黙示録講解

(第464回)


説教日:2021年5月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ヨハネの黙示録2章18節ー29節


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばと関連するお話を続けます。
 今は、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示している、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばについてお話ししています。
 そして、これまで、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることについてお話ししてきました。
 この6節に記されていることは、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されていることとつながっています。
 2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることは、1章20節ー23節に記されている、神さまがキリストになされたことに、私たちをあずからせてくださっているということを示してます。
 これまで、1章20節に記されている、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

ということが、21節に記されている二つのことにかかわっているということに注目してきました。
 第一のことは、21節前半に記されている、

 すべての支配、権威、権力、主権の(はるか)上に置かれた

ということです。
 第二のことは、21節後半に記されている、

 今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の(はるか)上に置かれた

ということです。
 第一の、神さまが栄光のキリストを、「天上でご自分の右の座に着かせて」「すべての支配、権威、権力、主権の(はるか)上に置かれた」ということは、メシア詩篇である、詩篇110篇1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることが成就しているということを示しています。
 第二の、神さまが栄光のキリストを、「天上でご自分の右の座に着かせて」「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の(はるか)上に置かれた」ということは、これに続く22節前半に、

 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた

と記されていることとつながって、詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることが成就しているということを示しています。つまり、神さまが創造の御業においてお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことが、栄光のキリストにおいて成就しているということです。
 これまで、この二つのこととのかかわりで、詩篇110篇に記されていることについてお話ししてきました。今日も、そのお話を続けます。
 詩篇110篇には、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」
 はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。
 「あなたの敵のただ中で治めよ」と。
 あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える。
 聖なる威光をまとって 夜明け前から。
 あなたの若さは朝露のようだ。
 は誓われた。思い直されることはない。
 「あなたは メルキゼデクの例に倣い
 とこしえに祭司である。」
 あなたの右におられる主は
 御怒りの日に 王たちを打ち砕かれる。
 国々をさばき 屍で満たし
 広い地を治める首領を打ち砕かれる。
 主は道の傍らで 流れから水を飲まれる。
 こうして その頭を高く上げられる。

と記されています。
 この詩篇110篇は、基本的に、霊的な戦いにおけるメシアの支配のことを預言として記しています。そして、そのメシアについて、二つのことを記しています。
 一つは、1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることです。ここでは、「」がダビデ契約において約束しておられる、まことのダビデの子として来られるメシアが、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座である「」の右の座に着座されること、そして、「」がメシアの敵をその足台をされることを預言として示しています。
 これは霊的な戦いにおけるメシアの勝利のことを示しています。このことについては、すでに、いろいろな機会にお話ししてきましたので、途中の中断を除きますが、先の2回のお話で特に注目してきたのは、もう一つのことです。
 それは、4節に、

 は誓われた。思い直されることはない。
 「あなたは メルキゼデクの例に倣い
 とこしえに祭司である。」

と記されていることです。
 ここでは、「」がそのメシアを「メルキゼデクの例に倣い」「とこしえに祭司」とされるということが預言として示されています。
 旧約聖書においてメルキゼデクのことに触れているのは創世記14章18節ー20節と詩篇110篇4節だけです。そして、新約聖書においてメルキゼデクのことに触れているのはヘブル人への手紙だけ(5章6節、10節、6章10節、7章1節、10節、11節、15節、17節)です。
 前回は、ヘブル人への手紙7章1節ー3節に、

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

と記されていることについてお話ししました。
 そして、その結論として、ヘブル人への手紙の著者は、創世記14章18節ー20節と詩篇110篇4節に記されていることに基づいて、メルキゼデクが「サレムの王」でありつつ「いと高き神の祭司」でもあるのと同じように、ダビデ契約において約束されている、まことのダビデの子として来られるメシアが、とこしえの王でありつつ、とこしえに「」の祭司でもあることの意味を明らかにしているということをお話ししました。
 もう少し、ヘブル人への手紙に記されていることを見てみましょう。5章4節ー6節には、

また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、
 「あなたはわたしの子。
 わたしが今日、あなたを生んだ」
と語りかけた方が、それをお与えになったのです。別の箇所でも、
 「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、
 とこしえに祭司である」
と言っておられるとおりです。

と記されています。
 4節に出てくる「アロン」はモーセの兄で、「」が任命された最初の大祭司です。それで、大祭司としての栄誉は「」から与えられたものであるということになります。このことを受けて、「同様にキリストも、大祭司となる栄誉を」「」から与えられたということが示されています。
 注目したいのは、このことを示すには、詩篇110篇4節に記されている、

