黙示録講解

(第445回)


説教日:2020年11月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(198)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 この約束は、すでに、私たちご自身の民の間で、原理的・実質的に成就しています。そのことは、いくつかのみことばから汲み取ることができますが、その中から、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばについてお話ししています。
 今お話ししているのは、4節ー7節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

というみことばと、それに関連することについてお話ししています。
 これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関連していることを、多少補足しながら振り返っておきます。
 父なる神さまがイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストによって、私たちのためになしてくださったことが5節ー6節に、

背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。このすべてのことは、4節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

と記されているように、「あわれみ豊かな神」が「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」なしてくださったことです。
 この4節は「しかし」(デ)という軽い反意を示す接続詞によって、1節ー3節に記されている、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

という、かつての私たちの状態を踏まえて記されていることが示されています。
 そして、続く5節には、

 背きの中に死んでいた私たちを

が出てきます。これは、1節で、

 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり

と言われていることを受けています。5節では、1節で「背きと罪の中に死んでいた」と言われていることを「背きの中に死んでいた」にまとめています。また、1節では、

 あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた

というように、「あなたがた」すなわち異邦人クリスチャンのこととして記されていますが、5節では、

 背きの中に死んでいた私たち

というように、パウロ自身もこれに含めた「私たち」という言い方になっています。1節ー3節では、1節ー2節が「あなたがた」異邦人クリスチャンのこととして記されており、3節が「私たち」ユダヤ人クリスチャンのこととして記されています。けれども、このダヤ人クリスチャンのことを記している3節では、

私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と言われています。ここでは「不従順の子らの中にあって」が最初に出てきて強調されています。この場合、「不従順の子ら」は、異邦人クリスチャンのことを記している2節の最後に出てくる「不従順の子ら」を指す関係代名詞で表わされていて、2節とのつながりを示しています。ユダヤ人クリスチャンもまた「不従順の子らの中に」あったというのです。そして、

 ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と述べています。ここでも「ほかの人たちと同じように」が最後に置かれていて強調されています。
 このように、1節ー3節で、パウロはこの手紙の読者である異邦人クリスチャンと、自分たちユダヤ人クリスチャンを区別して記しながら、神さまとの関係のあり方においては、両者の間に違いがないことを示しています。
 このことは、パウロの手紙において繰り返し出てくることですが、このエペソ人への手紙においてもいくつかの箇所で見られます。
 今日は、話が戻ってしまう感じになりますが、このことについて、もう少しお話しします。


 神さまとの関係のあり方においては、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの間に違いがないということは、エペソ人への手紙2章では、今取り上げている1節ー10節に続く11節ー22節に記されていることに反映しています。その全体を取り上げると長くなってしまいますので部分的に取り上げますが、よく知られていることは後の方に出てきます。ここではあまりよく知られていない11節ー13節に記されていることを取り上げます。
 11節ー13節には、

ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

と記されています。
 今日は、11節ー12節において、「あなたがた」と呼ばれている異邦人クリスチャンの「かつて」の状態が、古い契約の下にあったイスラエルの民との対比において記されていることを中心としてお話しします。
 この手紙の読者たちは「かつて、肉においては異邦人」であり、古い契約の下での契約のしるしであった割礼については「無割礼の者」でした。それで、「キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人」でした。
 ここで、注目したいのは、「肉において」(エン・サルキ)ということばです。
 ことばとしては、このことばは11節に2回出てきます。一つは、新改訳2017年版から分かりますが、

 あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした

と言われている中に出てきます。もう一つは、

 人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々

と言われているときの「肉に」がこのことばです。
 このことばがここで意味していることについては見方が三つほどありますが、それらの見方の根底にあることには違いがないと思われます。それは、この11節ー12節に記されている対比の根底にあるのは古い契約の下における契約の神である「」との関係のあり方であるからです。それで、ここでは、

 人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、

というように、古い契約のしるしであった「割礼」のことが取り上げられています。
 パウロは、ここでは、その「割礼」のことを、

 人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」

と言っています。これによって、「割礼」が「人の手」によって、からだに施されるものであり、古い契約の下での「ひな型」としての限界があることを示しています。
 パウロは「かつて」、「割礼」を受けたことを誇っていました。もちろん、その頃は、「割礼」のことを「人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を」などと言ってはいませんでした。しかも、その誇りは形だけの空疎なものではなく、「割礼」を受けた者として熱心に生きていたのです。そのことをパウロは、ピリピ人への手紙3章4節ー6節において、

