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説教日:2021年7月4日 |
私たちが神の右に座しておられるキリストを大祭司とする祭司であることを示しているみことばはいくつかありますが、ペテロの手紙第一・2章4節ー5節を見てみましょう。そこには、 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 と記されています。 ここで「主のもとに来なさい」と言われているときの「主」(直訳「彼」)は、その前の3節に、 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。 と記されている「主」です。ここでは、その「いつくしみ深い」「主」の御許に来るようにと招いています。そして、それに続いて、 主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。 と言われています。これは、詩篇118篇22節ー23節に、 家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。 これは主がなさったこと。 私たちの目には不思議なことだ。 と記されていることを受けています。この詩篇のみことばは、この後の7節にも引用されています。新約聖書では、そのほか、マタイの福音書21節42節、マルコの福音書12章10節、ルカの福音書20章17節、使徒の働き4章11節に引用されていますが、これらの個所では、イエス・キリストがユダヤ人の指導者たちによって捨てられて殺されることを示しています。詩篇118篇22節ー23節では「家を建てる者たちが捨てた石」が「要の石となった」ことは「主がなさったこと」であることが強調されています。そのことがペテロの手紙第一・2章4節では、「神には選ばれた、尊い生ける石」へとつながっています。 この「神には選ばれた、尊い生ける石」ということばは、6節において引用されている、 見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、 尊い要石を据える。 この方に信頼する者は 決して失望させられることがない。 というイザヤ書28章16節のみことばを踏まえていると考えられます。 それとともに、ペテロはこの石を「生ける石」としています。この石は「人には捨てられた」――偽メシアとして十字架につけられて殺されたけれども、「神には選ばれた」――栄光を受けて死者の中からよみがえった石です。この「神には選ばれた、尊い生ける石」は「主」によって、「要の石」とされました。また、「主」は私たちをこの「尊い生ける石」、すなわち栄光を受けて死者の中からよみがえったキリストとともによみがえらせてくださいました。このことを踏まえると、5節で、 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ と言われていることが理解できます。「主」は私たちを御霊によって「尊い生ける石」、すなわち栄光のキリストと一つに結び合わせてくださって「生ける石」としてくださっています。このようにして、「主」は私たちを「生ける石として霊の家に築き上げ」てくださっています。これは、エペソ人への手紙2章20節ー22節に、 [あなたがたは]使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 と記されていることに当たります。 ペテロの手紙第一・2章4節ー5節においては、「主」によって「要の石」とされた「神には選ばれた、尊い生ける石」は、「人には捨てられた」石であることが示されています。これは、「人には捨てられた」「尊い生ける石」と一つに結び合わされて「生ける石」となっている私たちも「人には捨てられた」石であるということを意味しています。しかし、それはまた、「神には選ばれた、尊い生ける石」と一つに結び合わされている私たちが、「神には選ばれた」「生ける石」となっているということをも意味しています。 このことは、2章21節ー25節に、 このためにこそ、あなたがたは召されました。 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、 その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残された。 キリストは罪を犯したことがなく、 その口には欺きもなかった。 ののしられても、ののしり返さず、 苦しめられても、脅すことをせず、 正しくさばかれる方にお任せになった。 キリストは自ら十字架の上で、 私たちの罪をその身に負われた。 それは、私たちが罪を離れ、 義のために生きるため。 その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。 あなたがたは羊のようにさまよっていた。 しかし今や、自分のたましいの牧者であり 監督者である方のもとに帰った。 と記されていること、さらには、4章12節ー14節に、 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。 と記されていることへとつながっています。 2章5節では、さらに、 神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 と言われています。私たちは「生ける石として霊の家に築き上げられ」ているだけでなく、「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司」となっています。この「聖なる祭司」は、「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血」(1章19節)によって贖われて、「主」の栄光の御臨在の御前に仕える祭司として聖別された者を意味しています。私たちは「聖なる祭司」として「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる」と言われています。 「霊のいけにえ」は少し分かりにくい言い方ですが、これは、二つのことを意味しています。 一つは、古い契約の下での「地上的なひな型」であった動物のいけにえではないということです。ヘブル人への手紙10章10節に記されているように、 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 それで「もう罪のきよめのささげ物はいりません」(18節)。 もう一つは、その「いけにえ」は御霊によって新しく生まれた者として、御霊に導かれて歩む生活の全体にかかわっているということです。 ローマ人への手紙12章1節には、 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です と記されています。 ここでは「あなたがたのからだを」献げなさいと言われています。この場合の「からだ」(ソーマ)は、文字通り私たちの「からだ」ですが、これによって、私たち自身のすべてを表していると考えられますが、特に、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と記されているように、私たちが具体的な状況において、愛をもってお互いに仕え合うことにかかわっていると考えられます。 ギリシア的な発想においては、霊魂不滅の思想がありました。