黙示録講解

(第452回)


説教日:2021年1月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(205)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今お話ししているのは、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就しているということです。そのために、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししています。
 まず、今日お話しすることとかかわっていることを、いくつか補足しながら、復習しておきます。
 今は、4節ー6節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

ということを取り上げてお話ししています。
 いくつかの訳し方はすでにお話ししたことを踏まえていますが、4節ー5節前半においては、「あわれみ豊かな神」さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、「私たちが背きの中に死んでいたときに、私たちをキリストとともに生かして」くださったと言われています。
 そして6節において、神さまが「私たちをキリストとともに生かして」くださったことをさらに説明しています。
 神さまが「私たちをキリストとともに生かして」くださったことには、私たちを「キリスト・イエスにあって」「[キリストと]ともによみがえらせ」てくださったことばかりでなく、私たちを「キリスト・イエスにあって」「[キリストと]ともに天上に座らせて」くださったことがある、というのです。ここで「[キリストと]」を補っているのは説明のためです(それで、この後からは、この説明のための補足はつけません)。
 神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともによみがえらせ」てくださったことと、「ともに天上に座らせて」くださったことは、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されていることを受けています。
 特に、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともによみがえらせ」てくださったことと、「ともに天上に(エプ・ウーラニオイス)座らせて」くださったということは、1章20節で、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上で(エプ・ウーラニオイス)ご自分の右の座に着かせ(座らせ)、

と言われていることと対応しています。
 けれども、この20節で、

天上でご自分の右の座に着かせ、

と言われていることは、これとして区切られているのではありません。ここで節が区切られているので、21節は、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と訳す他はありませんが、最後の「置かれました」ということばは原文のギリシア語にはありません(この21節は、副詞句で、ここには動詞がありません)。ここでは、父なる神さまが栄光のキリストを、天上において、「すべての支配、権威、権力、主権」や「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」よりもはるかに高く、ご自身の右の座(主権の座、栄誉の座)に着かせた、ということを示しています。
 このように、20節に記されていることと21節に記されていることは切り離すことができません。それで、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともによみがえらせ」てくださったことと、「ともに天上に座らせて」くださったことは、特に、1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されていることと対応していることになります。[注]

[注]この20節ー21節の主動詞は「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて」と言われているときの「働かせた」で、「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」と言われているときの「よみがえらせた」と「着かせた」は分詞(不定過去時制)で表されていて、主動詞の「働かせた」にかかります。このことは、神さまは「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた」ことにおいて、「この[すなわち「私たち信じる者に働く」]大能の力を神はキリストのうちに働かせた」ということを示しています。

 20節冒頭で、

 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、

と言われているときの「この大能の力」は、その前の17節ー19節に記されている私たちのための祈りの最後に、19節で、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と祈っている中に出てくる「(神の大能の力の)働き」を受けています。
 これによって、パウロは「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、神さまが、

キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と言われている力である、ということを説明しています。
 ですから、パウロは、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、神さまが「キリストのうちに働かせた」力にほかならないことを私たちが知ることができるようにと、父なる神さまに祈っています。
 そして、2章6節においては、明確に述べられているわけではありませんが、1章20節ー21節に記されている、神さまが「キリストのうちに働かせた」「神の大能の力の働き」――それは、もともと「私たち信じる者に働く」と言われているものです(19節)――を、実際に、「私たち信じる者」に働かせてくださって、

私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださった

ということが示されています。
 パウロがよく用いている「キリストにあって」あるいは「キリスト・イエスにあって」ということは、私たちが「キリスト」あるいは「キリスト・イエス」と一つに結び合わされていることを示しています。それはさまざまなこととのかかわりで用いられていて、豊かな意味合いをもっています。この2章6節で、

神は私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に(エプ・ウーラニオイス)座らせてくださった

と言われているときの「キリスト・イエスにあって」は、1章19節ー2章6節の流れの中で見ると、栄光を受けて死者の中からよみがえられただけでなく、「天上で(エプ・ウーラニオイス)」父なる神さまの右の座に着座された「キリスト・イエスにあって」ということを意味しています。
 そして、この2章6節に記されている、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって、・・・ともに天上に座らせてくださった」ということは、新約聖書においては、ここだけに出てくることです。[注]このことも、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって、・・・ともに天上に座らせてくださった」ということが、1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されていることと対応しているということを支持しています。

[注]神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって、・・・ともに天上に座らせてくださった」ということは明確に示されてはいませんが、マタイの福音書19章28節、ルカの福音書22章28節ー30節、コリント人への手紙第1・6章2節ー3節、テモテへの手紙第2・2章10節ー12節前半、ヘブル人への手紙2章5節ー10節、黙示録(では今取り上げている)2章26節ー28節前半、3章21節、20章4節、6節、22章5節後半などには、「主」の契約の民の、キリストにあっての、あるいは、キリストとともなる支配のことが記されています。


