黙示録講解

(第456回)


説教日:2021年3月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(209)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束はすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就しているということを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししています。
 今取り上げているのは、エペソ人への手紙2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることです。
 ここで、「キリスト・イエスにあって」と言われているときの「キリスト・イエス」は、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されている「キリスト」のことです。
 神さまは、私たちを、御霊によって、この1章20節ー23節に記されている、キリストと一つに結び合わせてくださって、キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、キリストと「ともに天上に座らせて」くださったのです。それで、1章20節ー23節に記されていることがどのような意味をもっているかということが、神さまが私たちをキリストと「ともに天上に座らせて」くださったことにどのような意味があるかを決定しています。
 1章20節ー23節に記されていることは、神さまがキリストによって、原理的、実質的に、霊的な戦いに勝利されたということを意味しています。それで、神さまが私たちをキリストと「ともに天上に座らせて」くださったことも、神さまが「キリスト・イエスにあって」私たちを霊的な戦いにおいて、原理的、実質的に勝利させてくださっているということを意味しています。
 霊的な戦いは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人に委ねられたことに現されている、神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。
 1章20節ー21節前半において、神さまがキリストを「天上で」、「すべての支配、権威、権力、主権」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」たと言われているときの、「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節に記されている、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

というみことばに出てくる「あなたの敵」(複数形)で、サタンをかしらとする暗闇の主権者たちのことです。
 彼らは創造の御業において現されている神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いています。
 まず、サタンが、神さまから歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人が神である「」に対して罪を犯すように誘惑して成功しました。これによって、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現が阻止されてしまったと思われました。
 しかし神である「」は、創世記3章15節に記されている、「最初の福音」と呼ばれている、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

というサタンに対するさばきを宣告されました。これによって、神である「」は、「」と「女の子孫」の共同体をご自身の民としてくださり、彼らをとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行し、最終的には、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるということをお示しになりました。
 これに対して、サタンとその霊的な子孫は、神である「」が自分たちに対するさばきを執行するためにお用いになる「」と「女の子孫」を、迫害によって亡き者にするか、誘惑によって神である「」に背かせることによって、滅ぼしてしまおうとして働くようになりました。
 これによって、霊的な戦いに新しい局面が生まれてきました。もし、「」と「女の子孫」が何らかの形で滅ぼされてしまえば、サタンに対するさばきの宣告に示されている神である「」のみこころが実現しないことになります。そうなると、さらに、創造の御業において現わされた神さまのみこころも実現しないことになります。このようにして、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後では、霊的な戦いに二つの問題(争点)が生じたことになります。
 神である「」は、その霊的な戦いにおける二つの問題(争点)を「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた方によって、原理的、実質的に解決しておられます。エペソ人への手紙1章20節ー23節は、そのことを示しています。
 まず、1章20節ー21節前半に記されているように、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた方が、天にある神さまの右の座に着座されて、サタンとその霊的な子孫をその主権の下に服させておられます。これによって、霊的な戦いにおける勝利は決定的なものとなっています。いわば、霊的な戦いにおけるDディはすでに終っているのです。
 さらに、神さまは、キリストを「天上で」、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせ」ておられます。このことを受けて、1章22節前半には、

 神はすべてのものをキリストの[彼の]足の下に従わせた

と記されています。
 これは、詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているみことばが、キリストにおいて、原理的、実質的に、成就しているということを示すものです。言い換えると、キリストは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に、成就しておられるということです。
 このことは、また、「天上で」、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」キリストと一つに結び合わされて、キリストとともに「天上に座らせて」いただいている私たちの間で、その歴史と文化を造る使命が、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。
 それで、私たちは、「この世」「この時代」の歴史と文化ではなく、「来ようとしている時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されていますし、実際に、「来ようとしている時代」の本質的な特質をもった歴史と文化を造っています。


