黙示録講解

(第454回)


説教日:2021年2月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(207)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束はすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就しているということを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししています。
 いつものように、まず、すでにお話ししたことで、今お話ししていることと関連することをまとめておきます。
 今取り上げているのは、エペソ人への手紙2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることです。
 ここに出てくる「キリスト・イエスにあって」ということばは、私たちがキリスト・イエスと一つに結び合わされていることを意味しています。これは豊かな意味合いをもっていますが、エペソ人への手紙の流れの中では、私たちが1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されているキリストと一つに結ばれているということを意味しています。
 ですから、この1章20節ー23節に記されている、神さまがキリストに対してなしてくださったことは、2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されている、神さまが私たちに対してなしてくださったことと深く関わっています。
 そのことは、1章19節と20節のつながりからも分かります。
 20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されていることは、19節に記されている、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

というパウロの祈りに出てくる「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を説明するために記されています。このことから、2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることは、1章20節ー21節に記されている、神さまが「キリストのうちに働かせた」ご自身の「大能の力の働き」を「キリスト・イエスにあって」、「私たち信じる者に」働かせてくださったことによっているということが分かります。
 神さまがキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」ことには二つのことが関わっています。
 一つは、神さまがキリストを「天上で」、「すべての支配、権威、権力、主権」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」ということです。
 これは詩篇110篇1節の、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

というみことばが成就しているということを意味しています。それで、エペソ人への手紙1章21節前半に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「あなたの敵」と呼ばれている、サタンをかしらとする暗闇の主権者たちのことです。
 またそれで、神さまがキリストを「天上で」、「すべての支配、権威、権力、主権」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」ということは、霊的な戦いにおいて、すでに、栄光のキリストが原理的・実質的に勝利しておられることを意味しています。
 このことは、また、「キリスト・イエスにあって」、天上で、キリストと「ともに座らせて」いただいている私たちも、霊的な戦いにおいて、原理的・実質的に勝利しているということを意味しています。
 この霊的な戦いは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている、神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。
 サタンはこの神さまのみこころの実現を阻止しようとして、「」を用いて、最初の人アダムの妻エバを誘惑して、神である「」に対して罪を犯させました。さらにサタンは、罪によってサタンと一つに結ばれてしまったエバを用いてアダムを誘惑し、アダムも神である「」に対して罪を犯して、堕落しまいました。それによって、神さまのみこころの実現は阻止されてしまい、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したと思われる状態になってしまいました。
 しかし神である「」は、創世記3章15節に記されている、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

というサタンに対するさばきを宣告されました。
 これは、神である「」が「」と「女の子孫」の共同体をとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行し、最終的には、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるということを示しています。
 先ほどの、詩篇110篇1節に記されていることは、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られるメシアが、神である「」の右に着座されて、ご自身の敵であるサタンとその霊的な子孫たちを「足台とする」こと、すなわち、ご自身の主権の下に完全に服従させるようになるということを預言しています。そして、エペソ人への手紙1章21節には、このことが、キリストにおいて、すでに、原理的、実質的に、成就していることが記されており、2章6節には、キリスト・イエスにあって私たちの間で、原理的、実質的に、成就していることが示されています。
 けれども、これは霊的な戦いにおける勝利の一面でしかありません。これは欠くことができないことですが、霊的な戦いの中心にあることではありません。というのは、霊的な戦いは創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている、神さまのみこころの実現をめぐる戦いであるからです。
 霊的な戦いの中心にあることは、神さまがキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」と言われていることにかかわっているもう一つのことにあります。それは、1章21節後半に記されているように、神さまがキリストを「天上で」、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」ということです。
 ここで、「今の世」と言われているのは、文字通りには「この時代」で、これは終わりの日に至るまで続きます。そして、「次に来る世」は「来ようとしている時代」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるとともに、私たちご自身の契約の民を栄光のからだによみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を再創造されることによって始まる時代、すなわち、新しい天と新しい地の歴史としての「来たるべき時代」のことで、「新しい時代」とも呼ばれます。
 そして、父なる神さまが、天上において、キリストを、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるかに高く、ご自身の右に着座させておられることを受けて、22節前半には、

