黙示録講解

(第447回)


説教日:2020年12月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(200)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今お話ししているのは、この約束がすでに私たちの間で、原理的・実質的に成就していることを示しているみことばの一つである、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてです。
 これまで、4節ー7節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

というみことばと、それに関連することについてお話ししてきました。
 いつものように、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることを振り返っておきます。
 ここでは、5節ー6節に、

背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されている、父なる神さまがイエス・キリストにあって、私たちのためになしてくださったことは、4節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

と記されているように、「あわれみ豊かな神」が「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」なしてくださったことであるということが示されています。
 ここでは、神さまのことが「あわれみ豊かな神」と言われており、その「あわれみ豊かな神」さまの愛が「大きな愛」と言われて強調されている上に、「私たちを愛してくださった」が加えられて、さらに強められています。そして、その「あわれみ豊かな神」さまの「私たちを愛してくださったその大きな愛」は、先主日にお話しした、より直訳調の訳ですが、

なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われていることに現されていることが示されています。
 このことは、すでに何回か取り上げてきた、ローマ人への手紙5章8節に、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されていることにおいても示されています。今日は、このことを中心としてお話を進めていきます。
 ギリシア語本文では、新改訳の最後に出てくる、

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

が最初に出てきて強調されています。しかも、その冒頭には「明らかにしておられます」ということば(シュニステーミ)が置かれて、強調されています。そして、このことばが、この8節に記されていることの主動詞です。
 この「明らかにしておられます」と訳されていることばは、ここでは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」という、すでになされている歴史の事実(実例)によって「証明しておられる」ということ、すなわち「実証しておられる」ということを伝えています。
 そして、この「実証しておられる」ということは現在時制で表わされていて、常に変わることがない事実であることを示しています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」ことによって実証されている神さまの「私たちに対するご自分の愛」は、今も、変わることなく私たちに対して実証されているというのです。このことは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」ことによって実証されている神さまの「私たちに対するご自分の愛」が、今も変わることなく、私たちに注がれているということがあって初めて言うことができます。ですから、この神さまの「私たちに対するご自分の愛」は、今も、また、これからも、変わることなく、私たちに注がれているのです。
 そのように、神さまの「私たちに対するご自分の愛」が、今も、また、これからも、変わることなく、私たちに注がれているからこそ、これに続く9節ー11節において、

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と言うことができるのです[最初の9節にある「ですから」(ウーン)という接続詞に注意してください]。これらすべてのことは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」ことによって実証されている神さまの「私たちに対するご自分の愛」から出ていますし、この神さまの愛が今も、また、これからも、変わることなく、私たちに注がれていることによって、私たちの現実になっています。


 これらのことを踏まえると、ここに記されていることから、これを記しているパウロが深く心を動かされていることを汲み取ることができます。それは、すでにお話ししように、エペソ人への手紙2章4節ー5節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と記されていることを記しているときに、パウロがその心を深く揺さぶられていたということと同じです。
 8節で、パウロは、

 しかし、私たちがまだ罪人であったとき

と言っています。これはエペソ人への手紙2章5節で、

 なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に

と言っていることと同じことです。
 私はこのことがパウロにとってどれほどの重さをもっていたかを想像しますが、十分に汲み取ることができません。私は、

 しかし、私たちがまだ罪人であったとき

あるいは、

 なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に

というみことばを読んでも、自分が痛みとともにではありますが、この小さな心で思い起こす数々のことしか思い起こせません。しかし、それでも、自分に対して絶望的な思いになります。もしこの「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって」実証されている父なる神さまの愛がなかったら、あるいは、「あわれみ豊かな神」の「私たちを愛してくださったその大きな愛」がなかったなら、それは絶望で終るほかはないということを実感させられます。
 でも、パウロはどうだったのでしょうか。パウロは、私などがこの小さな心で痛みとともに思い起こすことをはるかに越えて深刻なことを心に刻んでいました。
 使徒の働きの中には、パウロが繰り返しイエス・キリストを信じている人々を迫害したと告白して、証ししていることが記されています。
 22章3ー5節には、パウロのことを、神殿を汚したと誤解した人々に扇動されて、パウロを殺害しようとして押し迫ってきた人々に、パウロが語った弁明の冒頭のことばが、

