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説教日:2021年6月6日 |
これまで、この二つのことのうちの、二つ目のこととのかかわりで、詩篇110篇4節に 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されていることについてお話ししてきました。今日も、そのお話を続けます。 詩篇110篇では、1節で、神である「主」が、ダビデ契約において約束してくださっていたメシアをとこしえの王座であるご自身の右の座に着座させられるということを預言として示しています。そして、この4節では、神である「主」が、そのメシアを「メルキゼデクの例に倣い」「とこしえに祭司」とされるということを預言として示しています。 このことは、旧約聖書において約束されていたメシアは、天上において神さまの右に着座されてすべてのもの(「万物」)を治める王であるとともに、天上において神さまの右に着座されるとこしえの祭司であるということを意味しています。 そして、これまでお話ししてきたように、新約聖書では、特に、ヘブル人への手紙が、御子イエス・キリストこそは、この天上において神さまの右に着座されて、すべてのもの(「万物」)を治める王であるとともに、とこしえの祭司であるということを、詳しく説明しています。 これまで、ヘブル人への手紙の著者は、ダビデ契約において約束されている、まことのダビデの子として来られるメシアが、とこしえの王でありつつ、とこしえに「主」の祭司でもあることの意味を明らかにしているということを、おもに、7章に記されていることを中心としてお話ししました。そのことを踏まえつつ、ヘブル人への手紙に記されていることをより広く見てみましょう。 1章1節ー3節には、 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と記されています。 ここでは、まず、神さまが古い契約の下では「預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られ」たことが記されています。これは、神さまが確かに預言者たちによって語られましたが、それは古い契約の下での長い歴史をとおして、預言者たちによって、さまざまな方法によって、さまざまな部分を、言わば、積み上げるようにして、語ってこられたことを示しています。 このことから、神さまが古い契約の下で、預言者たちによって語られたことは、とても豊かなことであるので、一度にすべてを啓示されたのではなく、神である「主」の贖いの御業の歴史をとおして、まず、より基本的なことを啓示してくださり、さらにその上に積み上げるようにして、「主」が成し遂げてくださる贖いの御業の多様な面が示されていき、その全体的な豊かさが示されてきたということを汲み取ることができます。 具体的なことを、ごく大雑把にまとめますと、まず、より基本的なこととして、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったこと、そして、神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったこと、そのことに表されている神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いたサタンの思惑どおりに人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったこと、それにもかかわらず、神である「主」は、サタンに対するさばきの宣告の形で「最初の福音」を与えてくださったことが示されました。さらに、ノアの時代に人の罪が極まってしまったことによって、人の罪は腐敗を深めていくものであることが示され、神である「主」は、その時に至るまでの歴史と文化を清算される終末的さばきが執行されるということ(参照・ペテロの手紙第二・3章4節ー6節)と、その終末的なさばきを通って救われた者によって新しい時代の歴史と文化が造られるということが示されました。そして、これらの基本的なことの啓示の上に、さらに積み上げるようにして、地上のすべての民族への祝福の約束とともに与えられたアブラハムへの契約、モーセをとおして、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民に与えられた契約、そして、ダビデに与えられた契約など、古い契約の下での、神である「主」の贖いの御業の歴史をとおして、神である「主」が成し遂げてくださる贖いの御業の多様な面が示されてきました。 私たちはこれらのことを旧約聖書をとおして知ることができます――それは、ヘブル人への手紙の著者にとっても同じことです。 そして、旧約聖書は全体として、御子イエス・キリストのことを証ししています。 ヨハネの福音書5章39節には、 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここに出てくる聖書は、旧約聖書のことです。 また、十字架の死による罪の贖いを成し遂げられて、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストのことを記している、ルカの福音書24章25節ー27節には、イエス・キリストがエマオという村に行く途上にあった二人の弟子にご自身を現された時のことが、 ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 と記されています。 ここに出てくる「モーセやすべての預言者たちから始めて」ということばは、ヘブル語聖書の三つの区分の最初の二つ「(モーセ)律法」と「預言者たち」を指していて、これだけでも旧約聖書を表すことができます(ルカの福音書16章16節、使徒の働き28章23節、ローマ人への手紙3章21節)。 また、同じ章の44節ー48節には、この二人の弟子の証しを聞いた「イスカリオテのシモンの子ユダ」を除く「十一人とその仲間」たちにイエス・キリストがご自身を現された時のことが、 「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。 と記されています。 ここに出てくる「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」は、ヘブル語聖書の三つの区分を示しています。この場合の「詩篇」は第三区分で最も長い文書で、第三区分を代表的に示しています。 引用したこれら三つのみことばは、すべて、ただ旧約聖書に記されていることを知っているだけでは、そこに預言として啓示されている贖い主とその働きのことは理解することができないということを示しています。最後に引用したルカの福音書24章44節ー48節の45節には、イエス・キリストが「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」くださったと記されています。 このことを踏まえることが、ヘブル人への手紙1章2節前半で、 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。 と言われていることの意味を理解する上での鍵となります。 ここで、「この終わりの時には」(直訳「これらの日々の終わりに」)と言われていることは、神さまが古い契約の下で預言者たちをとおして、預言として語られたことが、神さまが「御子にあって私たちに語られ」たことにおいて成就していることを示しています。神さまが「御子にあって私たちに語られ」たことを理解することによって、神さまが古い契約の下で、預言者たちをとおして、預言として語られたことが、どのようなことであったかを理解することができるようになるということです。 もちろん、神さまが「御子にあって私たちに語られ」たことは、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によらなければ、理解することができません。ヨハネの福音書16章12節ー13節に、 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。 と記されているとおりですし、コリント人への手紙第一・2章14節に、 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。 と記されているとおりです。 さらに、神さまが「御子にあって私たちに語られ」たことは、ことばの上だけのことではありません。これにはさらに深く豊かなことがあります。それが、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節に、 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と記されていることです。 