 神はすべてのものをキリストの[直訳「彼の」]足の下に従わせた

と記されています。
 これは、詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているみことばの最後に、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることが、キリストにおいて、原理的、実質的に、成就しているということを示すものです。
 今お話ししていることとの関わりで大切なことは、詩篇8篇5節ー6節に記されていることは、創世記1章26節ー28節に記されている、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れているということです。この詩篇8篇5節ー6節に記されていることは、神のかたちとして造られた人、すなわち、すべての人に当てはまることです。
 それで、エペソ人への手紙2章22節前半に、

 神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた

と記されていることは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されている神さまのみこころが、まことの人としての性質をお取りになって来てくださったキリスト・イエスにおいて、原理的・実質的に成就していることを示しています。また、このことは、キリスト・イエスにあって、私たちの間で、その神さまのみこころの実現が、原理的・実質的に成就しているということを意味しています。
 このことは、さらに、キリストにおいて、真の意味で、霊的な戦いの勝利が、原理的・実質的に、現実のことになっているということを意味しています。
 私たちは、神さまが「天上で」、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるか高く、「ご自分の右の座に着かせた」キリストと、一つに結び合わされて、「この世」「この時代」の歴史と文化ではなく、「来ようとしている時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されていますし、実際に、「来ようとしている時代」の本質的な特質をもった歴史と文化を造っています。


 このことについて理解するために、以前お話ししたことで、改めて確認しておきたいことが二つあります。
 今日は、そのうちの一つのことをお話しします。
 それは、「原理的・実質的に実現している/成就している」と言うときの「原理的・実質的に」ということの意味です。
 これについては、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線における「Dデイ」と「Vデイ」にたとえて考えると分かりやすくなります。
 第2次世界大戦の戦況は、連合軍のノルマンディー上陸作戦の成功によって、その大勢が決まったと言われています。それによって戦争が終わったのではありませんが、それ以後、ナチス軍は敗走しながら戦っていって、最終的に降伏するようになりました。この連合軍のノルマンディー上陸作戦が開始された日(1944年6月6日)が「Dデイ(D day)」と呼ばれます。そして最終的に連合軍が勝利した日(1945年5月8日)が「V・Eデイ(V-E day)」と呼ばれます[「V・Eデイ」の「E)」はヨーロッパ(Europe)戦線を表しています]。これが一般化されて、戦いにおいて重要な作戦が開始される日が「Dデイ」と呼ばれるようになり、勝利の日は「Vデイ」と呼ばれるようになったようです。
 この「Dデイ」と「Vデイ」を霊的な戦いに当てはめると、霊的な戦いにおける「Dデイ」は、御子イエス・キリストが、私たちご自身の契約の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださった日です。その日に起こったことによって霊的な戦いの勝敗の行方は決しています。
 ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されているように、イエス・キリストは「悪魔をご自分の死によって滅ぼ」されました。ここで、「滅ぼす」と訳されていることば(カタルゲオー)は「滅ぼす」こととともに「無力化する」ことも表します。戦いにおいて相手を無力化してしまえば、相手の敗北は決定的なものとなります。このように、イエス・キリストが十字架にかかって死なれた日は、霊的な戦いにおける「Dデイ」に当たることです。
 同様のことは、ヨハネの福音書12章27節ー33節に、

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と記されています。
 ここには、33節に、

 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と記されているように、イエス・キリストが、十字架におかかりになって死なれる時が迫って来ていることを受け止めて、弟子たちに語られたことが記されています。ですから、イエス・キリストが、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。

