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説教日:2021年1月31日 |
これもすでにお話ししたことですが、1章20節ー21節に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と記されているときの「天上でご自分の右の座に着かせて」ということは、ダビデ契約に約束されている、ダビデ的な王であるメシアが、永遠の王座すなわち父なる神さまの右の座に着座されることを預言的に記している詩篇110篇1節の、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 というみことばが成就しているということを伝えています。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「あなたの敵」と呼ばれている、メシアに敵対している勢力で、サタンをかしらとする暗闇の支配者たちのことです。 ですから、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。 と言われていることは、霊的な戦いにおいて、すでに、栄光のキリストが原理的・実質的に勝利しておられることを意味しています。 この霊的な戦いは、サタンが「蛇」を用いて最初の人アダムの妻エバを誘惑し、さらに、神である「主」に対して罪を犯したエバを用いてアダムを誘惑したことから始まっています。 サタンは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている、神さまのみこころの実現を阻止しようとしていたのです。 アダムとエバがサタンの思惑どおり、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになった神さまのみこころの実現は阻止されてしまったとしか思えない状態になりました。霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したとしか思えない状態になってしまったのです。 これに対して、神である「主」は創世記3章15節に、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と記されている、「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後で働いていたサタンに対するさばきを宣告されました。 結論的なことだけですが、これによって、神である「主」は、この時に、ご自身が直接的にサタンに対する最終的なさばきを執行されないことを示されました。もし、この時に神である「主」が直接的に、最終的なさばきを執行されたなら、罪によってサタンと一つに結ばれてしまっているアダムとその妻エバも、サタンとともに滅ぼされてしまったはずです。そうなると、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになった神さまのみこころの実現は阻止されてしまい、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利することになります。 神である「主」はそのようにされないで 敵意を、わたしは置く。おまえと女の間に、 また、おまえの子孫と女の子孫の間に。 と言われて「おまえ」と呼ばれているサタンに対するさばきを宣告されました。 これは、神である「主」がサタンと、「女」すなわち、罪によってサタンと一つ結ばれ、サタンの手先となって最初の人アダムを誘惑したエバとの間に「敵意」を置いてくださって、両者の関係を引き裂かれるということを示しています。それだけでなく、その「敵意」は「女の子孫」の共同体と「おまえの子孫」すなわちサタンの霊的な子孫の共同体の間にまで及んでいき、歴史をとおして霊的な戦いが展開していくようになることをも示しています。 このことは「女」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「主」の側に立つもの、その意味で、神である「主」の民となっています。このことに、「女」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。 神である「主」は、続いて、 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と宣告されました。 これは、最終的には、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることを意味しています。 この「女の子孫」の「かしら」として来られる方が、約束のメシア(キリスト)です。「女」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって救われ、神である「主」の民とされ、霊的な戦いに勝利します。また、サタンとその霊的な子孫の共同体は、「かしら」であるサタンとの一体において、最終的なさばきを受けるようになり、霊的な戦いにおいて敗北するようになります。 エペソ人への手紙1章20節ー21節前半において、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。 と言われていることは、「女の子孫」の「かしら」として来られた方が、霊的な戦いにおいて、実質的に・原理的にサタンとその霊的な子孫に勝利しておられることを示しています。また、2章6節において、 すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。 と言われていることは、「女」と「女の子孫」の共同体が「かしら」であるキリスト・イエスとの一体にあって、霊的な戦いにおいて、実質的に・原理的にサタンとその霊的な子孫に勝利していることを意味しています。 * 長い復習になってしまいましたが、エペソ人への手紙1章20節ー21節では、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。 と言うことで終わってはいません。さらに、 また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と言われています。 ここで、「今の世」(ホ・アイオーン・フートス)と言われているのは、基本的には、「この時代」で、これは終わりの日に至るまで続きます。そして、「次に来る世」(ホ・メッローン)は「来ようとしている時代」[「時代」(アイオーン)は省略されています]で、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるとともに、私たちご自身の契約の民を栄光のからだによみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を再創造されることによって始まる時代、「来たるべき時代」のことです。 ですから、ここでは、天上において父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、終わりの日に至るまで続く「この時代」ばかりでなく、新しい天と新しい地の歴史としての「来たるべき時代」においても「となえられるすべての名」のはるか上に座しておられるということが示されています。 