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説教日:2021年4月11日 |
このことは、旧約聖書に記されていることには示されていなくて、新約聖書において初めて示されるようになったということではありません。このことには、旧約聖書に記されていることの背景があります。その背景は、いくつかの個所に示されているというよりもはるかに広いものです。 旧約聖書の背景を考えるために、まず、詩篇110篇に記されていることの根底にある「主」がダビデに与えてくださった契約(ダビデ契約)のことをお話しします。 「主」がダビデに契約を与えてくださったことには、いきさつがあります。サムエル記第二・7章1節ー2節には、 王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」 と記されています。ここで、ダビデは、「主」がイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださって、「周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えて」くださっているのに、「神の箱」すなわち契約の箱――その上蓋である「宥めの蓋」の両端に造られたケルビムの間に「主」の栄光の御臨在がありました(出エジプト記25章22節)――はまだ「天幕の中に宿っている」ということから、「主」が「住む家」すなわち神殿を「建てようという」(5節)志を預言者ナタンに告げています。 このことを受けて、「主」はナタンをとおして、ダビデに契約を与えられたのです。それで、ダビデ契約は、もともと、「主」が住まわれる「家を建て」ることにかかわっています。 「主」がダビデに与えてくださった契約のことは、12節ー16節に記されています。その中心である12節ー14節前半には、 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。。 という「主」が(ナタンをとおして)語られたみことばが記されています。 この契約において、「主」はダビデの後に、ダビデの「身から出る世継ぎの子を」起こしてくださり、その「王国を確立させ」てくださることを約束してくださいました。そして、そのダビデの子が「主」の「名のために一つの家[「家」の単数]を建て」るようになることと、「主」がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださることを約束してくださいました。 このように、ダビデ契約においては、ダビデの子が「主」の「名のために一つの家を建て」るようになることと、「主」がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださることが約束されていました。 しかし、ダビデの世継ぎの子として生まれたソロモンは、その王国を拡大し、繁栄させ、エルサレムのシオンの丘に壮大な神殿を建設しましたが、晩年になって、外国からめとった妻たちにそそのかされて偶像の神々に従うようになり、その礼拝所である「高き所」を築きました(列王記第一・11章1節ー8節)。「主」はソロモンに御怒りを発せられ、王国はソロモンの死後、北の10部族からなる北王国イスラエルと南の2部族(ユダとベニヤミン)からなる南王国ユダに分裂し、北王国イスラエルはソロモンの家来であったヤロブアムに与えられました(列王記第一・11章26節ー39節)。 北王国イスラエルの王たちは偶像の神々に仕え、「主」のさばきを招き、謀反によって、王朝は断絶することが繰り返されました。そして、前722年に、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。 南王国ユダにおいても、ダビデの血肉の子である王たちの背教が続き、「主」の御怒りを引き起こしましたが、「主」はダビデ契約の約束を守られて、ダビデ王朝を保持されました(列王記第一・11章34節、15章4節、列王記第二・8章19節)。そして、時には、「主」に忠実な王たちを起こしてくださいました。それでも、ユダ王国の背教の流れは止むことがなく、特に、「主」に忠実な王であったヒゼキヤの子マナセの罪において頂点に達します(列王記第二・21章10節ー16節)。その後、マナセの孫であるヨシヤによる改革がなされました(列王記第二・22章1節ー23章28節)が、それも、マナセの罪がもたらした「主」の御怒りを静めるものではありませんでした(列王記第二・23章26節)。ヨシヤに続く王たちも先祖たちの罪に倣う者であり、586年に、南王国ユダは、マナセの罪のゆえに(列王記第二・24章3節ー4節)、バビロンによって滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。 このことは、二つのことを意味しています。 一つは、ダビデの血肉の子たちにも、ソロモンが建てたエルサレム神殿にも、「地上的なひな型」としての限界があったということです。