黙示録講解

(第441回)


説教日:2020年10月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(194)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束が、すでに、私たちご自身の民の間で、原理的・実質的に、成就しているということを示しているみことばの一つとして、先ほどお読みした、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばを取り上げています。
 これまで4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししてきました。本主日も、それに関連するお話をします。
 お話が一週空いたので、まず、これまでお話ししたことの根本にあることをまとめておきましょう。
 ここには「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことが記されています。この父なる神さまの「大きな愛」は、ご自身に対して罪を犯して「背きの中に死んでいた私たち」をなおも愛してくださって、私たちを「キリストとともに生かして」くださった愛です。
 この父なる神さまの愛は、1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、父なる神さまの永遠からの私たちへの愛から出ています。
 今お話ししているのは、この神さまの永遠からの私たちへの愛は、創造の御業において、すべての造られたもの、特に、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に現され、注がれたこと、そして、このことが、神さまが天地創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことと深く関わっているということです。
 繰り返しになりますが、神さまが天地創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことの最も奥深くにあることは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることにあります。
 ここでは、まず、御子がまことの神であられるということと、御子が永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられて、完全に充足しておられるということが示されています。そして、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに完全に充足しておられる御子が、創造の御業を遂行されたということが示されています。
 このことから、天地創造の御業は、神さまの愛から出ており、その愛に基づいて遂行されていることを汲み取ることができます。そして、この神さまの愛は、先ほどのエペソ人への手紙1章4節ー5節に記されている、神さまの永遠からの愛でもあります。
 今日お話することとかかわっているので、改めて確認しておきますが、御子が創造の御業を遂行されたのは、三位一体の神さまが創造の御業と摂理の御業、そして特別摂理の御業としての贖いの御業を遂行されるときに、御父、御子、御霊の間で、言わば「役割分担」をしておられるからです。
 父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する立場に立っておられます。それで、創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業の計画を立てておられます。また、それで、神さまの無限、永遠、不変の栄光は父なる神さまによって現されています。そのために、いかなる被造物も、直接的に、父なる神さまに触れることはできませんし、直接的に、父なる神さまを知ることはできません。
 御子はまことの神であられますが、(無限、永遠、不変の栄光の神さまのことですので、人にたとえて言うほかないことですが)無限に身を低くされ、神としての無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、ご自身がお造りになったこの世界にかかわってくださる役割を負われました。それで、御子が、父なる神さまのみこころに従って創造の御業を遂行され、摂理の御業と贖いの御業を遂行しておられます。また、父なる神さまを人や御使いたちに啓示してくださっているのは御子です。
 このことを、父なる神さまが、御子をとおして、御子にあって、創造の御業を遂行され、摂理の御業、そして贖いの御業を遂行しておられる、と言うこともできます。また、父なる神さまが御子をとおして、御子にあって、ご自身を人に啓示してくださっている、と言うこともできます。
 このことを踏まえると、コロサイ人への手紙1章15節ー17節に、

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されていることを理解することができますし、これに続いて、18節ー20節に、

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

と記されていることを理解することができます。
 このように、神さまの創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業においては、御子が無限に身を低くされ、無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、ご自身がお造りになったこの世界にかかわってくださる役割を負っておられます。それで、御子が創造の御業を遂行されましたし、摂理の御業と贖いの御業を遂行しておられます。
 「万物」は御子によってまた御子にあって造られましたし、御子によってまた御子にあって成り立っており、保たれています。その意味で、御子は「万物」、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを支配し、真実に保ってくださっている主です。
 また、この御子がお造りになった「万物」は、空間的に広がっているだけでなく、時間的に経過している歴史的な世界です。それで、御子はこの歴史的な世界のすべてのものを保ち、導いておられる歴史の主です。
 御子によってまた御子にあって造られたこの世界のすべてのものと、御子との関係がこのような関係にあるので、御子はこの世界のすべてのものの存在の源であり、根拠であり、目的でもあります。
 人間の世界でも、芸術家の芸術作品は、その芸術家の思想や美的な感性やさまざまな才能を映し出しています。それと同じように、この世界のすべてのものは、これをお造りになった御子の栄光を映し出すものです。ローマ人への手紙1章20節に、

