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説教日:2021年1月10日 |
今お話ししていることと関わっているのは、この「A」ー「B」ー「B」ー「A」という構成において、最初の「A」に当たることとそれに対応している最後の「A」に当たることです。それで、今日は、そのことについてお話しします。 最初の「A」に当たることは、1章20節ー21節に記されていることで、神さまが「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、 キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた ということです。 問題は、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」がどのような存在であるかということです。これがどうして問題となるかと言いますと、この後に、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」が出てくるからです。 この「すべての名の上に」ということは「すべての称号やそれが表す地位をもつものの上に」というような意味で、あらゆる意味での権威を視野に入れています。 さらに、ここでは、その視野が「今の世だけでなく、次に来る世においても」というように、歴史的な面に広げられています。 ここで「今の世」(ホ・アイオーン・フートス)と言われているときの「世」ということば(アイオーン)は、空間的な世界を表わすこともあります[これはBDAGでは3番目に出てくる意味です]が、基本的には、時間的、歴史的な意味合いを表します。それで、この「今の世」は文字通りには「この時代」で、続く「次に来る世」は、文字通りには「来ようとしている時代」[「時代」は省略されています]のことです。 この「来ようとしている時代」は、エペソ人への手紙が記された時代の後に来る時代という意味ではありません。終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて私たちご自身の民の救いを完成してくださるとともに、最終的なさばきを執行されることによって「この時代」が終ります。それですべてが終ってしまうのではなく、栄光のキリストは、やはり、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されます。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。その新しい天と新しい地の創造によって新たに始まる時代、すなわち「新しい時代」が、ここで言われている「来ようとしている時代」です。 ここでは、「この時代」においてばかりでなく「来ようとしている時代」においてもというように、二つが組み合わされて、新しい天と新しい地の歴史をも含めたすべての時代において、ということが示されています。父なる神さまは栄光のキリストをそのすべての時代の「すべての称号やそれが表す地位をもつものの上に」置かれたというのです。 それで、この「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」の中には、その前に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」も含まれています。それなのに、ここでは「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名」の中から「すべての支配、権威、権力、主権」を選んで取り上げているのです。それで、この「すべての支配、権威、権力、主権」には特別な意味があると考えられます。 このことを理解する鍵は、父なる神さまが栄光のキリストを「天上でご自分の右の座に着かせた」と言われていことです。先主日にもお話ししたように、これは、ダビデ契約に基づくな王であるメシア(「キリスト」)が、その永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されることを預言的に記している詩篇110篇1節の、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 というみことばが成就しているということを伝えています。それで、「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「あなたの敵」(複数形)と呼ばれている、メシアに敵対している勢力、サタンをかしらとする暗闇の支配者たちのことです。 エペソ人への手紙では、この「すべての支配、権威、権力、主権」のことが、この後にも、3章10節と6章12節に取り上げられています。より分かりやすい6章12節には、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されています。 このように、ここでは霊的な戦いのことが取り上げられています。この霊的な戦いのことを理解するためには、三つのことを踏まえておかなくてはなりません。 やはり、すでにお話ししたことがあることを補足しながらお話ししますが、その第一のことは、創世記1章26節ー28節に、 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 と記されていることです。 ここには、神さまは創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになったこと、そして、神のかたちとして造られている人に、ご自身が歴史的な世界としてお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。 神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。また、それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりに生きることにあります。より具体的には、ご自身がお造りになったこの世界、特に、神のかたちとしてお造りになった人の間に、契約に基づいてご臨在される神である「主」との愛の交わりに生きることにあります。そして、その神である「主」との愛の交わりの中心には、「主」を神として礼拝することがあります。 