 これもすでにお話ししたことですが、1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されているときの「天上でご自分の右の座に着かせて」ということは、ダビデ契約に約束されている、ダビデ的な王であるメシアが、永遠の王座すなわち父なる神さまの右の座に着座されることを預言的に記している詩篇110篇1節の、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

というみことばが成就しているということを伝えています。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「あなたの敵」と呼ばれている、メシアに敵対している勢力で、サタンをかしらとする暗闇の支配者たちのことです。
 ですから、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言われていることは、霊的な戦いにおいて、すでに、栄光のキリストが原理的・実質的に勝利しておられることを意味しています。
 この霊的な戦いは、サタンが「」を用いて最初の人アダムの妻エバを誘惑し、さらに、神である「」に対して罪を犯したエバを用いてアダムを誘惑したことから始まっています。
 サタンは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている、神さまのみこころの実現を阻止しようとしていたのです。
 アダムとエバがサタンの思惑どおり、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになった神さまのみこころの実現は阻止されてしまったとしか思えない状態になりました。霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したとしか思えない状態になってしまったのです。
 これに対して、神である「」は創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている、「おまえ」と呼ばれている「」の背後で働いていたサタンに対するさばきを宣告されました。
 結論的なことだけですが、これによって、神である「」は、この時に、ご自身が直接的にサタンに対する最終的なさばきを執行されないことを示されました。もし、この時に神である「」が直接的に、最終的なさばきを執行されたなら、罪によってサタンと一つに結ばれてしまっているアダムとその妻エバも、サタンとともに滅ぼされてしまったはずです。そうなると、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになった神さまのみこころの実現は阻止されてしまい、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利することになります。
 神である「」はそのようにされないで

 敵意を、わたしは置く。おまえと女の間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫の間に。

と言われて「おまえ」と呼ばれているサタンに対するさばきを宣告されました。
 これは、神である「」がサタンと、「」すなわち、罪によってサタンと一つ結ばれ、サタンの手先となって最初の人アダムを誘惑したエバとの間に「敵意」を置いてくださって、両者の関係を引き裂かれるということを示しています。それだけでなく、その「敵意」は「女の子孫」の共同体と「おまえの子孫」すなわちサタンの霊的な子孫の共同体の間にまで及んでいき、歴史をとおして霊的な戦いが展開していくようになることをも示しています。
 このことは「」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つもの、その意味で、神である「」の民となっています。このことに、「」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。
 神である「」は、続いて、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と宣告されました。
 これは、最終的には、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることを意味しています。
 この「女の子孫」の「かしら」として来られる方が、約束のメシア(キリスト)です。「」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって救われ、神である「」の民とされ、霊的な戦いに勝利します。また、サタンとその霊的な子孫の共同体は、「かしら」であるサタンとの一体において、最終的なさばきを受けるようになり、霊的な戦いにおいて敗北するようになります。
 エペソ人への手紙1章20節ー21節前半において、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言われていることは、「女の子孫」の「かしら」として来られた方が、霊的な戦いにおいて、実質的に・原理的にサタンとその霊的な子孫に勝利しておられることを示しています。また、2章6節において、

すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。

と言われていることは、「」と「女の子孫」の共同体が「かしら」であるキリスト・イエスとの一体にあって、霊的な戦いにおいて、実質的に・原理的にサタンとその霊的な子孫に勝利していることを意味しています。

         *
 長い復習になってしまいましたが、エペソ人への手紙1章20節ー21節では、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言うことで終わってはいません。さらに、

また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と言われています。
 ここで、「今の世」(ホ・アイオーン・フートス)と言われているのは、基本的には、「この時代」で、これは終わりの日に至るまで続きます。そして、「次に来る世」(ホ・ッローン)は「来ようとしている時代」[「時代」(アイオーン)は省略されています]で、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるとともに、私たちご自身の契約の民を栄光のからだによみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を再創造されることによって始まる時代、「来たるべき時代」のことです。
 ですから、ここでは、天上において父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、終わりの日に至るまで続く「この時代」ばかりでなく、新しい天と新しい地の歴史としての「来たるべき時代」においても「となえられるすべての名」のはるか上に座しておられるということが示されています。
 これはピリピ人への手紙2章6節ー10節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。
 それは、イエスの名によって、
 天にあるもの、地にあるもの、
 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
 すべての舌が
 「イエス・キリストは主です」と告白して、
 父なる神に栄光を帰するためです。