その限界の中心にあったのは、人の手によって建てられたエルサレム神殿において献げられていた動物のいけにえの血によっては、人の罪を贖うことができなかったということです。ヘブル人への手紙9章9節には、神殿の全身である幕屋について、 この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。 と記されていますし、10章1節には、 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。 と記されています。 もう一つのことは、それらは、「地上的なひな型」として「来たるべき良きもの」すなわち、その「実物」、「本体」を指し示していたということです。 ダビデ王朝はこのような結末を迎えましたが、ダビデが即位した前1011/1010年からバビロンによってエルサレムが陥落した586年までの425年ほど存続し、その間に、ダビデとその血肉の子孫が22代にわたって王として治めました。これはその当時の古代オリエントの王朝としては稀なことです。この、ダビデの血肉の子たちの王朝が一方にはエジプト、他方にはアッシリアやバビロンなどのメソポタミアの帝国のせめぎ合いの間にある弱小国であるユダにおいてこのように長く保たれたことは、「主」がダビデに与えられた契約を覚えてくださっていたことを、「地上的なひな型」として証ししていて、やがて来たるべき「本体」すなわちまことのダビデの子が、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されることを指し示しています。 そして、そのまことのダビデの子が、「主」が「とこしえまでも堅く立て」てくださる王座に着座されることについて、ダビデは、後に、詩篇110篇1節で、マルコの福音書12章36節に記されているイエス・キリストのことばで言うと「聖霊によって」(マタイの福音書22章43節では「御霊によって」)、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記しています。ここでは、まことのダビデの子は、この詩篇の作者であるダビデが「私の主」と呼んでおられる方であるということ、そして、そのまことのダビデの子であるメシアが、「主」が「とこしえまでも堅く立て」てくださる王座に着座することは、「主」の「右の座に着」くことであるということ、さらには、「主」がまことのダビデの子であるメシアの敵を、メシアの「足台とする」(メシアの主権の下に屈服させる)ということが預言として示されています。ここでは、「主」がまことのダビデの子であるメシアに、主権を与えられることが示されています。 それで、エペソ人への手紙1章20節ー21節においては、この詩篇110篇1節に預言として記されていることが栄光のキリストにおいて、原理的・実質的に、成就しているということが示されています。 先ほど詩篇110篇全体を引用しましたが、そこには、まことのダビデの子として来られるメシアについて、前半と後半で、二つのことが記されています。 今日は、その一つを、しかも、途中までしかお話しすることができませんが、一つは、1節ー3節に記されていることです。 1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることについてはすでにお話ししたとおりです。 続く、2節ー3節には、 主はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。 「あなたの敵のただ中で治めよ」と。 あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える。 聖なる威光をまとって 夜明け前から。 あなたの若さは朝露のようだ。 と記されています。ことばがとても簡潔なために、最後の部分はとても難しくて見方がいくつかに分かれていますが、全体として言われていることについては、ほぼ見方が一致しています。 ここでは、「主」がご自身の右の座に着座させたダビデの子に、王として治める権威と力をお与えになることが示されています。「力の杖」の「杖」は王の手にある「杖」のことで、王が支配する権威を象徴的に示しています。この場合は、これが「力の杖」と言われていて、それが偉大な権威であることが示されています。さらに、ここでは、この「力の杖」が最初に出てきて強調されています。それで、ここでは「主」がダビデの子にお与えになった王として治める権威がこの上なく高く力強いことが示されています。 もちろんそれは、暗闇の主権者たちにはまったく通用しない、武力などの血肉の力に基づくこの世の国々の権威とは質的に異なっています。その権威は、ご自身の民のために十字架におかかりになって、いのちをお捨てになったメシア国の王としての権威で、その民を罪と死の力から解放し、神の子どもとしての自由と愛のうちを歩ませてくださる権威です。 また、ここでは、王として治めるダビデの子がその「力の杖」を「シオンから伸ば」すようになると言われています。 