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説教日:2021年4月25日 |
これらのことを踏まえた上でお話ししたいのですが、先ほど、20節ー23節に記されている、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」は、神さまが私たちそれぞれに働かせてくださっているものであるということをお話ししました。そして、パウロがこのことを記した時には、それを自分自身のこととして現実的に感じ取っていたからこそ、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が「どれほど偉大なものであるか」と言っているし、その「偉大な」力が「私たち信じる者に働く」ものであると言っていると考えられる、ということをお話ししました。 私はこのようなことをお話ししながら、果たして、そう言っている自分は、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」を、自分のうちにも働かせてくださっているということを、現実的に感じ取っているのだろうか、と考えてしまいます。 このこととのかかわりで、二つのことをお話ししたいと思います。 一つのことは、この19節において、パウロは、 神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 と祈っていますが、これは、パウロ自身も含めて、私たちが「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」をまったく知らないから、知ることができるようにと祈っているわけではない、ということです。 私たちは、神さまがキリストのうちに働かせた「ご自身の大能の力の働き」の驚くべき「働き」を、私たちそれぞれに働かせてくださって、2章5節ー6節に記されているように、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったこと、そのようにして、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださったことを、福音のみことばに基づいて信じていますし、それが私たちの現実であることを知っています。 しかし、私たちは、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださり、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださった、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を、私たちなりに知っているだけです。 「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」はとても豊かなものであり、その意味で「偉大なもの」です。私たちはそれが「どれほど偉大なものであるかを」知り尽くすことはできません。 そうであるからこそ、パウロは、19節で、自分自身を含めて、私たちそれぞれが、その豊かさ、偉大さを、さらに深く知ることができるようにと祈っているのです。 私たちが「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を、さらに深く知ることができるようになるためには、すでに神さまがその「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を私たちに働かせてくださって、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださり、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださったことを、福音のみことばに基づいて、さらに深く豊かに理解していくほかはありません。 お話ししたいもう一つのことは、今お話ししたことの、先にあることです。 私たちは「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」ということで、何を考えるでしょうか。 私たちは「神の大能の力の働き」ということで、人が「アッ」と驚く、何か、とてつもない力のようなものを考えるかもしれません。あるいは、私たちの目にかなう大きなこと、私たちが願っていることを何でも実現してくれるような力であると考えるかもしれません。 しかし、19節でパウロが祈っているときの「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、パウロ自身が私たちに示していることに従って理解しなければなりません。 すでにお話ししたように、パウロは、神さまがこの「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、 キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と記しています。 けれども、これは、これとして独立しているのではありません。これは、2章4節ー5節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と記されていること、そして、神さまが「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことをさらに説明して、6節に(新改訳2017年版の訳を少し変えますが)、 すなわち、神は、私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されていることへとつながっています。 言い換えますと、この2章4節ー6節に記されていることは、1章20節ー21節に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と記されている「神の大能の力」を、神さまが「私たち信じる者」に働かせてくださったことによって、私たちの現実になっているということです。 このことを踏まえると、この「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、「あわれみ豊かな神」さまが、「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、私たちに働かせてくださっているものであることが分かります。 しかも、ここ4節ー5節では、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と言われています。 ここで「背きの中に死んでいた私たち」と言われているのは、同じ2章の1節ー2節に、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 と記されている私たちのことです。 そのかつての私たちは、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったばかりでなく、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」(単数形)と言われている暗闇の主権者、霊的な戦いにおいて神さまに敵対しているサタンの支配下に置かれていて、サタンに従って、それゆえに、神さまに敵対して歩んでいた者でした。 4節ー5節では、「あわれみ豊かな神は」そのような「私たちを愛してくださった」と言われています。そして、その「私たちを愛してくださったご自身の大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」と言われています。 これに続いて、5節後半では、 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と言われています。 これは、いわば、カッコの中に入れられているようなことばです。それを生かして訳すと、4節ー6節は、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。―― すなわち、神は、私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 となります。 5節後半で あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と言われていることでは、主語が「私たち」から「あなたがた」に変わっていて、記述の流れに割り込んできている形になっています。このことから、これはパウロが「あなたがた」と呼んでいる、この手紙の読者たちに、どうしても伝えたいと思って記したことであると考えられます。 この神さまの一方的な「恵み」も「あわれみ豊かな神」さまの「私たちを愛してくださったその大きな愛」に基づくものです。 先ほど、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」はとても豊かなものであり、その意味で「偉大なもの」である、と言いました。 「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が、豊かなものであり、偉大なものであるのは、その「神のすぐれた力」が、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったばかりでなく、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」いた私たちをも愛してくださった「あわれみ豊かな神」の「大きな愛」によって働くものであることによっています。 このことを踏まえて言いますと、1章19節で、パウロが、 神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 と祈っていることは、私たちが、2章4節ー6節に、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。―― すなわち、神は、私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されている、「あわれみ豊かな神」が「背きの中に死んでいた私たち」をも「愛してくださったその大きな愛」を信じて受け止め、神さまの「その大きな愛」のうちに留まり、「その大きな愛」のうちを歩むことの中で、私たちの現実になります。 |
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