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説教日:2020年11月1日 |
神さまは創造の御業においてこのことを実現してくださいました。 創世記2章7節には、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されています。 ここに出てくる神さまの御名は「神である主」(ヤハウェ・エローヒーム)です。これは、2章4節ー3章24節に記されている、「主」(ヤハウェ)は、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業を遂行された「神」(エローヒーム)であるということを示している御名です。より具体的には、この地にご臨在してくださり、愛をもって人と親しく交わってくださり、人がご自身に対して罪を犯して堕落してしまった後にも、「最初の福音」によって、霊的な戦いにおいて「女の子孫」が「主」の側に立って、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行することにおいて、「主」の民として回復されることを約束してくださった「主」は、天と地を創造され、特に、人を神のかたちとしてお造りになり、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださった「神」であるということです。 この「主」(ヤハウェ)という御名は、神さまが契約の主であられることを意味しています。「主」はご自身の契約に基づいて、ご自身がお造りになったこの世界(宇宙)に、特に、この地と神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださいます。 ここ2章7節に記されているように、神である「主」はこの地にご臨在してくださり、人と向き合うようにして、人を形造られ、「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。人は造られた時、すでに、そこにご臨在してくださっている神である「主」の御前にあり、造られたその時から、「主」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになりました。 また、続く8節に、 神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。 と記されているように、「主」はご自身がご臨在される所として聖別され、ご自身の御臨在に伴う豊かさに満ちたエデンの園を設けて、そこに人を置かれました。そして、15節に、 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。 と記されているように、人は「主」がご臨在されるエデンの園において、1章27節ー28節に、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 と記されている、歴史と文化を造る使命を果たしていました。 2章15節で、人がエデンの園を耕していたことが記されていますが、それは歴史と文化を造る使命において、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。 と言われたことに相当することです。 2章18節ー25節に記されているように、神である「主」は「人のために、ふさわしい助け手を」造ってくださいました。 そのために、まず、ご自身がお造りになっていた「あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥」を人のところに連れて来られました。人はその一つ一つに名をつけました。聖書において「名」はそのものの本質や特質を表わしています。また、名をつけることは権威を発揮することです。人は、それぞれの生き物をいつくしみつつ、親しく接することによって、それぞれの本質や特質を知り、それを表す名をつけました。それはまた、それぞれの生き物との関係を築くことでもありました。これが歴史と文化を造る使命において、 海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。 と言われている使命を果たすことの出発点になっています。 人がどれほど多くの生き物たちにいつくしみを注いで、親しい関係を築いても、そこには、「ふさわしい助け手」はいませんでした。生き物たちとの関係がどんなに親密なものであっても、そこには、人格的な愛の交わりはなかったのです。そのことを明らかにされた後、21節に記されているように、 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。 のです。人は人格的な愛において交わることができる相手を与えられました。それによって、人は初めて、愛において充足することができたのです。 先主日お話ししたとおり、人がその本質的な特質である愛を現すことができるのは御霊のお働きによることです。 このことは、先ほど引用した、ヨハネの福音書1章1節ー2節に記されている、三位一体の神さまの御父と御子の間に御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあることを、被造物の次元において映し出すことです。 それと同時に、人が神である「主」が連れて来られた「女」に名をつけたことは権威の発揮でもあります。このことは、人の権威が、愛において発揮されるものであることを意味しています。また、このことは、人とその妻の関係が、主権者である「主」とその民の関係を映し出すものであることをも意味しています。このことに基づいて、聖書は契約の神である「主」とその契約の民の関係を表すために、人とその妻の関係を用いています。 このようにして、人とその妻は心を合わせて、豊かに潤っているエデンの園に生えてくる多様な植物が入り乱れないように、整理し、それぞれの手入れをし、多くの実を結ぶようにすることによって、多くの生き物たちの食べ物がもたらされるようになり、より多くの生き物たちが生まれて育つようになります。人とその妻は神さまから委ねられたこれらのものをいつくしんで、そのために労することができました。これが、人とその妻が歴史と文化を造る使命を果たしていることの現れです。 大切なことは、このことにおいて人とその妻は、自分たちが接するこれらのものをいつくしみをもってお造りになり、それぞれの特質を生かしつつ支えてくださっている神である「主」の御臨在に触れるようになるということです。それによって、人とその妻はエデンの園にご臨在しておられる「主」と「主」の愛といつくしみを身近に感じ取ることができました。また、それによって、いっさいの栄光を「主」に帰して、心を合わせて「主」を愛して、神として礼拝することができました。 