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説教日:2021年2月28日 |
前回は、このことについて理解するために、以前お話ししたことで改めて確認しておきたい二つのことのうちの一つのことをお話ししました。今日は、もう一つのことについてお話しします。 エペソ人への手紙1章22節前半では、イエス・キリストが、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を原理的実質的に成就しておられることを示すために、詩篇8篇5節ー6節に記されているみことばの最後の、 神はすべてのものをキリスト[彼]の足の下に従わせた ということばを引用しています。神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、もともと、創世記1章26節ー28節に記されていて、詩篇8篇5節ー6節は、そのことを踏まえて記しています。それなら、どうして、エペソ人への手紙1章22節前半では、創世記1章26節ー28節に記されているみことばから引用していないのかという疑問です。 新約聖書においては、詩篇8篇6節の、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばが、このエペソ人への手紙1章22節を含めて、3個所で引用されています。もう二つは、コリント人への手紙第一・15章27節とヘブル人への手紙2章8節ですが、ヘブル人への手紙2章6節ー8節には、詩篇8篇4節ー6節が引用されています。 それで、この疑問は、新約聖書が歴史と文化を造る使命に関わることを記しているときに、どうして創世記1章26節ー28節に記されているみことばから引用しないで、詩篇8篇6節のみことばを引用しているのかという疑問になります。 このことについては、二つのことが考えられます。とはいえ、それらは一つのことの裏表のようなことです。 一つは、詩篇8篇に記されていることは、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後のことです。それで、詩篇8篇5節ー6節に記されていることは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっても、神のかたちとして造られていることには変わりがないということと、神である「主」から、歴史と文化を造る使命を委ねられていることにも変わりがないということを示しています。[この二つのことは形而上的・心理的なことであり、人が人である限り変わることはありません。] 人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって変わったのは、人が罪によって神のかたちとしての本性を腐敗させて、罪と死の力に縛られてしまっていること、神である「主」との愛にあるいのちの交わりを失ってしまい、暗闇の主権者であるサタンの圧制の下に置かれてしまっていることです。そのために、神である「主」を礼拝することを中心とした神である「主」との愛の交わりのうちに、神さまの栄光を現す歴史と文化を造ることはなくなり、自分の罪の本性を現す歴史と文化を造るようになってしまいました。詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。 善を行う者はいない。 と記されているように、その歴史と文化は「神はいない」という思いを大前提として、その上に成り立っています。[これが認識的・倫理的なことです。これは、神のかたちとして造られている人がどのように歴史と文化を造る使命を果たしているかということ、歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまにどのように応答しているかということで、この点で、すべての人は神さまに対して(広い意味での)倫理的責任を負っており、神さまはこのことについて、おさばきになります。] もう一つのことは、このことが、霊的な戦いの状況の中で起こっているということです。詩篇8篇は、その霊的な戦いの状況を踏まえて記されています。 罪によって堕落してしまった人は、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに対して、神である「主」に敵対する歴史と文化を造って、神さまに「応答」しているのです。 このような霊的な戦いの状況にあって、「最初の福音」に示された神である「主」の恵みにあずかって、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方と一体にある者としていただいている「主」の契約の民は、神である「主」を礼拝することを中心とした神である「主」との愛の交わりのうちに、神さまの栄光を現す歴史と文化を造るように召されています。詩篇8篇は、このような霊的な戦いの状況にあって、なお、神である「主」を礼拝することを目的とし、中心として歴史と文化を造る使命を果たしている「主」の契約の民の応答であり、讃美であり、感謝の告白です。 * 具体的には、すでにお話ししたことをまとめたり、補足したりしながらお話しすることになります。 1節には、 主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。 あなたのご威光は天でたたえられています。 と記されています。 ここでは契約の神である「主」ヤハウェが讃えられています。そして、まず、 主よ 私たちの主よ と呼びかけています。最初の「主」は新改訳で太字になっていることから分かりますが、契約の神である「主」ヤハウェのことです。それで、これは契約の神である「主」が「私たちの主」、すなわち、私たちを主権的に治めてくださる方であるということを告白することでもあります。 その「主」ヤハウェという御名が「全地にわたり」と言われています。これは、「主」がご自身の御名を「全地に」置かれたことを意味しています(参照・歴代誌第二・6章20節、「主」ヤハウェはその御名をソロモンが建てた宮に置くと言われました)。そして、「主」がその御名を置かれる所には、「主」がご臨在されます。「全地に」ご臨在される「主」は、ご自身が「主」であられることを、創造の御業に続く摂理の御業と特別摂理の御業としての贖いの御業において、現してくださっています。それで、「全地」はこの「主」の御名のうちに保たれ、導かれています。 次に、 なんと力に満ちていることでしょう。 と言われているときの「力に満ちている」と訳されていることばは、威厳のあることを表していますが、そこに力強さや権威が伴っていて、それに触れる者たちが、恐れ敬い、従うという意味合いがあります。これによって、「主」はご自身の御名を置かれた「全地」において、ご自身の御業を遂行され、必ず、ご自身の契約において示されたみこころを実現してくださるということが示されています。 これに続いて、 あなたのご威光は天でたたえられています。 と記されています。 ここでは「天」におけることが記されています。 「ご威光」と訳されていることばは、基本的に「威光」を意味していますが、やはり、強い力や権威が伴っているという意味合いがあります。 