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説教日:2021年6月27日 |
今は、この、私たちには来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る使命が委ねられているということとのかかわりで、詩篇110篇4節に、 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されていることについてお話ししています。 詩篇110篇では、1節で、神である「主」が、ダビデ契約において約束してくださっていたメシアを、とこしえの王座であるご自身の右の座に着座させられるということを預言として示しています。そして、この4節では、神である「主」が、そのメシアを「メルキゼデクの例に倣い」「とこしえに祭司」とされるということを預言として示しています。 このことは、旧約聖書において約束されていたメシアは、天上において神さまの右に着座されてすべてのものを治める王であるとともに、天上において神さまの右に着座されるとこしえの祭司であるということを意味しています。 新約聖書では、特に、ヘブル人への手紙が、御子イエス・キリストこそは、この天上において神さまの右に着座されて、すべてのものを治める王であるとともに、とこしえの祭司であるということを、詳しく説明しています。まず、今日お話しすることと関連することをまとめておきましょう。 ヘブル人への手紙1章3節には、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と記されています。 「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」である御子が、ダビデ契約に約束されていた、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座された王として「その力あるみことばによって万物を保っておられ」ることを示しています。そして、その王としてのメシアである御子が、私たちご自身の民のために「罪のきよめを成し遂げて」くださった大祭司として「いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれ」たことを示しています。 そして、その後、おもに5章ー10章において、イエス・キリストが私たち「主」の民のためのとこしえの大祭司であられることの意味を明らかにしていますが、そのことの頂点に当たる部分にある10章12節ー14節において、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されています。 ここで、 永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 と言われていることは、先ほどの1章3節に記されていることよりも明確に、詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることが、イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。 ここでは、キリストが、 永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 と言われていることが、その前の、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、 ということと、その後の、 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 ということに挟まれています。これよって、「主」がとこしえに堅く立ててくださった王座、すなわち、父なる神の右に着座された王としてのメシアは、私たちご自身の民のために「罪のきよめを成し遂げて」くださった大祭司であられることが、1章3節に記されていることよりも明確に示されています。 このことが、今、私たち「主」の契約の民が来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たしていることと深くかかわっています。それがどのようなことであるかをお話しするために、まず、歴史と文化を造る使命と、それを果たすことがどのようなことであるかについて、すでにいろいろな機会にお話ししたことに補足を加えて、まとめておきます。 神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになりました。 神さまの本質的特質は愛です。それで、神のかたちとして造られている人の本質的な特質も愛です。そして、人は、初めから、造り主である神さまを知っている者、ただ単に神概念があるとか、知識として知っているというのではなく、実際に、神さまとの愛の交わりに生きる者として造られています。それで、人の心には、契約の神である「主」と契約共同体の隣人を愛することを根本原理とする律法、愛の律法が記されています。神である「主」との愛の交わりに生きること、そして、隣人との愛の交わりに生きることは、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、この神である「主」との愛の交わりと隣人との愛の交わりに生きるとき、最も自由な状態にあります。 さらに、神のかたちとして造られている人は、真の意味での自己意識をもっている者、すなわち、自分が愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られていることを知っている者として造られています。また、世界の歴史性へのわきまえ、すなわち、この世界が造り主である神さまのみこころとのかかわりで意味ある世界であるとともに、歴史の進展とともに造り主である神さまの栄光をより豊かに現す、歴史的な世界として造られているということへのわきまえと、その歴史的な世界の歴史と文化を造るために必要なさまざまな能力が与えられています。 このように、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、造り主である神さまのみこころに従って、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現す歴史と文化、神さまの愛といつくしみ、聖さと義、真実さなどの属性を映し出す歴史と文化を造り出すように召されています。 そして、そのことの中心に、神である「主」の愛を受け止め、神である「主」を愛して礼拝することがあります。