黙示録講解

(第451回)


説教日:2021年1月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(204)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就しているということを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることを取り上げてお話ししています。
 いつものように、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることを振り返っておきます。
 4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 ここでは、まず、4節ー5節前半において、「あわれみ豊かな神」さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、「私たちが背きの中に死んでいたときに、私たちをキリストとともに生かして」くださったと言われています。
 そして6節において、神さまが「私たちをキリストとともに生かして」くださったことをさらに説明しています。神さまが「私たちをキリストとともに生かして」くださったことには、私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともによみがえらせ」てくださったことと、私たちを「キリスト・イエスにあって」「ともに天上に座らせて」くださったことがあると言われています。
 神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともによみがえらせ」てくださったことと、私たちを「キリスト・イエスにあって」「ともに天上に座らせて」くださったことは、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されていることと密接につながっています。
 20節冒頭で、

 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、

と言われているときの「この大能の力」は、関係代名詞(女性形・単数)で表されています。これは、パウロがその前の17節ー19節に記されている私たちのための祈りの最後に、19節で、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と祈っている中に出てくる「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」の「働き」(エルゲイア)を受けています。ここで「私たち信じる者に働く」と訳されている部分は、直訳調には「私たち信じる者のうちへの(神のすぐれた力)」です。それが意味することは、新改訳が示しているとおりです。
 これによって、パウロは「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、神さまが、

キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と言われている力であると説明しています。
 これは単なる説明ではなく、パウロとしては、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、神さまが「キリストのうちに働かせた」力にほかならないことを私たちが知るようになるようにと、父なる神さまに祈っているのです。
 パウロは、さらに、2章4節ー6節において、1章20節ー21節に記されている、神さまが、

キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた

ご自身の「大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、私たちにも働かせてくださって、

私たちが背きの中に死んでいたとき、私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。――すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、(キリストと)ともによみがえらせ、(キリストと)ともに天上に座らせてくださったのです。

ということを示しています。
 ここで改めて注目したいのですが、2章6節で、神さまが、

私たちを、キリスト・イエスにあって、(キリストと)ともによみがえらせ、(キリストと)ともに天上に座らせてくださった

と言われているときの「キリスト・イエスにあって、(キリストと)ともに」ということは、1章20節ー21節で、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と言われている「キリスト・イエスにあって、(キリストと)ともに」ということです。
 話がくどくなってしまいますが、大切なことなので言い換えますと、神さまは私たちを、ご自身が「死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた」「キリスト・イエスにあって」、すなわち、キリスト・イエスと一つに結び合わせてくださって、「(キリストと)ともによみがえらせ、(キリストと)ともに天上に座らせてくださった」ということです。
 「キリストにあって」あるいは「キリスト・イエスにあって」ということは、パウロの手紙に頻繁に出てきますが、広く、私たちが「キリスト」、「キリスト・イエス」と一つに結び合わされていることを示しています。それが、この1章19節ー2章6節の流れの中では、より特別な意味において、すなわち、栄光を受けて死者の中からよみがえられただけでなく、天上で父なる神さまの右の座に着座された「キリストにあって」ということが示されています。
 前回と前々回にお話ししたように、1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されているときの「天上でご自分の右の座に着かせて」ということは、ダビデ契約に約束されている、ダビデ的な王であるメシア(「キリスト」)が、永遠の王座すなわち父なる神さまの右の座に着座されることを預言的に記している詩篇110篇1節の、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

というみことばが成就しているということを伝えています。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「あなたの敵」(複数形)と呼ばれている、メシアに敵対している勢力で、サタンをかしらとする暗闇の支配者たちのことです。ここでは、「支配」「権威」「権力」「主権」というように、ほぼ同義であることばを四つ重ねることによって、あらゆる種類の暗闇の支配者を表しています。これによって、父なる神さまの右の座に着座されたキリストは、あらゆる種類の暗闇の支配者にはるかに優る主権者であることが示されています。[注]

[注]「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に」と言われているときの「上に」と訳されている前置詞(ヒュペノー)は、新約聖書では、ここのほか、4章10節とヘブル人への手紙9章5節に出てきます。BDAGは「(high) above」として、文脈によっては「はるか上に」を意味する可能性を示しています。ここではこの「はるか上に」の方がよいと考えられます。新改訳第3版は「上に高く」と訳しています。

