|
説教日:2021年3月28日 |
今日は、このこととの関わりで四つのことに注目したいと思います。 第一に、先ほど引用した詩篇110篇1節で、 主は 私の主に言われた。 と言われているときの「私」は、この詩篇の作者であるダビデのことで、ダビデが「私の主」と呼んでいる方は、ダビデ契約に約束されている、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座する、まことのダビデの子、すなわち、メシアのことです。 第二に、そこで「主」が「わたしの右の座」と言っておられるのは、ダビデ契約に約束されている、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座のことです。 そのことは、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に起こったことと、その物音を聞いて集まって来た人々にペテロが語ったことを記している、使徒の働き2章に記されていることから知ることができます。ペテロが語ったことばは14節ー36節に記されていますが、最後の33節ー36節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。 「主は、私の主に言われた。 あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。 と記されています。 第三に、このように、ダビデ契約に約束されている、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座は父なる神さまの右の座であり、地上のどかかにあるものではありません。 もしその王座が地上のどこか、たとえば、エルサレムのシオンの丘にあったとすれば、その王座はこの世の国々の主権の座の中の一つとなっていたことでしょう。そして、そこは敵対する国が、軍事力、武力などの血肉の力によって攻撃できたことでしょうし、そこを守るためには、軍事力、武力などの血肉の力が必要となることでしょう。 しかし、イエス・キリストがピラトの審問を受けた時のことを記しているヨハネの福音書18章36節に、 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」 と記されているように、キリストの国は「この世のものではありません」。 今日は2021年の受難週の主日ですので、特に、心に刻んでおきたいことですが、ここでイエス・キリストが、 もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。 と証ししておられるように、もし、キリストの国がこの世の国の一つであったとしたら、しもべたちが王であるキリストを守るために、武器を取って戦っていたはずです。しかし、キリストの国では王であるキリストが、私たちご自身のしもべたちを愛して、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。それによって、私たちは罪を完全に贖っていただいていますし、罪がもたらす死の力から贖い出していただいています。 また、それによって、王であるイエス・キリストは、ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 と記されているように、霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者である悪魔に勝利しており、「死の力」を打ち砕かれました。 ここで、 悪魔をご自分の死によって滅ぼし と言われているときの「滅ぼし」と訳されていることば(カタルゲオー)には、「滅ぼす」という意味とともに、「無力にする」という意味もあります。悪魔は、終わりの日に至るまで神さまに逆らって働き続けていますので、ここでは「無力にする」という意味で理解するほうがよいと思われます。悪魔は、もはや、私たち、イエス・キリストの十字架の死によって罪を完全に贖っていただいている者を「死の恐怖」によって縛りつけることはできなくなったということです。 このことは、黙示録では、すでに繰り返しお話ししてきましたが、12章1節ー5節において、「最初の福音」を背景として記されている、「女」が産んだ「男の子」――この方は、また、詩篇2篇9節に預言的に記されているまことのダビデの子である王です――が、「神のみもとに、その御座に引き上げられた」(5節)ことを受けて、7節ー9節に、 さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。 と記されていることに当たります。 これによって、ローマ人への手紙8章38節ー39節に、 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と記されている、パウロの確信が、そのまま、私たちの確信となっています。 このことは、これに先立って、35節ー37節に記されている、 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、 屠られる羊と見なされています。」 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。 ということを踏まえて理解すべきことです。ここでは、今、地上にあって歩んでいる私たちには、さまざまな苦難と迫害がもたらす苦しみがあるということを踏まえています。それは、先ほどの黙示録12章では引用した7節ー9節に続く10節ー12節に、 私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。 「今や、私たちの神の救いと力と王国と、 神のキリストの権威が現れた。 私たちの兄弟たちの告発者、 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、 投げ落とされたからである。 兄弟たちは、子羊の血と、 自分たちの証しのことばのゆえに 竜に打ち勝った。 彼らは死に至るまでも 自分のいのちを惜しまなかった。 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。 しかし、地と海はわざわいだ。 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、 おまえたちのところへ下ったからだ。」 と記されていることによっています。「自分の時が短いことを知って激しく憤」って地に下ったことによって、地上にあるキリストの国の民は、さまざまな苦難と迫害がもたらす苦しみを味わうことになりました。ローマ人への手紙8章35節ー37節においては、それにもかかわらず、 これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。 と述べています。それは、私たちにその力があるからというのではなく、「私たちを愛してくださった方」が、私たちをご自身の愛のうちに保ち続けてくださっているからですし、その愛をお示しになっておられるからです。この場合の「私たちを愛してくださった方」とは、35節で、 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。 と言われている「キリスト」のことであると考えられます。 このように、キリストの国の王であるイエス・キリストは武力など血肉の力によって戦われることはありません。また、その民も王であるメシアのためにということで、武力など血肉の力によって戦うことはありません。先ほど引用したエペソ人への手紙6章12節に、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 記されているように、私たちが戦う霊的な戦いにおいては、血肉の力は通用しません。 第四に、それでは、まことのダビデの子として、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座、すなわち、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、どのように私たちを治めてくださり、どのように、霊的な戦いを戦われるのでしょうか。 栄光のキリストは、ご自身が最初の聖霊降臨節の日に、父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって、私たちを治めてくださっていますし、それによって、霊的な戦いを戦われます。 