黙示録講解

(第457回)


説教日:2021年3月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(210)


 先主日は、杉本先生に説教を担当していただきましたので、黙示録からのお話はありませんでした。本主日は、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 これまで、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就しているということを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししてきました。そして、今取り上げているのは、2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることです。
まず、すでにお話ししたことで、今日お話しすることと関わっていることをまとめておきます。
 ここで、「キリスト・イエスにあって」と言われているときの「キリスト・イエス」は、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されている「キリスト」のことです。
 それで、神さまは、私たちを、この1章20節ー23節に記されている、ご自身が「死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれ」たキリストと一つに結び合わせてくださって、キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、キリストと「ともに天上に座らせて」くださったのです。また、それで、神さまが「キリスト・イエスにあって」私たちになしてくださったことことは、神さまがキリストなしてくださったことに、私たちをあずからせてくださったことによっていますし、神さまがキリストなしてくださったことに基づいています。
 神さまが「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」くださったことには、二つのことがかかわっています。
 一つは、栄光を受けて死者の中からよみがえられたキリストを「すべての支配、権威、権力、主権」の上に高く置かれたということです。これは、詩篇110篇1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることが、栄光のキリストにおいて成就しているということで、栄光のキリストが原理的、実質的に、霊的な戦いに勝利しておられるということを意味しています。
 もう一つは、栄光のキリストを「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に」高く置かれたということです。
 これは、それに続いて、

 神はすべてのものをキリスト[彼]の足の下に従わせた

と言われているように、詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることが、栄光のキリストにおいて成就しているということを意味しています。神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を、栄光のキリストが、原理的・実質的に、成就しておられるということです。
 これら二つのことは、神さまが「ご自分の右の座に着かせた」キリストと一つに結び合わせてくださり、キリストとともに「天上に座らせて」くださっている私たちの間でも、原理的・実質的に成就しています。
 私たちは、エペソ人への手紙2章1節ー2節に記されているように、かつては「自分の背きと罪の中に死んでいた者」でしたし、「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」いました。しかし、今は、コロサイ人への手紙1章13節に、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と記されているように、父なる神さまが愛しておられる御子と言われている栄光のキリストの「ご支配の中に」あります。


 この栄光のキリストのことを、天における礼拝について記している黙示録5章に記されていることから見てみましょう。
 6節には、

 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。

と記されています。そして、9節ー10節には、「四つの生き物と二十四人の長老たち」の「子羊」への讃美が、

 あなたは、巻物を受け取り、
 封印を解くのにふさわしい方です。
 あなたは屠られて、
 すべての部族、言語、民族、国民の中から、
 あなたの血によって人々を神のために贖い、
 私たちの神のために、彼らを王国とし、
 祭司とされました。
 彼らは地を治めるのです。

と記されており、12節には、御使いたちの讃美が、

 屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
 受けるにふさわしい方です。

と記されています。
 黙示録の中では、栄光のキリストのことが、ここ12節で「屠られた子羊」として出てきますが、この後も「子羊」として出てきます。4章から記されている、ヨハネに示された「この後必ず起こること」(4章1節)として記されていることは、22章5節まで記されています。
 この4章1節ー22章5節までの中で、「子羊」ということば(アルニオン)は29回出てきます[28の節に出てきますが、17章14節には2回出てきます)]。
 これに対して、「キリスト」ということばは4回出てきます。具体的にどのようなことで出てくるかを見てみますと、「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった」(11章15節)、「神のキリストの権威」(12章10節)、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた」(20章4節)、「彼らは神とキリストの祭司となり」(20章6節)という形で出てきます。これらにおいては、「キリスト」ということばは、主語としてことをなしていることを示すためには用いられていません。
 また、「イエス」ということばは、6回出てきますが、そのうちの4回(12章17節、19章10節に2回、20節4節)が「イエスの証し」、1回が「イエスの証人」(17章6節)、1回が「イエスに対する信仰」(14章16節)として出てきます。これらにおいても、「イエス」ということばは、主語としてことをなしていることを示すためには用いられていません。
 このように、4章1節ー22章5節に記されているヨハネに示された「この後必ず起こること」の記述において、主語としてことをなしておられる方は「屠られた子羊」として示されている栄光のキリストです。それは、5章1節ー10節に記されていることから理解できます。そこには、

また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。また私は、一人の強い御使いが「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げているのを見た。しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。彼らは新しい歌を歌った。
 「あなたは、巻物を受け取り、
 封印を解くのにふさわしい方です。
 あなたは屠られて、
 すべての部族、言語、民族、国民の中から、
 あなたの血によって人々を神のために贖い、
 私たちの神のために、彼らを王国とし、
 祭司とされました。
 彼らは地を治めるのです。」

