黙示録講解

(第448回)


説教日:2020年12月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(201)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししています。
 これまで、4節ー7節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

というみことばと、それに関連することについてお話ししてきました。
 復習になりますが、4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 ここでは、「あわれみ豊かな神」さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛」は、より直訳調の訳に従うと、「なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に」私たちに注がれていたことが示されています。そして神さまは、その

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

ということが示されています。
 このことを受けて、パウロは、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と述べています。
 このことについては、2ヶ月ほど前になりますが、すでにお話ししています。しかし、その時には、5節前半に記されている、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

ということと、6節に記されている、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

ということの関係をどのように理解するかということとのかかわりで、ここに、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されていることを取り上げました。そのために、ここでパウロが、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記していること自体については、あまりお話しできませんでした。それで、今日は、このことについて、もう少しお話ししたいと思います。


 すでにお話ししたことを、多少補足しながら、振り返っておきますと、5節前半に記されている、

 私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

ということと、6節に記されている、

 キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

ということの関係については、二つの見方があります。
 第一の見方は、ここでは、5節前半に記されている「私たちを、キリストとともに生かして」くださったこと、そして、6節に記されている「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ」てくださったこと、さらに、「(キリスト・イエスにあって、私たちをともに天上に座らせて」くださったことという、三つのことが示されているという見方です。この場合は、新改訳2017年版のように、6節の冒頭にある接続詞(カイ)を「そして」「また」というように、継続を表わすと理解することになります。
 第二の見方は、まず、5節前半で「私たちを、キリストとともに生かして」くださったことが示され、そのことを6節で、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」と説明しているという見方です。この場合は、6節の冒頭にある接続詞を「すなわち」「つまり」というように、補足的な説明を導入する接続詞と理解することになります。これによって、「私たちを、キリストとともに生かして」くださったことには、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ」てくださったことと、「(キリスト・イエスにあって、私たちをともに天上に座らせて」くださったことが含まれているということが示されているということになります。
 結論的には、この、第二の見方のほうを取ったほうがよいと考えられます。それは、神さまが「私たちを、キリストとともに生かして」くださったのは、改めて引用はしませんが、みことばは、私たちを栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストとともによみがえらせてくださったことによっているということを教えているからです。
 ここでは、神さまが「私たちを、キリストとともに生かして」くださったことには、さらに、私たちを「(キリスト・イエスにあってともに天上に座らせて」くださったことが含まれていると言われています。このことは大切なことです。というのは、今日は取り上げることはできませんが、神さまが私たちを「(キリスト・イエスにあってともに天上に座らせて」くださったということが、今お話ししている、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、栄光のキリストの約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示しているからです。
 今日お話しすることに関係していることの復習に戻りますが、この第二の見方には、解決しなければならない問題があります。それは、5節では、前半で、神さまが、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われているだけでなく、後半で、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われているということです。それで、5節ー6節では、5節前半に記されている、神さまが、

背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

ということと、6節に記されている、

神はキリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

ということの間に、5節後半に記されている、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということが割り込んできている形になっています。このことから、神さまが、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われていることは、独立した一つのことを示しているのではないかという疑問が生まれてきます。
 これについては、この、主語が前後関係から考えられる「私たち」ではなく「あなたがた」になっている、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということばは、新改訳2017年版には示されていませんが、ほとんどの翻訳に示されているように、カッコの中に入っているようなことばであるということをお話ししました。
 それで、ここでは、今日だけでなく、これまでにお話ししたことを生かして訳しますが、

(神は)なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださいました。すなわち、神は私たちをキリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記せばすんなりと話が進むのに、この、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということばが入り込んできて、論理の展開を乱してしまっていると考えられます。
 このことから、パウロは、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださいました。

と記したときに、この神さまの愛の現実に深く心を動かされ、この、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということばを記さないではいられなかったのではないかと考えられます。
 そうであるとしますと、これはパウロにとって、論理の展開のために必要なことばであるというより、論理の展開を乱してしまうとしても、どうしても、ここで言っておきたいことばであったということになります。また、そうであるとすると、この、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということばはパウロの深く熱い思いが込められたことばであるということになります。

 以上がすでにお話ししたことのまとめといくらかの補足ですが、ここで注目したいことがあります。先ほど簡単に触れましたが、5節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださいました。――あなたがたが救われたのは恵みによるのです。――すなわち、神は私たちをキリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることは、基本的に、パウロ自身も含めた「私たち」のこととして記されています。ところが、この、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということだけは「あなたがた」のこととして記されています。
 先ほどお話ししたように、パウロは、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださいました。

と記したときに、この「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」の現実に深く心を動かされて、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記したと考えられます。そのとき、パウロは自分自身が「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」にあずかっていることに、深く心を動かされていたことは確かなことです。しかし、そのパウロが、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記していることから、パウロにとって、より深く心を動かされたことは、「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンたちに「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」が注がれて、その愛のゆえの恵みによって異邦人クリスチャンたちが救われていることだったということを汲み取ることができます。[注]

[注]エペソ人への手紙3章1節には「あなたがた異邦人」ということばが出てきます。
 このの手紙の初期の写本の断片や重要な写本に、この手紙の宛先を示す1節の「エペソ」ということばがないものがあります。また、このことばがなかったことを示唆したり、後から加えられたと述べている古代教会の教父たちもいます。それで、この手紙は特定の教会に宛てたものではなく、いくつもの教会で回し読みされたものであると考えられています。

