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黙示録講解

(第446回)


説教日:2020年12月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(199)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束がすでに私たちご自身の民の間で、原理的・実質的に成就していることを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについてお話ししています。
 これまで、4節ー7節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

というみことばと、それに関連することについてお話ししてきました。
 まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることを、補足しながら振り返っておきます。
 ここでは、5節ー6節に、

背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されている、父なる神さまがイエス・キリストにあって、私たちのためになしてくださったことは、4節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

と記されているように、「あわれみ豊かな神」が「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」なしてくださったということが示されています。
 ここでは、神さまのことが「あわれみ豊かな神」と言われており、その「あわれみ豊かな神」さまの愛が「大きな愛(アガペー)」と言われて強調されている上に、「私たちを愛してくださった(アガパオー[ここでは不定過去時制・エーガペーセン])」が加えられて、さらに強められています。
 新改訳2017年版からも分かりますが、ギリシア語の文としては、これで完結していません。文の主語は4節の「(あわれみ豊かな)神」ですが、主動詞は5節で、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われているときの「ともに生かしてくださいました」(シュゾーオポイエオー[の不定過去時制・シュネゾーオポイエーセン])です。
 新改訳2017年版の5節冒頭で、

 背きの中に死んでいた私たちを

と訳されている部分は[英語のbe動詞に当たるエイミ動詞の分詞構文に当たる、日本語にない表現の仕方ですので]説明が難しいのですが、一般的には、これ[エイミ動詞の分詞構文]は時間的な意味合いを伝えていると理解されています。それを直訳調に訳すと、

 私たちが背き(複数)の中に死んでいた時に

となります。
 また、この部分は、その前に接続詞(カイ[英語のandに当たる])があります。これは、二つの意味に理解することができます。
 一つは、継続を示すとして、前の部分につなげて理解することです。この場合には、日本語では節の区切りを越えることになりますが、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちが背きの中に死んでいた時に(さえ)、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

となります。これは、4節の最後をコンマで区切っていない新改定標準訳(NRSV)が示している理解です。新改定標準訳は接続詞(カイ)に強調の意味合いも汲み取っています。
 もう一つは、接続ではなく強調を示すとして、これを後の部分とつなげて理解することです。この場合には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、なんと、私たちが背きの中に死んでいた時に、私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

となります。これは、新英訳(NEB)と新国際訳(NIV)が示している理解です。また、新アメリカ標準訳(NASB)と新欽定訳(NKJV)は、新英訳(NEB)と新国際訳(NIV)ほど明確ではありませんが、4節の最後をコンマで区切っていますので、後の部分につなげていると思われます。新改訳2017年版はこの理解を取って意訳していると考えられます。
 ここでは、これまでもそうでしたが、この後の部分とつなげる理解の仕方にしたがってお話しします。


 この「あわれみ豊かな神」の「私たちを愛してくださった「大きな愛」については、すでに、いくつかのことをお話ししています。 その一つのことは、この神さまの「大きな愛」が1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、神さまの永遠からの私たちに対する愛から出ているということです。
 1章4節で「世界の基が据えられる前から」と言われていることは、創造の御業が遂行されて、この時間とともに経過する世界が造り出されることに先立ってということです。時間はこの造られた世界の時間ですので、この世界が造られた時から始まっています。それで、この「世界の基が据えられる前から」ということは「永遠において」ということを意味しています。
 そして、私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と言われていることは、私たちが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、本性が腐敗し、汚れた者になってしまうことを踏まえています。ですから、神さまは永遠において、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、汚れた者となってしまう私たちを、「この方にあって」選んでくださったのです。
 ここで「この方にあって」と言われているのは、3節で、

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われているときの「キリストにあって」を受けています。
 ここで神さまが「キリストにあって天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださ」ったと言われていることは、4節ー14節に記されていることにおいて私たちの現実になっています。その鍵となっていることは「キリストにあって」ということで、「天上にあるすべての霊的祝福」は「キリストにあって」私たちにもたらされます。さらに言いますと、「キリストにあって」ということが意味している、私たちがキリストと一つに結び合わされていること自体が、「天上にあるすべての霊的祝福」の中心であり、集約であり、根拠であり、根源であると考えられます。
 ですから、4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されていることは、3節で、

神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と記されていることの第一の現れであり、「永遠における」ことです。またそれで、4節ー5節に記されていることの第一に挙げられている、神さまが永遠において、私たちを選んでくださったことも「この方にあって」すなわち「キリストにあって」のことであると言われています。[注]

