![]() |
説教日:2021年6月13日 |
今は、この第二のこととのかかわりで、詩篇110篇4節に、 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されていることについてお話ししています。 詩篇110篇では、1節で、神である「主」が、ダビデ契約において約束してくださっていたメシアをとこしえの王座であるご自身の右の座に着座させられるということを預言として示しています。そして、この4節では、神である「主」が、そのメシアを「メルキゼデクの例に倣い」「とこしえに祭司」とされるということを預言として示しています。 このことは、旧約聖書において約束されていたメシアは、天上において神さまの右に着座されてすべてのものを治める王であるとともに、天上において神さまの右に着座されるとこしえの祭司であるということを意味しています。 新約聖書では、特に、ヘブル人への手紙が、御子イエス・キリストこそは、この天上において神さまの右に着座されて、すべてのものを治める王であるとともに、とこしえの祭司であるということを、詳しく説明しています。 それで、まず、ヘブル人への手紙7章に記されていることを中心として――5章ー10章に記されていることにも触れながら――、ダビデ契約において約束されている、まことのダビデの子として来られるメシアが、とこしえの王でありつつ、「主」の民のためのとこしえの祭司であることの意味についてお話ししました。 そして、先主日には、まず、ヘブル人への手紙の序論に当たる部分(1章1節ー4節)の中の3節に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と記されていることにおいて、御子がダビデ契約に約束されていた、まことのダビデの子として、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座された王としてのメシアであることを示しつつ、その王としてのメシアである御子イエス・キリストが、私たちご自身の民のために「罪のきよめを成し遂げて」くださった大祭司であられることを示しているということをお話ししました。 そして、すでにお話ししていたように、ヘブル人への手紙ではその後、おもに5章ー10章において、イエス・キリストが私たち「主」の民のためのとこしえの大祭司であられることの意味を明らかにしています。そして、そのことの頂点に当たる部分にある10章12節ー14節においては、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されています。 ここで、 永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 と言われていることは、先ほどの1章3節に記されていることよりも明確に、詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることが、イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。それとともに、注目すべきことは、このことばが、その前の、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、 ということと、その後の、 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 ということに挟まれているということです。これよって、「主」がとこしえに堅く立ててくださった王座、すなわち、父なる神の右に着座された王としてのメシアは、私たちご自身の民のために「罪のきよめを成し遂げて」くださった大祭司であられることが、1章3節に記されていることよりも明確に示されています。 このことにはいくつかの意味がありますが、先主日には、メシアの国がこの世の国々と本質的に違っているということをお話ししました。 補足しながら振り返っておきますと、この世の国々においては、しもべたちが王のために犠牲を払い、しばしば、そのいのちをも捨てます。しかし、メシアの国においては、王であるメシアが、私たちしもべたちのためにご自身のいのちをもお捨てになりました。マルコの福音書10章45節に、 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 と記されているとおりです。 このマルコの福音書10章45節に記されていることは、ヘブル人への手紙では、9章26節で、 今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。 と言われていることに当たることであり、10章10節で、 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 と言われていることにおいて実現しています。 そして、先ほど引用したみことばを含みますが、これに続く11節ー13節に、 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえ[ご自分をいけにえとして]を献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されているように、これらすべてのことは、メシアであるキリストの大祭司としてのお働きによって成し遂げられたことです。 ですから、メシアの国がこの世の国々と本質的に違っているということの核心には、王であるメシアが、とこしえの大祭司として、私たちご自身の民の罪を取り除くためのいけにえとして、ご自身をお献げになったことがあります。 それで、メシアの国は、この世の国々の権力の序列の最も上にあるのではありません。武力や経済力など血肉の力をもって覇権を争い、また、人々が考えていたメシアの奇跡的な力――人々が考えていたのは血肉の力と同質の力です――によって、この世の国々を撃ち破って、支配するようになるのではありません。 