 ですから、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言われていることは、霊的な戦いにおいて、すでに、栄光のキリストが実質的・原理的に勝利しておられることを意味しています。
 このことは、先ほどの詩篇110篇1節に預言的に記されていることの成就ですが、それを歴史的にさらにさかのぼっていくと、前回お話ししたように「最初の福音」と呼ばれる、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている、「おまえ」と呼ばれている「」の背後で働いていたサタンに対するさばきの宣告に行き着きます。
 このサタンに対するさばきの宣告においては、神である「」が、この時、すなわち、最初の人アダムとその妻エバがサタンにそそのかされて、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、ご自身が直接的に、サタンに対する最終的なさばきを執行して、サタンとその霊的な子孫を滅ぼしてしまうことはしないことが示されています。
 もしこの時に、サタンに対する最終的なさばきを執行されたとしたら、罪によってサタンと一つに結ばれてしまっているアダムとエバも、サタンとともに滅ぼされていたことでしょう。そうなると、確かにサタンは滅ぼされることになりますが、創造の御業において歴史的な世界をお造りになって、その歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人に委ねられたことに現されている神さまのみこころの実現が阻止されてしまうことになります。それはサタンが仕掛けた霊的な戦いにおいて、サタンが勝利することになります。サタンはそうなることを狙って、アダムとエバを誘惑しました。これが霊的な戦いの核心にあることです。
 神である「」は、この時に、ご自身が直接的にサタンに対する最終的なさばきを執行されないで、その代わりに、

 敵意を、わたしは置く。おまえと女の間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫の間に。

と言われて、サタンと、罪によってサタンと一つになって最初の人アダムを誘惑した「」(エバ)との間に「敵意」を置いてくださって、両者の関係を引き裂かれることを示され、さらに、その「敵意」が「女の子孫」の共同体と「おまえの子孫」すなわちサタンの霊的な子孫の共同体の間にまで及んでいき、歴史をとおして霊的な戦いが展開していくようになることを示されました。
 このことは「」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つもの、その意味で、神である「」の民となっています。このことに、「」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。その意味で、このサタンに対するさばきの宣告は「最初の福音」と呼ばれます。
 神である「」は、続いて、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と宣告されました。結論的なことだけですが、これは、最終的には、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることを意味しています。
 この「女の子孫」の「かしら」として来られる方こそが、約束のメシア(キリスト)です。「」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって救われ、神である「」の民とされ、霊的な戦いに勝利します。また、サタンとその霊的な子孫の共同体は、「かしら」であるサタンとの一体において、最終的なさばきを受けるようになり、霊的な戦いにおいて敗北するようになります。
 エペソ人への手紙1章20節ー21節前半において、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言われていることは、「女の子孫」の「かしら」として来られた方が、霊的な戦いにおいて、実質的に・原理的にサタンとその霊的な子孫に勝利しておられることを示しています。また、2章6節において、

すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、(キリストと)ともによみがえらせ、(キリストと)ともに天上に座らせてくださったのです。

と言われていることは、「」と「女の子孫」の共同体が「かしら」であるキリスト・イエスとの一体にあって、霊的な戦いにおいて、実質的に・原理的にサタンとその霊的な子孫に勝利していることを意味しています。


 このことは、黙示録においては、12章1節ー12節に記されていることに当たります。
 それを順次見てみましょう。
 1節ー6節には、

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

と記されています。
 1節に出てくる「太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた」「」(単数)は、古い契約の下にあった「」の契約の民であるイスラエルの民を黙示文学的な表象によって表しています。それで、これは「最初の福音」に沿って言うと「女の子孫」の共同体を意味しています。やがて来たるべき「かしら」すなわちメシアは「女の子孫」の共同体の中から現れます。また、この「」は「男の子」と言われている、やがて来たるべき「かしら」であるメシアを産んだ後も存在しています。それで、「荒野に逃れた」「」は、また、新しい契約の下にある「」の契約の民、すなわち、キリストのからだである教会をも意味しています。言い換えれば、古い契約の下にある時代と新しい契約の下にある時代をとおして存在する「」の契約の民を表しています。
 2節で、

 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。

と言われていることは、「」すなわち「女の子孫」の共同体がその「かしら」である方を産み出そうとしていることを意味しています。これには、創世記3章15節のサタンへのさばきの宣告(「最初の福音」)に続いて、16節に記されている、