このようにして、いっさいの栄光を「主」に帰して、「主」を愛して、神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きることことが、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。 そして、神さまが創造の御業において、ご自身の安息の時として祝福して聖別してくださった創造の御業の第七日が、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たす時、言わば、歴史的な舞台となっています。 人は創造の御業の第七日において、絶えず、愛をもって自分たちの間にご臨在してくださっている神である「主」の御許にあることを覚えて生きることができました。普段は、「主」から委ねられた植物や生き物たちのお世話をしながら、それらのものを含めて、自分たちをはぐくみ育ててくださっている「主」の御臨在を感じていたのですが、時に応じて、神である「主」がエデンの園の中央に生えさせてくださった「いのちの木」が表示している、そこにご臨在しておられる「主」との、直接的な、愛の交わりの祝福にあずかっていたと考えられます。先ほどお話ししたように、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、「主」との愛にある交わりにあります。それで、「いのちの木」は目で見ることができない「主」との愛にある交わりを表示し、保証していたと考えられます。 人はこのような神である「主」との愛にある交わりに生きることによって、「主」をより深く、より親しく知るようになり、神のかたちとして成長し、成熟していったと考えられます。そして、神さまが創造の御業において、創造の御業の第七日をご自身の安息の時として祝福して聖別してくださったことは、人をご自身とのより豊かな愛の交わりに生きるようにしてくださるためのことであったと考えられます。 しかし、神さまが創造の御業において、創造の御業の第七日をご自身の安息の時として祝福して聖別してくださったことには、それだけでなく、さらに豊かな意味がありました。 それは、神さまが人を、創造の御業において神のかたちとして造られた時の状態より、さらに一段と高く豊かな栄光の状態に造り変えてくださって、その一段と高く豊かな栄光において、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださることでした。人がその一段と高く豊かな栄光において、神である「主」との愛にある交わりに生きることが永遠のいのちの本質です。 そして、人がその一段と高く豊かな栄光において、神である「主」との愛にある交わりに生きるようになる時に、神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の時として祝福して聖別してくださったことに示されているみこころは最終的に実現し、神さまの安息はまったきものとなります。 神さまが創造の御業においてご自身の安息の時として祝福して聖別してくださった創造の御業の第七日は、まだ閉じてはいません。神さまがこの第七日を閉じる時が「終わりの日」となります。もちろん、それは、創造の御業とともに始まった歴史の終わりであり、それで、すべてが終ってしまうわけではありません。 神さまのみことばである聖書は、神さまが創造の御業とともに与えられた創造の契約において、人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいてみこころに従いとおしたときに、そのことに対する報いとして、人を創造の御業において神のかたちとして造られた時の状態より、さらに一段と高く豊かな栄光の状態に造り変えてくださり、神である「主」とのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きるようにしてくださることをご自身の契約において約束してくださっていることを示しています。そして、そのために、創造の御業によって造られた世界を「主」のより豊かな栄光にある御臨在にふさわしい天と地、すなわち、新しい天と新しい地に造り変えてくださること約束してくださっていることを示しています。 この「主」の契約は「創造の契約」です。すでにお話ししたように、創造の契約は、神である「主」がお造りになったすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ、真実に支えてくださることを約束し、保証してくださるものですが、さらに、今お話しした、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人をより豊かな栄光の状態にしてくださることを中心として、「天と地」すなわち造られたすべてのものをより豊かな栄光の状態にしてくださることを約束してくださっているものです。この創造の契約は、一般には「わざの契約」と呼ばれています。 この神のかたちとして造られた人の栄光化のことは、旧約聖書のみことばからも、ある程度、汲み取ることができるのですが、新約聖書のいくつかの箇所、特に、ローマ人への手紙5章とコリント人への手紙第一・15章から、より明確に汲み取ることができます。 ローマ人への手紙5章12節には、 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に・・・ と記されています。これは「主」の契約に照らして初めて理解できることです。 神さまは人を神のかたちとしての栄光をもつものとしてお造りになりました。人は愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られたものとして、契約の神である「主」のご臨在の御前において、「主」との愛にある交わりのうちに生きるものでした。そして、その「主」のご臨在もご自身の契約に基づくものでしたし、そこにご臨在される「主」との愛にある交わりも「主」の契約に基づくものでした。そのように、この契約の神である「主」のご臨在の御前において、「主」との愛にある交わりのうちに生きることは、神さまが創造の御業とともにすべての造られたものと結んでくださった創造の契約の祝福でした。 神さまは最初の人アダムを契約のかしらとして、人類をご自身との契約に入れてくださいました。 最初の人アダムは神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たす歩みの中で、神である「主」を愛して、神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりのうちに生きるように召されていました。 創造の契約の祝福は、「主」との愛にある交わりのうちに生きることにありますが、それだけでなく、さらにそれを越えています。