この世の国々の権力の序列の頂点にあるのは、詩篇110篇1節とヘブル人への手紙10章13節で、メシアの「敵」と呼ばれている、暗闇の主権者であるサタンです――ルカの福音書4章6節では、サタンが「国々の権力と栄光」は「私に任されている」と主張しています。もちろん、神さまがお任せになったのではなく、罪の力に縛られている人々を、言わば「実効支配」しているのです。ヨハネの福音書12章31節と14章30節では、イエス・キリストがサタンを「この世を支配する者」と呼んでおられます。ヨハネの手紙第一・5章19節では「世全体は悪い者の支配下にある」と言われています。 ですから、メシアの国はこの世の国々の権力の序列の中にはありません。ヨハネの福音書18章36節に記されているように、イエス・キリストが、その当時、(地中海)世界を支配していたローマの総督であるピラトに対して、 わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。 と証しされておられるとおりです。 メシアの国がこの世の国々と本質的に違っているということは、また、エペソ人への手紙1章20節に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた と記されているように、王であるメシア、すなわち、栄光のキリストが着座しておられる王座が、天上の父なる神さまの右にあるということにあります。そして、そこに座しておられる王である栄光のキリストが、ご自身が最初の聖霊降臨節に注いでくださった御霊(使徒の働き2章33節)によって、私たちご自身の民を治めてくださっているということにあります。 この御霊は、天上において父なる神さまの右に着座しておられるとこしえの王であり、とこしえの大祭司であるイエス・キリストの御霊――ガラテヤ人への手紙4章6節の「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」――として、イエス・キリストが2千年前に、ご自身を、私たちの罪のためのいけにえとしてお献げになり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。御霊は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いを私たち主の民それぞれに当てはめてくださいますが、それはまた、栄光のキリストが、ご自身の御霊によって、ご自身が成し遂げられた贖いを私たちそれぞれに当てはめてくださることによって、私たちを治めてくださることでもあります。 具体的には、御霊は私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださり、私たちが福音のみことばに証しされているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じるように導いてくださいました。そのようにしてイエス・キリストを信じた私たちを、神さまは、義と認めてくださり、神の子どもとして、御子イエス・キリストを長子とする神の家族に迎え入れてくださり、御霊によって導いてくださって、ご自身の御臨在の御許に近づいて、ご自身礼拝することを中心として、ご自身と兄弟姉妹との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださっています。そして、その愛の交わりに生きる私たちそれぞれを、御霊によって、イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださっています。 私たちは、このような御霊のお働きにあずかって、神さまの愛を受け止め、神さまを愛して礼拝することを中心として、来たるべき時代、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たしています。 その私たちは、なおも、自らの終わりの時が迫ってきていることを悟ったサタンが、言わば、死に物狂いの戦いを展開している状況に置かれています。サタンが天上における霊的な戦いに敗北して、地に投げ落とされたことを受けて記されている黙示録12章12節には、「大きな声が天で」言った、 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。 しかし、地と海はわざわいだ。 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、 おまえたちのところへ下ったからだ。 ということばが記されています。 サタンは迫害や巧妙な惑わしをもって、地にある主の民を誘惑して、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛から引き離そうとして働いています。 そのことは、終わりの日についてのイエス・キリストの教えにも示されています。マタイの福音書24章4節ー14節には、 人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。 と記されています。 ここには終わりの日についてのイエス・キリストの一般的な教えが記されています。この教えについては数年前にお話ししたことがありますが、いくつかのことを補足しながら、お話しすることにします。 ここでイエス・キリストは、終わりの日を歩む主の民が経験する困難な状況をどのように理解し、受け止めるべきであるかを示しておられます。 まず、4節で、 人に惑わされないように気をつけなさい。 と言われてから、5節で、 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。 と教えておられます。これには、理由を表す接続詞(ガル)があって、なぜ気をつけなければならないかを示しています。 続く、6節では、 また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。 というように、「戦争」(複数形)という最も人を恐れさせることを聞いても、 気をつけて、うろたえないようにしなさい。 