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説教日:2021年5月2日 |
このこととのかかわりでお話ししたいのですが、コリント人への手紙第一・15章45節には、 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 と記されています。 ここには「最初の人アダム」と「最後のアダム」という歴史的な対比があります。言うまでもなく、「最後のアダム」は、まことの人の性質を取って来られた御子イエス・キリストのことです。ここでは、特に、十字架の死に至るまでに父なる神さまのみこころに従いとおされて、その完全な従順に対する報いとして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリスト、すなわち、栄光のキリストのことです。 この「最初の人アダム」と「最後のアダム」の対比は、21節ー22節に、 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 と記されている対比を受けています。 この21節ー22節や、引用はしませんが、同様のことを記しているローマ人への手紙5章12節ー21節に記されていることは、「アダム」と「キリスト」が、それぞれ、「アダム」にある「すべての人」と、「キリスト」にある「すべての人」の「かしら」であるということ示しています。そして、この場合の「アダム」と「キリスト」は、神である「主」との契約関係における「かしら」として立てられているということを意味しています。――このことは、神である「主」との契約関係におけることとして捉えることによって初めて理解できることです。 「最初の人アダム」は、天地創造の御業において最初の人として造られ、神である「主」との契約関係において、人類全体の契約のかしらとして立てられていました。 また、この21節ー22節や、ローマ人への手紙5章12節ー21節に記されていることに限らず、聖書全体の啓示に照らして見ると分かることですが、神である「主」はご自身の契約において、人が創造の御業において神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに完全に従いとおした時には、その従順に対する報いとして、より豊かな栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちもつ者としてくださることを約束してくださっていました。 このことを踏まえて記されていると考えられるみことばの一つは、ピリピ人への手紙2章6節ー11節です。 そこには、 キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。 それは、イエスの名によって、 天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、 すべての舌が 「イエス・キリストは主です」と告白して、 父なる神に栄光を帰するためです。 と記されています。 今お話ししていることとかかわることだけに注目しますと、「神の御姿であられる」「キリストは」「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」。これは、前半の6節ー8節の締めくくりとして記されている8節の「死にまで、それも十字架の死にまで従われました」ということばが示しているように、「キリスト」が父なる神さまのみこころに従ってなしておられることであると考えられます。 ただ、前半の6節ー8節では、「キリスト」が、ここに記されていることを、ご自身の意志によって進んでなしておられるということが強調されているために、7節では、「キリスト」が「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ」たということを、父なる神さまのみこころに従ってなしておられるということは明示されていません。 この場合、「キリスト」がご自身の意志によって、6節ー8節に記されていることを進んでなしておられるのは、父なる神さまへの愛によっていますが、同時に、私たち、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落し、罪と死の力に捕らえられてしまっている者たちを愛してくださってのことです。また、「キリスト」が父なる神さまのみこころに従ってなしておられるというときの「父なる神さまのみこころ」は、やはり、ご自身に対して罪を犯して、ご自身に背を向けて歩んでいた私たちへの愛に基づくみこころであり、私たちへの愛から出ているみこころです。 それで、「神の御姿であられる」「キリスト」が「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」と言われていることは、このこと自体が、私たちの思いをはるかに越えた「キリスト」のへりくだりですが、このようにまでしてくださっておられることに現されている「キリスト」の愛も、私たちの思いをはるかに越えています。 これだけでも、私たちの思いをはるかに越えたことであるのに、「神の御姿であられる」「キリスト」は、その人としてのあり方において、さらに、「死にまで、それも十字架の死にまで[父なる神さまのみこころに]従われ」ました。それによって、父なる神さまに対して罪を犯して、御前に堕落し、父なる神さまに敵対して歩んでいた私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを、十字架の上で、私たちに代わってすべて受けてくださったのです。「神の御姿であられる」「キリスト」が、これほどまでに私たちと一つとなってくださっています。 このようにして現されている、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に触れるとき、私たちはことばを失います。 そのことを心に刻みつつのことですが、今お話しいていることとかかわることに目を向けますと、この6節ー8節に記されていることを受けて、9節に、 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。 と記されていることは、父なる神さまが、「キリスト」の十字架の死に至るまでの従順に報いてくださって、「キリスト」に栄光をお与えになったことを示しています。 