そのために、神である「主」はご自身の契約に基づいて、この世界、特に、神のかたちとして造られている人の間ににご臨在してくださり、人がその御臨在の御許に近づき、御前を歩むことができるようにしてくださっています。 そのように、神である「主」を礼拝することは、真空の中でなされるのではありません。神さまは創造の御業において、この世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになりました。 この世界は造り主である神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちています。神さまの御臨在を表示する明るさと暖かさがあり、大地は適度に潤い、適度に乾き、そこに、多種多様な植物が芽生えて実を結び、多種多様な生き物が生息しています。 人は、大地を耕し(参照・創世記2章5節、15節)、多種多様な植物が生長し、豊かに実を結ぶことを支え、それによって、生き物たちのいのちが豊かにはぐくまれることを支えていきます。それによって、それらのさまざまな植物や生き物たちをお造りになった神さまの御業に触れ、その一つ一つの特質を活かしつつ支えてくださっている神さまの真実な御手を身近に覚えることができるようになっていました。 神のかたちとして造られている人は、これらすべてに現されている造り主である神さまの愛といつくしみ、義と聖さと真実さなどの聖なる属性を汲み取りつつ、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝するのです。 今お話ししていることとの関わりで、私たちがさらに心に留めておかなければならないことは、この歴史と文化を造る使命には宇宙論的な意味があるということです。 そのことは、先ほど引用した、詩篇8篇6節に、 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているみことばに示されています。 神である「主」は特別な意味で、この「地」にご臨在しておられます。それで、「地」は「主」の御臨在に伴うさまざまな豊かさに満ちています。同時に、「主」はご自身がお造りになったこの宇宙にもご臨在しておられます。イザヤ書66章1節には、「主」が言われる、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 というみことばが記されています。これは、王が足台に足を置いて、王座に座している表象を用いて、「主」が天と地に、王としてご臨在しておられることを示しています。 実際、天と地、すなわち、およそ存在するすべてのものをお造りになった神である「主」は、ご自身がお造りになった広大な宇宙とその中に存在している一つ一つのもの、さまざまな不思議な事象を、真実に、支えておられ、それぞれの特質を活かしてくださっています。これが、神である「主」がお造りになったすべてのものを、王として、支配しておられる姿です。神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命において与えられた支配権は、本来、この神である「主」の王としての支配を映し出すものですし、映し出すべきものです。 このような意味において、神のかたちとして造られている人は、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、王的な働きをします。 先ほど引用した、ヘブル人への手紙1章3節には、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 記されていました。このみことばが示しているように、およそ存在するすべてのものをお造りになり、それら一つ一つを真実に支えておられる神である「主」は御子、すなわち、父なる神さまの右に着座しておられる栄光のキリストです。 このようにして、神である「主」が真実に支えてくださっている広大な宇宙とその中に存在している一つ一つのもの、そして、そこで起こっているさまざまな不思議な事象は、造り主である神さまの栄光を現しています。しかし、宇宙そのものは、そのことを知りません。そのことを知っているのは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。もし神のかたちとして造られている人がいなかったとしたら、この宇宙が神さまの御手の作品であることには変わりがありませんが、この宇宙は、ただ物事が起こっているだけの世界となってしまったことでしょう。 神のかたちとして造られている人は、自分が神さまの御手のすばらしい作品であることを知っています。また、自分たちが住んでいるこの世界とその中にあるすべてのものが神さまの御手の作品であることを知っています。そして、実際に、自由な意志をもっている人格的な存在として、神さまの御手の作品の素晴らしさと、それらがあかししている神さまの栄光に触れる時、自らの意志によって、神さまに向かって、讃美と感謝をささげることができます。そして、このような、自らの意志による礼拝と讃美を通して、神さまの栄光を現すことができます。 このように、神のかたちとして造られている人は、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、造られた世界とその中のものの存在の意味を明らかにする預言者的な働きをします。 また、これには、大切なことがあります。 宇宙が想像を絶する広大なものであっても、その中で、不思議で、壮大なことが起こっていても、それは人にとってのことであって、無限、永遠、不変の神さまには大き過ぎることも小さ過ぎることもありません。ですから、この世界とその中にあるもの、この世界の中で起こっていることを、この世界の中にあるものの立場から見つめて、しかも、歴史と文化を造る使命によって、それらと一つに結ばれている者として、そこに、神さまの御手の作品の壮大さと微細さや、複雑さと調和の美しさを汲み取ることができるのは、また、歴史と文化を造る使命によって、そうするように召されているのは、神のかたちとして造られている人です。 それで、詩篇8篇6節に、 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されていますが、人は、物理的には、宇宙の彼方にあるものを支配することはできません。それどころか、人は、改めて注意しなければ、土の中にいる虫たちの存在にも気づくことができず、手も届かないようなものです。 ですから、人が「万物」を支配するということは、基本的には、物理的な力による支配のことではありません。