と戒めるとともに、その理由を(「ガル」があります)、 そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。 と教えておられます。そして、7節で、さらなる理由(「ガル」があります)を、 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。 と教えておられます。これは、6節の「戦争」(複数形)を受けていると考えられますが、それが、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」というように、その広がりの大きさを示しています。この場合は、「立ち上がり」と訳されていることばが最初に来て強調されていますが、受動態で表されています。これによって、民族や国がお互いに敵対して立ち上がらなければならないような状況が生まれて、諸民族や国々がその流れに飲み込まれていくことが示されている可能性があります。そして、争いによる荒廃がもたらす飢饉だけでなく、自然界の混乱による「飢饉と地震」のことにも触れられています。 その上で、イエス・キリストは、8節で、 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。 と教えてくださって、それらのことをどのように理解し、受け止めるべきか――もう終わりの日が来たと考えてはならない――を示しておられます。 続く9節では、 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 と言われています。これは「そのとき」と言われていますように、これに先立つ4節ー8節に記されている「産みの苦しみの始まり」と言われていることが起こっている時に、「あなたがた」と言われているイエス・キリストの弟子たちに加えられる、外からの試練としての迫害のことです。これは、私たちをも含めて、終わりの日に至るまでの時代においてイエス・キリストに従う人々に起こることです。 そして、10節ー12節では、 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。 と言われています。ここに記されていることも「そのとき」ということばで導入されているので、9節に記されていること、さらには、4節ー8節に記されている状況において起こると考えられます。 この10節ー12節に記されていることで目立つのは「多くの人」(10節、11節、12節)と「偽預言者が大勢」[11節(直訳「多くの偽預言者」)]です。 10節で、 多くの人がつまずき と言われていることは、信じている人々、しかも「多くの」信じている人々に起こることです。この場合は、おもに9節で、 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 と言われている状況に置かれた人々が、つまずいて、信仰を捨ててしまうようになることであると考えられています。けれども、そればかりでなく、4節ー8節に記されている、「産みの苦しみの始まり」と言われている、人々を不安に陥れるような状況、それがもたらすさまざまな悲惨なことなどによっても、信じている人々につまずきがもたらされると考えられます。そして、そのようにしてつまずいた「多くの人」の間で「互いに裏切り、憎み合います」と言われていることが起こると考えられます。 それで、11節ー12節に、 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。 と記されていることも、おもに、信じている人々の間で起こることであると考えられます。このことは、13節で、 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 と教えられていることによっても支持されます。これらのことは、信じている人々の内部から起こってくることです。 この13節に記されている、 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 という教えは、4節ー8節に記されている、「産みの苦しみの始まり」とされている、人々を不安に陥れる状況にあって、9節に記されている、外からやって来る試練としての迫害と、10節ー12節に記されている、信じている人々の間に起こる裏切りや憎しみ、そして愛が冷えてしまうことなど――ここに記されているわけではありませんが、これらのことの奥には、自らの終わりの時が迫ってきていることを悟ったサタンの働きがあります――を受けて、なおも、愛のうちにとどまって、耐え忍ぶべきことを示しています。 そのように、愛のうちにとどまって、耐え忍ぶ人が見据えるべきことが、最後の14節に、 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。 と記されています。 4節ー12節に記されているような困難な状況に陥ることは、イエス・キリストの教えを聞いた弟子たちを初めとして、終わりの日に至るまでのすべての時代の主の民に起こります。そうではあっても、「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ」るようになります。これは、創世記12章3節に記されている、「地のすべての部族」がアブラハムによって祝福されるという約束を、神さまが真実に実現してくださるということで、今日まで、福音のみことばはさまざまな攻撃にさらされながらも、絶えることなく証しされ続けてきました。 さらに、このことの奥には、王であるメシアが、私たちのとこしえの大祭司として、真実に、ご自身の民をあわれみ、恵みによって、折りにかなった助けを与え続けててくださっているということがあります。ヘブル人への手紙4章15節ー16節には、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。 |
![]() |
||