黙示録講解

(第439回)


説教日:2020年10月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(192)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 今は、この約束が、すでに、私たちご自身の民の間で、原理的・実質的に、成就しているということを示しているみことばの一つとして、先ほどお読みした、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばを取り上げて、お話ししています。
 これまで4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししてきました。本主日も、それに関連するお話をします。
 ここに記されているように、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださいました。この父なる神さまの「大きな愛」は「背きの中に死んでいた私たち」、ご自身に背を向けていた私たちを、なおも、愛してくださって、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子を、私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださった愛です。
 このことに表わされている父なる神さまの愛は、同じエペソ人への手紙の1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、父なる神さまの永遠からの私たちへの愛から出ています。
 そして、この神さまの永遠からの私たちへの愛は、創造の御業において、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に現され、注がれました。このことは、神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことと深く関わっています。
 神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことの最も奥深くにあることは、繰り返し取り上げているヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることにあります。
 1節の冒頭で、

 初めにことばがあった。

と言われていることは、天地創造の御業の「初めに」において、「ことば」が継続して「あった」ということを示しています。これは、「ことば」は永遠に存在しておられる方であるということを意味しています。それで、1節の最後では、

 ことばは神であった。

と言われています。
 また、1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることは「ことば」すなわち御子が、「」すなわち父なる神さまと区別される方であることを示しています。
 さらに、この、

 ことばは神とともにあった。

というみことばと、2節の、

 この方は、初めに神とともにおられた。

というみことばに出てくる「神とともに」(プロス・トン・セオン)ということばは、「ことば」が「」の方を向いていているという意味合いを伝えています。このことは、「ことば」すなわち御子は「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということを示しています。
 この「神とともに」ということばに基づいて、「ことば」すなわち御子は「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられると言うことはできないという主張もあります。しかし、1章1節ー18節はヨハネの福音書の序論に当たりますが、その序論の結びである18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。ここでは御子が父なる神さまの愛の「ふところ」におられると言われていていて、御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが、より明確に示されています。
 2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていることは、御子が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということ示しています。御子が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということは、1節で、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。

と言われていることから、十分、汲み取ることができます。しかし、2節で、改めて、そのことを述べることによって、御子が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということを強調しています。
 このように、1節で、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。

と言われており、2節で、改めて、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていることは、御子が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということを強調しています。
 言うまでもなく、このことは、父なる神さまも、永遠に、御子との愛の交わりのうちにおられるということを意味しています。確かに、神さまはご自身において無限に豊かな方であり、愛においても、永遠に、完全な充足のうちにおられます。
 もし、神が一位一体の神であったとしたら、無限に豊かで永遠の人格は一つしかなく、その神には、無限に豊かで永遠の愛にある交わりはないということになります。神には無限に豊かで永遠の愛という「性質」はあっても、それは決して十分に表現できないということになります。というのは、無限に豊かで永遠の愛を完全に受け止めることができるのは、無限にして永遠の人格だけだからです。
 しかし、実際には、アウグスティヌス的に言いますと、御父と御子の間には、御霊によって、無限に豊かな、永遠の愛の交わりがあります。神さまは愛において、永遠に、完全な充足のうちにおられます。
 そうではあっても、ここ1節ー2節では、御子が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということが強調されています。それはには理由があります。それは、このことが、3節に、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることへとつながっているからです。
 ここでは、「この方」すなわち御子が天地創造の御業を遂行された方であることを示しています。このことを、その前の1節ー2節に記されていることとのつながりで見ると、これは、永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる御子が、天地創造の御業を遂行されたということを示しています。
 聖書のみことばをより広く見ますと、みことばは、一貫して、御子が父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業を遂行されたということを示しています。そのことから、天地創造の御業は、父なる神さまが、御子によって、お造りになったものに、ご自身の愛を注がれた御業である、ということを汲み取ることができます。
 永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる御子が、天地創造の御業を遂行されたということには意味があります。
 それは、三位一体の神さまが創造の御業を遂行されたとき、また、創造の御業を受けて、お造りになったすべてのものを支え、導いてくださる摂理の御業を遂行されるとき、そして、人が神である「」に対して罪を犯して堕落してしまった後に、特別な摂理の御業としての贖いの御業を遂行されるときに、人になぞらえて言うのですが、御父、御子、御霊の間で「役割分担」がなされているからです。
 父なる神さまは、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまを代表する立場に立っておられます。そして、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方です。このことが、神さまの聖さの本質です。あらゆる点において限界がある被造物は、それが人であれ、最も優れた御使いであれ、直接的に、神さまに触れることはできないばかりか、直接的に、神さまを見ることはできませんし、知ることもできません。テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、この神さまのことが、

祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。

と記されています。
 私たちは、かつては、エペソ人への手紙2章1節に記されているように、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」でした。その頃の私たちは、「神」は自分たちより高く優れていると考えていましたが、やはり、この世界に住んでおり、身を清めたりして、うやうやしく近づけば、「神」の住んでいる所に近づくことができるし、直接的に触れることもできると考えていました。しかし、神さまをそのように考えることは、神さまの聖さを冒すことです。
 神さまの無限、永遠、不変の栄光を太陽にたとえるとしますと、この世界は紙切れのようなものです。紙切れが太陽に直接的に触れるというようなことはありえません。仮に、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまを代表する立場に立っておられる父なる神さまが、創造の御業を遂行されたとすると、最も優れた御使いであっても、470億光年の彼方に広がっていると言われている大宇宙であっても、造り出された途端に、神さまの無限の栄光よって焼き尽くされてしまいます。
 それでも、実際には、この宇宙は神さまの創造の御業によって造り出されて、今も存在しています。それは、やはり、人になぞらえた言い方しかできませんが、御子が無限に身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、被造物とかかわってくださる立場に立っておられるからです。
 それで、御子が創造の御業と摂理の御業を遂行され、人類の堕落の後には、贖いの御業をも遂行しておられます。さらには、人であれ、御使いであれ、直接的に見ることも知ることもできない神さまがどのような方であるかを、私たちや御使いたちに啓示してくださっているのも、御子のお働きによっています。ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節に、

神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

と記されているとおりです。
 このようなことを踏まえると、先ほど引用した、ヨハネの福音書の序論の最後の18節に、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されていることを理解することができます。
 ここでは、御子が「神を説き明かされた」と言われていますが、それは、ことばによっているだけではありません。同じヨハネの福音書の14章9節には、イエス・キリストが弟子のピリポに、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と言われたことが記されています。御子イエス・キリストが語られたこととなされた御業を含めて、御子イエス・キリストご自身が、父なる神さまがどなたであられるかを現しておられます。それで、御子イエス・キリストを見ることは、父なる神さまを見ることですし、御子イエス・キリストを知ることは、父なる神さまを知ることです。9節からさかのぼりますが、7節においてイエス・キリストが、

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。

と教えておられるとおりです。
 このことの根底には、1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されていること、すなわち、御子イエス・キリストは人としての性質を取って来てくださったまことの神であられるということがあります。その御子イエス・キリストの愛と恵みに触れることは、父なる神さまの愛と恵みに触れることです。
 これにはもう一つの面があります。先ほど引用した、1章18節に、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されていることからも分かりますが、御子イエス・キリストを知ることがなければ、だれも、父なる神さまを知ることはできないということです。また、御子イエス・キリストの愛と恵みに触れることがなければ、父なる神さまの愛と恵みに触れることはできません。
 そのことは、14章6節で、イエス・キリストが、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

と教えてくださっていることにより明確に示されています。
 これは、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で、御子イエス・キリストが契約の神である「」(ヤハウェ)であられることを意味しています。このことは、この後、10節において、イエス・キリストが、

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

と教えておられることからも分かります。
 このみことばは、イエス・キリストと父なる神さまが、お互いのうちにおられることと、そのゆえに、イエス・キリストがなされることは、イエス・キリストのうちにおられる父なる神さまがなさっておられることであるということを示しています。
 この、御子イエス・キリストと父なる神さまがお互いのうちにおられるということは、1章1節ー3節に記されている、御子が父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられることの現れです。それで、イエス・キリストの教えも、御業も、父なる神さまの愛を表わし、証ししています。