これはピリピ人への手紙2章6節ー10節に、 キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。 それは、イエスの名によって、 天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、 すべての舌が 「イエス・キリストは主です」と告白して、 父なる神に栄光を帰するためです。 と記されていることに相当します。 このことは霊的な戦いとのかかわりで大切な意味をもっています。 終わりの日に再臨される栄光のキリストがサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されることは、天上において、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、「すべての支配、権威、権力、主権」と言われている、サタンをかしらとする暗闇の主権者たちを最終的におさばきになって、滅ぼしてしまわれることを意味しています。これは、霊的な戦いにおける最終的な勝利を意味しているように思われます。 しかし、これは、言わば、霊的な戦いの最終的な勝利の一面、しかも、「消極的な面」でしかありません。というのは、霊的な戦いは、サタンとその霊的な子孫が滅ぼされるかどうかをめぐる戦いではないからです。 霊的な戦いは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。 サタンとその軍勢は、サタンが最初の人とその妻を誘惑する前に、すでに、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていました。ですから、サタンとその軍勢は自分たちが神である「主」のさばきを受けて滅ぼされるべきものであることを知っていました。サタンとその軍勢にとっては、自分たちが神である「主」が執行する最終的なさばきによって滅ぼされることは、言わば、初めから織り込み済みのことだったのです。 彼らとしては、「かしら」であるサタンが、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、神である「主」に背く罪を犯させ、御前に堕落させてしまった時には、霊的な戦いにおける勝利を確信したはずです。 さらに、神である「主」が、サタンに対するさばきの宣告において、その時に、自分たちに対する最終的なさばきを執行されないで、「女の子孫」の「かしら」として来られる方をとおして最終的なさばきを執行されるというみこころを示された時には、喜んだことでしょう。それは二つの理由によっています。 一つは、その「女の子孫」の共同体を根絶やしにしてしまえば、その「かしら」も生まれてこないことになるからです。 実際に、創世記6章5節ー6節に、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 と記されているように、ノアの時代には、人の悪が徹底化して極まってしまっている状態になっていて、11節ー12節に、 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。 と記されているように、地が暴虐で満たされてしまっている状態になるようになっています。 これは、サタンが4章19節ー24節に記されている、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクを用いて働いたことによっていると考えられます。23節ー24節には、 レメクは妻たちに言った。 「アダとツィラよ、私の声を聞け。 レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。 私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。 一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。 カインに七倍の復讐があるなら、 レメクには七十七倍。」 と記されています。 そして、神である「主」は、その時代に、大洪水によるさばきによって、すべての人と歴史と文化を造る使命よって人との一体にあるすべての生き物たちを滅ぼされました。 けれども、神である「主」はその一方的な恵みによってノアとその家族と彼らと一体にある生き物たちを救われました。それによって、大洪水による終末的なさばきの後の人類の歴史は存続することになり、神さまは歴史と文化を造る使命を更新してくださいました(創世記9章1節ー7節)。 もう一つの理由は、サタンとしては、たとえ、その「かしら」が生まれてきても、その「かしら」を亡き者としてしまえば、「最初の福音」に示された神である「主」のみこころの実現も阻止することができます。 実際に、サタンは、イエス・キリストがお生まれになった時には、ヘロデの思惑を用いて、ベツレヘムとその近郊に生まれた2歳以下の子どもたちを殺害しました。また、ついには、イエス・キリストを十字架につけて殺すようにユダヤ人たちと弟子のユダに働きかけ(参照。ヨハネの福音書8章37節、44節、13章27節)、イエス・キリストを十字架につけて殺しました。 サタンとしては、「女の子孫」の「かしら」が来ることを阻止するか、その「かしら」を亡き者とすれば、創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止することができるばかりか、「最初の福音」において示された神である「主」のみこころの実現をも阻止することができることになります。 しかし、父なる神さまは、イエス・キリストの十字架の死によって、私たち「主」の契約の民の罪をすべて完全に贖ってくださるとともに、イエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださいました。それによって、 私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださった のです。 これは、「女」と「女の子孫」の共同体に属する私たちが「かしら」であるキリスト・イエスとの一体にあって、霊的な戦いにおいて、原理的・実質的にサタンとその霊的な子孫に勝利していることを意味しています。 そうであっても、霊的な戦いの核心にある創造の御業において示されている神さまのみこころの実現はどうなっているのかという問題は残っています。 エペソ人への手紙1章では、この問題についても取り扱っています。 21節後半では、天上において、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」のはるか上に座しておられると言われています。これを受けて、22節には、 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた と記されています。 これは、栄光のキリストが、創造の御業において示されている神さまのみこころを、すでに、原理的・実質的に実現しておられることを示しています。 このことについて、また、このことが、「キリスト・イエスにあって・・・ともに天上に座らせて」いただいている私たちにとってどのような意味をもっているかについては、以前お話ししたことがありますが、日を改めて、お話しします。 |
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