 とはいえ、2章1節ー3節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているように、かつての私たちは、罪によって「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」と呼ばれているサタンと一つに結ばれて、「この世の流れに従い」、「この世」「この時代」の歴史と文化を造っていました。
 「この世」「この時代」の歴史と文化の根底にあるものについて考えるために、詩篇14篇1節ー3節に記されていることを見てみましょう。そこには、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。
 彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。
 善を行う者はいない。
 は天から人の子らを見下ろされた。
 悟る者神を求める者がいるかどうかと。
 すべての者が離れて行き
 だれもかれも無用の者となった。
 善を行う者はいない。
 だれ一人いない。

と記されています。
 1節冒頭では、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と言われています。
 この場合の「」は造り主である神さまのことですし、2節に、

 は天から人の子らを見下ろされた。

と記されている「」、この世界のすべてのものをお造りになり、今に至るまで、その一つ一つのものを真実に支え続けてくださっている契約の神である「」のことです。
 また、

 心の中で「神はいない」と言う

と言われているときの「」は、今日の私たちが考えている心よりはるかに豊かな意味合いをもっています。この「」ということば(レーブ)は、人の内なる本性の全体、その人の知性や感情や意志などの人格的な働きの全体を表しています。この「」が、その人の思いや、ことばや、感じ方や、行いや、生き方を根底から規定しています。つまり、この「」がその人の日常のあり方、さらには、その積み上げである生涯の全体のあり方を根底から規定し、導いているのです。それで、箴言4章23節には、

 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。
 いのちの泉はこれから湧く。

と記されています。
 ですから、さまざまな偶像の神を造り出すことも、

 心の中で「神はいない」と言う

ということの現れです(参照・ローマ人への手紙1章21節ー23節)。
 「心の中で『神はいない』と言う」人は、造り主である神さまによって、神のかたちとして造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていますし、すべてのことを支えていただいて生きています。しかし、その人の思いや、ことばや、感じ方や、行いや、生き方を根底から規定している「心の中で『神はいない』と言う」のです。
 「この世」「この時代」の歴史と文化は、それがいつの時代であっても、どのような国家や社会においてであっても、その根本的な前提となっていることは、

 神はいない

ということです。「この世」「この時代」において、どのような歴史と文化が造られるとしても、そして、お互いの間に対立と戦いが絶えないとしても、造り主である神さまを神とすることがないという点だけは、共通しています。その点では「一致している」ということになります。
 2節では、

 は天から人の子らを見下ろされた。
 悟る者神を求める者がいるかどうかと。

と言われています。これは、ただ眺めておられるのではありません。天の王座に座しておられる王として、また、創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになった神である「」として、すべての人をつぶさに調べて、おさばきになるために「見下ろされた」のです。[注]
 ここで「見下ろされた」と訳されたことば(シャーカフ)はいろいろなところに出てきますが、その用例を見ておきましょう。
 その一つの用例は、出エジプト記14章24節に見られます。24節ー25節には、

朝の見張りのころ、は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」

と記されています。これは、エジプトを出たイスラエルの民が紅海の海辺で宿営していることを聞いたエジプトの王ファラオが、イスラエルの民は荒野に閉じ込められていると思い、心変わりをしてイスラエルの民を追いかけてきて、イスラエルの民の後を追って海に入った時のことを記しています。「」が御臨在の御許からエジプトの陣営を見下ろされたのは、彼らをおさばきになるためでした。
 この「見下ろす」ということばのもう一つの用例は、詩篇102篇19節に見られます。19節ー20節には、

 は その聖なるいと高き所から見下ろし
 天から地の上に目を注がれました。
 捕らわれ人のうめきを聞き
 死に定められた者たちを解き放つために。

と記されています。この場合は、「」が天に座しておられる王として、ご自身の契約の民をお救いになるためのことです。この場合も、詩篇14篇と同じように、「」はご自身が座しておられる「聖なるいと高き所」から見下ろしておられます。それで、22節では、

