黙示録講解

(第438回)


説教日:2020年9月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(191)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししていることは、この約束が、すでに、私たちご自身の民の間で、原理的・実質的に、成就しているということです。そして、そのことを示しているみことばの一つとして、先ほどお読みした、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばを取り上げて、お話ししています。
 今は、4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししています。
 ここでは、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。この父なる神さまの「大きな愛」は「背きの中に死んでいた私たち」、ご自身に背を向けていた私たちを、なおも、愛してくださって、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子をも遣わしてくださった愛です。
 この父なる神さまの愛は、同じエペソ人への手紙の1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、神さまの永遠からの私たちへの愛から出ています。
 先主日お話ししたように、この神さまの永遠からの愛は、創造の御業において、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に現され、注がれました。このことは、これまでたびたび、簡単に触れてきましたが、神さまが天地創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことと深く関わっています。今日は、このことをもう少しお話ししたいと思います。

          *
 人は造られたその時から、そこにご臨在してくださっている神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになりましたし、同じく神のかたちとして造られている最初の隣人である女性との愛にある交わりに生きるようになりました。この神である「」と隣人との愛にある交わりこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。そして、この愛の交わりに生きることが神のかたちとして造られている人の本来のあり方です。
 この神である「」との愛の交わりの中心は、神である「」を神として礼拝することがありますし、隣人との愛にある交わりの中心には、ともに心を合わせて、神である「」を神として礼拝することがあります。
 この神である「」との愛の交わりと、隣人との愛にある交わりは真空の中で起こることではありません。神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになりました。人は、神さまが委ねてくださった歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、神である「」を神として愛し、礼拝しますし、ともに心を合わせて神である「」を愛し、神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たしていきます。
 神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、堕落後の人類が考えているような、神さまのために働かせるためではありません。それは、神さまの神のかたちとして造られている人に対する愛から出ています。それは、先主日お話ししたように、創造の御業そのものが、神さまの本質的な特質である愛の表現であることによっています。神さまはその愛に基づくいつくしみをご自身がお造りになったすべてのものに注いでおられますが、その神さまの愛を受け止めるとともに、神さまを愛して神さまを礼拝するのは、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人です。
 神さまは創造の御業の初めからこの「」にご臨在されて、この「」をご自身の御臨在の場として聖別しておられました。そして、この「」をご自身の御臨在に伴う豊かさ、それゆえに、ご自身の愛に基づくいつくしみに満ちた御臨在を映し出し、あかしする豊かさに満ちている世界として形造られました。繰り返しの言い回しですが、「」は明るく、暖かく、澄んでおり、変化に富んでおり、多種多様な植物が芽生え育ち、それらによって支えられている多種多様ないのちあるものが生息しています。そのすべてが深くかかわりつつ調和の中にあります。神さまはこのような神さまの御臨在をあかしする豊かさに満ちた「」を人の「住みか」としてくださいました。
 それで、神のかたちとして造られている人は、神さまの愛に基づくいつくしみに満ちた御臨在を映し出し、あかしするさまざまなものに囲まれて生きることができました。そして、歴史と文化を造る使命は神さまから委ねられている、これらのさまざまなものをお世話することにありますが、人はこの使命を果たすことをとおして、常に、これらのさまざまなものを支え、お育てくださっている神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在がそこにあることを汲み取ることができます。そして、その神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在は、特別な意味において、神さまご自身が神のかたちとして造られている自分たちとともにいてくださることの証しとなっています。このようにして、神のかたちとして造られている人は、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、自分たちの間にご臨在してくださっている神である「」の愛を受け止め、神である「」を神として愛し、礼拝することを中心として、神である「」との愛の交わりに生きることができるようにようになっていました。
 ですから、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が歴史と文化を造る使命を果たすことは、神さまから委ねられている、さまざまなものをお世話することにありますが、それに先立って、創造の御業の初めから「」にご臨在してくださって、自分たちと、自分たちに委ねてくださったさまざまなものを支え、育ててくださっているいる神である「」の愛といつくしみを受け止めることから始まります。
 そのためには、まず、自分たち自身が、神である「」との愛の交わりに生きていなければなりません。また、神さまがお造りになった歴史的な世界に生きている神のかたちとして造られている人にも、神のかたちとしての成長があります。人は神である「」との愛の交わりに生きることにおいて、愛を本質的な特質とする神のかたちとして成長し、神である「」との愛の交わりがさらに深められていくようになります。それは、神のかたちとして造られている人としてのいのちがさらに豊かになっていくということを意味しています。
 このように、神のかたちとして造られている人は、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、自分たちの間にご臨在してくださっている神である「」の愛を受け止め、神である「」を神として愛し、礼拝することを中心として、神である「」との愛の交わりに生きるものでした。そして、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすのは、神さまが創造の御業において、ご自身の安息の日として祝福し、聖別された、創造の御業の第七日のことです。先ほど、神のかたちとして造られている人は神である「」との愛の交わりに生きることにおいて、神のかたちとして成長し、神である「」との愛の交わりがさらに深められていくようになるということをお話ししましたが、それも、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別された、創造の御業の第七日において起こることです。
 この天地創造の第七日は、神さまが創造の御業において造り出された歴史的な世界の歴史となって、神さまがお定めになっておられる世の終わりまで続きます。それで、神のかたちとして造られている人は、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっている天地創造の第七日に、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。
 神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったのは、この日に、神さまが、ご自身がお造りになったすべてのものに、ご自身の愛に基づくいつくしみを注いでくださって、一つ一つのものの特質を生かす形で支えてくださり、育み育ててくださり、豊かな実を結ばせてくださるためです。そのことの中心にあるのは、神のかたちとして造られている人に御顔を向けてくださり、豊かに愛を注いでくださることです。そして、神のかたちとして造られている人が、神さまが注いでくださっている愛を受け止め、愛をもって神さまを礼拝することです。

