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説教日:2021年2月7日 |
先主日に、問題提起としてお話ししたことは、終わりの日に再臨される栄光のキリストがサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されることは、霊的な戦いにおける最終的な勝利の「消極的な面」でしかないということです。というのは、霊的な戦いは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現をめぐる戦いであって、サタンとその霊的な子孫が滅ぼされるかどうかをめぐる戦いではないからです。この点で、霊的な戦いは、相手を滅ぼしてしまって終わる血肉の戦いとは本質的に違っています。 エペソ人への手紙1章20節ー23節に記されていることは、このようなことを踏まえて記されています。 1章20節ー21節では、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。 と言われているだけでなく、さらに21節後半で、 また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と言われています。 このことを踏まえてお話を進めていきますが、ここで改めて確認しておきたいことがあります。 それは、父なる神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、天上で、キリストと「ともに座らせて」くださったということは、父なる神さまが、天上で、「すべての支配、権威、権力、主権」と言われている暗闇の主権者たちばかりでなく、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるかに高く、「ご自分の右の座に着かせて」おられるキリストと、私たちを一つに結び合わせてくださっているということを意味しているということです。 21節後半では、天上において、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストは、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」のはるか上に着座しておられるということが示されています。 ここで、「今の世」と言われているのは、基本的には、「この時代」で、これは終わりの日に至るまで続きます。そして、「次に来る世」は「来ようとしている時代」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるとともに、私たちご自身の契約の民を栄光のからだによみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を再創造されることによって始まる時代、新しい天と新しい地の歴史としての「来たるべき時代」のことです。 そして、22節には、父なる神さまが、天上において、栄光のキリストを、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるかに高く、ご自身の右に着座させておられることを受けて、 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた と記されています。 この、 神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた と訳されている部分は、直訳調に訳すと、 彼はすべてのものを彼の足の下に従わせた となります。もちろん、ここでは、最初の「彼」は父なる神さまのことで、次の「彼」はキリストのことです。ただ、この直訳調の訳の方が分かりやすいことがあります。それは、ここで、 すべてのものを彼の足の下に従わせた と記されていることが、詩篇8篇5節ー6節の、 あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばの最後において、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されていることを引用しているということです。[注] [注]2017年版は5節の冒頭の部分で、人を「御使いより」と訳しています(これは、旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳によっています)。私は、第3版までの「神より」という訳(2017年版欄外別訳)の方がよいのではないかと考えていますが、これについては、すでに数カ月前にお話ししていますので省略します。 言うまでもなく、ここで、 すべてのものを彼の足の下に従わせた と言われているときの「すべてのもの」(ギリシア語・パンタ)と詩篇8篇6節で、 万物を彼の足の下に置かれました。 と言われているときの「万物」(ヘブル語・コール)は、日本語への訳し方の違いで、同じものを意味してます。七十人訳は「パンタ」と訳しています。また「置かれた」も、「従わせた」と同じことば(ヒュポタッソー)で訳しています。 また、ここで大切なことは、詩篇8篇6節で、 万物を彼の足の下に置かれました。 と言われていることは、その前の5節ー6節前半に、 あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。 あなたの御手のわざを人に治めさせ と記されていることから分かりますが、神さま(1節の「主」)が、創世記1章26節ー28節に記されているように、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れているものです。 先ほど詩篇110篇1節に記されている、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 というみことばを引用しましたが、この詩篇110篇は、いわゆる「メシア詩篇」で、約束のメシアについて記しています。しかし、今取り上げている詩篇8篇は「メシア詩篇」ではなく、すべての人に当てはまることを記しています。人は、すべて、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられています。このことは[形而上的・心理的なことで]、人が人である限り変わることがありません。 ですから、エペソ人への手紙1章22節に、 神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた。 と記されていることは、天上において、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるかに高く、父なる神さまの右に着座しておられる栄光のキリストが、神のかたちとして造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命を、原理的、実質的に成就しておられるということを示しています。 先ほどもお話ししたように、霊的な戦いは、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。 神さまが人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、造り主である神さまの豊かな愛を受けている者として、神さまを愛して礼拝することを中心として、自分たちの間において、また、神さまから委ねられた生き物や植物たちに対して、神さまの愛といつくしみを映し出すことによって、いっさいの栄光を神さまに帰する歴史と文化を造る使命です。 