黙示録講解

(第461回)


説教日:2021年4月25日
聖書箇所:ティアティラにある教会へのみことば(214)
説教題:ヨハネの黙示録2章18節ー29節


 今日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばと関連するお話を続けます。これまで、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししてきて、今は、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることについてお話ししています。
 ここでは、神さまが、私たちを「キリスト・イエス」と一つに結び合わせてくださって、キリストと「ともによみがえらせ」てくださりキリストと「ともに天上に座らせて」くださったと言われています。
 このことは、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されていることを踏まえています。
 このことは、この1章20節ー23節に記されていることと、2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることが、内容の上で対応しているということから分かるというだけではありません。
 1章20節の冒頭で、

 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて

と言われているときの「この大能の力」は(関係代名詞で表されていて)、その前の19節で、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と言われている中に出てくる「神の大能の力の働き」の「働き」(ヘー・エネルゲイア)を受けています。
 ですから、20節ー23節で、パウロは、19節で「私たち信じる者に働く(直訳「私たち信じる者のための」)」ものだと言われている「神の大能の力の働き」がどのようなものであるかを説明しているのです。
 具体的には、節の区切りを越えて、より直訳調の訳に沿って言いますと、神さまは、その「ご自身の大能の力の働き」を「キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ」、「天上で」、「すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか「高く」、「ご自分の右に着座させ」てくださった、ということが示されています。
 19節に記されていることに触れましたので、今日は、前回お話しし始めた、詩篇110篇に記されている関連することについてのお話を中断してしまいますが、以前お話しして、かなりの時が経ってしまっていることに、改めて、触れてから、もう少し関連することをお話ししたいと思います。
 エペソ人への手紙に記されていることの流れにおいて、1章20節ー23節に記されていることは、これとして独立しているのではありません。これは、1章15節から記されているパウロの祈りの一部です。15節ー19節には、

こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と記されています。
 最後の19節で、パウロの祈りは終わっているように見えますが、先ほどお話ししたように、続く20節の冒頭に出てくる「この大能の力」は(関係代名詞で表されていて)、その前の19節に出てくる「神の大能の力の働き」の「働き」を受けています。それで、20節ー23節に記されていることは、単なる説明ではなく、パウロの祈りという大きな枠の中にあります。
 19節で、パウロは、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と祈っています。そして、より具体的には、20節ー21節に記されているように、神さまが「キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ」、「天上で」、「すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか「高く」、「ご自分の右の座に着かせ」てくださった、「神の大能の力の働き」が、なんと、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」であるということを、私たちが知ることができるように願っています。
 ここで注目したいのは、パウロが、この祈りの中で、神さまが「キリストのうちに働かせ」た「ご自身の大能の力の働き」は、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」であると言っていることです。
 この15節ー19節、あるいは、より広く15節ー23節に記されている祈りで、パウロは「あなたがた」と呼んでいる、この手紙の読者たちのために祈っています。それで、19節でも、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

と祈っています。[注]

[注]ギリシア語では、この「あなたがたが知ることができますように」ということばは18節の前半に「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、あなたがたが知ることができますように」という形で出てきて、その後に、「あなたがたが知るようになるように」と祈り求めている三つのことが記されています。19節に記されているのはその三つ目のことです。

 パウロはよく考えた上で、あるいは、よく考えながら、この祈りを記していますから、19節で、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

という祈りのことばを記した時には、その「神のすぐれた力」が「どれほど偉大なものであるか」をすでに考えて、理解していた、と考えられます。つまり、その「神のすぐれた力」は、20節ー23節に記されている、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」のことであると考えていたからこそ、それが「どれほど偉大なものであるか」と記すようになったということです。それがどのようなものであるかを知らなかったら、それが「どれほど偉大なものであるかを、あなた方が知ることができますように」とは言わなかったことでしょう。
 それで、19節で、「あなたがたが知ることができますように」と祈っているパウロが、「神のすぐれた力」のことを「神の大能の力の働きによってあなたがた信じる者に働く神のすぐれた力」と記さないで、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」と記して、そこに自分自身を加えているのは、その時に、その神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」が、ほかならぬ、自分自身に働いていることを、改めて、現実的に感じ取って、心を動かされていたからであると考えられます。
 先ほど触れたように、20節ー23節に記されていることは、単なる説明ではなく、パウロが「あなたがた」と呼んでいるこの手紙の読者たちのための祈りの大きな枠の中にあります。それとともに、これは、パウロ自身にとって、大きな意味をもっていることとして、深く心に迫ってきていることでもあったのです。
 これは、パウロだけのことではありません。20節ー23節に記されている、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」は、神さまが私たちそれぞれに働かせてくださっているものです。
 このことを踏まえると、2章6節で、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われていることは、神さまが「キリストのうちに働かせ」たご自身の「大能の力の働き」を、「私たち信じる者に」働かせてくださったことによっているということが分かります。
 さらに、2章6節で、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われているときの「キリスト・イエスにあって」ということは、神さまが私たちを、1章20節ー23節に記されているキリストと一つに結び合わせてくださっていることを意味している、ということも分かります。ですから、2章6節では、神さまが私たちを1章20節ー23節に記されている「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、キリストと「ともに天上に座らせて」くださったということを示しているのです。


