黙示録講解

(第449回)


説教日:2021年1月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(202)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることを取り上げています。
 これまで、4節ー7節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

というみことばについてお話ししてきました。
 まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることを二つほど振り返っておきます。
 第一に、 4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 すでにお話しした説明を省いて結論的なことだけをお話ししますが、ここでは、4節で、「あわれみ豊かな神」さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、ここに記されているすべてのことをなしてくださったということが示されています。そして、その神さまがなしてくださったことが、まず、5節で、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と記されています。
 そして、6節で、神さまが「私たちを、キリストとともに生かして」くださったことには、二つのことが含まれているということが示されています。一つは、私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともによみがえらせ」てくださったことです。もう一つは、私たちを「キリスト・イエスにあって」、「ともに天上に座らせて」くださったことです。
 第二に、先主日お話ししたように、2章1節ー10節に記されていることをエペソ人への手紙の流れの中で見ますと、2章1節ー10節に記されていることは、1章15節ー19節に、

こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と記されている、パウロの祈りの枠の中にあります。
 やはり、結論的なことだけをお話ししますと、ここでパウロが最後に祈り求めているのは、19節に記されていることで、私たちが、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

ということです。
 パウロはこの祈りに先立って、

 あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、

と述べています。これはいわゆる神的受動態で表されていて、私たちが、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができ」のは、神さまが私たちの「心の目」を「はっきり見えるように」してくださることによっているということを示しています。
 このことを受けて、パウロは「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」がどのような力であるかを二つのことによって説明しています。
 一つは、続く20節ー23節に記されている、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

ということです。
 これによって、パウロは、私たちが知ることができるようにと祈っている「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、神さまが「キリストのうちに働かせ」た力と同じ力であるということを示しています。
 「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」がどのような力であるかを説明するもう一つのことは、今取り上げている2章1節ー10節に記されていることです。
 パウロは、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が、量的に膨大で無機的な力やエネルギーなのではなく、「あわれみ豊かな神」の力であり、「私たちを愛してくださったその大きな愛」に基づいて働く力であり、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」力であるということを、新たに示しています。
 このことは、逆に、1章20節ー23節に記されている、父なる神さまが「キリスト」に対してなされたことによって示されている「神のすぐれた力」も、父なる神さまの「キリスト」に対する「大きな愛」に基づいて働く力であったということを示唆しています。
 そのことは、みことばが一貫して証ししていることから理解することができます。
 そのうちの一つですが、ヨハネの福音書3章35節には、

 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。

と記されています。
 ここで、

 父は御子を愛しておられ

と言われていることは現在時制で記されていて、このことが常にそうであることを示しています。言うまでもなく、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛は、繰り返しお話ししている1章1節ー2節に示されているように、無限、永遠、不変の愛です。また、

 その手にすべてをお与えになった

と言われていることは、完了時制で記されていて、父なる神さまが御子の手に「すべてをお与えになった」ことがずっと続いていることを示しています。
 そして、

 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。

ということを踏まえて、続く、36節には、

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と記されています。16節で、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と言われていることの根底には、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する永遠の愛があります。