そして、それと対照的に、物質的なものである肉体は悪と結びついていると考えられる傾向がありました。そのような文化的な背景がある中で「からだ」を、しかも、「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」と言われていることには、私たちが思う以上の重さがあったのではないかと思われます。 それに対して、聖書のみことばは肉体と霊魂の統一体である人が神のかたちとして造られていると教えています。いくつかの分かりやすい例に過ぎませんが、私たちは頭で考え、目で見て、耳で聞き、鼻でかぎ、口で語り、祈り、歌い、味わい、手で触れ、つかみ、支え、造り、差し出し、足で歩きます。 私たちは、今、コロナ禍の状況にあって、神さまを礼拝するためにも、お互いに集って顔と顔とを合わせ、声をそろえて祈り、信仰告白をし、響き合いつつ神さまを讃えることがなかなかできまていません。そのような状況にあって、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人、それゆえに、隣人を自分自身のように愛することがいのちの本質である人にとって、「からだ」がどんなに大切なものであるかを痛感させられます。 また、私たちが「聖なる祭司」として献げる「霊のいけにえ」に関して、ヘブル人への手紙13章15節ー16節には、 私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。 と記されています。「善を行うことと、分かち合うこと」はお互いへの愛を具体的に表すことです。 また、これと関連していますが、ピリピ人への手紙4章18節には、パウロの個人的なことが、 私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。 と記されています。 これらのことには、大切なことがあります。 ペテロの手紙第一・2章5節では、 神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 と言われていました。私たちが「聖なる祭司」として献げる「霊のいけにえ」が「神に喜ばれる」ものとなるのは、それを「イエス・キリストを通して献げる」からです。私たちが私たちのすべてをささげるといっても、私たち自身の本性はなおも罪によって汚れていますし、私たちの思いとことばと行いには私たちのうちにある罪の汚れが染みついています。しかし、繰り返しの引用になりますが、ヘブル人への手紙10章10節には、 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 と記されていますし、14節には、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された と記されています。 私たちの大祭司であるイエス・キリストは、ご自身が献げてくださった「一つのささげ物によって」私たち自身と私たちの思いとことばと行いを永遠に、また、それゆえに、絶えずきよめてくださいます。私たちはこのイエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかって初めて、「神に喜ばれる」「霊のいけにえ」を献げることができます。 先ほど引用したヘブル人への手紙13章15節ー16節には、 私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。 と記されていました。ここで注目したいのは、日常の歩みの中でなされるお互いに愛をもって仕え合うということではなく、神である「主」との愛の交わりにおける神さまへの「賛美」や「御名をたたえる唇の果実」を献げるときにも、それが神さまに受け入れられるのは、それを「イエスを通して」献げるからです。 私たちが「キリスト・イエスにあって」キリストと「ともによみがえらせ」ていただいており、キリストと「ともに天上に座らせて」いただいている者として、神さまから委ねられている来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすことの中心に、一切の栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することがあります。そして、その礼拝は、新しい契約の下にあっては、イエス・キリストの教えを記しているヨハネの福音書4章24節に、 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。 と記されているように、「御霊と真理」による礼拝です。その礼拝も、イエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかって初めて、「神に喜ばれる」礼拝として受け入れていただけます。――というより、「御霊と真理」による礼拝は、御霊と福音の真理による礼拝であって、もともと、イエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかってささげられる礼拝です。 最後に、一つのことに触れておきます。繰り返しになりますが、このイエス・キリストの大祭司としてのお働きは、ヘブル人への手紙10章10節に、 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 と記されており、14節に、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された と記されている、今から2千年前に、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことに基づいています。 注目したいのは、14節に記されている、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された ということです。 私たちは地上の生涯のすべてにおいて、このイエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかります。そして、終わりの日には、再び来られる栄光のキリストの御前に立つことになります。その栄光のキリストは、神である「主」がダビデ契約において約束してくださっていたとこしえの王座である神さまの右の座に着座しておられる王として、すべてのものをおさばきになる方でありつつ、私たち「主」の民を「一つのささげ物によって永遠に完成された」私たちの大祭司です。 ローマ人への手紙8章34節に、 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 と記されていることは、私たちの地上の生涯において終わってしまうことではありません。私たちの大祭司は、終わりの日におけるさばきにおいても、ご自身が私たちを「一つのささげ物によって永遠に完成」してくださったことは変わることのないことを証ししてくださり、とりなしてくださいます。 ですから、私たは、本性が罪により汚れており、それを思いとことばと行いに現してしまう者ですが、恐れることなく、黙示録22章20節に記されているみことばに合わせて、 アーメン。主イエスよ、来てください。 と言うことができるのです。 |
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