もちろん、大地を耕し、植物たちが生長し、豊かに実を結ぶことを支え、それによって、生き物たちのいのちが豊かにはぐくまれることを支えていくこと、すなわち、この地上における働きにおいては物理的、肉体的な力を用います。しかし、人が「万物」を支配すること、すなわち、歴史と文化を造る使命の本質は、神のかたちとして造られている者として、この世界とその中にあるもの、またこの世界の中で起こっていることを、この世界の中にあるものの立場で見つめて、そこに、神さまの御手の作品の壮大さと微細さの美しさ、複雑さと調和の美しさを汲み取って、いっさいの栄光を造り主である神さまに帰して、造り主である神さまを讃美し礼拝することにあります。 それで、神のかたちとして造られている人は歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、自分自身を含めて、神さまの御手の作品であるすべてのものを、造り主である神さまへの礼拝へと結集させていきます。この意味で、神のかたちとして造られている人は歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、祭司的な働きをしています。 この場合、神のかたちとして造られている人自身が造り主である神さまを神として礼拝することはもちろんのことですが、その礼拝には宇宙論的な広がりがあります。詩篇148篇1節ー6節には、 ハレルヤ。 天において主をほめたたえよ。 いと高き所で 主をほめたたえよ。 主をほめたたえよ すべての御使いよ。 主をほめたたえよ 主の万軍よ。 日よ 月よ 主をほめたたえよ。 主をほめたたえよ すべての輝く星よ。 天の天よ 主をほめたたえよ。 天の上にある水よ。 主の御名をほめたたえよ。 主が命じて それらは創造されたのだ。 主は それらを世々限りなく立てられた。 主は 去りゆくことのない定めを置かれた。 と記されています。 神さまがお造りになったすべてのものが神である「主」を礼拝すべきものであることを知っており、それらに向かって「主」を礼拝するように呼びかけているのは、ここでは「主」の契約の民です。それは、本来、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人がなすことです。 言うまでもなく、この宇宙論的な広がりをもっている礼拝の中心には、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の礼拝があります。 神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命には、このように豊かな意味があります。それは、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったみこころの中心にあることです。 しかし、実際には、この神さまの創造の御業におけるみこころの実現をめぐって、神である「主」に霊的な戦いを仕掛けた暗闇の主権者であるサタンの巧妙な働きによって、この歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことに現されているみこころの実現は阻止されてしまいました。サタンも霊的な戦いにおける勝利を確信したことでしょう。 しかし、神さまはご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて、私たちに変わって受けてくださいました。それによって、私たちの罪はすべて清算され、私たちは完全に贖われています。ヘブル人への手紙9章26節に、 今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。 と記されており、10章10節に、 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 と記されているとおりです。 御子イエス・キリストはこのような意味をもっている十字架の死によって、霊的な戦いに勝利しておられます。ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 と記されているとおりです。 とはいえ、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、その歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことに現されているみこころが実現しないのであれば、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利することになります。――サタンは自分が滅ぼされることを承知の上で、神である「主」に霊的な戦いを仕掛けています――。しかし、その神さまのみこころはキリスト・イエスにあって」私たちの間で実現しています。 十字架におかかりになって私たちの罪を完全に贖ってくださった御子イエス・キリストは、さらに、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報酬として、最初にお取りになったまことの人としての性質、すなわち、最初の人アダムと同じ神のかたちとしての栄光よりさらに豊かな栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。エペソ人への手紙2章6節に記されているように、神さまは私たちをこの「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」。 また、ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 と記されています。 これは、歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にある、神である「主」を愛し、神として礼拝することが、私たちの間で回復されていること、というより、より豊かな栄光にある天のまことの聖所における礼拝として高められているということを意味しています。 この礼拝を私たちのために実現してくださり支えてくださっているのは、私たちの大祭司である御子イエス・キリストです。 そして、この礼拝を中心として、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすことを、御霊によって導いてくださり、支えてくださっているのは、歴史の主であり、御国の王である御子イエス・キリストです。 |
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