 天地創造の御業は、永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる御子が、父なる神さまのみこころにしたがって、遂行された御業です。それは、父なる神さまが、御子によって、お造りになったものに、ご自身の愛を注がれた御業です。
 このことは、造られたすべてのものにとって意味をもっていますが、神のかたちとして造られている人にとって、特別な意味をもっています。というのは、神のかたちの本質は、愛を本質的な特性とする人格的な存在であることにあるからです。人が神のかたちとして造られているということは、ご自身の無限、永遠、不変の愛のうちに充足しておられる神さまの「かたち」として造られているということです。それは、神のかたちとして造られている人は神さまの愛に包んでいただいて、神さまとの愛の交わりのうちに生きることにおいて真の安息、真の充足を得るようになるということを意味しています。
 このことは、アウグスティヌスが『告白』の冒頭1巻1章1において、

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。

と述べていることを思い起こさせます。
 私たちは、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまがどなたであるかを知るようになり、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きるものとしていただいています。それで、私たちは「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです」ということを、私たち自身のこととして実感しています。
 けれども、これには、もう一つのより根本的なことがかかわっています。それは、父なる神さまは、私たちをご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださり、さらに、このご自身との愛の交わりをより豊かな完成へと導いてくださるために、創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福してくださり、聖別してくださったということです。
 「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです」と言うとき、私たちは、私たちの充足、私たちの安息のことを考えています。それは、父なる神さまが与えてくださる充足であり安息のことですから、そのように考えることは父なる神さまのみこころにかなったことです。
 ただ、私たちは、それがより広く、より深いところでは、父なる神さまご自身の安息にかかわっているということを心に刻んでおく必要があるのです。
 そこには、ひとえに、初めに引用したエペソ人への手紙1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、父なる神さまが永遠から、私たちを御子イエス・キリストにあって、「ご自分の子」としてくださるほどに愛してくださっている愛があります。父なる神さまは、この愛のゆえに、私たちを創造の御業において神のかたちとして造られたときの栄光より、一段と高く豊かな栄光にあって、すなわち、神の子どもとして、ご自身との愛の交わりに生きるようにしようと定めておられたのです。
 このことを踏まえて、アウグスティヌスの『告白』のことばに沿って言いますと、私たちが御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、御子イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれた神の子どもとしての栄光にあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになって初めて、父なる神さまの安息はまったきものとなる、と言うことができます。
 どうして、そのような大胆なことを、考えようによっては、神さまの聖さを冒す不遜なこととも思われることを言うことができるのでしょうか。それは、やはり。父なる神さまが永遠から、それほどまでに私たちを愛してくださっているからです。また、そのことを実現してくださるために、ご自身が無限、永遠、不変の愛をもって愛しておられる御子イエス・キリストをも、私たちの罪のための宥めのささげもととして、遣わしてくださったほどに、私たちを愛してくださっているからです。
 この父なる神さまの永遠からの愛は、エペソ人への手紙2章4節ー5節において、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われていることにおいて、私たちの現実になっています。父なる神さまは私たちをイエス・キリストとともに、より豊かな栄光の状態によみがえらせてくださり、ご自身に向かって「アバ。父」と呼ぶことができるほど、豊で栄光に満ちた愛の交わりに生きるものとしてくださっています。
 確かに、このことの完全な実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが私たちを栄光のからだをもつものとしてくださるとともに、新しい天と新しい地を再創造されるときのことです。しかし、このことは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、原理的・実質的に、私たちの間に実現しています。
 それで、みことばは、古い契約の下では、週の終わりの第7日を安息日として、神である「」の安息の完成は目的であることを示していました。しかし、新しい契約の下では、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、神である「」の安息の完成は、すでに、原理的・実質的に、実現しているということに基づいて、イエス・キリストが死者の中からよみがえられた週の最初の日を安息の日としています。


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