「杖」を伸ばすことは、その権威を行使することを意味していますが、ここでは、「主」がダビデの子に、 あなたの敵のただ中で治めよ と命じておられます。その意味での「杖」を伸ばすことの典型的な例は、出エジプト記7章20節に、 モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。 と記されていることです。これは、「主」がエジプトの生命線ともいうべきナイル川を打つことによって、エジプトにさばきを下されたということです。 「シオンから伸ば」すと言われているときの「シオン」は、同じメシア詩篇である詩篇2篇において2節に記されている、「主と 主に油注がれた者」に敵対している「地の王たち」や「君主たち」(2節)について、4節ー6節に、 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。 そのとき主は 怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って 彼らを恐れおののかせる。 「わたしが わたしの王を立てたのだ。 わたしの聖なる山 シオンに。」 と記されているときの「シオン」です。 それは、また、132篇11節ー14節に、 主はダビデに誓われた。 それは 主が取り消すことのない真実。 「あなたの身から出る子を あなたの位に就かせる。 もしあなたの子らが わたしの契約と わたしが教えるさとしを守るなら 彼らの子らも とこしえにあなたの位に就く。」 主はシオンを選び それをご自分の住まいとして望まれた。 「これはとこしえに わたしの安息の場所。 ここにわたしは住む。 わたしがそれを望んだから。 と記されているときの「シオン」でもあります。 この132篇に記されていることは、今お話ししていることにかかわっているので、もう少し注目したいと思います。 14節に、 ここにわたしは住む。 と記されているときの「住む」と訳されたことば(ヤーシャブ)は、「住む」こととともに「座する」ことも表します。 私が調べた限りでのことですが、ほとんどの訳は「住む」と訳しています。それは、おそらく、その前の13節に、 主はシオンを選び それをご自分の住まいとして望まれた。 と記されているときの「住まい」(モーシャーブ)がその動詞の名詞形であることによっているからでしょう。ただし、このことば(モーシャーブ)は「座」をも表します(詩篇1篇1節、107篇32節、エゼキエル書28章2節)。 例外的に、新国際訳(NIV)と神の御名訳(NOG)が「王座に着座する」(sit enthroned)と訳しています。そして、この例外的な訳が示している理解は、A.P.Ross, Goldingay, VanGemerenなどの学者が支持しています。 その理由としては、二つのことが考えられます。 一つは、12節で、 彼らの子らも とこしえにあなたの位に就く。 と言われているときの「就く」は、このことばで表されていて、14節でも、それと対応する意味が考えられるということです。 もう一つは、より注目すべきことですが、これに続く、15節ー18節に、 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し その貧しい者をパンで満ち足らせる。 その祭司たちに救いをまとわせる。 その敬虔な者たちは高らかに喜び歌う。 そこにわたしはダビデのために 一つの角を生えさせる。 わたしに油注がれた者のために ともしびを整える。 わたしは彼の敵に恥をまとわせる。 しかし彼の上には王冠が光り輝く。 と記されているということです。 ここでは、「主」がシオンにおいて治めておられて、そこに、豊かな祝福による充足がもたらされることが示されています。そして、そのことが、14節で、シオンについて、 これはとこしえに わたしの安息の場所。 と言われている「主」の「安息」――罪によって損なわれてしまっていた「安息」の回復をシオンにもたらすと考えられます。それは、シオンに住む「主」の民の安息の回復ですが、「主」はそれをご自身の「安息」とされるということです。 このことは、「主」のことばを、 ここにわたしは住む。 と訳しても言えることで、まことのダビデの子の支配が、敵対している者たちに対するさばきとして現れるということだけでなく、罪によって損なわれてしまっているものが回復されることにもかかわっているということを意味しています。 いずれにしましても、「主」によって立てられた王としてのメシアの支配と、メシアに権威を与え、メシアをとおして地のすべての民を治めておられる「主」の御臨在は、結び合っています。 そのことは、まことのダビデの子として来てくださった御子イエス・キリストにおいてより明確に現されています。ヨハネの福音書14章10節には、 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 詩篇110篇については、途中で終わってしまっていますので、もう少し、続けてお話しします。 |
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