黙示録講解

(第459回)


説教日:2021年4月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(212)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 これまで、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就しているということを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししてきて、今は、2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることについてお話ししています。
 ここで、「キリスト・イエスにあって」と言われていることは、私たちが、御霊によって、「キリスト・イエス」と一つに結び合わされていることを意味しています。私たちがキリスト・イエスと一つに結び合わされていることには豊かな意味がありますが、この場合は、私たちが1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されている「キリスト」と一つに結び合わされているということです。
 それで、神さまが1章20節ー23節に記されているキリストになされたことと、今も、なしておられることがどのようなことであるかを理解することが、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、キリストとともに「ともに天上に座らせてくださ」ったことがどのようなことであるかを理解する鍵となっています。
 神さまが「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」くださったことは、詩篇110篇1節に記されている、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

という預言のみことばがイエス・キリストにおいて成就していることを意味しています。
 ここで、「」が、

 あなたは わたしの右の座に着いていなさい。

と言われていて、「あなた」と呼びかけておられる方は、「」がダビデに与えてくださった契約(ダビデ契約)に約束されていた、「」が永遠に確立してくださる王座に着座する、まことのダビデの子であるメシア、すなわち、キリストのことです。


 本主日は2021年の復活節に当たります。それで、父なる神さまがダビデ契約に基づいて、ダビデの子としてメシア(キリスト)を遣わしてくださったことについて、特に、そのことに現されている父なる神さまの愛について、もう少しお話しします。
 詩篇110篇1節に出てくる、「」が「あなたは」と呼びかけておられる方は、人としては、ダビデの子としてお生まれになった方ですが、この詩篇の作者であるダビデ自身が

 は 私の主に言われた。

と述べているように、ダビデの「」であられます。このことは、イエス・キリストが教えておられることです。マタイの福音書22章41節ー45節に、

パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
 『主は、私の主に言われた。
 「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで」』
と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

と記されているとおりです(同じことは、マルコの福音書12章35節ー37節とルカの福音書20章41節ー44節にも記されています)。
 御子イエス・キリストは、まことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主です。この御子が、父なる神さまのみこころにしたがって、人としての性質を取って来てくださり、そのメシアとしての生涯の最後に、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わって受けてくださって、私たちの罪をすべて、また、完全に贖ってくださいました。それで、父なる神さまは、十字架の死に至るまでご自身のみこころに従い通されたことへの報いとして、御子イエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださり、高く引き上げて天上においてご自身の右の座に着かせてくださいました。
 ピリピ人への手紙2章6節ー11節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されているとおりです。
 私たちが、改めて、心に銘記しておきたいことは、これらすべてのことは、父なる神さまが私たちを愛してくださり、御子イエス・キリストによって、私たちのために成し遂げてくださったことであるということです。
 今お話ししている、エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているとおりですし、しばしば引用したことがあるローマ人への手紙5章8節にも、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。
 それはまた、御子イエス・キリストが父なる神さまの愛のみこころをご自身のみこころとして、私たちを愛して、私たちのためにすべてのことを成し遂げてくださったということです。
 ヨハネの福音書10章18節には、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されていますし、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されています。
 このすべてのことにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つであられます。ヨハネの福音書10章28節ー30節には、

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。

と記されています。

 このような父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する愛を心に刻むことにおいて大切なことは、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を信仰によって受け止めることです。私たちは、しばしば、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に応えて、何をしてお返ししたらいいのだろうかと考えます。しかし、その前に、大切なことがあります。それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を信仰によって受け止めて(父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を信じて)、自分自身をその愛にお委ねすることです。すべてはこのことから始まります。父なる神さまは私たちからの見返りを求めてではなく、私たち自身を愛してくださっているからです。
 また、私たちは、神さまからすべてをいただいているものですから、神さまに何かをお返しするということはできません。私たちは、神さまの一方的な愛と恵みによって、神さまの愛を知ることができるようにしていただいていますし、その愛に応答して、神さまを――神さまご自身を――愛することができるようにしていただいています。それで、私たちにできることは、神さまの愛に包んでいただいて、神さまとの愛の交わりに生きることです。
 ヨハネの手紙第一・3章1節には、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

と記されています。私たちは限界があるばかりか、自分自身のうちに残っている罪の性質のために、父なる神さまの愛を十分には受け止め切れてはいません。その愛は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって、私たちが罪を完全に贖われて、神さまとの何の妨げのない愛の交わりに生きるようになっても、汲み尽くすことができない愛です。その父なる神さまの愛によって、私たちは神の子どもとしていただいています。
 ここで、「考えなさい」と訳されていることば(エイドン)は、基本的に「見る」、「認める」を意味しています。この複数形[「(あなた方は)考えなさい」]は、新約聖書では、実際に見ることができるものについて用いられています(Smalley,WBC, p.140.)。それは、先ほど引用したヨハネの手紙第一・3章16節で、ヨハネが、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記しており、4章9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記しているように、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛がこの上なく現実的に現されていることによっていると考えられます。
 私たちも、このようにして示されている父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を現実的に受け止め、その愛に包まれている者として、生きて行くということでしょう。もちろん、それは、私たちをキリスト・イエスと一つに結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださり、神の子どもとして導いてくださる御霊のお働きによって、私たちの現実となることです。
 先ほど引用したローマ人への手紙5章8節には、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されていました。ここでも、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛が私たちに対して極めて現実的に現されています。そして、