ただし、私には、肉において(エン・サルキ)も頼れるところがあります。ほかのだれかが肉(エン・サルキ)に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

と述べています。
 ここでパウロが「肉においても頼れるところがあります」と言って、5節で挙げているのが、

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人

と記されている四つのことです。これらは、パウロが生まれながらにもっていたもののことです。その中でも「生まれて八日目に割礼を受け」たことが最初に挙げられています。それは、この「生まれて八日目に割礼を受け」たことが「」の契約の民であることの根底にあるからです。このことの上に、続く三つのことが、さらに誇るべきこととして積み上げられています。
 これに続いて、6節に記されている、

律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

という三つのことは、パウロが「生まれて八日目に割礼を受け」た「」の契約の民としての歩みの中で学び取り、選び取ったあり方であり、生き方のことです。
 もう一つ注目したいことは、ここで、パウロは自分のことを、

 律法による義については非難されるところがない者でした。

と言っていることです。これは、パウロが律法を行って義を立てたかのように聞こえます。しかし、ここでパウロはそのようなことを言っているのではありません。
 このことを理解する鍵は、かつてのパウロのあり方です。使徒の働き22章3節に記されていますが、エルサレムにおいて、パウロが神殿を汚しているという偽りの告発がなされ、それに扇動されて騒乱状態になっている人々に、パウロが自分のことを、

私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

と語ったことをが記されています。パウロはユダヤ教の律法集である「ミシュナー」に7回その名が出てくる、ラビ「ガマリエル[ガマリエル一世]のもとで先祖の律法について厳しく教育を受け」ました。
 また、パウロは、ガラテヤ人への手紙1章14節で、

私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。

と証ししています。ここで「先祖の伝承」と言われているのは、パウロが「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け」たと証ししている、「ガマリエルのもとで」教えられた「先祖の律法について」の教えのことです。
 このことにかかわる大切なことがあります。ユダヤ教のラビの教えの伝承においては、「トーラー[律法]は、もし神によって与えられたものであるなら、守ることが可能なはずだという信念」がありました。また、「人は、律法の意味するところを知れば、それを守る方法を知るはずである」と考えていました。(J・ボウカー『イエスとパリサイ派』土岐正策、土岐健治訳 43頁)。
 パウロが「かつて」の自分は、

 律法による義については非難されるところがない者でした。

と言っているのは、「ガマリエルのもとで」教えられた「先祖の律法について」の教え、すなわち「先祖の伝承」を非難されるところがないほど守っていた、そのことは自他共に認めていたということです。その教えは、「」の律法を守るためにラビたちが規定した「指針」です。そのような指針は人の熱心によって守ることができます。かつてのパウロは、そのような「先祖の伝承」を非難されるところがないほど守っていたので、「」の律法を守っていると思っていたのです。
 けれども、使徒の働き9章1節ー9節に記されているように、栄光のキリストが教会を迫害していたパウロにご自身を現してくださいました。
 その時までのパウロにとって、ローマ人の手によって十字架につけられて殺されたナザレのイエスは、申命記21章23節に記されている、

 木にかけられた者は神にのろわれた者である

という律法の規定によれば、神にのろわれて死んだ者でした。それで、パウロは、こともあろうに、そのような「神にのろわれた者」を約束のメシアであると主張するクリスチャンたちは、神を冒 する者であり、死に値するとして、迫害していたのです。
 そのパウロに、栄光のキリストがご自身を現してくださいました。使徒の働き9章3節ー5節には、