それは、もしアダムが神である「主」を礼拝することを中心として歴史と文化を造る使命を果たす歩みの中で、神である「主」を愛し、そのみこころに従い通したなら、「主」がそのことへの報いとして、最初に神のかたちとして造られたときの栄光より、さらに豊かな栄光の状態に入れてくださり、そのより豊かな栄光において神である「主」との愛の交わり、すなわち、永遠のいのちに生きる者としてくださるということです。 けれども、実際には、最初の人アダムは、神である「主」に対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。アダムは創造の契約の違反者となってしまいました。その結果、アダムは死の力に捕らえられてしまいました。 それは、アダム個人のことで終らないで、契約のかしらであるアダムと一体にあるすべての人、すなわち全人類のあり方を決定しています。先ほど引用したローマ人への手紙5章12節に、 一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった と記されているように、すべての人はアダムにあって、アダムとの一体において罪を犯し、死の力に捕らえられてしまっています。 同じことは、コリント人への手紙第一・15章22節にも、 アダムにあってすべての人が死んでいる と記されています。 これが、最初の人にして、人類の契約のかしらであるアダムとアダムにある人類の現状です。すべての人は、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られ、神である「主」との愛の交わりに生きるものとして造られています。そして、「主」を愛して、神として礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を委ねられています。しかし、実際には、アダムにあって神である「主」の御前に堕落してしまった人類は「主」を愛することも、礼拝することもなくなり、神である「主」を中心とした歴史と文化を造ることもなくなってしまいました。そのことが、ローマ人への手紙1章21節ー23節に、 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。 と記されています。 これに対して、神さまは「最初の福音」において約束してくださっていた「女の子孫」のかしらとして、ご自身の御子をお遣わしになりました。この「最初の福音」は、人類がアダムにあって堕落した直後に、神である「主」が一方的な愛と恵みによって与えてくださった約束です。この「最初の福音」を初めとして、神である「主」が一方的な愛と恵みによって与えてくださったご自身の民の救いにかかわる一連の契約が「救済の契約(あるいは贖いの契約)」です。これは、一般には「恵みの契約」と呼ばれています。 御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従って、まことの人の性質を取って来てくださいました。イエス・キリストがお取りになったのは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになったときの人の本来の性質です。イエス・キリストはアダムの子孫としてお生まれになったのではなく、聖霊のお働きによって処女マリヤの胎に宿るという形でお生まれになりました。これによって、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人の本来の性質をもつ方としてお生まれになりました。ガラテヤ人への手紙4章4節に、 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。 と記されているとおりです。 また、そのイエス・キリストは、最初の契約である創造の契約の下にある方、それで、アダムと同じ立場にある方となられました。コリント人への手紙第一・15章45節には、 「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。 と記されています。ここで、イエス・キリストは「最初の人アダム」と対比されて「最後のアダム」と呼ばれています。 このようにして、イエス・キリストは私たちの契約のかしらとなってくださいました。そのイエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従って十字架におかかりになり、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。アダムにあって罪を犯して堕落し、生まれた後も「主」に背いて生きていたという点で創造の契約の違反者となっていた私たちが受けるべき刑罰を私たちに代わって受けてくださったのです。イエス・キリストはそれによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。また、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従われて。私たちの契約のかしらとして義を立ててくださいました。それで、ローマ人への手紙5章18節には、 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ・・・ます。 と記されています。これは法的なことです。 これには実質的な面もあります。イエス・キリストはその完全な従順に対する報いとして、神のかたちとして造られたときの人の栄光より一段と高く、豊かな栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。これは神である「主」が創造の契約において約束してくださっていた祝福です。先ほどは前半だけを引用しましたが、コリント人への手紙第一・15章22節には、 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 と記されています。 私たちは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、契約のかしらである栄光のキリストと一つに結ばれています。先ほど引用したガラテヤ人への手紙4章4節とそれに続く5節ー6節には、 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されています。 私たちは「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導かれて歩む神の子どもとして、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きる者、永遠のいのちに生きる者としていただいています。このことにおいて、創造の御業において、創造の御業の第七日をご自身の安息の時として祝福し聖別してくださった神さまのみこころは、原理的、実質的に、実現しています。 |
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