神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる

と記されているとおりです。この世界のすべてのものは、御子の栄光を映し出すことを目的として造られています。先に引用した、コロサイ人への手紙1章16節後半に、

 万物は御子によって造られ、

と記された後、

 御子のために造られました。

と記されているとおりです。それで、人も御使いたちも含めて、この世界のすべてのものは、それをお造りになった御子の栄光を映し出す時にこそ、本来のあり方をしており、真に、意味ある存在となります。
 このこととのかかわりで、さらに大切なことがあります。それは、人も御使いたちも含めて、この世界のどのようなものであっても、それをお造りになった御子の栄光を映し出すことができるのは、そのすべてが御子にあって造られ、御子がその一つ一つを、ご自身の御霊によって、真実に支えてくださり、導いてくださっているからであるということです。
 御子は、このような意味において、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを真実に支配し、保ってくださっている主です。このことを、時間的な面から見ると、御子はご自身がお造りになった、この歴史的な世界のすべてのものを真実に支配し、保ち、導いてくださって、ご自身の栄光を現される歴史の主である、ということになります。


 そして、神さまのみことばは、このように、御子がご自身がお造りになった、この歴史的な世界のすべてのものを真実に支配し、保ち、導いてくださっているのは、神である「」の契約によっているということを示しています。すでにお話ししていることですので詳しい説明は省きますが、そのことは、エレミヤ書33章20節ー22節と25節ー26節に記されているみことばから知ることができます。後の方の25節ー26節には、

はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」

と記されています。
 このように、神である「」は、すべてのものをご自身の契約のうちあるものとして造り出してくださいました。そして、お造りになった一つ一つのものを、それぞれの特質にしたがって、真実に保ち、支え、導いてくださっています。この「」は、ご自身の契約に対して真実であられ、契約に示されているすべてのことを守られ、約束してくださったことを必ず実現してくださる契約の神です。
 これを三位一体の神さまのお働きに添って言うと、このように、ご自身がお造りになったすべてのものを、それぞれの特質にしたがって、真実に保ち、支え、導いてくださっているのは御子のお働きによることです。その意味で、契約の神である「」は、基本的に、御子のことです。
 ここで、契約の神である「」は「基本的に」御子のことであるというのは、造られたすべてのものは、また、父なる神さまが御子をとおして、御子によって、御子にあって、お造りになったものですし、父なる神さまが御子をとおして、御子によって、御子にあって、真実に支えてくださっているものです。その意味では、父なる神さまが契約の神である「」であられる、と言うこともできるからです。そうではあっても、やはり、直接的に、創造の御業を遂行され、お造りになったすべてのものに、直接的にかかわってくださっているのは、御子です。
 また、契約の神である「」は、ご自身がお造りになったすべてのもの一つ一つを、それぞれの特質にしたがって、真実に保ち、支え、導いてくださっています。それで、「」と「」がお造りになった一つ一つのものとの契約関係のあり方は、造られたそれぞれのものの特質にしたがって違っています。
 たとえば、天体などの物質的なものや、物質を構成する素粒子などの場合には、「」がその特質にしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっているので、私たちはそのことから物理的な法則を汲み取ることができます。また、「」が地に芽生えさせてくださったさまざまな植物であれば、「」がその特質にしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっているので、それらは生長し、多種多様な花を咲かせ、実をならせます。同じように、生き物たちは、「」がその特質にしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっているので、それらは、それぞれの種類にしたがって、いのちの営みをし、成長して、増え広がります。