と言われたときの「この時」は、ご自身が十字架におかかりになって死なれる時のことです。
 ここでイエス・キリストは、

 今わたしの心は騒いでいる

と言っておられますが、これは、私たちが「心が騒ぐ」と言うことをはるかに越えた苦悩を表しています。これは、十字架にかかって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを私たちに代わってすべて受けてくださることの、想像を絶する恐ろしさと、無限、永遠、不変の愛において結ばれている父なる神さまからの聖なる御怒りを受けることへの悲しみの深さに苦しんでおられます。しかし、

 いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。

と言っておられるように、そのようにして、ご自身が十字架におかかりになって死なれることは父なる神さまのみこころであり、

 父よ、御名の栄光を現してください。

と言っておられるように、ご自身が十字架におかかりになって死なれることは父なる神さまの栄光を現すことであるので、父なる神さまのみこころが果たされることを祈り求めておられます。
 これに対して、父なる神さまは、

 わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。

とお答えになっておられます。父なる神さまが、

 わたしはすでに栄光を現した。

と言われたのは、1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているように、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、限りなく身を低くされて、まことの人となって来られたことと、そのことから始まる、メシアとしてのお働きをとおして、父なる神さまの「ひとり子としての」「恵みとまことに満ちた」栄光を現されたことを指しています。そして、父なる神さまが、

 わたしは再び栄光を現そう。

と言われたことは、イエス・キリストが十字架におかかりになって死なれることをとおして、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光がこの上なく豊かに現されるようになることを意味しています。
 このことを受けて、イエス・キリストは、

今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と語られました。そして、ヨハネは、このことについて、

 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と説明しています。
 御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わってすべて受けてくださって死なれることによって、父なる神さまの栄光はこの上なく豊かに現されます。それとともに、ここで「」と、繰り返し言われているように、その時に「この世に対するさばきが行われ」、「この世を支配する者」すなわちサタンは「追い出され」、イエス・キリストは、ご自身の民をすべて御許に引き寄せてくださいます。そのことにおいても、父なる神さまの栄光が現されます。
 ここで、イエス・キリストが、

 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と言われたことは、今取り上げてお話ししているエペソ人への手紙2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることにおいて、私たちの現実になっています。
 このことも、霊的な戦いにおける「Dデイ」が、今から2千年前に御子イエス・キリストが十字架におかかりになって死なれた日であることを示しています。
 またこれは、黙示録では、天における霊的な戦いのことを記している12章9節ー11節に、

こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。

と記されていることに当たります。
 しかし、この「Dデイ」における勝利で霊的な戦いが終わっているわけではありません。黙示録12章では、引用しました9節ー11節に続いて、12節に、

 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。
 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。

と記されているように、「自分の時が短いことを知った」「悪魔が」、「激しく憤って」下った地において、言わば「死に物狂いの」戦いを展開するようになったのです。そのことが、キリストのからだである教会にとってどのようなことであるかが、黙示録12章では、17節に、

すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。

と記されています。この「」は、新しい契約の共同体、すなわち、キリストのからだである教会を意味しています。
 このように、霊的な戦いの「Dデイ」における勝利の後には、より一層激しい霊的な戦いがあって、それが終わりの日にまで続きます。
 しかし、それにもかかわらず、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。

と言われているように、私たち「」の民は、すでに、キリスト・イエスにあって、霊的な戦いの「Dデイ」における勝利にあずかっています。そして、そのような者として、霊的な戦いを戦いながら、やがて終わりの日に、霊的な戦いにおける最終的な勝利の日である「Vデイ」を迎えます。
 ですから、霊的な戦いにおける「原理的・実質的な」勝利は、霊的な戦いにおける「Dデイ」における勝利に当たります。そして、この「原理的・実質的な」勝利は、霊的な戦いにおける勝利が、「すでに」、キリストご自身にあって、また、キリスト・イエスにあって私たちの間に、実現しているということとともに、「いまだ」、その完全な実現としての最終的な勝利には至っていないということを意味しています。このように、今、地上にある主の民である私たちにとって、霊的な戦いにおける勝利には「すでに」と「いまだ」という二つの面があります。


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