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説教日:2020年10月25日 |
そして、神さまのみことばは、このように、御子がご自身がお造りになった、この歴史的な世界のすべてのものを真実に支配し、保ち、導いてくださっているのは、神である「主」の契約によっているということを示しています。すでにお話ししていることですので詳しい説明は省きますが、そのことは、エレミヤ書33章20節ー22節と25節ー26節に記されているみことばから知ることができます。後の方の25節ー26節には、 主はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」 と記されています。 このように、神である「主」は、すべてのものをご自身の契約のうちあるものとして造り出してくださいました。そして、お造りになった一つ一つのものを、それぞれの特質にしたがって、真実に保ち、支え、導いてくださっています。この「主」は、ご自身の契約に対して真実であられ、契約に示されているすべてのことを守られ、約束してくださったことを必ず実現してくださる契約の神です。 これを三位一体の神さまのお働きに添って言うと、このように、ご自身がお造りになったすべてのものを、それぞれの特質にしたがって、真実に保ち、支え、導いてくださっているのは御子のお働きによることです。その意味で、契約の神である「主」は、基本的に、御子のことです。 ここで、契約の神である「主」は「基本的に」御子のことであるというのは、造られたすべてのものは、また、父なる神さまが御子をとおして、御子によって、御子にあって、お造りになったものですし、父なる神さまが御子をとおして、御子によって、御子にあって、真実に支えてくださっているものです。その意味では、父なる神さまが契約の神である「主」であられる、と言うこともできるからです。そうではあっても、やはり、直接的に、創造の御業を遂行され、お造りになったすべてのものに、直接的にかかわってくださっているのは、御子です。 また、契約の神である「主」は、ご自身がお造りになったすべてのもの一つ一つを、それぞれの特質にしたがって、真実に保ち、支え、導いてくださっています。それで、「主」と「主」がお造りになった一つ一つのものとの契約関係のあり方は、造られたそれぞれのものの特質にしたがって違っています。 たとえば、天体などの物質的なものや、物質を構成する素粒子などの場合には、「主」がその特質にしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっているので、私たちはそのことから物理的な法則を汲み取ることができます。また、「主」が地に芽生えさせてくださったさまざまな植物であれば、「主」がその特質にしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっているので、それらは生長し、多種多様な花を咲かせ、実をならせます。同じように、生き物たちは、「主」がその特質にしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっているので、それらは、それぞれの種類にしたがって、いのちの営みをし、成長して、増え広がります。 これらすべてのものが、神である「主」との契約関係にあって、存在しています。この場合、「主」に造られたすべてのものが「主」との契約関係にあるということは、契約の神であられる「主」が、造られたすべてのものの一つ一つのものとともにいてくださるということを意味しています。 私たちは被造物としての限界の中にあるので、同時に、他の場所にあるものに触れることはできません。しかし、存在において無限の神さまは、今この時にも、お造りになったすべてのものとともにおられて、その一つ一つのものを真実に支え、導いてくださっています。 「主」がともにいてくださるということは、「主」がそこにご臨在してくださるということです。そして、その「主」の御臨在は「主」の契約に基づくことです。 それで、「主」がお造りになったものがこの世界(大宇宙)のどこにあっても、「主」は、それがある所にご臨在してくださって、それを、その性質にしたがって、真実に支え、導いてくださっています。その意味で、「主」はこのこの世界(大宇宙)のどこにおいてもご臨在しておられます。 イザヤ書66章1節ー2節前半には、 主はこう言われる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 あなたがたがわたしのために建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしの安息の場は、 いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造った。 それで、これらすべては存在するのだ。 と記されています。 ここで「主」は、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 と言っておられます。ここには「天」と「地」の組み合せがあります。これによって、「主」がお造りになったすべてのもの、今日のことばで言えば「宇宙」が示されています。そして、「王座」と「足台」の組み合せは、そこに「主」が万物の支配者として座しておられることを示しています。このことから、「主」が、造られたすべてのものの一つ一つのものとともにご臨在してくださって、契約の主として、一つ一つのもの真実に支え、導いてくださっているということを汲み取ることができます。 また、エレミヤ書23章24節にも、 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 ――主のことば。 と記されています。 「主」が、お造りになった一つ一つのものとともにご臨在してくださって、それらを真実に支え、導いてくださっているのは、ただそれらがそこに存在するようになるためのことではありません。「主」はそれによって、それら一つ一つのものが、それをお造りになった神である「主」の栄光を映し出すようにしてくださっているのです。 とはいえ、これらすべてのものは、神である「主」を知りませんし、「主」が自分たちをお造りになって、真実に支え、導いてくださって、ご自身の栄光を映し出すようにしてくださっていることを知りません。それを知っているのは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。それで、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦され、御子イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれて、神の子どもとしていただいている私たちは、詩篇19篇1節に記されているように、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と告白して、いっさいの栄光を神である「主」に帰しています。 これは、前回取り上げた、詩篇8篇3節ー5節に、 あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。 あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたが顧みてくださるとは。 あなたは人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているみことばとかかわらせて見ることができます。 ここで詩人は、「主」がお造りになった「天」を見上げて、おのれの存在の小ささを実感しています。