黙示録講解

(第440回)


説教日:2020年10月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(193)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばに関連するお話を続けます。
 今は、この約束が、すでに、私たちご自身の民の間で、原理的・実質的に、成就しているということを示しているみことばの一つとして、先ほどお読みした、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばを取り上げています。
 これまで4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししてきました。本主日も、それに関連するお話をします。
 ここには「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことが記されています。この父なる神さまの「大きな愛」は、ご自身に対して罪を犯して、「背きの中に死んでいた私たち」を、なおも愛してくださって、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身が無限、永遠、不変の愛をもって愛しておられる御子を、私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださった愛です。
 このことに表わされている父なる神さまの愛は、同じエペソ人への手紙の1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、父なる神さまの永遠からの私たちへの愛から出ています。
 今お話ししているのは、この神さまの永遠からの私たちへの愛は、創造の御業において、すべての造られたもの、特に、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に現され、注がれたこと、そして、このことが、神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことと深く関わっているということです。
 先主日お話ししたように、神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことの最も奥深くにあることは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることにあります。
 ここでは、まず、「ことば」すなわち御子が、永遠に存在される方であり、まことの神であられること、そして、永遠に、「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということが示されています。当然、その父なる神さまと御子の愛は無限、永遠、不変の愛です。父なる神さまと御子の間には、御霊による愛の交わりがあり、神さまはその無限にして永遠の愛の交わりにおいて完全に充足しておられます。
 ここでは、さらに、この父なる神さまとの永遠にして無限の愛の交わりのうちに完全に充足しておられる御子が、万物をお造りになったということ、すなわち、御子が天地創造の御業を遂行されたということが示されています。
 神さまのみことばである聖書は、一貫して、御子が父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業と摂理の御業、そして、特別な摂理の御業としての贖いの御業を遂行されたということを示しています。これは、また、父なる神さまが御子によって、御子をとおして、創造の御業と摂理の御業と贖いの御業を遂行されたということでもあります。そして、神さまはその無限にして永遠の愛の交わりにおいて完全に充足しておられます。
 このことから、天地創造の御業も摂理の御業も贖いの御業も、神さまの無限、永遠、不変の愛から出ており、その愛に基づいて遂行されていることを汲み取ることができます。ですから、神さまの愛はすべての造られたものに注がれているのですが、その愛を受け止めて、愛をもって神さまに応答することができるように造られているのは、人格的な存在である御使いと人ですが、特に、神のかたちとして造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。どうして、特に、神のかたちとして造られている人である、と言うことができるのかと言いますと、御使いたちも神さまの天地創造の御業によって造られた存在です。けれども、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、人が神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられたことが記されていますが、御使いのことにはまったく触れられていないのです。


 特に人が、神さまの愛を受け止めて、愛をもって神さまに応答するものとして造られているということは、詩篇8篇3節ー6節に記されている、

 あなたの指のわざである あなたの天
 あなたが整えられた月や星を見るに
 人とは何ものなのでしょう。
 あなたが心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばから汲み取ることができます。
 詩篇8篇に記されていることについては、かつてお話ししたことがありますが、もう10年近く前のことですので、今お話ししていることと関連することに、いろいろな省略や補足をしながらお話しします。
 5節に出てくる、

 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし

という新改訳2017年版の訳については、さまざまな議論がなされています。第3版までは、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

となっていました。2017年版では、この「」を欄外別訳として示しています。
 これは、ここに出てくる「エローヒーム」ということばをどう理解するかにかかっています。
 この「エローヒーム」ということばは、「エローハ」の複数形です。このことばは、聖書の中では、おもに、唯一の神を表すのに用いられています。創世記1章1節に、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されているときの「」はこのエローヒームで表されています。その場合の複数形は「尊厳の複数形」と呼ばれるもので、これにかかる動詞は単数形です。これとともに、このことばが異教の「神々」を表す場合もあります。その場合には、これにかかる動詞も複数形です。さらに、このことばは、天的な存在、実質的には、「御使いたち」を表す場合もあります。
 ヘブル語聖書のギリシア語訳である七十人訳では「御使いたち」となっています。そして、詩篇8篇のこの部分を引用しているヘブル人への手紙2章7節も、七十人訳の訳を採用しています。ただ、これには理由があると考えられます。ヘブル人への手紙では1章において、御子が御使いたちに優る方であることが論じられているので、そして、それが2章でも踏まえられているので、2章7節でも御使いたちが出てくる七十人訳の訳の方を採用していると考えられます。
 ここには、ヘブル語には御使いを表すことば(マルアーク)があるのに、どうして、詩篇8篇ではそれを用いないで、聖書では、通常、神を表わすエローヒームを用いているのだろうかという問題があります。
 また、これが創世記1章26節ー28節に記されている、神さま(エローヒーム)が創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、その人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れているということからは、この詩篇8篇5節に出てくる「エローヒーム」は「神」を表わしていると考えられます。
 さらに、先ほど触れたように、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、御使いのことには触れられていません。また、それで、創造の御業の記事からは、ある人々が1章26節に出てくる「われわれのかたちとして、われわれの似姿に」という神さまのみことばの「われわれ」は御使いたちも含まれているという理解に基づいて主張しているのですが、人は神と御使いのかたちとして造られているということを汲み取ることはできません。
 その一方で、ここで、人が「神よりいくらか劣るもの」として造られていると言われていとすることに対する疑問もあります。先主日にも触れましたが、造り主である神さまと神さまによって造られたものとの間には「絶対的な区別」があります。そして、それが神さまの聖さの本質です。それで、人が「神よりいくらか劣るもの」として造られているとすることは、神さまと人との「絶対的な区別」を曖昧なものとしてしまうと考えられるのです。
 ただ、この問題は、詩篇8篇に記されていることに則して理解する必要があります。
 確かに、詩篇8篇では1節で、