しかし、イエス・キリストはもともと「神の御姿であられる」方であり、永遠に「神の御姿であられる」方ですから、ご自分のために栄光をお受けになる必要はありません。ですから、このことは「神の御姿であられる」「キリスト」が「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」と言われているように、まことの人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストに起こったことで、「キリスト」の人としての性質が栄光化されたということです。 「キリスト」が「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」と言われているときの「キリスト」の人としての性質は、神さまが創造の御業において最初の人アダムを神のかたちとしてお造りになった時の、アダムの人としての性質と同じ状態――罪を犯して、堕落するようになる前のアダムと同じ状態にありました。その人としての性質がより豊かな栄光に満ちたものになったのです。 このことは、先ほどお話ししたように、神である「主」がご自身の契約において、人が創造の御業において神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに完全に従いとおしたときには、その従順に対する報いとして、より豊かな栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちもつ者としてくださることを約束してくださっていたということが、「キリスト」において実現しているということにほかなりません。 そして、このより豊かな栄光に満ちたいのちは、もともと「神の御姿であられる」「キリスト」がご自身のために受けたものではなく、私たちご自身の民の契約のかしらとして、私たちご自身の民のために受けてくださったものです。 これによって、コリント人への手紙第一・15章21節ー22節に、 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 と記されているときの「死者の復活も一人の人を通して来る」といことや「キリストにあってすべての人が生かされる」ということが私たちご自身の民の現実となっています。 造り主である神さまと神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人との契約関係を、さらに別の面から見てみましょう。 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりにあります。人は初めから神さまとの愛の交わりに生きる者として造られています。 しかし、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられ、人ばかりでなく御使いたちも含めて、ご自身がお造りになったものとは絶対的に区別される方です。神さまが、ご自身がお造りになったものと絶対的に区別される方であることが、神さまの聖さの本質です。 その神さまが創造の御業を遂行されたのですが、それは、無限、永遠、不変の栄光の神さまがお造りになるものとかかわってくださることです。もし無限、永遠、不変の栄光の神さまが、直接、造られるものにかかわる(触れる)ようなことがあるとすれば、何かが造り出された瞬間に、造り出されたものは神さまの無限の栄光によって焼き尽くされていまいます。ですから、神さまが創造の御業を遂行された時には、人間にたとえた言い方ですが、限りなく身を低くされ、その無限の栄光をお隠しになって、創造の御業を遂行されたのです。 そして、神さまのみことばは、そのようにして、創造の御業を遂行された方は、三位一体の第二位格である御子であったと証ししています。 ヨハネの福音書1章3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されています。「この方」は、1節において、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と言われている永遠の「ことば」、すなわち、御子です。 また、コロサイ人への手紙1章16節には、 万物は御子によって造られ、御子のために造られました。 と記されています。 さらに、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節前半には、 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と記されています。 ここでは、御子が、父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業を遂行されましたし、お造りになったすべてのものを真実に支え、導いてくださっていることが示されています。 これらのことを踏まえますと、神のかたちとして造られている人が神さまとの愛の交わりに生きることができるためには、神さまが、限りなく身を低くされて、人とともにいてくださらなければならないことが分かります。 そして、神さまは、実際に、そのようにしてくださることをご自身の契約において約束してくださり、実現してくださっています。 そのように、限りなく身を低くして、人の間にご臨在してくださっているのは、契約の神である「主」です。 この「主」と訳されている御名(ヤハウェ)は、神さまの固有名詞としての御名です。これは、基本的には、神さまがご自身で存在しておられる方であられ、およそこの世界に存在しているすべてのものを存在させ、ご自身の契約に基づいて真実に支えておられる方であること(参照・エレミヤ書33章20節ー22節、25節ー26節)と、そのような方として、ご自身の契約に対して真実な方であり、その契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方であることを示しています。 「最初の人アダム」は神のかたちとして造られていますが、創世記2章7節に、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されているように、「大地のちり」で形造られたものです。そのかぎりにおいて「最初の人アダム」は神である「主」に対して罪を犯すこともありえる状態にありました。 コリント人への手紙第一・15章45節で、 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」 と言われているのは、アダムが神のかたちとして造られた時のことで、アダムが罪を犯すようになる前のことです。