なる神さまから委ねられており、ご自身が「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことにおいて、父なる神さまの栄光を最も豊かに現されます。

 ここで注目したいのは、

 多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与える

という、イエス・キリストのことばです。
 このことばの背景には、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されている、いわゆる「のしもべの第四の歌」があると理解されています。
 このイエス・キリストのことばは、「多くの人のために」と、「贖いの代価として」と、「自分のいのちを与える」ということばで構成されています。これが、特に「のしもべの第四の歌」の最後の53章11節ー12節に、

 彼は自分のたましいの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を負う。
 それゆえ、
 わたしは多くの人を彼に分け与え、
 彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 背いた者たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 背いた者たちのために、とりなしをする。

と記されていることを背景としていると考えられています。ここには、「のしもべ」が「多くの人」にかかわってくださることが3回出てきますし、「彼らの咎を負う」ことや「多くの人の罪を負う」こと、そのために、「自分のいのちを死に明け渡」すことが示されています。
 12節では、「」が「のしもべ」に「多くの人を・・・分け与え」、「のしもべ」が「強者たちを戦勝品として分かち取る」ようになると言われています。それは、「のしもべ」が「多くの人」や「強者たち」を武力によって制圧し、征服するからではありません。
 むしろ、ここでは12節冒頭の「それゆえ」ということばによって、「のしもべ」が、その前の11節の終わりに記されている、

 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を負う

ということによっていることが示されています。つまり、「」が「のしもべ」に「多くの人を・・・分け与え」るのは、「のしもべ」が「多くの人」の「咎を負う」からです。そして、「のしもべ」が「強者たちを戦勝品として分かち取る」のは、「のしもべ」が「多くの人」の「咎を負う」ことによって霊的な戦いにおいて勝利するからです。
 このことは、さらに、「」が「のしもべ」に「多くの人を・・・分け与え」、「のしもべ」が「強者たちを戦勝品として分かち取る」ようになると言われた後に

  自分のいのちを死に明け渡し、
  背いた者たちとともに数えられたからである。

とも説明されています。
 ここでは、「」が「のしもべ」に「多くの人を・・・分け与え」、「のしもべ」が「強者たちを戦勝品として分かち取る」ようになることが記されていますが、その理由が、その前とその後に記されている形になっています。
 そればかりではありません。そのように高く挙げられる栄光の主である「のしもべ」は、高く挙げられた後、人々の上に立って支配するのではなく、

 多くの人の罪を負い、
 背いた者たちのために、とりなしをする。

と言われています。ここでは、このことが「のしもべ」が栄光を受けることの後、12節の最後に記されています。
 また、「のしもべ」が、

 多くの人の罪を負い、

ということは完了時制で記されていますが、

 背いた者たちのために、とりなしをする。

ということは、未完了時制で表されていて、その働きが将来にわたってなされて行くことを示しています。それで、ここでは、「のしもべ」が「多くの人の罪を」負ったことに基づいて、栄光を受けた後に、なおも、

 背いた者たちのために、とりなしをする。

ことを引き続きなしていくことを示しています。
 このように、「のしもべの第四の歌」は「のしもべ」が栄光を受けることで終わっています。
 そればかりではありません。「のしもべの第四の歌」は「のしもべ」が栄光を受けることから始まっています。その冒頭の52章13節には、

 見よ、わたしのしもべは栄える。
 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

と記されています。
 ここでは、「高められ」(ルーム)、「上げられ」(ナーサー)、「高くなる」(ガーバハ)というように、高くなることを表す三つの同義語を連ねることによって、また、最後の「高くなる」を「きわめて」で強調することによって、「のしもべ」が高く挙げられることが、4重に強調されています。これは、「のしもべ」がこの上なく高くなることを意味しています。
 ですから、「のしもべの第四の歌」は、初めと終わりが対応している形(インクルーシオー[初めめと終わりが対応している表現形式])になっていて、基本的に、「のしもべ」が栄光を受けることを記しています。
 ところが、この「のしもべ」のことが広く「苦難のしもべ」と呼ばれています。そのことは、この「のしもべの第四の歌」が52章13節ー15節で区切られて、53章1節ー12節から新しいことを述べているかのようになっていることにもよっているのではないかと思われます。この「のしもべ」を「苦難のしもべ」と呼ぶことが間違いであると言うことはできません。しかし、もしそれによって、53章1節ー12節に記されている「のしもべ」が受けた苦難においてこそ、「のしもべ」がこの上なく高く挙げられた栄光の主であることの核心があるということが見失われてしまうことがあれば、それは、「のしもべの第四の歌」において啓示されていることを根本的に誤解することになります。
 「のしもべ」が受けた苦難においてこそ、「」のみこころは成し遂げられ、「」の栄光が最も豊かに現されることになります。そして、「のしもべ」が受けた苦難においてこそ、「」の栄光がこの世の国々の権威と栄光と本質的に異なっていることがあらわにされているのです。

 そのことは、52章13節に、

 見よ、わたしのしもべは栄える。
 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

と記されていることに続いて、14節ー15節に、

 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、
 その顔だちは損なわれて人のようではなく、
 その姿も人の子らとは違っていた。
 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。
 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らが告げられていないことを見、
 聞いたこともないことを悟るからだ。