 これらのことを踏まえた上でお話ししたいのですが、先ほど、20節ー23節に記されている、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」は、神さまが私たちそれぞれに働かせてくださっているものであるということをお話ししました。そして、パウロがこのことを記した時には、それを自分自身のこととして現実的に感じ取っていたからこそ、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が「どれほど偉大なものであるか」と言っているし、その「偉大な」力が「私たち信じる者に働く」ものであると言っていると考えられる、ということをお話ししました。
 私はこのようなことをお話ししながら、果たして、そう言っている自分は、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」を、自分のうちにも働かせてくださっているということを、現実的に感じ取っているのだろうか、と考えてしまいます。
 このこととのかかわりで、二つのことをお話ししたいと思います。
 一つのことは、この19節において、パウロは、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

と祈っていますが、これは、パウロ自身も含めて、私たちが「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」をまったく知らないから、知ることができるようにと祈っているわけではない、ということです。
 私たちは、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」を、私たちそれぞれに働かせてくださって、2章5節ー6節に記されているように、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったこと、そのようにして、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださったことを、福音のみことばに基づいて信じていますし、それが私たちの現実であることを知っています。
 しかし、私たちは、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださり、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださった、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を、私たちなりに知っているだけです。
 「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」はとても豊かなものであり、その意味で「偉大なもの」です。私たちはそれが「どれほど偉大なものであるかを」知り尽くすことはできません。
 そうであるからこそ、パウロは、19節で、自分自身を含めて、私たちそれぞれが、その豊かさ、偉大さを、さらに深く知ることができるようにと祈っているのです。
 私たちが「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を、さらに深く知ることができるようになるためには、すでに神さまがその「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を私たちに働かせてくださって、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださり、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださったことを、福音のみことばに基づいて、さらに深く豊かに理解していくほかはありません。

 お話ししたいもう一つのことは、今お話ししたことの、先にあることです。
 私たちは「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」ということで、何を考えるでしょうか。
 私たちは「神の大能の力の働き」ということで、人が「アッ」と驚く、何か、とてつもない力のようなものを考えるかもしれません。あるいは、私たちの目にかなう大きなこと、私たちが願っていることを何でも実現してくれるような力であると考えるかもしれません。
 しかし、19節でパウロが祈っているときの「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、パウロ自身が私たちに示していることに従って理解しなければなりません。
 すでにお話ししたように、パウロは、神さまがこの「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、

キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記しています。
 けれども、これは、これとして独立しているのではありません。これは、2章4節ー5節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されていること、そして、神さまが「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことをさらに説明して、6節に(新改訳2017年版の訳を少し変えますが)、

すなわち、神は、私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることへとつながっています。
 言い換えますと、この2章4節ー6節に記されていることは、1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されている「神の大能の力」を、神さまが「私たち信じる者」に働かせてくださったことによって、私たちの現実になっているということです。
 このことを踏まえると、この「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、「あわれみ豊かな神」さまが、「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、私たちに働かせてくださっているものであることが分かります。
 しかも、ここ4節ー5節では、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われています。
 ここで「背きの中に死んでいた私たち」と言われているのは、同じ2章の1節ー2節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

と記されている私たちのことです。
 そのかつての私たちは、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったばかりでなく、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」(単数形)と言われている暗闇の主権者、霊的な戦いにおいて神さまに敵対しているサタンの支配下に置かれていて、サタンに従って、それゆえに、神さまに敵対して歩んでいた者でした。
 4節ー5節では、「あわれみ豊かな神は」そのような「私たちを愛してくださった」と言われています。そして、その「私たちを愛してくださったご自身の大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」と言われています。
 これに続いて、5節後半では、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われています。
 これは、いわば、カッコの中に入れられているようなことばです。それを生かして訳すと、4節ー6節は、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。―― すなわち、神は、私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

となります。
 5節後半で

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われていることでは、主語が「私たち」から「あなたがた」に変わっていて、記述の流れに割り込んできている形になっています。このことから、これはパウロが「あなたがた」と呼んでいる、この手紙の読者たちに、どうしても伝えたいと思って記したことであると考えられます。
 この神さまの一方的な「恵み」も「あわれみ豊かな神」さまの「私たちを愛してくださったその大きな愛」に基づくものです。
 先ほど、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」はとても豊かなものであり、その意味で「偉大なもの」である、と言いました。
 「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が、豊かなものであり、偉大なものであるのは、その「神のすぐれた力」が、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったばかりでなく、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」いた私たちをも愛してくださった「あわれみ豊かな神」の「大きな愛」によって働くものであることによっています。
 このことを踏まえて言いますと、1章19節で、パウロが、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

と祈っていることは、私たちが、2章4節ー6節に、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。―― すなわち、神は、私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されている、「あわれみ豊かな神」が「背きの中に死んでいた私たち」をも「愛してくださったその大きな愛」を信じて受け止め、神さまの「その大きな愛」のうちに留まり、「その大きな愛」のうちを歩むことの中で、私たちの現実になります。


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