と記されています。
 ここには、「七つの封印で封じられていた」、「御座に着いておられる方の右の手に」ある「巻物」が出てきます。この巻物について、

 それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。

と記されています。「内側にも外側にも字が書かれている」巻物は、エゼキエル書2章9節ー10節に、

私が見ると、なんと、私の方に手が伸ばされていて、その中に一つの巻物があった。その方はそれを私の前で広げた。それは表にも裏にも文字が書かれていた。そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた。

と記されていることが、基本的な、背景となっていると考えられます。そこに記されていることは、南王国ユダの罪のために、すでにバビロンの捕囚が始まっている(エゼキエルは第2回の捕囚によってバビロンに捕らえ移されています)にもかかわらず、その罪を悔い改めることがないばかりか、「」の神殿においてさえもさまざまな偶像が置かれ、礼拝されていること(特に、8章を見てください)に対する「」のさばきが記されていました。ここでは、「嘆きと、うめきと、悲痛」というように、三つのことばが重ねられて、そのさばきの厳しさが強調されています。
 注目すべきことは、この巻物を広げた方は、この世界をお造りになり、その歴史を支配しておられる契約の神である「」であったということです。
 黙示録5章に記されていることに戻りますが、この神さまの御手にある巻物はすでに記されていますので、ここに記されていることは、神さまが永遠からのご計画に基づいて遂行されることであると考えられます。
 この場合は、特に、4章1節ー2節に、

その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。

と記されていることから、この巻物には「この後必ず起こること」が記されていると考えられます。これは「この後必ず起こること」ですが、神さまの歴史的な世界の創造の御業を踏まえていますし、人類の罪による堕落後の贖いの御業――これには救いとさばきの御業がかかわっています――の歴史の全体、今のこの時代だけでなく、来たるべき時代の歴史にかかわることです。
 それが封印で封じられていることは、そこに記されていることが啓示されていないし、実現していないことを意味します。そして、その封印を解くことは、それを啓示することと、そのご計画を遂行することを意味しています。
 5章2節ー4節には、

また私は、一人の強い御使いが「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げているのを見た。しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。

と記されています。
 「天でも地でも地の下でも」と言われているのは、聖書の中によく出てくる言い方です。すぐに思い出されるのは、出エジプト記20章4節に記されている、

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

という十戒の第2戒です。これは、被造物世界がこれら三つの階層からなっているという、その当時の発想によって、被造物世界の全体を表わしています。それで、ここでは、御使いたちをも含めて、誰もその巻物の封印を解くことができる者はいないことを示しています。先ほど触れたように、エゼキエルの前で、巻物を広げたのは、それを記された神である「」ご自身でした。
 2節ー4節に続いて、5節ー7節には、

すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。

と記されています。
 ここでは、栄光のキリストのことが、まず、「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」と呼ばれています。
 「ユダ族から出た獅子」は、創世記49章9節ー10節に、

 ユダは獅子の子。
 わが子よ、おまえは獲物によって成長する。
 雄獅子のように、雌獅子のように、
 うずくまり、身を伏せる。
 だれがこれを起こせるだろうか。
 王権はユダを離れず、
 王笏はその足の間を離れない。
 ついには彼がシロに来て、
 諸国の民は彼に従う。

と記されている、ヤコブの預言のことばを背景としています。これが預言のことばであることは、1節に、

ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は、終わりの日におまえたちに起こることを告げよう。」

と記されていることから分かります。
 こではユダが「獅子」にたとえられて、

 王権はユダを離れず、
 王笏はその足の間を離れない。

というように、その「王権」と「王笏」が表わす「主権」はいつまでも続き、

 諸国の民は彼に従う

ようになると言われています。
 黙示録5章5節では、このことが栄光のキリストにおいて成就していることが示されています。
 これに続いて出てくる「ダビデの根」は、イザヤ書11章1節ー10節に、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。
 その上にの霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 思慮と力の霊、
 主を恐れる、知識の霊である。
 この方はを恐れることを喜びとし、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、
 正義をもって弱い者をさばき、
 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。
 口のむちで地を打ち、
 唇の息で悪しき者を殺す。
 正義がその腰の帯となり、
 真実がその胴の帯となる。
 狼は子羊とともに宿り、
 豹は子やぎとともに伏し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、
 小さな子どもがこれを追って行く。
 雌牛と熊は草をはみ、
 その子たちはともに伏し、
 獅子も牛のように藁を食う。
 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
 乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
 わたしの聖なる山のどこにおいても、
 これらは害を加えず、滅ぼさない。
 主を知ることが、
 海をおおう水のように地に満ちるからである。
 その日になると、
 エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、
 国々は彼を求め、
 彼のとどまるところは栄光に輝く。

