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説教日:2021年5月23日 |
ここで、一つの問題を考えてみましょう。 それは、民数記25章1節ー13節に記されていることにかかわる問題です。 順次、そこに記されていることを見ていきますと、1節ー3節には、 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。 と記されています。 エジプトを出たイスラエルの民が荒野を旅している間のことですが、モアブの平原にある「シティム」という所で、モアブの娘たちに誘われたイスラエルの民は「バアル・ペオル」に身をささげてしまいました。「バアル・ペオル」はペオルのバアルという意味です。ペオルは23章28節で「荒れ野を見下ろすペオルの頂上」と言われている所で、そこに、その地方のバアル礼拝の中心となる神殿があったと考えられます。 「民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた」と言われていることは、その後に記されていることから分かるように、身体的・性的な交わりを伴う、バアル礼拝に加わったということを意味しています。ですから、このイスラエルの民は十戒の第一戒と第二戒に背くとともに、第6戒(「姦淫してはならない」)にも背いています。 3節には、このことに対して、 主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。 と記されています。そして、4節ー5節には、 主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」 と記されています。 ここには、「主」がモーセに命じられたことと、モーセが「イスラエルのさばき人たちに言った」ことが一致していないのではないかという問題があって、さまざまに論じられてますが、込み入った話になってしまいますので、それに立ち入ることはいたしません。 続く、6節には、 ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。 と記されています。 9節には、 この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。 と記されています。このことは、イスラエルの全会衆に大変な危機感とともに、大きな悲しみをもたらし、6節に記されているように、彼らは「会見の天幕の入り口」すなわち「主」の栄光の御臨在がある所に集って「泣いてい」ました。 そのような時に、「一人のイスラエル人の男がやって来」て、モーセと全会衆の目の前で、「一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。」と言われています。この二人の名前と素性は、引用しませんが、14節ー15節に記されています。それぞれの民(イスラエル人とミディアン人)の一族のかしらの息子であり娘でした。その「ミディアン人の女」も、「モアブの娘たち」に混じって、ペオル・バアルを拝んでいて、イスラエルの民を誘ったと考えられます。 続く7節ー8節には、 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。 と記されています。 この時、「イスラエルの子らへの主の罰が終わった」のですから、この時までに「主の罰で死んだ者は、二万四千人であった」ということになります。 そして、このことを受けて、10節ー13節には、 主はモーセに告げられた。「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」 と記されています。[注] [注]ちなみに、ここに記されている「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハス」は、列王記第一・18章に記されている、450人のバアルの預言者と対決したエリヤとともに、中間時代(旧約聖書に記されている時代と新約聖書に記されている時代の間の時代、約400年あまり)に「主」の律法への熱心の模範とされていったようです。その時代のユダヤ教文献に精通しているマルティン・ヘンゲルは、 それは、マカベア時代以来、特別な仕方でラジカルな宗教グループの理想となったものである。このような「熱心者」は、重大な律法違反の暴力行為から神殿と律法を守るために自分の命を投げ出し、暴力さえ用いる用意を無条件にしていたのである。それは、神の怒りをイスラエルからそらすためであった。 と述べています。そして、それは、パウロが、ガラテヤ人への手紙1章13節ー14節において、 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。 と記していることの背景となっているとしています(M・ヘンゲル、『サウロ キリスト教回心以前のパウロ』、146頁)。 今お話ししていることとのかかわりで問題となるのは、「主」がモーセに、「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハス」について、 それゆえ、言え。「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。」 と告げられたことです。 モーセ律法の規定では、レビ族に属するモーセの兄であるアロンの子孫が「主」の御前に仕える祭司となり、それぞれの長子が大祭司となることになっています。そして、このモアブの平原における出来事を受けて、「主」はモーセをとおして、アロンの子エルアザルの子ピネハスに、「わたしの平和の契約を与える」と言われ、それはピネハスとその子孫にとって「永遠にわたる祭司職の契約となる」と告げられました。 ところが、詩篇110篇では、ユダ族に属するダビデの子として来られて、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるメシアが、 メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である と言われているのです。 ヘブル人への手紙はこの問題も取り扱っています。 