[注]ここでエン・アウトーを、新改訳2017年版が「この方にあって」と直訳調に訳していることにはどのような意味があるのか、私にはよく分かりません。同じ1章では9節や関係代名詞(エン・ホー)による7節、11節、13節では直訳調にしないで「キリストにあって」と訳しています。ちなみに、第三版はすべて直訳調に「彼にあって」(4節)、「この方にあって」(7節、9節、11節、13節)と訳しています。

 このように、父なる神さまはご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、汚れた者となってしまう私たちを、「キリストにあって」選んでくださいました。
 この場合、4節で、

この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

と言われているときの主動詞は「私たちを選び」の「選んだ」で、「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ということは、神さまが私たちを選んでくださったことの目的を表す不定詞で表わされています。ですから、これは、神さまが私たちを選んでくださってから、「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」という時間的な順序を示しているのではありません。神さまが私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ことは、神さまが汚れた者となってしまう私たちを、「キリストにあって」選んでくださったことに伴う祝福です。
 さらに、5節で、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと[直訳・養子としようと]、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と言われているときの「あらかじめ定めておられました」は分詞で表わされていて、主動詞は、やはり、4節の「選んだ」です。ですから、神さまが「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定め」られたことも、やはり、神さまが私たちを「キリストにあって」選んでくださったことに伴う祝福です。
 また、この場合、「愛をもって」は4節の最後に出てくることばです。以前[黙示録435(2020年8月9日に])お話ししたことですので理由は省きますが、この「愛をもって」は続く5節に記されていることにつながっていると考えられます。それで、この「愛をもって」は、この部分の最初に出てきて、強調されていることになります。ただ、新改訳2017年版から分かるように、「愛をもって」は続く「あらかじめ定めておられました」とつながりますので、日本語では、後の方に来ることになります。
 これまでお話ししてきたことから、4節ー5節に記されている、神さまが永遠において私たちに対してなしてくださったことのすべてが、特に、その中心にある、神さまがご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、汚れた者となってしまう私たちを「キリストにあって」選んでくださったことは、しかも、それは私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようと」してくださるためのことであったということは、神さまの永遠からの愛から出ていることを、明確に、感じ取ることができます。
 けれども、ここでは、そのことを表わす「愛をもって」ということを、神さまが「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、・・・あらかじめ定め」られたことにおいてこそ当てはまることとしています。これによって、神さまがご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、汚れた者となってしまう私たちを「キリストにあって」選んでくださったことに伴う祝福の頂点が、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、・・・あらかじめ定め」てくださったことにあるということを示しています。言い換えますと、神さまの私たちへの愛は、永遠において、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、汚れた者となってしまう私たちを「キリストにあって」選んでくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようと」してくださったことをさらに越えて、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、・・・あらかじめ定め」てくださったほどの愛であったということです。
 このことの。根底にあるのは、御子イエス・キリストこそが父なる神さまが永遠に、無限の愛をもって愛しておられる方であるということです。4節ー5節に記されていることに続いて、6節では、これらすべてのことの最終的な目的のことが、

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。ここでは、イエス・キリストのことが「(神が)愛する方」と呼ばれています[直訳は「愛されている方」ですが、この受動態は「神的受動態で、その主語は神さまです]。
 父なる神さまは永遠に、無限の愛をもって愛しておられる御子イエス・キリストにあって、私たちを選んでくださり、御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストによって、ご自身の子となるように、愛をもって「あらかじめ定め」てくださっているのです。ローマ人への手紙8章29節には、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されています。ここで、神さまが「あらかじめ知っている」、「あらかじめ定められた」と言われていることは、永遠におけることです。そして、「あらかじめ知っている」ということは、ただ単に知識として知っているということではなく、親しく人格的に知っているということで、愛しているということに相当することです。神さまは、その「あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言われています。これは、私たちを御子イエス・キリストの栄光の「かたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということを意味しています。そして、

 それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と言われています。これは、私たちが御子イエス・キリストを「長子」とする神さまの子ども(養子)としていただくことを意味しています。これは、エペソ人への手紙1章5節で、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と言われていることに相当します。