この御霊は、栄光のキリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。 御霊は、私たちご自身の民を、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださって、私たちを新しく生まれた者としてくださいました。これが、エペソ人への手紙2章4節ー5節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。 と記されていることであり、6節に、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ・・・てくださいました。 と記されていることです。それによって、私たちは、御霊によって、福音のみことばを理解し、悟ることができるようになり、福音のみことばにおいて証しされている、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じることができるようになりました。コリント人への手紙第一・2章12節には、 私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。 と記されていますし、12章3節にも、 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 と記されています。 先ほどお話ししたように、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊は、栄光のキリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。それで、この御霊は「キリストの御霊」(ローマ人への手紙8章9節)と呼ばれますし、「御子の御霊」(ガラテヤ人への手紙4章6節)とも呼ばれます。このことは、父なる神さまが私たちを子としてくださって、神の家族に迎え入れてくださっていることと関わっています。 ローマ人への手紙8章9節からの文脈においては、14節ー16節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 と記されています。 ここで、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 と言われていることには、「みな」と言われているように、例外がありません。また、「神の御霊に導かれる人」と言われているときの「導かれる」は現在時制で表わされていて、それがその人の通常のあり方であることを示しています。これは、「神の御霊に導かれる」ことによって、「神の子ども」になるということではなく、神さまの一方的な愛と恵みによって「キリスト・イエスにあって」神の家族に迎え入れていただいた「神の子ども」は、例外なく「神の御霊に導かれ」ているということです。このことは、ガラテヤ人への手紙4章6節に、 あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されていることからも分かります。 また、結論的なことをお話ししますと、 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。 と言われていることは、私たちが受けている御霊は、私たちを恐怖で縛りつけて奴隷化して従わせるような霊ではなく、私たちを「子とする御霊」、すなわち、私たちを子としてくださるとともに、神の子どもとしての自由のうちを歩むように導いてくださる御霊であるということを伝えています。 この「子とする御霊」は、文字通りには、「養子とする御霊」です。その当時の文化、特に、ローマ人への手紙の読者たちが身を置いているギリシア・ローマの文化の中では、「養子」には、実子と同じ特権が与えられていました。 その特権は、ここでは、これに続いて、 この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と言われています[これとともに、17節では、 子どもであるなら、相続人でもあります。 とも言われています]。この「アバ」はアラム語で「父」を表わします。これは、その当時の文化の中では「父」の威厳を踏まえたことばでありつつ、子としての親しさと信頼を表すことばです。しばしば小さな子どもが父親を呼ぶ時のことばであると言われます。それについては異論もあります。少なくとも、それに限られたことではありません。というのは、この後取り上げますが、イエス・キリストがこのことばをもって父なる神さまに祈っておられますが、それは成人して、メシアとしてのお働きをしておられるイエス・キリストの祈りです。同じことは、私たちにも当てはまります。 このことばは、新約聖書の中には、3回出てきます。ここと、先ほど引用したガラテヤ人への手紙4章6節のほかに、イエス・キリストのゲツセマネにおける祈りのことを記しているマルコの福音書14章35節ー36節に、 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 と記されています。イエス・キリストはご自身が神の御子ですから、固有の権利として父なる神さまに「アバ、父よ」と祈っておられます。私たちはこのイエス・キリストにあって養子としていただいている者として、ガラテヤ人への手紙4章6節のことばで言いますと、「御子の御霊」によって、父なる神さまに「アバ、父よ」と祈ることができます。 ここローマ人への手紙8章15節では、 この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と言われていますし、ガラテヤ人への手紙4章6節では、 神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と言われています。ここで、「『アバ、父』と叫ぶ」と言われているときの「叫ぶ」ということについては、これは、単なる知的な理解に基づく呼びかけではなく、心の底から湧き上がってくる切なる思いが込められた呼びかけであると考えられています。 それとともに、いよいよご自身が十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってお受けになる時が来たことを悟られたイエス・キリストが父なる神さまに祈られた時に、発せられた呼びかけのことばであることを考えますと、大きな悲しみと苦しみの中から生み出される、父なる神さまへの親しみと信頼を表す呼びかけのことばでもあると考えられます。 ローマ人への手紙8章では17節ー18節に、 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。 と記されています。私たちは、今、「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」と言われています。このような状況にあって、私たちはイエス・キリストがそうされたように、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」によって、父なる神さまに、心からの信頼とともに、「『アバ、父』と叫ぶ」ように導いていただいているのです。 そればかりでなく、16節には、 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 と記されています。この御霊は、「私たちの霊とともに」働いてくださって、「私たちが神の子どもであることを」確信させてくださいます。それは、私たちが「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」状態の中で、なおも、私たちに父なる神さまの愛を受けている「神の子どもであることを」確信させてくださるということです。もちろん、「私たちの霊」が御霊と同等の働き――この場合は、証し――をするわけではありません。これは、御霊が「私たちの霊」を生かしてくださって、「私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを」証しし、確信させてくださるということでしょう。 栄光のキリストは、この御霊によって、私たちを治めてくださっています。それで、私たちは、この御霊に導いていただいて、霊的な戦いを戦いつつ、「来ようとしている時代」「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たしています。 |
|
||