この中心にあるのは、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである ということです。ここでは御子ご自身が「神の栄光の輝き」であり「神の本質の完全な現れ」であると言われています。父なる神さまがどのような御方であり、父なる神さまの栄光がどのような栄光であるかは、ただ、御子によって、御子をとおして啓示されています。ですから、御霊によって、御子を知ることがなければ、父なる神さまがどのような御方であり、父なる神さまの栄光がどのような栄光であるかを知ることはできません。 ですから、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである ということは、ヨハネの福音書14章9節に記されていますが、イエス・キリストが弟子たちに、 わたしを見た人は、父を見たのです。 と語られたことに相当します。また、その前の6節に記されている、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。 というイエス・キリストの教えは、このことによっています。 さらに、ヨハネの福音書では、その序論の初めである1章1節に、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と記されていて、御子イエス・キリストが、永遠に存在される方であり、父なる神さまとの愛の交わりのうちにあり、まことの神であられることが示されています。また、3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されていて、御子イエス・キリストが、創造の御業を遂行された方であることが示されています。そして、ヨハネの福音書の序論の最後である18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されていて、「父のふところにおられるひとり子の神」と呼ばれている御子イエス・キリストが、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられ、真の意味で、父なる神さまを啓示しておられることが示されています。 ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節においても、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」である御子が、創造の御業を遂行された方であり、「その力あるみことばによって万物を保っておられ」る方であることが示されています。それで、御子が遂行しておられる創造の御業と摂理の御業が神さまの栄光を映し出す御業であるのです。詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されており、ローマ人への手紙1章20節に、 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる・・・。 と記されているとおりです。 そして、より大切なことは、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである と言われていることは、御子が遂行された創造の御業や摂理の御業が、いわば神さまの栄光を反映して、映し出すということとは違います。その御業を遂行される御子ご自身が、まことの神であるからこそ、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである と言うことができるということです。 そして、3節では、その御子が、 罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と言われています。 この贖いの御業も、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」御子によって成し遂げられたこととして、神さまの栄光を、しかも、この上なく鮮明に映し出しています。 ここには、今お話ししていることとのかかわりで注目したいことがあります。 ここに記されている、 いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 ということは、これまでお話ししてきたように、詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることを指していて、御子がダビデ契約に約束されていた、まことのダビデの子として、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座された王としてのメシアであることを示しています。 しかし、その点はそのとおりなのですが、ここでは、その御子が、 罪のきよめを成し遂げて と言われています。これは、御子が十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて、私たちに代わって受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださったことを示しています。これは、ヘブル人への手紙では、これまで取り上げてきました、御子が大祭司であられること意味しています。 ですから、ここで、 罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と言われていることは、御子がダビデ契約に約束されていた、まことのダビデの子として、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座された王としてのメシアであることを示しつつ、その王としてのメシアが、私たちご自身の民のために「罪のきよめを成し遂げて」くださった大祭司であられることを示しているのです。 このことは、このヘブル人への手紙の冒頭の序論に当たる部分において示されているだけではありません。イエス・キリストの大祭司としてのお働きについてさらに記されてきたことの、言わば、頂点に当たる10章12節ー14節に、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されていることの中でも示されています。 ここで、 永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 と言われていることは、より明確に、詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることが成就していることを示しています。それとともに、このことばは、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、 ということと、 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 ということに挟まれている形になっています。 ここでは、やはり、より明確に、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座された王としてのメシアは、私たちご自身の民のために「罪のきよめを成し遂げて」くださった大祭司であられることが示されています。 このことにはいくつかの意味があります。 今日は、その一つだけに触れておきます。 それは、これまでお話ししてきたことですが、この世の国々においては、しもべたちが王のために犠牲を払って働きます――しばしば、そのいのちをも捨てます。マルコの福音書10章42節には、イエス・キリストが、弟子たちに、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。 と教えられたことが記されています。 「主」がダビデ契約において約束してくださって、とこしえに堅く立ててくださった王座に着座された王としてのメシアは、そのしもべたちをご自身の益のために仕えさせ、犠牲とする王ではないのです。むしろ、そのマルコの福音書10章の45節に、 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 と記されているように、王としてのメシアは、そのしもべである私たちのために、十字架におかかりになって、ご自身のいのちを私たちの「ための贖いの代価として」与えてくださいました。そればかりではありません。それは今から2千年前になしてくださったことですが、その王としてのメシアは、永遠に私たちの大祭司となってくださって、今も、私たちのために神さまの御前でとりなしてくださっています。ローマ人への手紙8章34節に、 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 と記されているとおりです。 |
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