それで、「主」を神として礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きる人が造る文化は、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を現す文化となり、その文化が継承されて造られていく歴史は、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を、時代の流れとともに、より広く、また、より豊かに現す歴史となります。 これが、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことの核心にあることです。 霊的な戦いのことを理解するために踏まえておかなくてはならない第二のことは、暗闇の主権者であるサタンの働きです。聖書のみことば、特に、サタンの堕落を映し出していると考えられる、イザヤ書14章12節ー15節やエゼキエル書28章12節ー16節に記されている、栄華を極めたバビロンとツロの王たちの堕落の描写から汲み取ることができるのは、サタンはもともとは優れた御使いとして造られたのに、自らが神のようになろうとして、サタンに従った御使い(悪霊)たちとともに神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったということです。サタンの堕落は、神学的には「絶対的堕落」と呼ばれるように徹底した堕落で、サタンがなすことの目的も動機も、すべて神さまに逆らうことにあります。しかし、一介の被造物に過ぎないサタンが無限、永遠、不変の栄光の神さまと、直接、戦うことはできません。それで、サタンは神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いています。 実際には、サタンは、創造の御業において、人をご自身との愛の交わりに生きる神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしましたし、しています。このようにして、サタンが神である「主」に対して霊的な戦いを仕掛けたのです。 大切なことは、霊的な戦いとはサタンが神である「主」に対して仕掛けた戦いであるということです。この世では、サタンや悪霊たちのような存在は人を不幸にしようとして働いていると考えられています。けれどもそれは、造り主である神さまもサタンも知らないためのことで、皮相的なことです。サタンの目的は、神さまのみこころの実現を阻止することにあります。サタンにとって、人は、そのための手段に過ぎないのであって、目的ではありません。言うまでもなく、神さまは私たち自身を愛してくださっているのであって、私たちをご自身のために手段化することは決してありません。 そのために、サタンは、最初の女性であるエバを誘惑しました。その誘惑は成功し、エバは神である「主」に背くようになりました。そして、サタンはエバをとおして最初の人にして、人類の契約の「かしら」として造られ、立てられているアダムを誘惑して、神である「主」に背かせました。もちろん、アダムもエバも自由な意志をもった人格的な存在として造られています。二人にとって誘惑はきっかけであり、二人は自らの意志によって神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落したのです。 エバが、夫であるアダムを誘惑して神である「主」に背かせるように働いたことは、罪を犯した人が罪によってサタンと一つに結ばれてしまっていることを示しています。そのことは、神である「主」に背いて罪を犯したアダムにも当てはまります。それで、最初の人アダムとその妻エバは、もはや、神である「主」を愛することも、神として礼拝することもなくなりました。 二人が罪を犯して堕落した後に、神である「主」は、いつものように、また、あたかも二人の堕落をご存知ないかのように、エデンの園にご臨在してくださいました。そのとき、二人は恐れのあまり木のかげに身を隠しました。それまでは、二人にとって神である「主」との親しい愛の交わりは喜びの時でした。それが恐怖の時になってしまったのです。神である「主」は二人に罪を悔い改める機会を与えてくださいましたが、二人は決して罪を認めようとはしませんでした。 もはや、神である「主」を愛することも、神として礼拝することもなくなった二人は、当然、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を、神さまのみこころに従って果たすことはなくなってしまいました。 人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからといって、人が神のかたちに造られていることや、歴史と文化を造る使命を委ねられ、そのために必要なさまざまな能力を与えられていること[これらは形而上的・心理的なことです]がなくなってしまったわけではありません。罪によって本性が腐敗してしまった人は、造り主である神さまを愛して礼拝することがないどころか、造り主である神さまを神とすることはなくなり(参照・詩篇14篇1節、ローマ人への手紙3章10節ー18節)、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を現す文化とその継承である歴史を造るどころか、自らの罪の自己中心性を表す歴史と文化を造るようになってしまいました[これらが認識的・倫理的なことです]。 このようにして、どう見ても、サタンの働きによって、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現が阻止されてしまった状態になってしまいました。霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したと思われる状態になったのです。 霊的な戦いのことを理解するために踏まえておかなくてはならない第三のことは、サタンの働きによって神さまのみこころの実現が阻止されてしまった状況にあって、なお、神である「主」は、人はもとより、サタンにとっても御使いたちにとっても、まったく思いもよらない方法によって、創造の御業において現されたご自身のみこころを実現されることをお示しになったということです。 