私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。そしてこの道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。このことについては、大祭司や長老会全体も私のために証言してくれます。

と記されています。
 また、26章9節ー11節に記されていますが、アグリッパ王に対する弁明の中でも、

実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。

と語っています。
 これらのパウロの証しは、クリスチャンたちに対するパウロの迫害がいかに激しいものであったかを示しています。パウロは、クリスチャンたちが神を冒 する者であり、死に値すると考えていたのです。
 パウロはまた、いくつかの手紙の中でも、この迫害のことに触れています。
 コリント人への手紙第一・15章9節には、

私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。

と記されています。
 また、ガラテヤ人への手紙1章13節には、

ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。

と記されています。
 さらに、ピリピ人への手紙3章5節ー6節には、

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

と記されています。
 このようなパウロが、

 しかし、私たちがまだ罪人であったとき

と言うとき、そこにどれほどの痛みがあったのかは、私などの想像をはるかに越えています。
 しかし、そのパウロが、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言っています。これを、これまでお話ししてきたことを生かして訳してみようと試みましたが、文才のない私にはどう訳したらいいのか分かりません。それでも、あえて訳せば、

しかし、神は実証してくださっているのです。私たちに対するご自分の愛を。それも、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによってです。

となるでしょうか。
 これは、

 しかし、神は実証してくださっているのです

というように、自らの罪の絶望的な深刻さに打ちのめされている自分に言い聞かせるかのようなことばです。それは、パウロ自身に当てはまりますが、そのまま、自らの罪の絶望的な深刻さに打ちのめされている私たちにも当てはまるように語られています。
 実際、先ほど、パウロがクリスチャンたちを激しく迫害したことを証ししているみことばを引用しましたが、そのすべては、そのようなパウロ自身に示された神さまの恵みの豊かさを証しすることへとつながっています。

 繰り返しになりますが、

しかし、神は実証してくださっているのです。私たちに対するご自分の愛を。それも、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによってです。

と、現在時制で言われていることは、今も、また、いつまでも変わることがない事実として語られています。それはまた、どのようなときにも変わることがないということでもあります。
 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を完全に贖っていただいていますが、なおも、自らのうちに罪の本性を宿しています。そして、私自身がそのような者ですが、そのために、罪の自己中心性に縛られてしまい、ご自身を十字架につけた人々のために、

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

と、とりなし、祈られた主イエス・キリスト(ルカの福音書23章34節)に倣うどころか、愛すべき方々に無関心になってしまったり、しばしば誤解をして、愛すべき方々を心の中でさばいてしまったりします。また、自分を肥やすための卑しむべき計算をしてしまったり、顔を上げられなくなるほどの恥ずべき思いをもってしまったりします。
 その都度、神さまは、愛をもって、その現実に気付かせてくださり、悔い改めに導いてくださって、イエス・キリストの十字架の死による完全な罪の贖いに基づく恵みによって、罪を赦してくださいます。それは、鈍くなってしまっている者が、その都度、「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって」実証してくださっている神さまの愛と恵みを、新たに覚えさせてくださる機会となっています。しかし、そのような、神さまの愛と恵みを経験しているのに、なお、同じような罪を犯してしまいます。その底知れなく感じられる罪の現実に、絶望的になってしまうことがあります。
 それでも、なお、また、そのような時のためにこそ、現在時制の、

しかし、神は実証してくださっているのです。私たちに対するご自分の愛を。それも、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによってです。