実際には、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人がサタンのそそのかしに従って、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、この神さまのみこころの実現は阻止されてしまったとしか思えない状態になってしまいました。 神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人を根底から動かしているのは、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されているように、罪の自己中心性が生み出す、造り主である「神はいない」という思いです。これが罪によって縛られてしまっている人の考え方と生き方に現れてきます。[注] [注]すべての人が神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、どのように、また、どのような歴史と文化を造るかということは、認識的・倫理的なことです。このことは、人類の堕落後に変わってしまっています。 そうであっても、人が神のかたちとして造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていること、また、そのために必要なさまざまな能力を与えられていることには変わりがありません。それで、人は歴史と文化を造ります。それがどのような文化であり、歴史であるかは時代や社会によって違っています。けれども、すべての時代と社会に共通しているのは、造り主である神さまを神とすることはないということであり、造り主である神さまを愛して礼拝することを中心とした歴史と文化を造ることはないということです。 これが「最初の福音」において、「おまえ」と呼ばれているサタンとその霊的な子孫の共同体が造る歴史と文化です。それは、突き詰めていくと、その「かしら」であるサタンを映し出す歴史と文化です。私たちもかつては、そのような歴史に棹さし、そのような文化の中で生きていました。 そのことが、エペソ人への手紙2章1節ー3節に、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。ここで「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」(単数形)とはサタンのことです。 造り主である神さまは、人を、例外なく、神のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。それで、神さまは人がどのように歴史と文化を造る使命を果たしたか、具体的に、どのような歴史と文化を造ったかを評価されます。 神さまのみことばである聖書が全体として示していることは、神さまが歴史と文化を造る使命との関わりで人を評価されることには目的がありました。それは、人が委ねられた歴史と文化を造る使命を神さまのみこころに従って果たしたことに報いてくださって、人を創造の御業において神のかたちとして造られた時の栄光より、一段と豊かな栄光の状態に造り変えてくださって、そのより豊かな栄光にあって、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださるためのことでした。そのようにして、より豊かな栄光にあって、ご自身との愛の交わりに生きるようになることが、永遠のいのちの本質です。 そして、人がこの永遠のいのちに生きるようになることは、歴史と文化を造る使命にかかわっています。永遠のいのちに生きるようになる人は、神である「主」が創造の御業において造られた世界にご臨在しておられた時の栄光より、一段と豊かな栄光においてご臨在される世界、すなわち、新しい天と新しい地の歴史と文化を造るようになるのです。それは、エペソ人への手紙1章21節に出てくることばで言うと、「次に来る世」、より文字通りには「来ようとしている時代」の歴史と文化を造ることです。 これが、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになった時の、みこころでした。 しかし、実際には、人は神である「主」に霊的な戦いを仕掛けたサタンの誘惑に従って、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったみこころの実現が阻止されてしまった状態になりました。 また、それによって、先ほどの、神さまの評価は、造り主である神さまを神としない歴史と文化を造っていることに対するさばきとなってしまいました。 これらのことを踏まえると、霊的な戦いにおいて、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されているみこころが実現するようになるために、どのようなことをしてくださったかが理解できます。 神さまは、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」、私たちご自身の民のための契約の主として、ご自身の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。 イエス・キリストは十字架の上で、私たちの民の罪にたいする父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったことによって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。 そればかりではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって義を確立してくださいました。それによって、私たちは契約の主、私たちの契約のかしらである「イエス・キリストにあって」義と認められています。 さらにイエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天上において、父なる神さまの右の座に着座されました。私たちはこの栄光のキリストと一つに結び合わされて、キリストとともによみがえり、天上で、キリスト「ともに座らせて」いただいています。 天上において、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、「すべての支配、権威、権力、主権」に原理的、実質的に勝利しておられます。 しかしそれだけでなく、栄光のキリストは「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりはるかに高く、父なる神さまの右の座に着座しておられます。そして、 神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた と言われているように、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を原理的、実質的に成就しておられます。 私たちはこの栄光のキリストと一つに結び合わされて、「この世」「この時代」の歴史と文化ではなく、「来ようとしている時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。それは将来のことではなく、今すでに私たちはその使命を与えられていますし、実際に、「来ようとしている時代」の本質的な特質をもった歴史と文化を造っています。 これについては、さらに、続けてお話しします。 |
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