それが、創世記3章15節に、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と記されている「最初の福音」です。 これを「最初の福音」と呼んでいますが、これは、サタンに対するさばきの宣告です。これによって神である「主」どのようにサタンに対するさばきを執行されるかを示しておられます。 ここでは、神である「主」が「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後で働いていたサタンと、罪によってサタンと一つになって最初の人アダムを誘惑した「女」との間に「敵意」を置いてくださって、両者の関係を引き裂かれることが示されています。ここでは、 敵意を、わたしは置く。おまえと女の間に、 また、おまえの子孫と女の子孫の間に。 というように、この「敵意」ということばが最初に出てきて強調されています。そして、この「敵意」ということば(エーバー)は、聖書の中で用例(民数記35章21節ー22節、エゼキエル書25章15節、35章5節)を見ますと、単なる心の中の思いではなく、相手を滅ぼすことへとつながっていくほどの強い意味合いをもっています。しかも、その「敵意」はサタンと「女」の間だけでなく、「女の子孫」と「おまえの子孫」すなわちサタンの霊的な子孫の間にまで及ぶことが示されています。 この場合の「女の子孫」も「おまえの子孫」も単数形ですが、集合名詞で、歴史をとおして存在する共同体を指しています。このようにして、ここでは、歴史をとおして「女」と「女の子孫」の共同体と、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の間に霊的な戦いが継続していくことが示されています。 そして、この霊的な戦いにおいては、「女」と「女の子孫」の共同体が、神である「主」に敵対しているサタンとサタンの霊的な子孫の共同体と戦うことになります。その意味において、「女」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「主」の側に立つもの、その意味で、神である「主」の民となっています。このことに、「女」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。 ここで注目すべきことは、神である「主」が、 敵意を、わたしは置く。 と言っておられるということです。 この「敵意」は、罪によってサタンと一つになってしまっている人から出てくるものではなく、神である「主」が置いてくださるものであるということです。実際に、神である「主」の戒めに背いて罪を犯したエバは、その罪を悔い改めるどころか、サタンの手先となって、夫であるアダムを誘惑して神である「主」に背くように働きかけています。神である「主」が、 敵意を、わたしは置く。おまえと女の間に、 と言われたのは、そのエバが霊的な戦いにおいて、サタンに敵対するようになるということを意味しています。そこに、神である「主」の一方的な愛とあわれみと恵みがあります。そして、 敵意を、わたしは置く。おまえと女の間に、 また、おまえの子孫と女の子孫の間に。 と言われているように、その神である「主」の一方的な愛とあわれみと恵みは「女」と「女の子孫」の共同体に及んでいます。「女」と「女の子孫」の共同体の救いは、この神である「主」の一方的な愛とあわれみと恵みによっているのです。 このこととともに、考えておかなければならないことがあります。 それは、聖書においては、共同体には「かしら」がいるということです。実際、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体には「かしら」がいます。言うまでもなく、それは「おまえ」すなわちサタンです。そうであれば、「女」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいるはずです。それは「女」ではなく「女の子孫」の中にいます。 ですから、ここでは、 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と言われているように、最終的には、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることが示されています。 この「女の子孫」のかしらとして来られる方こそが、約束のメシア(キリスト)です。この方は「女」と「女の子孫」の共同体のかしらであり、「女」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって救われ、神である「主」の民とされます。そればかりでなく、「女」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって霊的な戦いに勝利します。 このことが、すでに、原理的、実質的に実現していることが、エペソ人への手紙1章20節ー21節前半に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。 と記されています。 これが、先ほどの、A」ー「B」ー「B」ー「A」という構成において、最初の「A」に当たることです。そして、それに対応している最後の「A」に当たることが、2章6節に、 すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されています。 ここで注目したいのは、神さまが私たちを キリスト・イエスにあって、(キリスト・イエスと)ともに天上に座らせてくださいました と言われているときの「天上に」と訳されていることばです。このことば(エン・トイス・エプーラニオイス)は、1章20節で、 キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて と言われているときの「天上で」と同じことばです。ですから、私たちはキリスト・イエスとの一体にあって、キリスト・イエスが「天上で」父なる神さまの右の座に着座しておられることにあずかって、「天上で」座に着いているのです(もちろん、父なる神さまの右の座に着座しておられるのは栄光のキリストだけです)。 このことは、霊的な戦いにおける勝利が、キリスト・イエスにあって、私たちの間で、原理的実質的に実現していることを意味しています。 |
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