 よ 私たちの主よ
 あなたの御名は全地にわたり
 なんと力に満ちていることでしょう。
 あなたのご威光は天でたたえられています。

と言われており、3節ー4節で、

 あなたの指のわざである あなたの天
 あなたが整えられた月や星を見るに
 人とは何ものなのでしょう。
 あなたが心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。

と言われていて、神さまの偉大さが讚えられる一方で、人の存在の小ささが強調されています。
 しかし、詩篇8篇では、神さまの偉大さと人の小ささが対比されていますが、同時に、4節に、

 人とは何ものなのでしょう。
 あなたが心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。

と記されているように神さまがその小さな人を顧みてくださっていることが、驚きとともに告白されています。そして、5節に、

 あなたは 人を御使い/神より
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。

と記されているように、神さまはその小さな人に「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださり、6節に記されているように、

 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と告白されています。いわば、神のかたちとして造られている人は、なんと、神さまの創造の御業を受け継ぐものであるという驚きと感謝です。
 このように見ますと、この、

 あなたは 人を神より
 わずかに欠けがあるものとし

ということばは、被造物の限界の中でのことではありますが、神のかたちとして造られた人が造り主である神さまに「この上なく近づけられていること」への驚きと感謝を示していると考えられます。それで、この「神よりわずかに欠けがある」ということばは、神学的に厳密に考えなければならない神さまと人との「絶対的な区別」を無視しているというより、人が造り主である神さまに「この上なく近づけられていること」への驚きと感謝をを表わす詩的な表現で、詩的な「誇張法」に当たるものであると考えられます。
 先主日も、これに当たるようなことをお話ししました。先主日にお話ししたことを、そのまま引用しますと、
 アウグスティヌスの『告白』のことばに沿って言いますと、私たちが御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、御子イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれた神の子どもとしての栄光にあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになって初めて、父なる神さまの安息はまったきものとなる、と言うことができます。
 どうして、そのような大胆なことを、考えようによっては、神さまの聖さを冒す不遜なこととも思われることを言うことができるのでしょうか。それは、やはり、父なる神さまが永遠から、それほどまでに私たちを愛してくださっているからです。また、そのことを実現してくださるために、ご自身が無限、永遠、不変の愛をもって愛しておられる御子イエス・キリストをも、私たちの罪のための宥めのささげもととして、遣わしてくださったほどに、私たちを愛してくださっているからです。
ということです。
 詩篇8篇では、神さまが創造の御業において、人を愛してくださって「この上なくご自身に近づけてくださったこと」への驚きと感謝が告白されているとすれば、エペソ人への手紙2章3節ー5節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されているみことばにおいては、小さな存在でありながらも、そのように神さまの豊かな愛にあずかっていたにもかかわらず、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった私たちを、なおも、愛してくださった神さまの「大きな愛」への驚きと感謝が告白されているということになります。

 このように、詩篇8篇3節ー6節では、神さまが創造の御業において、人を愛してくださって「この上なくご自身に近づけてくださったこと」への驚きと感謝が告白されているのですが、それが、霊的な戦いとかかわっていることも示されています。
 そのことは、この3節ー6節に記されていることに先立って、1節ー2節に記されていることから汲み取ることができます。
 順次それを見ていきますと、1節には、

 よ 私たちの主よ
 あなたの御名は全地にわたり
 なんと力に満ちていることでしょう。
 あなたのご威光は天でたたえられています。

と記されています。
 ここでは契約の神である「」ヤハウェが讃えられています。しかも、1節の冒頭においては、

 よ 私たちの主よ

と呼びかけています。これは契約の神である「」が「私たちの主」、すなわち、私たちを主権的に治めてくださる方であるということを告白することでもあります。
 そして、その「」ヤハウェという御名が「全地にわたり」と言われています。これは、「」がご自身の御名を「全地に」置かれたことを意味しています。それで、「全地」はこの「」の御名のうちに保たれ、導かれています。そして、「」がその御名を置かれる所には、「」がご臨在されて、ご自身が「」であられることを、創造の御業と摂理の御業、特に、贖いの御業において、現してくださいます。

 なんと力に満ちていることでしょう。

と言われているときの「力に満ちている」と訳されていることば(アッデール・形容詞)は、威厳のあることを表していますが、そこに力強さや権威が伴っていて、それに触れる者たちが、恐れ敬い、従うという意味合いがあります。これによって、「」はご自身の御名を置かれた「全地」において、ご自身の御業を遂行され、必ず、ご自身の契約において示されたみこころを実現してくださるということが示されています。
 これに続いて、