そのアダムは神のかたちとしての栄光を与えられていました。 けれども、人類の契約のかしらである「最初の人アダム」は、契約の神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、罪と死の力に捕らえられ、服するものとなってしまいました。それによって、すべての人が契約のかしらである「最初の人アダム」にあって、堕落して、死の力に捕らえられ、服するものとなってしまいました。これが、21節ー22節において、「死が一人の人を通して来た」とか、「アダムにあってすべての人が死んでいる」と言われていることの意味です。 これに対して、「最後のアダム」として来られたイエス・キリストは、その十字架の死に至るまでの生涯において、最後まで、また完全に父なる神さまのみこころに従いとおされて、ご自身の民の罪のための贖いを成し遂げてくださっただけでなく、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、栄光あるいのちをお受けになって、死の力を打ち砕いて、死者の中からよみがえられました。しかもそれは、ご自身のためではなく、ひとえに私たちをご自身の民を栄光あるいのちによって生かしてくださるためでした。これがコリント人への手紙第一・15章45節で、 最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 と言われていることです。 ただ、これには問題があります。 ここで、 最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 と言われているときの「最後のアダム」は、イエス・キリストのことです。その「最後のアダム」が「いのちを与える御霊となりました」と言われています。それで、これは、イエス・キリストと御霊の区別がなくなってしまったということを意味しているのだろうかという疑問が生まれてきます。 しかし、これは三位一体の御子と御霊の間の区別がなくなってしまったということではありません。三位一体の御父、御子、御霊は、それぞれが無限、永遠、不変の神です。それで御子は永遠に御子であられ、御霊は永遠に御霊であられます。そのことは、永遠に変わることはありません。 ですから、 最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 ということは、御子と御霊のそれぞれのあり方(存在)について言われることではありません。この場合は、「いのちを与える御霊」ということばが示しているように、御子と御霊のお働きについて言われていることです。――神学的な用語を用いて言いますと、これは、本体論的〔あるいは、内在的〕三位一体における御子と御霊の関係について言われることではなく、経綸論的(あるいは、経綸的)三位一体における御子と御霊の関係ついて言われることです。 御子イエス・キリストは約束のメシアとして、私たちのために贖いの御業を遂行されました。この「メシア」という称号は「油注がれた者」という意味です。もともとは、王や祭司や預言者などの特定の任務に就く者が頭から油を注がれたことから由来していますが、やがて約束の贖い主を指す専門用語のようになりました。この「メシア」に当たるギリシャ語が「キリスト」です。 イエス・キリストはメシアとしてのお働きを始められるに当たって、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。その時のことを記しているマタイの福音書3章16節ー17節には、 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 と記されています。イエス・キリストは御霊によって「油注がれた」まことのメシアです。 この時からイエス・キリストは御霊によって満たされ、御霊によって導かれて、メシアとしてのお働きを遂行されました。そして、十字架にかかってご自身の民のための罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。その栄光をお受けになったイエス・キリスト、すなわち栄光のキリストには、いのちの御霊がこの上なく豊かに満ちておられます。もともとメシアとして御霊に満たされていた方が、さらに、この上なく豊かに御霊に満たされるようになったということです。 この栄光のキリストは天に上って、父なる神さまの右の座に着座されました。そして「約束された聖霊を御父から受けて」、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、その「約束された聖霊」をご自身の契約の民に注いでくださいました。それで、先ほどお話ししたように、御霊は栄光のキリストの御霊、「御子の御霊」としてお働きになります。これによって、栄光のキリストは、私たちのいのちの源となってくださり、私たちを生かしてくださることにおいて、御霊とまったく一つとなって働いておられます。このことから、コリント人への手紙第一・15章45節では、 最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 と言われています。 このようにして、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、 最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 と言われているメシアとして、ご自身が遣わしてくださった御霊によって、私たちご自身の民を治めてくださり、私たちがより豊かな栄光にあって、神さまとお互いとの愛の交わりのうちに生きるように導いてくださいます。 そして、この栄光のキリストが遣わしてくださった御霊が、これまでお話ししてきた、来たるべき時代の歴史と文化を特徴づけ、生み出す原動力です。私たちは、すでに、この来たるべき時代に属する者としていただいており、栄光のキリストの御霊に導かれて、私たちの大祭司であられる栄光のキリストにあって、父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとお互いとの愛の交わりのうちを歩むことによって、来たるべき時代の歴史と文化造る使命を果たすように召されています。 |
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