同時に、その小さく取るに足りない人に、「主」が「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださり、「主」の「御手のわざを人に治めさせ」、 万物を彼の足の下に置かれました。 という驚くべきことを感謝とともに告白しています。 このようにして、創造の御業において神のかたちとして造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、詩篇19篇1節では、同じ「天」を見上げて、そこに神さまの栄光が現されていることを察知して、神さまをほめ讃えています。これは、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命の一端を果たしていることに他なりません。 そうであっても、神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことの中心には、神である「主」の契約に基づく、「主」との愛の交わりに生きることがあります。言うまでもなく、この「主」との愛にあるいのちの交わりの核心には、「主」を神として礼拝して、いっさいの栄光を「主」に帰することがあります。 人は、創造の御業において愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られています。神である「主」は、その一方的な愛と恵みによって、人を、初めから、ご自身を知っているもの、ご自身との契約のうちにあるものとしてとしてお造りになりました。それで、人は、造られたその時から、ご自身の契約に基づいて、ともにご臨在してくださっている神である「主」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになりました。 それで、神のかたちとして造られている人と神である「主」との愛にあるいのちの交わりは、「主」の契約に基づく交わりです。 これが「主」の契約に基づく交わりであるということには、いくつかの意味があります。 第一に、今お話ししたように、「主」が一方的な愛と恵みによって、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、初めから、ご自身を知っているもの、ご自身との契約のうちにあるものとしてお造りになったということを意味しています。 第二に、「主」が、初めから、ご自身の契約に基づいて、人とともにあるように、御霊によってご臨在してくださっていたということを意味しています。 そして、第三に、「主」が、初めから、人が神のかたちの本質的な特質である愛に生きるように、具体的には、「主」ご自身との愛の交わりに、また、同じく神のかたちとして造られている隣人との愛の交わりに生きるように、御霊によって支え、導いてくださっていたということを意味しています。 人は、このすべてにおいて、神である「主」の一方的な愛と恵みにあずかっているのです。それによって、人は「主」との愛の交わりに生きるようにと支えていただき、導いていただいています。そして、この「主」との愛の交わりが神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。それで、「主」との愛の交わりに生きることは、神のかたちとして造られている人の本来のあり方です。 このことにも、より大切な面があります。それは、ヨハネの手紙第一・4章16節に、 神は愛です。 と記されているように、神さまの本質的な特質が愛であるということです。それで、神さまの栄光も愛に満ちた栄光です。私たちは、神である「主」によって、ご自身との愛の交わりと隣人との愛の交わりに生きるように支えていただき、導いていただくことによって、神さまご自身をより深く、またより親しく知るものとしていていただきます。同じヨハネの手紙第一・4章の7節ー8節に、 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 愛は神から出ているのです。 愛がある者はみな神から生まれ、 神を知っています。 愛のない者は神を知りません。 神は愛だからです。 と記されているとおりです。 しかし、それだけではありません。私たちは、神である「主」によって、ご自身との愛の交わりと隣人との愛の交わりに生きるように支えていただき、導いていただくことによって、神さまが愛であられることを、身をもって映し出すようになります。存在と生き方をもって神さまの愛に満ちた栄光を現すようになるのです。このことが、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。 神さまは天地創造の御業の第七日をご自身の安息の「日」として祝福し聖別されました。そしてこの第七日は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史が造られる時となっています。 神さまは神のかたちとして造られている人にご自身の一方的な愛と恵みをお注ぎになって、人がご自身との愛の交わりに生きるようになること、そして、ご自身をより深く、より親しく知るようになることをお喜びになり、充足されます。 「主」がご自身の民を回復してくださって、ご自身の喜びとしてくださることを預言的に示しているみことばをいくつか引用してみましょう。 イザヤ書62章4節ー5節には、 あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、 あなたの土地は 「荒れ果てている」とは言われない。 かえって、あなたは 「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、 あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。 それは、主の喜びがあなたにあり、 あなたの国が夫を得るからである。 若い男が若い女の夫となるように、 あなたの息子たちはあなたの夫となる。 花婿が花嫁を喜ぶように、 あなたの神はあなたを喜ぶ。 と記されています。 イザヤ書65章17節ー19節には、 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 先のことは思い出されず、心に上ることもない。 だから、わたしが創造するものを、 いついつまでも楽しみ喜べ。 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、 その民を楽しみとする。 わたしはエルサレムを喜び、 わたしの民を楽しむ。 と記されています。 エレミヤ書32章39節ー41節には、 わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。 と記されています。 ゼパニヤ書3章16節ー17節には、 その日、エルサレムは次のように言われる。 「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。 あなたの神、主は、あなたのただ中にあって 救いの勇士だ。 主はあなたのことを大いに喜び、 その愛によってあなたに安らぎを与え、 高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。 と記されています。 このことと関連していますが、契約の神である「主」は神のかたちとして造られている人に、創造の御業とともにお与えになった契約(創造の契約)に基づく豊かな祝福を与えてくださいましたが、その契約において、さらに豊かな祝福を与えてくださることを約束してくださっています。それについては、すでに、ある程度お話ししていますが、さらに日を改めてお話しします。 |
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