 これらすべてのものが、神である「」との契約関係にあって、存在しています。この場合、「」に造られたすべてのものが「」との契約関係にあるということは、契約の神であられる「」が、造られたすべてのものの一つ一つのものとともにいてくださるということを意味しています。
 私たちは被造物としての限界の中にあるので、同時に、他の場所にあるものに触れることはできません。しかし、存在において無限の神さまは、今この時にも、お造りになったすべてのものとともにおられて、その一つ一つのものを真実に支え、導いてくださっています。
 「」がともにいてくださるということは、「」がそこにご臨在してくださるということです。そして、その「」の御臨在は「」の契約に基づくことです。
 それで、「」がお造りになったものがこの世界(大宇宙)のどこにあっても、「」は、それがある所にご臨在してくださって、それを、その性質にしたがって、真実に支え、導いてくださっています。その意味で、「」はこのこの世界(大宇宙)のどこにおいてもご臨在しておられます。
 イザヤ書66章1節ー2節前半には、

はこう言われる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 あなたがたがわたしのために建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしの安息の場は、
 いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造った。
 それで、これらすべては存在するのだ。

と記されています。
 ここで「」は、

 天はわたしの王座、地はわたしの足台。

と言っておられます。ここには「」と「」の組み合せがあります。これによって、「」がお造りになったすべてのもの、今日のことばで言えば「宇宙」が示されています。そして、「王座」と「足台」の組み合せは、そこに「」が万物の支配者として座しておられることを示しています。このことから、「」が、造られたすべてのものの一つ一つのものとともにご臨在してくださって、契約の主として、一つ一つのもの真実に支え、導いてくださっているということを汲み取ることができます。
 また、エレミヤ書23章24節にも、

 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
  ――のことば。

と記されています。
 「」が、お造りになった一つ一つのものとともにご臨在してくださって、それらを真実に支え、導いてくださっているのは、ただそれらがそこに存在するようになるためのことではありません。「」はそれによって、それら一つ一つのものが、それをお造りになった神である「」の栄光を映し出すようにしてくださっているのです。
 とはいえ、これらすべてのものは、神である「」を知りませんし、「」が自分たちをお造りになって、真実に支え、導いてくださって、ご自身の栄光を映し出すようにしてくださっていることを知りません。それを知っているのは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。それで、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦され、御子イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれて、神の子どもとしていただいている私たちは、詩篇19篇1節に記されているように、

 天は神の栄光を語り告げ
 大空は御手のわざを告げ知らせる。

と告白して、いっさいの栄光を神である「」に帰しています。
 これは、前回取り上げた、詩篇8篇3節ー5節に、

 あなたの指のわざである あなたの天
 あなたが整えられた月や星を見るに
 人とは何ものなのでしょう。
 あなたが心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 あなたは人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているみことばとかかわらせて見ることができます。
 ここで詩人は、「」がお造りになった「」を見上げて、おのれの存在の小ささを実感しています。同時に、その小さく取るに足りない人に、「」が「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださり、「」の「御手のわざを人に治めさせ」、

 万物を彼の足の下に置かれました。

という驚くべきことを感謝とともに告白しています。
 このようにして、創造の御業において神のかたちとして造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、詩篇19篇1節では、同じ「」を見上げて、そこに神さまの栄光が現されていることを察知して、神さまをほめ讃えています。これは、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命の一端を果たしていることに他なりません。

