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説教日:2021年5月9日 |
1章20節ー21節前半に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。 と記されていることは、メシア詩篇(メシアのことを預言的に記している詩篇)である、詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることが成就しているということを示しています。 それで、21節前半に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で、「主」が約束のメシアに「あなたの敵」と呼んでおられる暗闇の主権者たちです。そして、ここ20節ー21節前半では、約束のメシア(キリスト)が着座された、神さまの右の座は、「すべての支配、権威、権力、主権」の「はるか上に」あることが示されています。[注] [注]ここで「はるか上に」としていることば[前置詞(ヒュペラノー)、新改訳2017年版「上に」、第3版「上に高く」]については、すでに注釈したことがありますが、説明不足でしたので、もう少し説明させていただきます。 BDAG(ギリシア語のレキシコン)は、「(high) above」として、文脈によって、「はるか上に」(第3版の「上に高く」)を意味する可能性を示しています〔ここまでは、先に説明しています〕。 文脈の上からは、なによりも、栄光のキリストが着座された所が父なる神さまの右の座であるということから、このことばは「はるか上に」という強調の意味合いを伝えていると考えられます。そのことは、さらに、次の二つのことからも支持されます。 第一に、 先ほどお話ししたように、19節ー20節のつながりにおいては、神さまは(19節に記されている)「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を「キリストのうちに働かせた」と言われています。ここでは、「大能」(イスキュース)、「力」(クラトス)、「働き」(エネルゲイア)と、「(すぐれた)力」(デュナミス)という、神さまの力を表すことばが四つ重ねられて強調されています。 第二に、21節では、それによって、栄光のキリストがこれら暗闇の主権者たちだけでなく、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」という、およそ考えうるすべての主権の上にあることが示されています。 このことは、栄光のキリストが、すでに、暗闇の主権者である「すべての支配、権威、権力、主権」にはるかに優る主権を確立しておられ、霊的な戦いにおいて、原理的・実質的に勝利しておられることを意味しています。 そして、このことは、さらに、2章6節において、この「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」ていただき、キリストと「ともに天上に座らせて」いただいていると言われている、私たちも、すでに、「すべての支配、権威、権力、主権」などの暗闇の主権者たちにまさる主権の座に着座させていただいているということを意味しています。さらには、それゆえに、私たちは「キリスト・イエスにあって」、霊的な戦いにおいて、原理的・実質的に勝利しているということを意味しています。 私たちは、自分が「キリスト・イエスにあって」、すでに、キリストと「ともによみがえらせ」ていただいていることは信じています。けれども、キリストと「ともに天上に座らせて」いただいているということは、それほど心に留まらないことであったかもしれません。さらに、キリストと「ともに天上に座らせて」いただいているということは、「すべての支配、権威、権力、主権」など、サタンをかしらとする暗闇の主権者にまさる主権の座に着座させていただいていることであるということは、なかなか実感できないことかもしれません。それは、私たちが地上の歩みにおいて、自分自身のさまざまな限界を感じているからですし、それ以上に、自分のうちにある罪の深さを痛感させられているからでしょう。 このようなことを踏まえて、先にお話しし始めた詩篇110篇について、もう少しお話ししていきたいと思います。 それによって、「キリスト・イエスにあって」ということ――神さまが、御霊によって、私たちを「キリスト・イエスにあって」と一つに結び合わせてくださっていることの豊かさの一端を、さらに理解することができればと思います。ただ、今日は、その入口のようなお話になります。 詩篇110篇1節には、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 主はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。 「あなたの敵のただ中で治めよ」と。 あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える。 聖なる威光をまとって 夜明け前から。 あなたの若さは朝露のようだ。 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 あなたの右におられる主は 御怒りの日に 王たちを打ち砕かれる。 国々をさばき 屍で満たし 広い地を治める首領を打ち砕かれる。 主は道の傍らで 流れから水を飲まれる。 こうして その頭を高く上げられる。 と記されています。 先にお話ししたとおり、詩篇110篇全体が、基本的に、霊的な戦いにおけるメシアの王としての支配のことを預言として記しています。 そして、その中で、さらに、メシアについて、二つのことが記されています。 