という、みことばの語りかけがあります。
 このみことばの語りかけを聞き取らないで、自らの罪の底知れない深さに絶望して終ってしまうこと、ずっと絶望したままになっていることは、サタンの「わな」にはまることです。なぜなら、神さまはそのような私たちの現実をご存知であられるからこそ、ご自身の御子を宥めのささげものとしてお遣わしになったからです。また、自らの罪の底知れない深さに絶望して終ってしまうこと、絶望したままでいることは、決して、真の謙遜ではありません。なぜなら、御子イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いは完全な贖いであるのに、それをもってしても贖うことができない罪があるとすることは、御子の十字架の死を不完全なものであるとすることだからです。真の謙遜は、神さまの御前にへりくだることです。そして、それは、なによりも、神さまの愛と恵みを、幼子のように素直に受け入れることにあります。
 これにはもう一つの面があります。やはり、私自身が身に覚えがあることですが、自分の罪がどんなに深いものであるかを身にしみて感じているばかりか、絶望的にもなってしまっているということの中から、「自分は罪を自覚している」という思いが生まれてくることがあります。これには「だから、自分はいいのだ」というような思いが潜んでいます。これは、自らの罪が生み出す巧妙な「自己義認」という「わな」です。私たちが義と認められるのは、ただ、十字架にかかって私たちの罪を完全に贖ってくださったイエス・キリストを信じる信仰によっています。
 このこと関連して、とても微妙なことですが、自らの罪が生み出す巧妙な「自己義認」の一種として、「わざとしての信仰」と呼ばれるものがあります。それは、今お話ししたように、自分は自分の罪を自覚しているとか、悔い改めたというように、自分が「したこと」によって、自分は「よい」と感じてしまうことと同じことで、自分はイエス・キリストを信じたという、自分が「したこと」、すなわち、自分の「わざとしての信仰」によって自分は「よい」と感じてしまうことです。
 これはとても微妙なことですので、古典的なたとえを用いてお話しします。
 信仰は、神さまが与えてくださるものを「受け取る手」にたとえられます。お母さんは、子どもを愛しているので、おやつをあげます。子どもは、お母さんがくれたので、手を伸ばして、そのおやつをお母さんの愛とともに受け取ります。もちろん、子どもが手を伸ばして受け取らなければ、そのおやつは子どものものにはなりません。しかし、お母さんは、子どもが手を伸ばしたことが「よいことをしたこと」だからということで、そのごほうびに、おやつをあげるわけではありません。それと同じです。ヨハネの福音書3章16節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されています。神さまは私たちを愛してくださったので、御子をも与えてくださいました。私たちが神さまの愛と御子を信じるというよいことをしたから、そのご褒美として、あるいは、信じるようになることを見越して、そのご褒美として、御子を与えてくださったのではありません。神さまは「私たちがまだ罪人であったときに」、また、「私たちが背きの中に死んでいた時に」「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」御子を与えてくださったのです。

 このこととの関連で、以前お話ししたことをそのままコピーする形になりますが、子どもの頃の私の経験をお話しします。
 私の父は、私が小学校の5年生の時に亡くなりました。それまで私は、学校から帰って来ると「ただいま」ではなく、「おかあちゃ。なんか。」と言いながら、家の戸を開けて、家に入っていました。それは(信州の飯田弁で)「お母さん。何か、おやつをください。」という意味です。けれども、父が亡くなったため、母が外に出て働くようになると、母はおやつを戸棚に入れておいてくれるようになりました。それで、私は学校から帰って来ても、黙って戸を開けて家に入って、戸棚を開け、おやつを取って食べるようになりました。
 ある時、いつものように家に帰って、戸棚を開けておやつに手を伸ばした時に、何とも言えない寂しさ、深い寂寥感が込み上げてきて、しばらく、そこに立ち尽してしまいました。おやつはあるけれど、母がいないということを実感したのです。私はずっと、おやつを楽しみにして家に帰って来ていたと思っていたのですが、その時に、おやつは付録で、母がいるということがいちばん大事なことだった、母が手渡してくれるおやつを受け取ることが楽しみだったということに気がつきました。
 以上が私の経験したことです。お母さんがおやつをくれる時、子どもは、自然と、そのために、普段は無意識のうちに、そのおやつとともにお母さんの愛を受け取っています。そして、本当は、そのおやつよりもお母さんの愛の方が大切であり、おやつはその愛の現れです。そして、そのお母さんの愛を感じとることは、お母さんという存在を感じ取ることと切り離すことができません。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