と記されていることに相当します。
 このことは霊的な戦いとのかかわりで大切な意味をもっています。
 終わりの日に再臨される栄光のキリストがサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されることは、天上において、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、「すべての支配、権威、権力、主権」と言われている、サタンをかしらとする暗闇の主権者たちを最終的におさばきになって、滅ぼしてしまわれることを意味しています。これは、霊的な戦いにおける最終的な勝利を意味しているように思われます。
 しかし、これは、言わば、霊的な戦いの最終的な勝利の一面、しかも、「消極的な面」でしかありません。というのは、霊的な戦いは、サタンとその霊的な子孫が滅ぼされるかどうかをめぐる戦いではないからです。
 霊的な戦いは、創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。
 サタンとその軍勢は、サタンが最初の人とその妻を誘惑する前に、すでに、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていました。ですから、サタンとその軍勢は自分たちが神である「」のさばきを受けて滅ぼされるべきものであることを知っていました。サタンとその軍勢にとっては、自分たちが神である「」が執行する最終的なさばきによって滅ぼされることは、言わば、初めから織り込み済みのことだったのです。
 彼らとしては、「かしら」であるサタンが、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、神である「」に背く罪を犯させ、御前に堕落させてしまった時には、霊的な戦いにおける勝利を確信したはずです。
 さらに、神である「」が、サタンに対するさばきの宣告において、その時に、自分たちに対する最終的なさばきを執行されないで、「女の子孫」の「かしら」として来られる方をとおして最終的なさばきを執行されるというみこころを示された時には、喜んだことでしょう。それは二つの理由によっています。
 一つは、その「女の子孫」の共同体を根絶やしにしてしまえば、その「かしら」も生まれてこないことになるからです。
 実際に、創世記6章5節ー6節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

と記されているように、ノアの時代には、人の悪が徹底化して極まってしまっている状態になっていて、11節ー12節に、

 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

と記されているように、地が暴虐で満たされてしまっている状態になるようになっています。
 これは、サタンが4章19節ー24節に記されている、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクを用いて働いたことによっていると考えられます。23節ー24節には、

 レメクは妻たちに言った。
 「アダとツィラよ、私の声を聞け。
 レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。
 私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。
 一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。
 カインに七倍の復讐があるなら、
 レメクには七十七倍。」

と記されています。
 そして、神である「」は、その時代に、大洪水によるさばきによって、すべての人と歴史と文化を造る使命よって人との一体にあるすべての生き物たちを滅ぼされました。
 けれども、神である「」はその一方的な恵みによってノアとその家族と彼らと一体にある生き物たちを救われました。それによって、大洪水による終末的なさばきの後の人類の歴史は存続することになり、神さまは歴史と文化を造る使命を更新してくださいました(創世記9章1節ー7節)。
 もう一つの理由は、サタンとしては、たとえ、その「かしら」が生まれてきても、その「かしら」を亡き者としてしまえば、「最初の福音」に示された神である「」のみこころの実現も阻止することができます。
 実際に、サタンは、イエス・キリストがお生まれになった時には、ヘロデの思惑を用いて、ベツレヘムとその近郊に生まれた2歳以下の子どもたちを殺害しました。また、ついには、イエス・キリストを十字架につけて殺すようにユダヤ人たちと弟子のユダに働きかけ(参照。ヨハネの福音書8章37節、44節、13章27節)、イエス・キリストを十字架につけて殺しました。
 サタンとしては、「女の子孫」の「かしら」が来ることを阻止するか、その「かしら」を亡き者とすれば、創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止することができるばかりか、「最初の福音」において示された神である「」のみこころの実現をも阻止することができることになります。
 しかし、父なる神さまは、イエス・キリストの十字架の死によって、私たち「」の契約の民の罪をすべて完全に贖ってくださるとともに、イエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださいました。それによって、

私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださった

のです。
 これは、「」と「女の子孫」の共同体に属する私たちが「かしら」であるキリスト・イエスとの一体にあって、霊的な戦いにおいて、原理的・実質的にサタンとその霊的な子孫に勝利していることを意味しています。

 そうであっても、霊的な戦いの核心にある創造の御業において示されている神さまのみこころの実現はどうなっているのかという問題は残っています。
 エペソ人への手紙1章では、この問題についても取り扱っています。
 21節後半では、天上において、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」のはるか上に座しておられると言われています。これを受けて、22節には、

 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた

と記されています。
 これは、栄光のキリストが、創造の御業において示されている神さまのみこころを、すでに、原理的・実質的に実現しておられることを示しています。
 このことについて、また、このことが、「キリスト・イエスにあって・・・ともに天上に座らせて」いただいている私たちにとってどのような意味をもっているかについては、以前お話ししたことがありますが、日を改めて、お話しします。


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