このことと、その前の「全地にわたり」ということと「天で」ということが組み合わさって、「主」がお造りになったこの世界のすべてのものを表わしています。これによって、「主」の主権的な御力と「ご威光」がこの世界のすべてのものに行き渡っていることを示しています。契約の神である「主」は、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのもの、すべてのことを、主権的な御力と「ご威光」をもって支えておられ、治めておられて、ご自身の契約において示されたみこころをすべて実現されます。 続く2節には、 幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。 あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために。 と記されています。 ここでは、1節で讃えられている「主」の主権的な御力と「ご威光」が、思いもよらない不思議な形で現されているということが告白されています。 その際に、まず、「幼子たち 乳飲み子たち」のことが取り上げられています。 「幼子たち」と訳されたことばは、「幼子たち」が祝福された状態にあることを示すときに用いられることが例外的にいくつかありますが、おもに「幼子たち」が戦いや飢饉などの災いの犠牲になっていることを表わすときに用いられています。しかも、それらの災いの原因は、人々が犯した罪にあります。 また、「乳飲み子たち」ということばはおもに、災いの犠牲になっていることで出てきます。 「幼子たち 乳飲み子たち」に続いて、「主」に「敵対する者」や「復讐する敵」たちのことが出てきます。それで、ここでは「幼子たち 乳飲み子たち」が「主」に「敵対する者」や「復讐する敵」たちによってもたらされる災いの犠牲となっているという意味合いがあると考えられます。 ここで「あなたに敵対する者」と言われている人々は、霊的な戦いにおいて「主」に「敵対する者」たちです。彼らは、「主」の契約に示されているみこころの実現、贖いの御業にかかわる「主」のみこころはもちろんのこと、最終的には、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いています。 それと対になっている「復讐する敵」と言われている人々は、「主」の契約の民に敵対する者たちのことであると考えられます。というのは、確かに、「主」に逆らって、「主」のみこころの実現を阻止しようとして働いて「主」に「敵対する者」たちはいますが、「主」に「復讐する」者たちがいるということは考えにくいことだからです。 それで、ここでは、「主」に「敵対する者」たちと、「主」の民に「復讐する敵」たちの組み合せがあります。「主」に「敵対する者」たちは、直接的に「主」に敵対することができないので、具体的には「主」の民に「復讐する敵」たちとなります。また、それで、「主」の民に「復讐する敵」たちは、「主」に「敵対する者」たちに他なりません。このことに、霊的な戦いにおいて「主」と「主」の民の一体性が見て取れます。 1節で「主」が「全地」においてだけでなく、「天」においてご威光を示しておられると言われていることから、ここで取り上げられている、「主」に敵対し、「主」の民に敵対している者たちには、エペソ人への手紙1章21節に出てきた、「すべての支配、権威、権力、主権」が含まれていると考えられます。 また、この「幼子たち 乳飲み子たち」は、自分の力では自分を守ることもできない存在であることを示しています。その意味で、「幼子たち 乳飲み子たち」は、文字通りの「幼子たち 乳飲み子たち」でありつつ、彼らによって代表的に示されている、「主」の恵みとあわれみにすがるほかはない、私たち「主」の契約の民のことでもあります。 ここでは、契約の神である「主」が、このような「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して」「御力を打ち立てられ」たと言われています。「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して」ということばは、自分の力では自分を守ることもできない存在である「幼子たち 乳飲み子たち」が、この罪に満ちた世界において起こるさまざまな災いの犠牲者となってしまう状況で、泣き叫んでいる様子を思わせます。 このような状況での唯一の確かな希望は、「全地」においても「天」においても、ご自身のみこころに従って御業をなし、栄光を現される、「主」がその声を聞いてくださっているということです。「主」は「幼子たち 乳飲み子たち」の声をお聞きになって、ご自身に「敵対する者[たち]に応え」、ご自身の民に「復讐する敵」を鎮められ、ご自身の契約に示されたみこころを実現し、霊的な戦いにおいて勝利されます。 「主」は幼子たちの讃美をお聞きになって霊的な戦いにおける「御力を打ち立てられ」ることもあります(マタイの福音書21章15節ー16節、参照・9節)。 これに続く3節ー4節には、 あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。 あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたが顧みてくださるとは。 と記されています。 ここでは、神さまの偉大さが讚えられる一方で、人の存在の小ささが強調されています。その上でなお、神さまがその小さな人を顧みてくださっていることが、大きな驚きと深い感謝とともに告白されています。 そして、5節ー6節に、 あなたは 人を御使い[第三版「神」]より わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているように、神さまが小さな者に、神のかたちという「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださって、神さまの創造の御業を受け継ぐ者としてくださっているということへの驚きと感謝が告白されています。 このように、ここでは、神のかたちとして造られた人が造り主である神さまに、この上なく近づけられていることへの大きな驚きと深い感謝を表わしています。 エペソ人への手紙2章6節に、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されていることも、4節ー5節に、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と記されているように、「あわれみ豊かな神」が、幼子のように弱いどころか、こともあろうに、ご自身に敵対して「背きの中に死んでいた」「私たちを愛してくださったその大きな愛」から出ていることですし、その「大きな愛」に基づく「恵みによる」ことです。 私たちは、「キリスト・イエスにあって」、この神さまの「大きな愛」と「恵み」に包まれ、神さまを礼拝することを中心とした神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとして、「来たるべき時代」に属する歴史と文化を造る使命を果たすことによって、前回お話しした、霊的な戦いの「Dデイ」後の戦いを戦っています。 |
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