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの「明らかにしておられます」は現在時制で表されていて、それが過去のこととして終わっているのではなく、今も変わることなく示されていることを示しています。
 ローマ人への手紙5章では、これに先立って、1節ー5節に、

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されています。
 今お話ししていることに関連することだけを取り上げますが、ここでは、神さまとの平和を持っている私たちが、「神の栄光にあずかる望みを喜んで」いるばかりでなく、さまざまな「苦難さえも喜んでいます」と言われています。それも、

それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

と言われているように、それによって私たち自身がキリストの栄光のかたちに造り変えていただくようになる(「神の栄光にあずかる」ようになる)からです。
 そして、このすべてを希望のうちに支えてくださるのは、

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と説明されています。ここで、「神の愛が私たちの心に注がれている」と言われているときの「注がれている」は、神さまの愛が豊かに注がれていることを示しています。また、これは完了時制で表されていて、神さまが「私たちに与えられた聖霊によって」ご自身の愛を豊かに注いでくださったことの結果が今も続いていること、言い換えると、その神さまの豊かな愛がずっと変わりなく私たちのうちにあるということを示しています。
 このようなことがあって、先ほど引用した、5節に記されていることも含みますが、続く6節ー11節に、

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と記されています。
 先ほど、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する愛を心に刻むことにおいて大切なことは、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を信仰によって受け止めること、なによりもまず、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を信じて、自分自身をその愛にお委ねすることだと言いました。
 それは、先ほど触れたように、私たちは地上にあって、さまざまな苦難を経験しなければならない者だからです。その苦難は、外側からやって来る試練や迫害による苦難だけではありません。私たち自身のうちにある罪がもたらす苦しみや悲しみでもあります。さらに、そこに加えられる、黙示録12章10節で、

 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者

と言われているサタンの働きもあります。
 そのような私たちは、常に、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、(見て)考え

なければならない者です。
 ローマ人への手紙5章では、5節で

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われた後、

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

と言われています。ここでは、欠けだらけの私たちに対する神さまの愛の確かさが、これでもかというくらいに、積み重ねられるように証しされています。
 そして、最後には、

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と言われています。
 この部分は、以前取り上げた時に詳しいことをお話ししていますので、説明を省きますが、新改訳第3版のように、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と訳した方が、ここでの主旨をよりよく伝えていると考えられます。[*]

[*(後からの注釈)]この点については、少し長くなりますが、以前取り上げた時にお話しした説明を、ほぼ再録しておきます。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

という新改訳2017年版の訳ですと、

 私たちの主イエス・キリストによって

ということと、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということが切り離されて、その間に、

 私たちは神を喜んでいます。

ということが置かれています。そのために、この11節の最後にあるのは、さらには、9節ー11節までに積み上げられてきたことの最後にあるのは、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということだということを伝えています(少なくとも、その可能性があります)。
 ギリシア語本文では、

 私たちの主イエス・キリストによって

ということと、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということが、「キリスト」と訳されている関係代名詞によってつながっています。日本語では、順序を変えなければならないので、関係代名詞も含めて直訳調に訳すと、おそろしくぎこちなくなりますが、

 この方によって、今、私たちが和解を受け取っている私たちの主イエス・キリストによって

となります。
 もう一つ考えておきたいことですが、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と言われていることは、すでに、10節に、

敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

と記されている中に出てきたことです。そして、11節に記されていることは、さらにその上に積み上げられていることです。このことからも、やはり、9節ー11節までに積み上げられてきたことの最後にあるのは、

 私たちは神を喜んでいます。

ということ、私たちが神ご自身を喜んでいるということであると考えられます。
 この「喜んでいます」(カウコーメノイ)は、(動詞カウカオマイの)現在時制の分詞ですが、一般的に、ここでは、主動詞としての役割を果たしていると理解されています。これはまれなことですが、ヘブル語やアラム語が属しているセム語の影響による用法であると考えられています(Daniel B.Wallece, Greek Grammar Beyound the Basics, p.653)。
 もしかすると、新改訳2017年版は、この「喜んでいます」が現在時制の分詞で表わされていることから、「私たちは神を喜んでいます」と、最後にある関係代名詞節を同等のものと理解して、この部分を「キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです」と訳しているのかもしれません。
 聖書教会共同訳も、この部分を最後に置いていますが、「このキリストを通して、今や和解させていただいたからです」というように、この前の部分に従属するように訳しています。この点は、新共同訳も同じです。[注釈終わり]

 ここでは、私たちが神ご自身を喜んでいることは、「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって」のことだと言われています。
 これは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」ことによって明らかにされている神さまの「私たちに対するご自分の愛」に、今も、また、これからも変わることなく包まれている私たちは、このイエス・キリストによって神さまと和解させていただいて、神さまとの愛の交わりに生きており、神さまご自身を喜んでいるということです。
 このように、「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって」私たちが導き入れていただいている神さまとの愛の交わりの中心には、神さまご自身を喜ぶことがありますし、神さまとの愛の交わりの目的も神さまご自身を喜ぶことにあります。
 ウェストミンスター小教理問答の問1への答えで、

 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

と言われていることを思い起こします。

 これまで、何回かにわたってお話ししてきていることですが、私たちは、御霊によって特徴づけられ、御霊が生み出してくださる「来ようとしている時代」「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を委ねられています。これは、私たちがイエス・キリストにあって、御霊に導いていただいて、神さまの愛の交わりに生きることの中で、神さまご自身を喜ぶことがなければ果たすことができない使命です。


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