サウロ[ユダヤ教徒時代のパウロ]が道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

と記されています。この「天からの光」について、パウロは、26章13節でアグリッパ王に、

真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました

と証ししています。この時起こったことは「クリストファニー」、キリストの栄光の顕現です。
 この時、パウロは、神にのろわれて死んだナザレのイエスは、栄光の「」、ヤハウェであるという、(どう言い表したらいいのか分かりませんが)この上なく衝撃的な啓示を受けました。実際、やがてパウロは、イエス・キリストが「」、ヤハウェであるということを踏まえていろいろなことを論じるようになります(ローマ人への手紙9章4節ー5節、10章9節ー13節、ピリピ人への手紙2章6節ー11節、テトスへの手紙2章13節)。その根底には、この栄光のキリストがご自身をパウロに啓示してくださったことがあります。
 その経緯が詳しく記されているわけではありませんが、当然、パウロは、どうして栄光の主が十字架につけられて、のろわれた者として死ななければならなかったのかということを、主の導きを求めて考え続けたはずです。そして、パウロは、人の罪を贖うためには栄光の「」ご自身が、その人に代わってのろいを受けてくださるほかはなかったということを、御霊に導いていただいて悟りました。そのことは、ガラテヤ人への手紙3章13節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

と記されていることから分かります。
 それは、自分を初めとして、人の罪がそれほど重く深刻なものであることを悟ったということです。「ガマリエルのもとで」教えられた「先祖の律法について」の教えを非難されるところがないほど守っていた時、パウロは「」の律法を守っていると思っていました。しかし、それは、「」の律法を守るためにラビたちが規定した「指針」を守っているだけのことでした。パウロがそのことに気付くことができたのは、栄光のキリストがご自身をパウロに啓示してくださったからにほかなりません。

 パウロは、ローマ人への手紙3章19節ー20節において、

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

と述べています。ここでは、

 人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない

と言われています。もちろん、神さまの「律法を」神さまの御目から見ても落ち度なく守るなら「神の前に義と認められ」ます。けれども、生まれながらに自らのうちに罪によって腐敗した本性を宿している人は、神さまの御目から見ても落ち度なく「律法を」守ることができません。それで、パウロは、

 律法を通して生じるのは罪の意識です。

と教えています。
 このようなことを受けて、パウロは、同じローマ人への手紙3章の23節ー25節前半において、

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。

と述べています。神さまは「恵みにより」イエス・キリストを「信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として」お遣わしになりました。そして、このイエス・キリストを信仰によって受け取り、受け入れる人を、イエス・キリストによる「贖いを通して、価なしに義と認め」てくださいます。
 神さまは私たちを、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずからせてくださって、私たちを罪とその結果である死の力から贖い出してくださり、私たちをきよめてくださいました。さらに、私たちをイエス・キリストの復活にあずからせてくださって、永遠のいのちをもつ者として、新しく生まれさせてくださいました。
 ローマ人への手紙6章4節には、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

と記されています。
 ここに出てくる「バプテスマ」、洗礼はイエス・キリストの血による新しい契約の礼典ですが、古い契約の下での「割礼」が「地上的なひな型」として指し示していたものの本体です。洗礼は私たちが、御霊によって、新しい契約の主であるイエス・キリストと一つに結ばれて新しい契約の共同体に加えられたことを証印するものです。それで、このことが「割礼」の本来の意味になります。
 このことを踏まえて、「割礼」についてのパウロの教えをいくつか見てみましょう。説明の必要はないと思いますので、みことばを読むだけにします。
 ローマ人への手紙2章28節ー29節には、

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

と記されています。
 ガラテヤ人への手紙5章6節には、

 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

と記されており、6章14節ー15節には、

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

と記されています。
 ピリピ人への手紙3章2節後半ー3節には、

肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。

と記されています。
 コロサイ人への手紙2章11節ー12節には、

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

と記されています。
 これらのことを踏まえると見えてくことがあります。
 エペソ人への手紙2章11節に、

ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、

と記されていることにおいては、古い契約の下における契約の神である「」との関係のあり方において、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンは「割礼」を受けているか「無割礼の者」かによって区別されています。しかし、割礼も、割礼を受けていたユダヤ人たちも、古い契約の下にある「地上的なひな型」としての限界の中にありました。そのために、異邦人と同じように、神さまが「恵みにより」、「信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として」お遣わしになった御子イエス・キリストを信じて、受け入れる必要がありました。
 ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されていることは、14節に出てくる「異邦人」ばかりでなく、アブラハムの血肉の子孫であるユダヤ人にも当てはまることです。そして、このことに、ユダヤ人と異邦人が、キリスト・イエスにあって一つとされていること、エペソ人への手紙2章13節で、

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

と言われていることの基盤があります。


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