と記されている預言のことばを受けています。
 1節で「エッサイの根株から新芽が生え」と言われているときの「エッサイ」は、ダビデの父です。そして、10節で「エッサイの根」と言われているのは、別の見方もありますが、1節で「エッサイの根株から」生えた「新芽」と言われているダビデのことです。これに従うと、黙示録5章5節に出てくる「ダビデの根」は、「ダビデの根」から生えた「新芽」としての「ダビデの子」ということになります。
 ただ、イザヤは前8世紀後半に活動した預言者ですから、前1010年頃王座に着いたダビデや970年頃王座に着いたソロモンより二百数十年後の人です。それで、このイザヤの預言は、ダビデやその子ソロモンのことではなく、ダビデやソロモンが「地上的なひな型」として指し示していた方、ダビデ契約に約束されていた「」が永遠に堅く立ててくださるダビデの王座に着座されるダビデの子のことを預言していることになります。
 この方は、2節に、

 その上にの霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 思慮と力の霊、
 主を恐れる、知識の霊である。

と記されているように、御霊に満たされ、御霊による知恵と力によって、正義と真実をもって弱く貧しい者たちのためにさばき、

 口のむちで地を打ち、
 唇の息で悪しき者を殺す

王として治めるようになります。
 「狼は子羊とともに宿り」から始まる6節ー9節に記されているように、この方の支配は、人の世界だけでなく、生き物たちの間にも平和をもたらします。それは、「」に罪を犯した人との一体において虚無に服するようになった被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになること、すなわち、全被造物の回復と栄光化を指し示しています(ローマ人への手紙8章20節ー21節)。
 そして、その時には、

 その日になると、
 エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、
 国々は彼を求め、
 彼のとどまるところは栄光に輝く。

と言われていることも実現することになります。
 黙示録5章5節においては、これらのことを受けて、栄光のキリストのことが、

ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。

と記されています。栄光のキリストはこれらの預言に示されていたダビデ契約に約束されている「」が堅く立ててくださる永遠の王座に着座されて、「王権」と「主権」を確立されたメシアとして、神さまが創造された歴史的な世界の歴史の全体にかかわるご計画を記している巻物の封印を解くことができる方となりました。
 これに続く6節には、

また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。

と記されています。
 ここでは、「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」として預言されていた方については、「屠られた姿で子羊が立っている」と言われています。この「屠られた姿で」は、直訳調には「屠られたような」ですが、屠られていないのに、屠られたように見えるというのではなく、実際に、屠られてそのことが分かるのに、生きておられるという意味合いを伝えています。それで先ほど触れたように、12節では「屠られた子羊」と呼ばれています。ここで、「屠られた姿で」また「屠られた子羊」と言われているときの「屠られた」は、完了時制で表わされていて、この方が屠られたことの「効果」がずっと続いていることを示しています。
 この「子羊」は「七つの角と七つの目を持っていた」と言われています。この「」は完全数です。そして「」は権力や力を表します。この世の権力や力が武力などの血肉の力に基づくものであるのに対して、「屠られた子羊」の権力や力は、その十字架の死に基づくものです。ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されているように、「子羊」は私たちご自身の民を愛して、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちを捨ててくださいました。それによって、暗闇の主権者たちに勝利し、罪と死の力を打ち砕かれました。
 また、「七つの目」は、御使いたちのことであるという見方もありますが、結論的に言いますと、

 その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。

と言われているように、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが遣わされた聖霊のことです。
 「子羊」は私たちご自身の民を武力などの血肉の力をもって従わせるのではなく、ご自身が遣わされた御霊によって、私たちを満たしてくださり、御霊によって私たちそれぞれの人格的な特質を活かしてくださり、御霊によって導いてくださいます。そして、それによって、私たちに父なる神さまと御子イエス・キリストが注いでくださっている愛を悟らせてくださいます。そして、この父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれている私たちを、父なる神さまと御子イエス・キリストへの愛と、兄弟姉妹たち、さらには隣人への愛のうちを歩ませてくださいます。
 私たちは、この御霊に満たしていただき、御霊に導いていただいて、愛のうちを歩むことによって、なおも、暗闇の主権者たちとの霊的な戦いを戦い続けています。
 それは、初めから終わりまで、私たちが愛のうちを歩むことによって、御霊が、私たちのうちにある愛を豊かにしてくださり、私たちをを御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者となるように造り変えてくださることから始まります。それは、私たちそれぞれに起こる個人的なことですが、それだけではなく、それと同時に、このような御霊のお働きによって、教会が愛の絆でつながれたキリストのからだとして成熟していきます。
 そのことの中で、私たちは、御霊によって特徴づけられ、御霊が生み出してくださる「来ようとしている時代」「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たすようになります。
 具体的なことは、また、日を改めてお話しします。


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