 あなたは、メルキゼデクの例に倣い、
 とこしえに祭司である

というみことばを引用するだけで十分なのに、ここでは、詩篇110篇と同様、メシア詩篇である詩篇2篇7節に記されている、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日、あなたを生んだ

というみことばをも引用しているということです。
 ここで引用されている詩篇2篇7節の、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日、あなたを生んだ

というみことばは、「」がダビデに契約を与えてくださったことを記している、サムエル記第二・7章12節ー14節に、

あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

と記されている「」の約束のみことばにおいて、

 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

と言われていることを受けています。
 ですから、ここでも、「」がダビデ契約において約束しておられる、まことのダビデの子として来られるメシアが、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座、すなわち、神の右の座に着座されることと、そのメシアが「メルキゼデクの例に倣い」とこしえの祭司であることが結び合わされています。


 ここで、一つの問題を考えてみましょう。
 それは、民数記25章1節ー13節に記されていることにかかわる問題です。
 順次、そこに記されていることを見ていきますと、1節ー3節には、

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。

と記されています。
 エジプトを出たイスラエルの民が荒野を旅している間のことですが、モアブの平原にある「シティム」という所で、モアブの娘たちに誘われたイスラエルの民は「バアル・ペオル」に身をささげてしまいました。「バアル・ペオル」はペオルのバアルという意味です。ペオルは23章28節で「荒れ野を見下ろすペオルの頂上」と言われている所で、そこに、その地方のバアル礼拝の中心となる神殿があったと考えられます。
 「民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた」と言われていることは、その後に記されていることから分かるように、身体的・性的な交わりを伴う、バアル礼拝に加わったということを意味しています。ですから、このイスラエルの民は十戒の第一戒と第二戒に背くとともに、第6戒(「姦淫してはならない」)にも背いています。
 3節には、このことに対して、

 の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。

と記されています。そして、4節ー5節には、

はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」

と記されています。
 ここには、「」がモーセに命じられたことと、モーセが「イスラエルのさばき人たちに言った」ことが一致していないのではないかという問題があって、さまざまに論じられてますが、込み入った話になってしまいますので、それに立ち入ることはいたしません。
 続く、6節には、

ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。

と記されています。
 9節には、

 この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。

と記されています。このことは、イスラエルの全会衆に大変な危機感とともに、大きな悲しみをもたらし、6節に記されているように、彼らは「会見の天幕の入り口」すなわち「」の栄光の御臨在がある所に集って「泣いてい」ました。
 そのような時に、「一人のイスラエル人の男がやって来」て、モーセと全会衆の目の前で、「一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。」と言われています。この二人の名前と素性は、引用しませんが、14節ー15節に記されています。それぞれの民(イスラエル人とミディアン人)の一族のかしらの息子であり娘でした。その「ミディアン人の女」も、「モアブの娘たち」に混じって、ペオル・バアルを拝んでいて、イスラエルの民を誘ったと考えられます。
 続く7節ー8節には、

祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。

と記されています。
 この時、「イスラエルの子らへの主の罰が終わった」のですから、この時までに「主の罰で死んだ者は、二万四千人であった」ということになります。
 そして、このことを受けて、10節ー13節には、

はモーセに告げられた。「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」

と記されています。[注]

[注]ちなみに、ここに記されている「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハス」は、列王記第一・18章に記されている、450人のバアルの預言者と対決したエリヤとともに、中間時代(旧約聖書に記されている時代と新約聖書に記されている時代の間の時代、約400年あまり)に「」の律法への熱心の模範とされていったようです。その時代のユダヤ教文献に精通しているマルティン・ヘンゲルは、
それは、マカベア時代以来、特別な仕方でラジカルな宗教グループの理想となったものである。このような「熱心者」は、重大な律法違反の暴力行為から神殿と律法を守るために自分の命を投げ出し、暴力さえ用いる用意を無条件にしていたのである。それは、神の怒りをイスラエルからそらすためであった。
と述べています。そして、それは、パウロが、ガラテヤ人への手紙1章13節ー14節において、

ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。

と記していることの背景となっているとしています(M・ヘンゲル、『サウロ キリスト教回心以前のパウロ』、146頁)。

 今お話ししていることとのかかわりで問題となるのは、「」がモーセに、「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハス」について、

それゆえ、言え。「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。」

と告げられたことです。
 モーセ律法の規定では、レビ族に属するモーセの兄であるアロンの子孫が「」の御前に仕える祭司となり、それぞれの長子が大祭司となることになっています。そして、このモアブの平原における出来事を受けて、「」はモーセをとおして、アロンの子エルアザルの子ピネハスに、「わたしの平和の契約を与える」と言われ、それはピネハスとその子孫にとって「永遠にわたる祭司職の契約となる」と告げられました。
 ところが、詩篇110篇では、ユダ族に属するダビデの子として来られて、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるメシアが、