 あなたのご威光は天でたたえられています。

と記されています。
 ここでは「」におけることが記されています。
 「ご威光」と訳されていることば(ホード)は、基本的に「威光」を意味していますが、やはり、強い力や権威が伴っているという意味合いがあります。
 また、全体としては、「全地にわたり」ということと「天で」ということが組み合わさって、「」がお造りになったこの世界のすべてのものを表わしています。そして、「」の主権的な御力と「ご威光」がこの世界のすべてのものに行き渡っていることを示しています。契約の神である「」は、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのもの、すべてのことを主権的な御力と「ご威光」をもって治めておられ、ご自身の契約において示されたみこころをすべて実現されます。
 これに続いて、2節には、

 幼子たち乳飲み子たちの口を通して
 あなたは御力を打ち立てられました。
 あなたに敵対する者に応えるため
 復讐する敵を鎮めるために。

と記されています。
 ここでは、1節で讃えられている「」の主権的な御力と「ご威光」が、思いもよらない不思議な形で現されているということが告白されています。
 ここでは、まず、「幼子たち 乳飲み子たち」のことが取り上げられています。
 「幼子たち」と訳されたことば(オーラール)は、旧約聖書に20回用いられていて、「幼子たち」が祝福された状態にあることを示すときに用いられることが例外的にいくつかありますが、おもには、「幼子たち」が戦いや飢饉などの災いの犠牲になっていることを表わすときに用いられています。しかも、それらの災いの原因は、人々が犯した罪にあります。
 また、「乳飲み子たち」ということば(ヨーネーク)は旧約聖書に11回用いられていて、おもに、災いの犠牲になっていることで出てきます。
 この詩篇8篇では「」に「敵対する者」や「復讐する敵」たちのことが出てきます。それで、ここでも「幼子たち 乳飲み子たち」が「」に「敵対する者」や「復讐する敵」たちによってもたらされる災いの犠牲となっているという意味合いがあると考えられます。
 ここで「あなたに敵対する者」と言われている人々は、「」に「敵対する者」たちです。彼らは、「」の契約に示されているみこころの実現を阻止しようとして働いています。
 それと対になっている「復讐する敵」と言われている人々[「復讐する敵」は、文字通りには、第3版の「敵と復讐する者」です。2017年版はこれを二つのことばで一つのことを表す二詞一意として理解しています]は、「」の契約の民に敵対する者たちのことであると考えられます。というのは、確かに、「」に逆らって、「」のみこころの実現を阻止しようとして働いて「」に「敵対する者」たちはいますが、「」に「復讐する」者たちがいるということは考えにくいことだからです。
 それで、ここでは、「」に「敵対する者」たちと、「」の民に「復讐する敵」たちの組み合せがあることになります。そのどちらも、突き詰めていくと、「」に敵対していることになります。
 1節で「」が「全地」においてだけでなく、「」においてご威光を示しておられると言われていることから、ここで取り上げられている、「」に敵対し、「」の民に敵対している者たちには、エペソ人への手紙6章12節で、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われている「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」たちが含まれていると考えられます。
 また、この「幼子たち 乳飲み子たち」は、自分の力では自分を守ることもできない存在であることを示しています。その意味で、「幼子たち 乳飲み子たち」は、文字通りの「幼子たち 乳飲み子たち」でありつつ、彼らによって代表的に示されている、ひたすら「」の恵みとあわれみにすがるほかはない、私たち「」の契約の民のことでもあります。
 ここでは、契約の神である「」が、このような「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して」「御力を打ち立てられ」たと言われています。「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して」ということばは、自分の力では自分を守ることもできない存在である「幼子たち 乳飲み子たち」が、この罪に満ちた世界において起こるさまざまな災いの犠牲者となってしまう状況で、泣き叫んでいる様子を思わせます。
 このような状況での唯一の確かな希望は、「全地」においても「」においても、ご自身のみこころに従って御業をなし、栄光を現される、「」がその声を聞いてくださっているということです。「」は「幼子たち 乳飲み子たち」の声をお聞きになって、ご自身に「敵対する者[たち]に応え」、ご自身の民に「復讐する敵」を鎮められます。ルカの福音書18章7節ー8節には、

まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。

というイエス・キリストの教えが記されています。「」は「幼子たち 乳飲み子たち」の叫びをお聞きになって、ご自身に敵対している者たちを鎮められ、ご自身の契約に示されたみこころを実現し、霊的な戦いにおいて勝利されます。
 先にお話ししました、これに続く3節ー6節に、

 あなたの指のわざである あなたの天
 あなたが整えられた月や星を見るに
 人とは何ものなのでしょう。
 あなたが心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることは、このように、堕落後の世界において、人の罪がもたらす災いの犠牲となっている「幼子たち 乳飲み子たち」に御目を止めてくださっている「」ヤハウェは、創造の御業の初めから、小さな存在である人を顧みてくださって、神のかたちとしての「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださっている方であるということが告白されているのです。


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