 神さまが私たちを「キリストにあって」選んでくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようと」してくださったばかりでなく、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定め」てくださったことは、2章4節ー5節において、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われていることにおいて、私たちの現実になっています。
 この、永遠において、神さまがなしてくださっていることと、今、私たちの現実になっていることとのかかわりに注目してみましょう。
 「あわれみ豊かな」神さまは、「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、なんと、私たちが数々の「背きの中に死んでいた」時に、「私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」。ここで「キリストとともに」ということは、私たちが御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれているということを踏まえています。この、私たちがイエス・キリストと一つに結ばれていることをさかのぼっていきますと、最終的には、神さまが永遠において、私たちを「キリストにあって」選んでくださっていることに行き着きます。
 また、私たちが数々の「背きの中に死んでいた」時にさえも、「あわれみ豊かな」神さまが、「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」、「私たちを、キリストとともに生かして」くださったということをさかのぼっていきますと、神さまが、永遠において、私たちを「キリストにあって」選んでくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようと」してくださったことに行き着きますし、さらには、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定め」てくださったことに行き着きます。
 確かに、ここ2章4節ー6節には、私たちが「イエス・キリストによって」神さまの子としていただいていることは記されてはいません。しかし、同じエペソ人への手紙の5章1節には、

 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

と記されていて、私たちが神さまから「愛されている子ども」としていただいていることが示されています。
 また、神さまが私たちを「キリストとともに生かして」くださったことを説明して、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることは、実質的に、私たちを神さまの子としていただいていることを意味しています。
 そのことは、いくつかのことから説明することができますが、そのうちの一つのことだけを取り上げます。
 先ほど引用した、ローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されていることは、永遠において、神さまが私たちのためになしてくださっておられることです。これに続く30節には、

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。ここでは、29節で、神さまが「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言われている人々のことが、今どのようになっているかが示されています。ここでの言い方を直訳調に訳すと、

あらかじめ定めた人たちを、その人たちをさらに召し、召した人たちを、その人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちを、その人たちをさらに栄光化しました。

となります。神さまが「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」人々を、必ず、召してくださり、義と認めてくださり、栄光化してくださることが示されています。改めて注目すると、この「あらかじめ定めた人たち」とは、神さまが、永遠において、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」人々のことです。ですから、ここでは、神さまが、永遠において、「あらかじめ定めた人たち」は、必ず、神さまによって召され、義と認められ、栄光化される(「御子のかたちと同じ姿に」していただくようになるということ、すなわち、神さまの永遠におけるみこころは必ず実現するということが示されています。
 これらことのうち、召してくださり、義と認めてくださることは、すでに、私たちの現実になっています。
 栄光化してくださることは、ある意味において、すなわち、エペソ人への手紙2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることにおいて、私たちの現実になっています。ただし、その完全な実現は、終わりの日におけることです。ローマ人への手紙8章30節で、この栄光化してくださることが「栄光化してくださいました」と不定過去形で記されていることは、終わりの日における私たちの栄光化の確かさ、私たちにとって過去のことは確定していて変えることができないのと同じ確かさを示していると考えられます。これは神さまの預言の確かさを表わす「預言的過去」に当たることです。
 この栄光化は、29節に記されていることとのつながりから、私たちが「御子のかたちと同じ姿に」造り変えられること、すなわち、私たちが御子を長子とする神の子どもとされることを意味しています。それで、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われていることは、実質的に、私たちが神の子どもとされることに相当することであると考えられます。
 2章4節ー6節に記されていることと1章4節ー5節に記されていることのつながりに関して、もう一つのことに触れておきますと、神さまがエペソ人への手紙2章4節ー6節に記されていることを私たちのためになしてくださったことの最終的な目的のことが、7節に、

それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

と記されています。これは、1章4節ー5節に記されている、永遠において、神さまが私たちのためになしてくださったことの最終的な目的について、6節に、

 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていることと符合しています。
 このように、2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることは、突き詰めていくと、1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されていることへとつながっており、この永遠におけることから出ています。そして、その中心には「キリストにあって」ということ、私たちが父なる神さまが永遠に、無限の愛をもって愛しておられる御子イエス・キリストと一つに結ばれていることがあります。
 これまでお話ししてきたように、みことばは、神さまの永遠からのみこころが必ず実現するということを示しています。私たちは今神の子どもとして歩んでいます。しかし、私たちはしばしば、自らの罪深さに苦しみますし、外からやって来る試練に悩まされます。けれども、この私たちの歩みを根底から支えている、決して揺るがないことがあります。それは、神さまが、永遠において、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、汚れた者となってしまう私たちをご存知であられて、なお、「キリストにあって」選んでくださっていることです。


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