と記されていることに表されています。
 この個所については、すでにお話ししたことを、補足も加えつつ、まとめておきますと、14節で、

 多くの者があなたを見て驚き恐れたように

と言われているときの、「驚き恐れた」と訳されていることば(シャーマム)は、大災害によって「荒廃している」ことを表すことばで、そこから、「おののき震える」こと「ぞっとして身を引く(たじろぐ)」ことなどを表します。このことと、次の、

 その顔だちは損なわれて人のようではなく、

と言われていることばは実質的に同じことを言っていて、同じことのこの繰り返しによって、「のしもべ」が普通では考えられないほど酷く損なわれてしまっていることを示していると考えられます。
 また、15節の、

 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。

と訳されている部分の「血を振りまく」の「血を」ということばはありません。また、「血を振りまく」ということがどのようなことかは、分かりにくい気がします。この「振りまく」と訳されていることば(ナーザーのヒフィル語幹[使役形])は、きよめるために、血や油や水などを「振りかける」ことを表しています。通常は、振りかけられるものが示されていますが、ここでは示されていません。この場合は、この「のしもべの第四の歌」が全体として示しているのは、「のしもべ」が何かを振りかけるというのではなく、「のしもべ」自身が打たれ、自らのいのちを「代償のささげ物」(53章10節)としているということから、2017年版が補っている血でであると考えられます。このことは、「多くの国々」が、この「のしもべ」によってきよめられることを表しています。
 それで、52章14節で、

 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、
 その顔だちは損なわれて人のようではなく、
 その姿も人の子らとは違っていた。

と言われていることは、「多くの者」が、「のしもべ」の姿が普通では考えられないほど酷く「損なわれて人のようではない」ことを見て、ぞっとして、思わず身を引いてしまうほどであることを示していることになります。
 そして、このことを受けて、続く15節では、

 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。
 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らが告げられていないことを見、
 聞いたこともないことを悟るからだ。

と言われています。
 ここでは、先ほどお話ししたように、「多くの国々」が、「のしもべ」の血によってきよめられることが示されています。
 また、ここでは「王たち」が「彼の前で口をつぐむ」と言われています。そして、その理由が、

 彼らが告げられていないことを見、
 聞いたこともないことを悟るからだ。

と言われています。
 この「告げられていないこと」や「聞いたこともないこと」は、これに先立って13節に記されている「のしもべ」がこの上なく高く上げられることであり、14節に記されている「のしもべ」の苦難のことです。それらのことは続く53章に詳しく記されています。
 この、王たちが「口をつぐむ」ことは、一般的には、王たちが、「のしもべ」をあがめるようになることを意味していると考えられています。その場合には、王たちも、この上なく高く挙げられた栄光の主である「のしもべ」が、自分たちのために、普通では考えられないほど酷く「損なわれ」るほどに打たれ、そのいのちを「代償のささげ物」とされたことを悟って、「彼の前で口をつぐむ」ようになるということで、王たちも「のしもべ」の血によってきよめられることを示していると理解しています。
 しかし、このような一般的な理解とともに、「王たち」の場合は、「多くの国々」の人々とは違っている可能性も考えられます。その場合には、「王たち」が、普通では考えられないほど酷く「損なわれ」、自分たちもその姿を見て、ぞっとして思わず身を引いてしまった「のしもべ」こそが、この上なく高く上げられた栄光の主であることを悟って、「彼の前で口をつぐむ」ようになるということです。
 ここで「口をつぐむ」と言われているときの「つぐむ」ということば(カーファツ)は、「口をつぐむ」という言い方としては、ここ以外では、ヨブ記5章16節と詩篇107篇42節に出てきます。これら二つの個所では、「口をつぐむ」のは「不正」であり「不正な者」です――「不正」と「不正な者」は同じことば(アウラー)で表されています――。これと類似している例としては、ローマ人への手紙3章19節に、

 すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する

と記されていることがあります。
 どちらの可能性であっても、王たちが「口をつぐむ」ことから、「王たち」の驚愕を汲み取ることができます。この世の人々が考え、追い求めている栄光は、その圧倒的な力をもって、人々を驚かせ、屈服させ、人々を支配することにある栄光です。「王たち」はその頂点に立った者たちです。しかし、「のしもべの第四の歌」に示されている「のしもべ」こそが、「高くあげられた王座」に座しておられる栄光の主ですが、その栄光はこの世の「王たち」の栄光とは本質的に違っています。栄光の主ご自身が、貧しくなって来られて、ご自身の民の罪をその身に負われ、その罪に対する刑罰を受けて死なれることに、その栄光は最も豊かに現されています。そのことが明らかにされて、「王たち」が悟る時、「王たち」が追い求めていたもの、「王たち」が誇りとしていたことが、いかに空しいものであったかが明らかにされるようになります。

 先ほどお話ししたように、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造ることは、メシアの国の王としてのキリストの栄光を現すことです。そして、それが神さまの栄光を現すことにほかなりません。このことを心に留めますと、栄光のキリストが、

 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える

と約束してくださっているいうことから、やがて、自分たちが「諸国の民」の上に立って支配するようになるというような思いをもってしまうとすると、この栄光のキリストの約束をまったく誤解してしまうことになります。
 さらに言いますと、そのような思いをもつことは、キリストの栄光をこの世の国々の栄光の尺度で測ることであり、サタンの思うつぼにはまって、霊的な戦いにおいて敗北してしまうことを意味しています。それでは、とても、栄光のキリストが言われる「勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者」であるとは言えませんし、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造ることはできません。


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