 エペソ人への手紙2章4節ー6節に記されていることに戻りますが、このようなことを踏まえて、改めて注目したいのは、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることです。
 これについても、すでにお話ししましたが、かなり前のことですので、それについても、多少の補足を加えながら、ほぼそのときの説明を用いてまとめておきましょう。
 まず注目したいのは、前にお話ししたことはありませんが、「キリスト・イエスにあって」ということばです。
 この「キリスト・イエス」という言い方は、パウロが頻繁に用いているものです。写本による違いが問題となっている24個所を除くと、パウロはこの言い方を73回用いていて、「イエス・キリスト」という言い方は18回用いています(Leon Morris, The Epistle to the Romans, PMTC, p.38)。この「キリスト・イエスにあって」という場合のように、「にあって」「にある」という前置詞と結び合わされる場合には、ほぼ「キリスト・イエスにあって」となっています。私が調べたかぎりでは、わずかですが、前に「」ということばがある場合に「主イエス・キリスト」となっている事例があります。
 この「キリスト・イエスにあって」ということばは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされていること(神学的には「神秘的結合」)を示しています。
 また、6節では、この「キリスト・イエスにあって」ということばは最後に出てきます。それで、「キリスト・イエスにあって」ということは、「ともによみがえらせ」ということだけでなく、「ともに天上に座らせてくださいました」ということにもかかっています。
 ここで、「キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ」と言われているときの「ともによみがえらせる」ということばは、一つの動詞で表されています。また、「ともに天上に座らせてくださいました」と言われているときの「ともに座らせる」ということばも、一つの動詞で表されています。ここでは、神さまは私たちをキリスト・イエスと一つに結び合わせてくださって、キリスト・イエスとともによみがえらせてくださり、天上において、キリスト・イエスとともに座らせてくださったということを伝えています。
 このことは、5節で、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われているときの「ともに生かす」ということばも、一つの動詞で表されているということから分かります。
 どういうことかと言いますと、5節ー6節においては、神さまが私たちのためにしてくださったことを表すための「ともに・・・する」ということを意味する動詞[「ともに」を意味する接頭辞で始まる動詞]が三つ出てきます。
 それで、この三つの「ともに・・・する」という動詞は、特定されていないかぎり、同じ人/同じ方と「ともに」ということことを意味していると考えられます。また、先ほどお話ししたように、この5節ー6節においては、6節に記されていることが、5節に記されていることをさらに説明していると考えられます。このことからも、この三つの「ともに・・・する」という動詞は、特定されていないかぎり、同じ人/同じ方と「ともに」ということを意味していると考えられます。
 そして、ここ5節には「ともに・・・する」ということを表わす三つの動詞のうちの最初の「ともに生かす」が出てきます。これには「キリストと」ということを表すことば(トー・クリストー この与格は「関係性を表す与格」)が続いていて、「キリストとともに生かす」ということが明確に表されています。それで、この後の6節に出てくる、二つの「ともに・・・する」という動詞も、キリストと「ともによみがえらせる」、キリストと「ともに座らせる」ということを意味していると考えられます[先にお話ししたときには、このことに関わる疑問についてもお話ししましたが、ここでは省略します]。
 これに対して、新改訳2017年版の、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

という訳は、私たちがキリストとともによみがえり、キリストとともに「天上に」座るようになるということではなく、私たち(お互い)がともによみがえり、私たちがともに「天上に」座るようになるということを伝えかねません。それで、「私たち」の位置と接続詞(カイ)の意味を変えて、

すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。

と訳したほうがよいと考えられます。

 以上が以前お話ししたことのまとめですが、このように理解することも含めて、先主日と今日これまでお話ししたこととにかかわるについてお話しします。
 パウロは、1章19節で、私たちが、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

ということを祈っています。そして、続く20節ー23節で、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記して、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」がどのような力であるかを説明しています。
 この「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」がどのような力であるかの説明はそこで終っていなくて、それに続く2章1節ー10節において、その「神のすぐれた力」が「私たち信じる者」にどのように働いているかをさらに説明しています。
 このことは、2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと私たちが背きの中に死んでいたときに、私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。――神はまた、私たちをキリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることを理解する上で大切なことです。
 私自身の経験からお話ししますと、かつて私は、2章4節ー6節に記されていることを読む度に、ここに記されている、神さまが私たちに対してなしてくださったことの中に、どうして、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いのことが出てこないのだろうかという疑問を感じていました。
 ことに、4節の、

 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに

ということばにおいては、神さまのことを「あわれみ豊かな神」と呼んでおり、その「あわれみ豊かな神」の愛のことを「私たちを愛してくださったその大きな愛」として伝えています。ここでは、「」(アガペー)が「大きな愛」として強調されているだけでなく、これに「私たちを愛して(アガペーの動詞アガパオー)くださった」を重ねて、さらに強調されています。そればかりでなく、5節後半では、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というように、神さまの一方的な愛による恵みのことも、言わばわざわざ、記されています。
 それなのに、ここでは、神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことにも、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖ってくださったことにも触れられていないのです。
 当然、これには何らかの意図があるはずです。
 それが何であるかは、この2章1節ー10節に記されていることと、その前の1章20節ー23節に記されていることが、1章19節に記されている、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