 諸国の民や王国が 一つに集められて
 主に仕えるために。

と言われていていて、その視野が「諸国の民や王国(複数)」にまで広がっています。
 ですから、このことばは、天に座しておられる「」が、すべてのものを治めておられる主権者として、救いとさばきの御業を遂行されるために人々をつぶさにご覧になるということを表しています。
 詩篇14篇に戻りますが、1節ー3節に記されているみことばは、ローマ人への手紙3章9節ー19節において、「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある」(9節)ということと、「全世界が神のさばきに服する」(19節)ようになることを示すために引用されています(10節ー12節、この後、ほかのみことばも引用されています)。

           *
 これに対して、先ほどお話ししたように、「天上で」、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」キリストと一つに結び合わされて、キリストとともに「天上に座らせて」いただいている私たちは、「この世」「この時代」の歴史と文化ではなく、「来ようとしている時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されていますし、実際に、「来ようとしている時代」の本質的な特質をもった歴史と文化を造っています。
 このことは、エペソ人への手紙では2章10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました

と記されています。
 ここで、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われていることは、新しい創造のことです。コリント人への手紙第一・5章17節には、

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されています。これに先立って、14節ー15節には、

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

と記されています。
 エペソ人への手紙2章10節で、私たちが「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」と言われているときの、「良い行いをする」ということは、コリント人への手紙第一・5章15節のことばで言うと「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ということに当たります。
 もちろん、

 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われていることは、最初の創造の御業において、神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを踏まえています。しかし、それだけではありません。それとともに、そのように、神さまによって、神のかたちとして造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていること、そのために、神のかたちとしての栄光と尊厳性を損ない、本性を腐敗させてしまい、罪と死の力に捕らえられてしまっていることも踏まえています。
 それで、まことの神であられる御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださいました。私たちはこのようにして御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださった栄光のキリストと一つに結び合わせていただいて、新しく造られ、新しく生まれています。
 これまでお話ししてきましたように、エペソ人への手紙では、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、最初の創造の御業において神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されているみこころを実現してくださるためであったことが示されています。そして、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリストと「ともによみがえらせ」てくださり、「天上で」キリストと「ともに座らせて」くださったのは、私たちが「来ようとしている時代」の歴史と文化、すなわち、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たすようになるためのことでした。それで、ここで、

 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われているときの「良い行い」(複数形)は、私たちが「来ようとしている時代」の歴史と文化、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たすことの中でなされるものです。
 それが具体的にどのようなことであるかについては、改めてお話しすることにして、ここでは、これに続いて、

 神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されていることについてお話しします。
 ここで、

 私たちが良い行いに歩むように

と言われていることは、1節ー2節で、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

と言われていている、かつての私たちのあり方と生き方と対比されています。かつての私たちは「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」と呼ばれているサタンに従って、「この世」「この時代」の歴史と文化を造る者として歩んでいました。しかし、今の私たちは、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって導いていただいて、「来ようとしている時代」の歴史と文化、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たす者として歩んでいます。
 これに続いて(原文のギリシア語ではこちらが先に出てきます)、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われているときの、「あらかじめ備える」ということば(プロエトイマゾー[「あらかじめ」を表す接頭辞「プロ」と「備える」を表す動詞「ヘトイマゾー」の組み合せ])は、新約聖書ではここのほか、ローマ人への手紙9章23節に出てくるだけです。23節ー24節には、

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

と記されています。ここで「あらかじめ備えられた」と言われていることは、神さまの永遠の前からのあわれみ深いみこころによって備えられたことを意味しています。これと同じように、エペソ人への手紙2章10節で、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることも、神さまの永遠からのみこころによることであると考えられます。
 これは、エペソ人への手紙では、同じく永遠からの神さまの主権的なみこころのことを記している1章5節に、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されているときの「あらかじめ定める」(プロオリゾー[「あらかじめ」を表す接頭辞「プロ」と「定める」を表す動詞「オリゾー」の組み合せ])とつながっています。それで、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることも、神さまの永遠からの愛に基づくみこころによることであり、神さまの主権的で一方的な恵みによって備えてくださっているものであると考えられます。私たちはこの神さまの永遠からの愛と恵みに包まれ、支えられて、

 良い行いに歩むように

と召されています。


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