          *
 これらすべてのことの根底には、神さまの契約があります。
 神さまはご自身がお造りになったすべてのものと契約を結んでくださり、すべてのものをご自身との契約関係にあるものとされました。そのことは、エレミヤ書33章に記されているみことばから分かります。その20節ー21節には、

はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。

と記されており、25節ー26節には、

はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。

と記されています。ここでは、神である「」が昼と夜と契約を結んでくださったことと、そのために、昼と夜が定まったときに来るようになっているということ、さらには、「天と地の諸法則」が定まっているということを踏まえた上で、「」がダビデと結んでくださった契約が必ず実現するということが示されています。「」が結んでくださった契約は、誰と、あるいは何と結ばれた契約であっても、「」の真実さによって必ず実現するということです。
 今お話ししていることとの関わりで注目したいのは、この「」のみことばが踏まえていることのほうです。「」が、ご自身がお造りになったすべてのものを真実に支えてくださっているので、人が「天と地の諸法則」として受け止めることができるような、調和と規則性が造られたすべてのものの間にあるということは、広く、神である「」を信じている人々が理解していることです。
 ここでは、さらに、「」が、ご自身がお造りになったすべてのものを真実に支えてくださっているのは、「」がお造りになったすべてのものと結んでくださった契約によっているということが示されています。
 このことは、「」を信じている人々の間でもあまり理解されていないことです。というのは、私たちがなじんでいる契約は、さまざまな取り引きにおける契約で、契約の当事者双方の合意によって結ばれるものであるからです。しかし、聖書が記された時代の社会と文化においては、契約の基本的な形は、一方的なもので、主権者が、その主権の下にある者を自分との契約関係に入れるものです。
 「」はすべてのものをお造りになった主権者です。それで、すべてのものをご自身との契約関係に入れることがおできになります。このように言っても、単なる物質的な被造物は人格的な存在ではありませんので、「」が契約関係にあるものとしてくださっていることを知りません。それで、そこには、取り引きの関係はまったくありません。「」がお造りになったすべてのものをご自身との契約関係に入れてくださったのは、「」がその一つ一つのものに与えてくださっている特質を生かしてくださる形で、一つ一つのものを支えてくださり、植物であれば生長させてくださり、実を結ぶようにしてくださり、生き物であればいのちを育み育ててくださって、増え広がっていくように支えてくださるためです。すべては「」がお造りになったすべてのものに対して、主権者として、真実に関わってくださることを保証してくださっているのです。実際に、「」は真実にすべてのものを支えてくださり、導いてくださっています。
 「」がお造りになったすべてのものをご自身との契約関係に入れてくださっていることには、もう一つの面があります。それは、「」は、あらゆる点において無限、永遠、不変の神であられるということにかかわっています。
 あらゆる点において無限、永遠、不変の神である「」は、その栄光においても無限、永遠、不変です。その無限の栄光の神である「」はご自身がお造りになったものと直接的に関わることができません。できないと言っても、それは、「」に力がないからできないという意味ではありません。これは、いつも使っているたとえを用いると、太陽が紙切れに直接的に触れることができないことにたとえられます。太陽が紙切れに近づいていくと、それがはるか遠くであっても、紙切れのほうが燃えてしまいます。それで、太陽は紙切れに直接的に触れることはできません。そのように、無限の栄光の「」は、御使いや神のかたちとして造られている人も含めて、どのような被造物とも、直接的に接することができないのです。
 そうであるとすると、神さまが何かをお造りになると、それがこの大宇宙であったとしても、もっとも高い御使いであっても、それが造り出された瞬間に、神さまの無限の栄光によって焼き尽くされてしまいます。しかし、実際には、神さまはこの世界のすべてのものを創造されましたし、お造りになったすべてのものを支えてくださっています。
 どうしてそのようなことができたのかというと、神さまのみことばは、創造の御業が三位一体の神さまによって遂行されたからであるということ示しています。創造の御業において、御父は無限、永遠、不変の神さまを代表する立場に立たれ、創造の御業をご計画されました。御子はその無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、あるいは、人間的な言い方をしますと、無限に身を低くされて、御父のご計画(みこころ)に従って、創造の御業を遂行されました。このようにして、御子は造られたこの世界に関わってくださる方となられました。そして、御霊は御子がお造りになったそれぞれのものの特質を生かしてくださる形で支え導いてくださっています。
 ただし、これら御父、御子、御霊に帰せられているお働きは、それぞれが孤立して単独になしておられるのではなく、相互に一体にある方としてなしておられます。それで、私たちは御子が御父のみこころに従って創造の御業を遂行されたと言うことができますし、御父が御子によって創造の御業を遂行されたとも言うことができます。ヘブル人への手紙1章2節後半には、