 このことは、今取り上げている2章1節ー10節に記されていることが、文脈の上でその前の部分とどのようにつながっているかを見ることによって分かります。
 2章1節ー10節に記されていることは、1節の冒頭にある、先ほども触れた接続詞(カイ、ここでは「また」あるいは「さらに」と訳したらいいでしょうか)によって導入されています。それで、この2章1節ー10節に記されていることは、その前の部分とつながっています。
 どのようにつながっているかということですが、具体的には、その前の部分とは1章15節以下の部分、すなわち、1章15節ー23節に記されていることです。
 1章15節ー2章10節に記されていることは、壮大で深遠なことに触れていますが、この全体がパウロの祈りです。少なくとも、パウロの祈りの枠の中にあります。
 その全体的な構造を見ますと、1章15節ー19節には、

こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と記されています。
 ここでパウロは、「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンたちのために祈っています。
 その祈りの内容は、基本的に、17節ー19節に、

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と記されています。
 ここでパウロは、基本的に、二つのことを祈り求めています。
 一つは、17節に記されている、

私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ということです。
 これには大切な意味がありますが、今お話しいていることにかかわっているのは、もう一つのことですので、これについては省略します。
 もう一つは、18節ー19節に記されている、

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

ということです。
 ここで、

 あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって

と言われていることは、ギリシア語では受動態で表されています。これは、いわゆる「神的受動態」で、神さまがそのようにしてくださることを示しています。そして、その結果、「あなたがた」が三つのことを知るようになることを祈っています。一つは、

 神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、

ということです。二つ目は、

 聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、

ということです。三つ目は、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか

ということです。
 これに続く20節ー23節には、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されています。
 20節の冒頭に出てくる「この大能の力を」は関係代名詞(女性形・単数)で表されていて、19節で「神の大能の力の働きによって」と言われているときの「働き」(エネルゲイア)受けています。それで、ここでは、説明的に訳すと、

この大能の力の働きを神はキリストのうちに働かせて

となります[ここには「働きを・・・働かせた」という語呂合わせがあります]。
 このようにして、20節ー23節に記されていることは、神さまが「キリストのうちに働かせ」たご自身の「大能の力の働き」のことを説明しています。
 そうしますと、19節で、

神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか

と言われているときの「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、20節ー23節に記されている、神さまが「キリストのうちに働かせ」た力と同じ力であるということが示されていることになります。これは、20節ー23節に記されている、神さまがキリストに対してなしてくださったことは、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を説明しているということでもあります。
 それだけではありません。パウロは、これに続く2章1節ー10節においても、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」ということを説明しています。
 その2章1節ー10節には、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されています。
 ここには、その「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が、実際に、どのように「私たち信じる者」に働いているかが示されています。
 その際に、パウロは、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」が、無機的な力やエネルギーなのではなく、「あわれみ豊かな神」の力であり、「私たちを愛してくださったその大きな愛」に基づいて働く力であり、「なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださった」力であるということを示しています。
 しかもパウロは、このことを「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」という、「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンたちのために父なる神さまに祈っている祈りの(枠の)中で述べています。ですから、1章15節ー2章10節の祈りを記しているパウロの念頭にあったのは、「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンたちのことでした。
 このようなことを踏まえますと、パウロは、2章4節ー5節前半で、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださいました。

と記しながら、この神さまの愛の現実に深く心を動かされとき、特に、異邦人クリスチャンに向けて、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

ということばを記さないではいられなかったということが理解できます。

 しかも、エペソ人への手紙はいわゆる「獄中書簡」と呼ばれる手紙の一つです。パウロはこの手紙をローマで囚人として軟禁状態にある中で(参照・使徒の働き28章17節、30節ー31節)記しています。もちろん、それは福音を宣べ伝えているために迫害を受け、囚人として軟禁生活をするようになったものです。
 3章8節ー13節では、

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。

と述べています。
 8節でパウロは自分のことを「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」と言っています。これは、前回お話ししたように、パウロがかつてクリスチャンたちを激しく迫害して、死にまで至らせた(使徒の働き22章4節)ということを念頭に置いてのことです。
 かつてのパウロが異邦人クリスチャンにまで迫害の手を延ばそうとして、ダマスコに行く途中で、栄光のキリストがパウロにご自身を現してくださいました。その後、栄光のキリストはパウロを異邦人に遣わされました(使徒の働き22章21節、26章17節)。それで、パウロは福音を異邦人に宣べ伝えるようになりましたが、その働きの中で、数々の迫害を受け、さまざまな試練に遭遇しました。そのことはコリント人への手紙第二・11章23節ー27節に、

労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

と、具体的に記されています。コリント人への手紙第二は53年ー55年の間に記されたと考えられます。パウロがローマで囚人として生活したのは60年になってのことであると考えられますから。これを記した後にも、迫害と試練は続いています。そして、ついには、ローマにおいて囚人として軟禁生活をするようになりました。
 けれどもパウロは、自分の不遇をかこつことはありませんでした。それどころか、(60年頃に、囚人としての軟禁生活の中で記されたと考えられるエペソ人への手紙の)3章13節では、

 私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。

と述べています。パウロが「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンたちがキリストにあって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いく(コリント人への手紙第二・3章18節)ためには、苦しむことをもいとわなかったことを汲み取ることができます。
 このことは、また、ローマにおいて囚人となっている状態にあっても、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちをキリストとともに生かしてくださいました。

という神さまの「大きな愛」は、パウロにとっては、揺るぐことがない現実であったということを意味しています。
 このようにパウロは、迫害を試練の中にあっても、この神さまの「大きな愛」によって支えられ続けていました。それも、先ほどお話ししましたが、パウロの祈りの導入に当たる1章15節ー16節に、

こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。

と記されているように、「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンたちのために感謝をもって祈るときに、この神さまの「大きな愛」の現実性を実感していたと考えられます。


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