一つは、1節に 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることです。 ここでは、すでにお話ししてきたように、「主」がダビデ契約において約束しておられる、まことのダビデの子として来られるメシアが、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座である「主」の右の座に着座されることと、「主」がメシアの敵をその足台をされることが、預言として示されています。 もう一つのことは、4節に、 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されていることです。 ここでは、「主」がそのメシアを「メルキゼデクの例に倣い」「とこしえに祭司」とされるということが預言として示されています。 このことには、いくつか問題がありますが、今お話ししていることとのかかわりで、二つのことをお話しします。 その一つは、「メルキゼデク」についてです。もう一つは、ここに示されていることがイエス・キリストにおいて成就していることを示している新約聖書の教えです。 ただし、今日は、最初の「メルキゼデク」について、それも途中までしかお話しできません。 「メルキゼデク」のことは、創世記14章17節ー20節に、 アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。 「アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。 いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」 アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。 と記されています。 ここでは、この時はまだ「アブラム」と呼ばれていたアブラハムが「ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来た」と言われています。「ケドルラオメルと彼に味方する王たち」は、1節にその名が出てくる、メソポタミアの四人の王たちのことです。 1節ー12節には、その一人である「ケドルラオメル」は、カナンの五人人の王たちをも支配下に置いていましたが、カナンの五人の王たちが背いたので、メソポタミアの四人の王たち(の連合軍)が、彼らを討伐するために、その途上にある国々を征服しながら、やって来たこと、そして、当時「シディムの谷」と呼ばれた死海の谷で、カナンの五人の王と戦って、彼らを打ち破ったこと、さらに、その際に、アブラハムの「甥のロトとその財産も奪って行った」ことが記されています。 続く13節ー16節には、アブラハムがロトの身に起こったことを聞いて、盟約を結んでいた「アネルとエシュコルとマムレ」と共同してのことですが(24節)、アブラハムの「家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて」、メソポタミアの四人の王たちを追跡し、夜襲を仕掛けて彼らを打ち破り、奪い取られた「すべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻し」たことが記されています。 この後の21節ー24節に記されていることから、アブラハムはロトとその家族としもべたちや財産だけでなく、ソドムの王の家来たちや財産をも取り戻したことが分かります。そればかりでなく、メソポタミアの四人の王たちが遠征の途上で征服した民から奪い取っていたものも(その時に彼らがなおもそれらを保持していればのことですが)、そのすべてとは言えないでしょうが、奪い取った可能性もあります。というのは、アブラハムには、ロトとその家族と財産は分かったとしても、ソドムの王のものがどれなのかまでは分からなくて、奪い取った後になって取り返した人々の話を聞いて分かったと考えられるからです。 いずれにしても、その当時の考え方では、戦いにおいて奪い取ったものは、それを奪い取った人のものとなるとされていました。 そして、これに続いて、先ほど引用した17節ー20節に記されているように、「いと高き神の祭司」で「サレムの王」であった「メルキゼデク」が、「パンとぶどう酒を持って」、戦いから戻ってきたアブラハムを出迎えたことが記されています。 その際に、メルキゼデクは、 アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。 いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。 と言って、アブラハムを祝福しました。 メルキゼデクは、「いと高き神、天と地を造られた方」が「敵」であるメソポタミアの四人の王たちをアブラハムの手に渡されたと述べて、「いと高き神、天と地を造られた方」に一切の栄誉を帰しています。 これに続いて、 アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。 と記されています。これは、アブラハムがメルキゼデクの祭司としての祝福に応答してなしたことです。このすべてのことにおいて、「いと高き神、天と地を造られた方」に一切の栄誉を帰すべきであり、この方があがめられるべきであるということおいて、アブラハムとメルキゼデクは心を一つにしています。 実際、アブラハムに盟約者の「アネルとエシュコルとマムレ」がいたとしても、彼らもカナンの五人の王たちほどの兵力はもっていなくて、アブラハムと同じ程度の兵力しかもっていなかったと考えられます。