 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

と記されています。
 御子は造られたこの世界に関わってくださる方となられました。それで、この歴史的な世界の歴史を支配し導いておられる神である「」は、御子のことであると言うことができます。ただし、同じことを、御父が御子によってこの歴史的な世界の歴史を支配し導いておられると言うこともでます。その意味では、歴史的な世界の歴史を支配し導いておられる神である「」は御父のことであると言うこともできます。とはいえ、基本的には、この歴史的な世界の歴史を支配し導いておられる神である「」は御子です。
 そして、この「」(ヤハウェ)は、契約の神、契約の主権者でもあられます。それで、御子は契約の主となられた方です。先ほど引用した、エレミヤ書33章20節ー21節と25節ー26節に記されている、「」がお造りになったすべてのものをご自身との契約関係に入れてくださって、それぞれを真実に支えてくださっているということは、御子のお働きによることであると言うことができます。ヘブル人への手紙1章3節前半には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。

          *
 神さまが創造の御業において、ご自身の安息の日として祝福し、聖別された天地創造の第七日は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史となっています。そして、神のかたちとして造られている人は、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっている天地創造の第七日に、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。そして、その歴史と文化を造る使命を果たすことの出発点にして、中心にあることは、人が神である「」の愛を受け止め、神である「」を愛して、神として礼拝することです。
 そのようにして、神のかたちとして造られている人が神である「」との愛の交わりができるためには、神である「」がそこにご臨在してくださらなければなりません。そして、みことばは、神である「」が人の間にご臨在してくださるのは、神である「」の契約によることであるということを、一貫して、示しています。
 創世記2章7節ー8節には、

神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。神であるは東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。

と記されています。ここでは、陶器師がその器を形造る表象が用いられています。この地にご臨在されて、丹精込めて人を形造り、親しく向き合って、その鼻にいのちの息を吹き込まれた方は神である「」です。そして、その神である「」が、人をご自身のご臨在される所として聖別されたエデンの園に置いてくださいました。
 この「神である」という御名(ヤハウェ・エローヒーム)は、ここでは、「」(ヤハウェ)は、創世記1章において創造の御業を遂行された「」(エローヒーム)であるということを伝えています。そして、この「」(ヤハウェ)という御名は、広く、契約の神の御名であることが認められています。
 このように、創造の御業を遂行された神さまは、この契約の神である「」であり、この「」が、ご自身の契約に基づいて、エデンの園にご臨在され、神のかたちとして造られている人をご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。
 これは、創造の御業における神である「」の御臨在ですが、贖いの御業における神である「」の御臨在のことも見てみましょう。
 出エジプト記25章8節には、「」がモーセに、

 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

と語られたことが記されています。これは、この前の24章1節ー11節に記されているように、「」がイスラエルと契約を結んでくださったことを受けてのことです。このことは、「」がイスラエルの民の間にご臨在してくださることが、「」の契約に基づくことであることを意味しています。
 このように、ご自身の民の間にご臨在してくださり、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださるのは、契約の神である「」です。先ほどお話ししたように、この「」は御子のことです。
 そして、この「」の御臨在は、ご自身の血によって新しい契約を確立してくださった御子イエス・キリストにおいて、私たちの現実となっています。
 ヨハネの福音書14章6節に記されているように、イエス・キリストは、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

と言われました。これは、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で語られていて、語っておられるイエス・キリストが契約の神である「」(ヤハウェ)であられることを意味しています。私たちはこのイエス・キリストによって、イエス・キリストにあって、父なる神さまの御許に近づき、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになります。
 これは、私たちが父なる神さまの御臨在の御許に近づくことですが、これに先立って、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって、私たちの間にご臨在してくださっています。
 イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章23節には、

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

と記されています。
 イエス・キリストは、「『神が私たちとともにおられる』という意味」の「インマヌエル」という御名をもつ方として来てくださいました。このイエス・キリストにあって、父なる神さまは私たちの間にご臨在してくださり、私たちを子として愛してくださっています。
 このことにおいて、天地創造の御業において、創造の御業の第七日をご自身の安息の日として、祝福し、聖別された神さまのみこころは、原理的、実質的に成就しています。


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