 そうであっても、神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことの中心には、神である「」の契約に基づく、「」との愛の交わりに生きることがあります。言うまでもなく、この「」との愛にあるいのちの交わりの核心には、「」を神として礼拝して、いっさいの栄光を「」に帰することがあります。
 人は、創造の御業において愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られています。神である「」は、その一方的な愛と恵みによって、人を、初めから、ご自身を知っているもの、ご自身との契約のうちにあるものとしてとしてお造りになりました。それで、人は、造られたその時から、ご自身の契約に基づいて、ともにご臨在してくださっている神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになりました。
 それで、神のかたちとして造られている人と神である「」との愛にあるいのちの交わりは、「」の契約に基づく交わりです。
 これが「」の契約に基づく交わりであるということには、いくつかの意味があります。
 第一に、今お話ししたように、「」が一方的な愛と恵みによって、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、初めから、ご自身を知っているもの、ご自身との契約のうちにあるものとしてお造りになったということを意味しています。
 第二に、「」が、初めから、ご自身の契約に基づいて、人とともにあるように、御霊によってご臨在してくださっていたということを意味しています。
 そして、第三に、「」が、初めから、人が神のかたちの本質的な特質である愛に生きるように、具体的には、「」ご自身との愛の交わりに、また、同じく神のかたちとして造られている隣人との愛の交わりに生きるように、御霊によって支え、導いてくださっていたということを意味しています。
 人は、このすべてにおいて、神である「」の一方的な愛と恵みにあずかっているのです。それによって、人は「」との愛の交わりに生きるようにと支えていただき、導いていただいています。そして、この「」との愛の交わりが神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。それで、「」との愛の交わりに生きることは、神のかたちとして造られている人の本来のあり方です。
 このことにも、より大切な面があります。それは、ヨハネの手紙第一・4章16節に、

 神は愛です。

と記されているように、神さまの本質的な特質が愛であるということです。それで、神さまの栄光も愛に満ちた栄光です。私たちは、神である「」によって、ご自身との愛の交わりと隣人との愛の交わりに生きるように支えていただき、導いていただくことによって、神さまご自身をより深く、またより親しく知るものとしていていただきます。同じヨハネの手紙第一・4章の7節ー8節に、

 愛する者たち。
 私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、
 神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。
 神は愛だからです。

と記されているとおりです。
 しかし、それだけではありません。私たちは、神である「」によって、ご自身との愛の交わりと隣人との愛の交わりに生きるように支えていただき、導いていただくことによって、神さまが愛であられることを、身をもって映し出すようになります。存在と生き方をもって神さまの愛に満ちた栄光を現すようになるのです。このことが、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。
 神さまは天地創造の御業の第七日をご自身の安息の「日」として祝福し聖別されました。そしてこの第七日は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史が造られる時となっています。
 神さまは神のかたちとして造られている人にご自身の一方的な愛と恵みをお注ぎになって、人がご自身との愛の交わりに生きるようになること、そして、ご自身をより深く、より親しく知るようになることをお喜びになり、充足されます。
 「」がご自身の民を回復してくださって、ご自身の喜びとしてくださることを預言的に示しているみことばをいくつか引用してみましょう。
 イザヤ書62章4節ー5節には、

 あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、
 あなたの土地は
 「荒れ果てている」とは言われない。
 かえって、あなたは
 「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、
 あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。
 それは、の喜びがあなたにあり、
 あなたの国が夫を得るからである。
 若い男が若い女の夫となるように、
 あなたの息子たちはあなたの夫となる。
 花婿が花嫁を喜ぶように、
 あなたの神はあなたを喜ぶ。

と記されています。
 イザヤ書65章17節ー19節には、

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
 先のことは思い出されず、心に上ることもない。
 だから、わたしが創造するものを、
 いついつまでも楽しみ喜べ。
 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
 その民を楽しみとする。
 わたしはエルサレムを喜び、
 わたしの民を楽しむ。

と記されています。
 エレミヤ書32章39節ー41節には、

わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。

と記されています。
 ゼパニヤ書3章16節ー17節には、

 その日、エルサレムは次のように言われる。
 「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。
 あなたの神、は、あなたのただ中にあって
 救いの勇士だ。
 主はあなたのことを大いに喜び、
 その愛によってあなたに安らぎを与え、
 高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

と記されています。
 このことと関連していますが、契約の神である「」は神のかたちとして造られている人に、創造の御業とともにお与えになった契約(創造の契約)に基づく豊かな祝福を与えてくださいましたが、その契約において、さらに豊かな祝福を与えてくださることを約束してくださっています。それについては、すでに、ある程度お話ししていますが、さらに日を改めてお話しします。


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