 メルキゼデクの例に倣い
 とこしえに祭司である

と言われているのです。

 ヘブル人への手紙はこの問題も取り扱っています。
 前回お話ししたように、イスラエルの父祖アブラハムは、ケドルラオメルとその連合軍との戦いに勝利して帰って来た時、サレムの王にして「いと高き神」の祭司であるメルキゼデクの祝福を受け、メルキゼデクに戦いで奪い取ったものの十分の一を与えました。メルキゼデクをとおして、アブラハムも信じている「いと高き神」、アブラハムに敵を渡された方に、その十分の一を献げたということです。
 このことを受けて、ヘブル人への手紙7章では、二つのことを示しています。
 一つは、前回も引用した7節に、

 言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。

と記されていることです。これによって、メルキゼデクはアブラハムにまさる者であるということが示されています。
 もう一つは、9節ー10節に、少し補足を加えますが、

言うならば、[イスラエルの民から]十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して[メルキゼデクに]十分の一を納めたのでした。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

と記されていることです。
 ここでは、前回お話ししたように、アブラハムから十分の一を受け取ったメルキゼデクは、アブラハムにまさる者であるということが踏まえられています。それとともに、イスラエルは父祖アブラハムをかしらとする契約共同体であるということ、それゆえに、父祖アブラハムに与えられた契約にあずかっているということが踏まえられています。
 それで、レビとメルキゼデクの関係は、アブラハムとメルキゼデクの関係を反映していることになります。このことは、さらに、レビの子孫であるアロンとメルキゼデクの関係にも当てはまりますし、アロンの子エルアザルの子であるピネハスとメルキゼデクの関係にも当てはまります。
 そして、私たちの主イエス・キリストは、この

 メルキゼデクの例に倣い
 とこしえに祭司である

と言われている方です。
 けれども、それでは、「」がモーセをとおして、ピネハスに、「わたしの平和の契約を与える」と言われ、それはピネハスとその子孫にとって「永遠にわたる祭司職の契約となる」と告げられたことはどうなるのでしょうか。
 これについては、ヘブル人への手紙7章16節ー19節には、イエス・キリストのことが、

この方について、こう証しされています。
 「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、
 とこしえに祭司である。」
一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、―― 律法は何も全うしなかったのです―― もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。

と記されています。
 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、ここに記されていることは、この引用の最後に、

 これによって私たちは神に近づくのです。

と記されていることを基準としてて、そのことに関しては、モーセ「律法は何も全うしなかった」ということです。
 ヘブル人への手紙でこの後に記されていることをこれに当てはめてみましょう。
 モーセ律法に基づいて立てられたアロンの子孫である祭司たちは、地上の聖所で仕えていました。しかし、それは「本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所」(9章24節)であり、「天上にある本体」の「写し」(9章23節)でしかありません。
 彼らはそこで動物のいけにえを献げていました。しかし、「それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません」(9章9節)。
 また、その祭司たちは繰り返しいけにえを献げました。しかし、どんなに繰り返しても、「それらは決して罪を除き去ることができません」(10章11節)。
 これに対して、9章24節には、

キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。

と記されています。
 また、10章10節には、

イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

と記されていますし、14節には、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された

と記されています。
 そして、このことを受けて、10章19節には、

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

と記されています。
 言うまでもなく、この「聖所」は天にあるまことの聖所、すなわち、父なる神さまと栄光のキリストがご臨在しておられる所です。ですから、「これによって私たちは神に近づくのです。」と言われていることが、「キリスト・イエスにあって」、今すでに、私たちの現実になっています。それは、私たちの日々の歩みにおいて現実になっていることですが、特に、主の日のキリストのからだである教会における礼拝においてのことです。
 これらのことから分かりますが、アロンの子エルアザルの子であるピネハスとその子孫は、「本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所」において仕える祭司として、いわば、その地上にある聖所が続くかぎり「いつまでも」祭司として仕えることが約束されていたのです。その意味で、それには天にあるまことの聖所の永遠性を写し出す「地上的なひな型」としての限界がありました。
 このことは、ダビデの血肉の子孫である王たちのダビデ王朝が、古代オリエントの国々の歴史においては、例外的に長く続いたことが、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座、すなわち、天にある神の右の座の永遠性を写し出す「地上的なひな型」としての限界の中にあったことと同じです。


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