というみことばの教えにおいても、神さまの愛が強調されています。やはり、私自身が身に覚えがあることですが、私はこのみことばが大切なみことばであるということは教えられて分かっていましたが、私の目は、自分が滅びから救い出されて永遠のいのちをもつことができるようになるという、自分のことの方に向いてしまっていました。そのために、本当の意味で、神さまの愛を受け止めることはできないでいました。
 しかし、この教えもそうですが、みことばは、一貫して、神さまを信じるということの中心には、神さまの愛を信じることがあり、それは神さまご自身を喜ぶことにほかならない、ということを教えています。
 このことを踏まえて、改めて、ローマ人への手紙5章に記されていることを見てみましょう。先ほど、8節に、現在時制で、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されている、神さまの「私たちに対するご自分の愛」が、今も変わることなく、私たちに注がれているからこそ、これに続く9節ー11節において、

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と言うことができるということと、これらすべてのことは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」ことによって実証されている神さまの「私たちに対するご自分の愛」から出ているし、この神さまの愛が今も、また、これからも、変わることなく、私たちに注がれていることによって、私たちの現実になっているということをお話ししました。
 神さまがこの「私たちに対するご自分の愛」によって、私たちのためになしてくださっている、これらすべてのことは、次々と積み上げられていって、最後には、11節に記されている、

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということに行き着きます。それは、神ご自身を喜んでいるということです。

 [以下は、当日の説教への大幅な補足です。]
 この「喜んでいます」と訳されていることば(カウカオマイ)は、基本的に「誇る」ことを表わします。そして、「喜ぶ」ことを表わす場合には、より強く「大いに喜ぶ」、「小躍りして喜ぶ」、「誇る」とのつながりで「誇らしく喜ぶ」というような意味合いをもっています。
 ここでこのことばがどちらを意味しているかの理解によって、翻訳が分かれています。
 新改訳2017年版は「喜ぶ」(第3版は「大いに喜ぶ」)と訳しています。これと同じ訳は、新欽定訳(「喜ぶ」)、新アメリカ標準訳1995年版と新英訳(「大いに喜ぶ」)に見られます。
 これに対して、聖書協会共同訳、新共同訳は「誇りとする」と訳しています。これと同じ訳(「誇る」)は新国際訳と新改定標準訳に見られます。
 どちらを取るかということですが、この場合は、三つの理由によって、神さまを「喜んでいる」ことが示されていると考えられます。 一つは、すでにお話ししてきたことです。8節ー11節が、8節の、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

というように、まず。私たちに対する神さまの限りない愛が今も、これからも変わることなく私たちに「実証されている」こと、また、その神さまの愛が注がれていることがあります。そして、そのことの上に立って、また、その神さまの愛のうちにあって、祝福(の確かさ)が積み上げられる形で示されています。その神さまの愛の目的は私たち自身であり、私たちをご自身との愛の交わりに生きる者としてくださることにあります。
 もう一つは、10節ー11節においては、神さまが私たちをご自身と和解させてくださっていることが、3回繰り返し述べられて強調されています。これが8節に述べられている神さまの私たちへの愛のうちにあってなされているということからすると、この和解には、私たちを義としてくださり、子としてくださったことも含まれていますが、最終的には、神さまが私たちをご自身との愛の交わりに入れてくださっていることがあると考えられます。10節で、

 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら

と言われていることに沿って言いますと、敵対していた者が愛の交わりに入れられているということです。この愛の交わりにおいては、私たちは神さまご自身を愛するようになります。そのことの中心に神さまご自身を喜ぶことがあります。
 さらにもう一つは、この「カウカオマイ」ということばは、同じ5章の2節ー3節に、

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。

と記されている中に2回出てきて、「喜んでいます」と訳されています。ここでは、このことばには「喜ぶ」という意味があると考えられます。
 そして、この「苦難さえも喜んでいます」と言われていることを支えているのは、「神の栄光にあずかる望み」(「希望」)ですが、さらに、その「希望」を支えているのは、5節で、