というパウロの祈りに出てくる「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を説明するものとして、切り離し難く結びついているということから理解することができます。
 1章20節ー23節の最初の20節には、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

と記されています。パウロは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を説明するときに、神さまがその「大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ」たことから始めています。そして、そのことは、次に記されている「天上でご自分の右の座に着かせ」たことへとつながっています。
 このことが、パウロが2章1節ー10節において、さらに「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を説明していることに反映しています。
 4節ー6節では、まず、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は「あわれみ豊かな神」の力であり、「私たちを愛してくださったその大きな愛」に基づいて働く力であり、「なんと私たちが背きの中に死んでいたときに、私たちを、キリストとともに生かして」くださったことに現されている力であることが、新たに、示されています。
 その上で、「あわれみ豊かな神」が「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「私たちを、キリストとともに生かして」くださったことを、さらに説明して、

すなわち、神は私たちを、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。

と記しています。これは、1章20節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

と記されていることと対応しています。
 パウロはこの二つのことのつながりを示すために、2章4節ー6節に記している、神さまが私たちに対してなしてくださったことの中に、あえて、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いのことを記さなかったのだと考えられます。

 最後に、もう一つの疑問についてお話しします。
 それは、2章1節ー10節では、神さまが私たちに対してなしてくださったことを記しているだけでなく、そのことを記している4節ー6節の前の1節ー3節に、私たちのかつてのあり方が、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているということです。これは、今お話しした二つのこと、すなわち、1章20節ー23節に記されていることと2章1節ー10節に記されていることのつながりということと合わないのではないかという疑問です。
 しかし、そのようなことはありません。
 ここに記されていることについては、改めてお話ししますので、ここでは、今お話ししている疑問とかかわることの結論的なことだけをお話しします。
 この2章1節ー3節に記されていることは、かつての私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」いたということです。
 かつての私たちは突き詰めていくと、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」(単数)すなわちサタンの支配の下にあって縛られていたのです。
 これに対して、1章20節ー21節に記されていることは、神さまが「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、

キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた

ということです。この場合の、「すべての支配、権威、権力、主権」は、メシア的な王である「キリスト」が父なる神さまの右の座に着座されることを預言的に記している詩篇110篇1節の、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

というみことばに照らして見ると、サタンをかしらとするメシアに敵対して働いている暗闇の主権者たちです。神さまは「キリスト」をこれらすべての暗闇の主権者たちの上に置かれました。
 そして、このことを受けて、続く22節ー23節には、

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されています。
 やはり、今お話ししていることとかかわることだけですが、これは、かつて、これらすべての暗闇の主権者たちに服していた私たちが、今は、「すべてのものの上に立つかしらとして」立てられており、神さまの愛と恵みによって治めておられる、栄光のキリストのからだである教会を形成していて、栄光のキリストの愛と恵みに満ちた主権の下にあるということを示しています。
 これらのことを踏まえて、1章20節ー21節に記されている、神さまがキリストに対してなされたこと、すなわち、死者の中からよみがえらせて、ご自身の右の座に着座させたことを「A」として、22節ー23節に記されている、すべてのもの、特に、ご自身のからだである教会がキリストの愛と恵みの主権の下にあることを「B」としますと、2章1節ー3節に記されている、私たちがかつてサタンをかしらとする暗闇の主権の下にあったことは「B」に当たり、4節ー6節に記されている、神さまがその愛と恵みによって、私たちに対してなしてくださったことは「A」に当たります。
 ここには、「A」「B」ー「B」「A」という構成があって、それぞれが対応していることになります。これは聖書によく出てくるキアスムスという構成で、その当時の人々にはなじみがあるようですが、私たちとしてはよく考えて見つけなければならないものです。
 このようにして、ここでは、「あわれみ豊かな神」さまが私たちをサタンをかしらとする暗闇の主権者たちの支配の下から贖い出してくださって、愛と恵みによって治めてくださっている御子イエス・キリストの主権の下に移してくださっていることが示されています。


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