前回お話ししたように、イスラエルの父祖アブラハムは、ケドルラオメルとその連合軍との戦いに勝利して帰って来た時、サレムの王にして「いと高き神」の祭司であるメルキゼデクの祝福を受け、メルキゼデクに戦いで奪い取ったものの十分の一を与えました。メルキゼデクをとおして、アブラハムも信じている「いと高き神」、アブラハムに敵を渡された方に、その十分の一を献げたということです。 このことを受けて、ヘブル人への手紙7章では、二つのことを示しています。 一つは、前回も引用した7節に、 言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。 と記されていることです。これによって、メルキゼデクはアブラハムにまさる者であるということが示されています。 もう一つは、9節ー10節に、少し補足を加えますが、 言うならば、[イスラエルの民から]十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して[メルキゼデクに]十分の一を納めたのでした。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。 と記されていることです。 ここでは、前回お話ししたように、アブラハムから十分の一を受け取ったメルキゼデクは、アブラハムにまさる者であるということが踏まえられています。それとともに、イスラエルは父祖アブラハムをかしらとする契約共同体であるということ、それゆえに、父祖アブラハムに与えられた契約にあずかっているということが踏まえられています。 それで、レビとメルキゼデクの関係は、アブラハムとメルキゼデクの関係を反映していることになります。このことは、さらに、レビの子孫であるアロンとメルキゼデクの関係にも当てはまりますし、アロンの子エルアザルの子であるピネハスとメルキゼデクの関係にも当てはまります。 そして、私たちの主イエス・キリストは、この メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である と言われている方です。 けれども、それでは、「主」がモーセをとおして、ピネハスに、「わたしの平和の契約を与える」と言われ、それはピネハスとその子孫にとって「永遠にわたる祭司職の契約となる」と告げられたことはどうなるのでしょうか。 これについては、ヘブル人への手紙7章16節ー19節には、イエス・キリストのことが、 この方について、こう証しされています。 「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、 とこしえに祭司である。」 一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、―― 律法は何も全うしなかったのです―― もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。 と記されています。 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、ここに記されていることは、この引用の最後に、 これによって私たちは神に近づくのです。 と記されていることを基準としてて、そのことに関しては、モーセ「律法は何も全うしなかった」ということです。 ヘブル人への手紙でこの後に記されていることをこれに当てはめてみましょう。 モーセ律法に基づいて立てられたアロンの子孫である祭司たちは、地上の聖所で仕えていました。しかし、それは「本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所」(9章24節)であり、「天上にある本体」の「写し」(9章23節)でしかありません。 彼らはそこで動物のいけにえを献げていました。しかし、「それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません」(9章9節)。 また、その祭司たちは繰り返しいけにえを献げました。しかし、どんなに繰り返しても、「それらは決して罪を除き去ることができません」(10章11節)。 これに対して、9章24節には、 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。 と記されています。 また、10章10節には、 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 と記されていますし、14節には、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された と記されています。 そして、このことを受けて、10章19節には、 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 と記されています。 言うまでもなく、この「聖所」は天にあるまことの聖所、すなわち、父なる神さまと栄光のキリストがご臨在しておられる所です。ですから、「これによって私たちは神に近づくのです。」と言われていることが、「キリスト・イエスにあって」、今すでに、私たちの現実になっています。それは、私たちの日々の歩みにおいて現実になっていることですが、特に、主の日のキリストのからだである教会における礼拝においてのことです。 これらのことから分かりますが、アロンの子エルアザルの子であるピネハスとその子孫は、「本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所」において仕える祭司として、いわば、その地上にある聖所が続くかぎり「いつまでも」祭司として仕えることが約束されていたのです。その意味で、それには天にあるまことの聖所の永遠性を写し出す「地上的なひな型」としての限界がありました。 このことは、ダビデの血肉の子孫である王たちのダビデ王朝が、古代オリエントの国々の歴史においては、例外的に長く続いたことが、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座、すなわち、天にある神の右の座の永遠性を写し出す「地上的なひな型」としての限界の中にあったことと同じです。 |
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