 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と言われていることです。
 この聖霊によって注がれている「神の愛」は、6節以下を続けて読んでいくと分かりますが、8節に出てくる、私たちに対する神さまの愛につながっています。このことから、11節に出てくる「カウカオマイ」ということばにも「喜ぶ」という意味があると考えられます。
 確かに、ローマ人への手紙の2章ー4章においては、この「カウカオマイ」ということばやその名詞形が「誇る」ことを表わしています。けれども、そこでは、信仰によって義と認められることと律法の行いによって義と認められることとの対比という、言わば、限定されたことの枠の中で、信仰によって義と認められている者は誇ることができないということが示されています。
 これに対して、5章からは、信仰によって義と認められていることを踏まえていますが、さらにその枠を越えて、「神との平和」のこと、「神の栄光にあずかる望み」(「希望」)のこと、「苦難」のこと、「神の愛」のこと、神さまとの和解のことなどが語られています。
 このように、11節では、新改訳2017年版のように、私たちが神さまを喜びとしていることが示されていると考えられます。
 [大幅な補足は以上ですが、この後の部分にも、注釈を含めて、かなりの補足が、いくつかあります。]

 ただ、

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

という新改訳2017年版の訳ですと、

 私たちの主イエス・キリストによって

ということと、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということが切り離されて、その間に、

 私たちは神を喜んでいます。

ということが置かれています。そのために、この11節の最後にあるのは、さらには、9節ー11節までに積み上げられてきたことの最後にあるのは、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということだということを伝えています(少なくとも、その可能性があります)。
 ギリシア語本文では、

 私たちの主イエス・キリストによって

ということと、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

ということが、「キリスト」と訳されている関係代名詞によってつながっています。日本語では、順序を変えなければならないので、関係代名詞も含めて直訳調に訳すと、おそろしくぎこちなくなりますが、

 この方によって、今、私たちが和解を受け取っている私たちの主イエス・キリストによって

となります。新改訳第3版は11節を、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と訳しています。この方が、ここでの主旨をよりよく伝えていると考えられます。
 もう一つ考えておきたいことですが、

 キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と言われていることは、すでに、10節に、

敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

と記されている中に出てきたことです。そして、11節に記されていることは、さらにその上に積み上げられていることです。このことからも、やはり、9節ー11節までに積み上げられてきたことの最後にあるのは、

 私たちは神を喜んでいます。

ということ、私たちが神ご自身を喜んでいるということであると考えられます。[注]

[注]この「喜んでいます」(カウコーメノイ)は、(動詞カウカオマイの)現在時制の分詞ですが、一般的に、ここでは、主動詞としての役割を果たしていると理解されています。これはまれなことですが、ヘブル語やアラム語が属しているセム語の影響による用法であると考えられています(Daniel B.Wallece, Greek Grammar Beyound the Basics, p.653)。
 もしかすると、新改訳2017年版は、この「喜んでいます」が現在時制の分詞で表わされていることから、「私たちは神を喜んでいます」と、最後にある関係代名詞節を同等のものと理解して、この部分を「キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです」と訳しているのかもしれません。
 聖書教会共同訳も、この部分を最後に置いていますが、「このキリストを通して、今や和解させていただいたからです」というように、この前の部分に従属するように訳しています。この点は、新共同訳も同じです。

 ここでは、私たちが神ご自身を喜んでいることは、「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって」(第3版)のことだと言われています。
 これは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」ことによって実証されている神さまの「私たちに対するご自分の愛」に、今も、また、これからも変わることなく包まれている私たちは、このイエス・キリストによって神さまと和解させていただいて、神さまとの愛の交わりに生きており、神さまご自身を喜んでいるということです。
 このように、「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって」私たちが導き入れていただいている神さまとの愛の交わりの中心には、神さまご自身を喜ぶことがあります。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第446回)へ戻る

「黙示録講解」
(第448回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church