 わたしは、あなたの苦しみとうめきを
 大いに増す。
 あなたは苦しんで子を産む。

という「」(エバ)へのさばきの宣告が背景となっています。これはさばきの宣告ですが、同時に、「最初の福音」とのつながりで見ると、「女の子孫」が生まれてくることへの保証・約束ともなっています。
 (黙示録12章)3節に出てくる「炎のように赤い大きな竜」はサタンを表しています。4節で、

 竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

と言われているのは、「女の子孫」の「かしら」として来られる方を亡き者にして、「最初の福音」に示されている神である「」のみこころの実現をも阻止しようとしていることを意味しています。
 5節で、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と言われているように、サタンのたくらみは失敗に終わり、「女の子孫」の「かしら」であるメシアはお生まれになり、父なる神さまの右の座に着座されました。
 この「男の子」について、

 この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。

と言われているのは、先ほど引用した詩篇110篇と同じく、ダビデ契約の約束とかかわるメシア詩篇である、詩篇2篇7節ー9節に、

 私はの定めについて語ろう。
 主は私に言われた。
 「あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。
 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。」

と記されていることを背景としています。
 このことに基づいて、7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。

と記されています。
 ここでは、天における戦いにおいて、「ミカエルとその御使いたち」が「竜とその使いたち」と戦ったと言われています。
 「ミカエル」はダニエル書に出てくる御使いのかしらの1人です。ダニエル書10章13節では「最高位の君の一人ミカエル」と言われており、21節では「あなたがたの君ミカエル」と言われています。また、12章1節では「あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエル」と言われています。これらの個所では、ミカエルは「」の契約の民を守るために、霊的な戦いを戦う御使いのかしらとして出てきます。
 けれども、「ミカエルとその御使いたち」はメシアであられるイエス・キリストの御名によって、すなわち、イエス・キリストから委ねられた権威によって、霊的な戦いを戦います。
 というのは、霊的な戦いに勝利して、サタンを滅ぼすのは、ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されているように、十字架におかかりになってご自身の民の罪を贖ってくださったイエス・キリストであるからです。また、コロサイ人への手紙2章13節ー15節にも、

背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。

と記されています。
 また、(黙示録12章)9節では、

こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

と言われています。
 ここでは、「大きな竜」は「古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者」だと言われています。これは、創世記3章に記されている、サタンが「蛇」をとおしてエバを誘惑し、エバをとおしてアダムを誘惑したことを背景としています。
 そして、続く10節ー12節には、

また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。
 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。
 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。」

と記されています。
 9節で、サタンとその使いたちが天から投げ落とされたと言われていますが、このことについて、10節には、天における「大きな声」が、

 今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。

と言ったと記されています。その天における戦いにおいて現されたのはミカエルの権威ではなく、「神のキリストの権威」です。
 また、ここ10節では、サタンのことが、

 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者

と言われています。サタンとその使いたちが天から投げ落とされたことには、サタンが「兄弟たち」を告発しても、その告発は無効になっていることが含まれています。それは、言うまでもなく、「兄弟たち」の罪がイエス・キリストが十字架の上で流されたいのちの血によって、すべて、また、完全に贖われているからです。
 続く11節に、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。

と記されているように、「兄弟たち」も霊的な戦いを戦っています。
 ここでは、その「兄弟たち」がサタンに打ち勝つのは、「子羊の血」によっていることが示されています。霊的な戦いにおける勝利はイエス・キリストの十字架の死によっています。そして、イエス・キリストの十字架の死においてこそ、「神のキリストの権威」が現されるのです。
 ここで、

 自分たちの証しのことばのゆえに

と言われているときの「証しのことば」とは、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかっていのちを捨ててくださった方を証しすることばです。
 このように「兄弟たち」がサタンに打ち勝つことは、「兄弟たち」自身が、エペソ人への手紙2章6節に、

すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、(キリストと)ともによみがえらせ、(キリストと)ともに天上に座らせてくださったのです。

と記されていることにあずかっていて、初めてできることです。
 これは、天における霊的な戦いにおいて、「ミカエルとその御使いたち」がメシアであられるイエス・キリストの御名によって、イエス・キリストから委ねられた権威によって霊的な戦いを戦って勝利したことと同じです。


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