それで、アブラハムと盟約者たちの力は、メソポタミアの四人の王たちの連合軍とは比べものにはなりません。いくらメソポタミアの四人の王たちが遠征を終えて引き上げる途上で油断をしていたところに夜襲を仕掛けたとしても、普通であれば、せいぜい、一時的な混乱を引き起こしただけで、連合軍は態勢を立て直して、アブラハムと盟約者たちを制圧していたことでしょう。確かに「いと高き神、天と地を造られた方」が、「敵」をアブラハムの手に渡されたのです。 21節ー24節に記されているように、アブラハムはこのことで、ソドムの王が「アブラムを富ませたのは、この私だ」というようになることを見越して、自分が取り戻したソドムの王のもの――それらは、当時の考え方では、アブラハムのものになっています――を何一つ自分のものとしませんでした。すべてソドムの王に与えたのです。アブラハムは、本当に、これらすべてのことにおいて、「いと高き神、天と地を造られた方」に一切の栄誉を帰していました。 この「メルキゼデク」は「サレムの王」であったと言われています。「サレム」については、一致した見方があるわけではありません(シェケムであるという説もあります)が、一般的には、エルサレムのことであると考えられています。 また、メルキゼデクは、「いと高き神の祭司であった。」と言われています。19節に記されているように、メルキゼデクは「いと高き神」(エール・エルヨーン)のことを「天と地を造られた方」であると言っています。また、22節には、アブラハムが、 私は、いと高き神、天と地を造られた方、主に誓う。 と言ったことが記されています。ここでアブラハムは、「いと高き神」が「天と地を造られた方」であるということだけでなく、その方が契約の神である「主」であると言っています。これは、アブラハムが、メルキゼデクが祭司として仕えている「いと高き神」は、自分が信じている「主」であるということを、意識的に表明したものであると考えられます。アブラハムと同時代に、メルキゼデクはアブラハムと同じ神を信じていました。 このメルキゼデクについて、ヘブル人への手紙7章1節ー3節には、 このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。 と記されています。 3節には、メルキゼデクについて、 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。 と記されています。 このことは、先ほど引用した創世記14章18節ー20節に記されているみことばには記されていません。これについてはいろいろなことが論じられていますが、結論的なことをお話しします。 まず、そのために、見ておきたいことがあります。 4節には、 さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。 と記されています。ここでは、アブラハムがメルキゼデクに「一番良い戦利品の十分の一を与え」たことが取り上げられています。これはメルキゼデクがアブラハムにまさる立場にあることを示しています。 さらに、7節においては、メルキゼデクがアブラハムを祝福したことについて、 言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。 と記されています。このことも、メルキゼデクがアブラハム「よりすぐれた者」であることを示しています。 ヘブル人への手紙の著者は、創世記14章18節ー20節に記されていることから、このようなことを汲み取っています。 このこととともに、著者は、「サレムの王で、いと高き神の祭司」であり、イスラエルの民の父祖であるアブラハムにまさる立場にあるとされているほど重要なメルキゼデクのことが、聖書では、創世記14章18節ー20節に突然、登場してきて、その後のことも――私たちとしては、さぞかし、アブラハムと豊かな交わりがあったことだろうと思ってしまいますが――、ぷっつりと切れてしまっていることに注目したと考えられます。 というのは、ヘブル人への手紙7章においては、引用した1節ー3節に記されていることに続いて、メルキゼデクとモーセ律法に規定されているレビの子孫であるアロンから始まる祭司が対比されていますが、このレビの子孫である祭司にとっては、そのアロンから始まっている家系が大切なことになっていて、それが記録されているのに、メルキゼデクの場合には、その先祖も子孫も記されていないからです。 旧約聖書においては、メルキゼデクのことは、この創世記14章18節ー20節の他には、詩篇110篇4節に出てくるだけです。 ヘブル人への手紙の著者は、詩篇110篇4節に、 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されていることに注目して、7章17節で引用しています。 そして、この詩篇のみことばから、メルキゼデクもとこしえの祭司であるということを汲み取ったと考えられます。 このようなことから、ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクが「サレムの王」でありつつ「いと高き神の祭司」でもあるのと同じように、ダビデ契約において約束されている、まことのダビデの子として来られるメシアが、とこしえの王でありつつ、とこしえに「主」の祭司でもあることの意味を明らかにしています。 私たちもそのことから、このとこしえの王でありつつ、とこしえに「主」の祭司であられる方と、御霊によって一つに結び合わされていることの豊かな意味の一端を汲み取りたいと思わされます。 このことについては、日を改めて、お話しします。 |
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