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説教日:2020年9月6日 |
神さまの永遠からの私たちへの愛は、神さまご自身が愛であられることから出ています。神さまご自身が愛であられるということは、ただ単に、神さまに愛の属性(性質)があるということではありません。繰り返し取り上げていることを、改めて、確認したいと思います。ヨハネの福音書1章1節ー3節には、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されています。ここで、 初めにことばがあった。 と言われているときの「ことば」は御子イエス・キリストのことです。また、「ことばがあった」と言われているときの「あった」は(未完了時制で)過去のある時点における継続を表しています。この場合の過去のある時点は「初めに」と言われている時です。これは、創世記1章1節に、 はじめに神が天と地を創造された。 と記されている「はじめに」に当たります。それで、 初めにことばがあった。 というみことばは、神さまが天地創造の御業を始められた時には、すでに、「ことば」が継続して存在しておられたことを意味しています。 時間や空間は神さまが歴史的な世界、時間とともに経過していく世界としてお造りになったこの世界(大宇宙)の時間であり空間です。それで、時間は創造の御業とともに始まっていますし、空間は創造の御業とともに広がり始めています。この世界が造られていないないのに、時間が流れており、空間が広がっているというようなことはありません。 また、3節では、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と言われています。「ことば」は、この歴史的、時間的な世界の「すべてのもの」をお造りになった方です。それで、 初めにことばがあった。 というみことばは、「ことば」が時間を超えた方、すなわち、永遠の存在であることを意味しています。 そして、続く、 ことばは神とともに(プロス・トン・セオン)あった。 というみことばは、「ことば」すなわち御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられたことを示しています。2節では、 この方は、初めに神とともにおられた。 と記されていて、御子が永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを、より明確に示しています。 それで、先に引用した3節においては、天地創造の御業は永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる御子によって遂行されたことを示しています。また、それで、私たちは天地創造の御業は父なる神さまが御子によって、ご自身の愛をご自身の外に向けて現された御業、御子によってご自身の愛を造られるすべてのものに注がれた御業であったと理解しています。 今お話ししていることとの関わりでは、創造の御業において父なる神さまが御子によって現され、注がれている愛も、父なる神さまの永遠からの愛の現れです。 ただ、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、罪がもたらす霊的な暗闇の中に閉ざされてしまっているために、その神さまの愛を受け止めることができなくなりました。そのさらに奥には、造り主である神さまを神とすることがなくなってしまっているという現実があります。 父なる神さまは、そのようにご自身に対して罪を犯して、背を向けて歩んでいた私たちをなおも愛してくださって、私たちのために、ご自身の御子を宥めのささげものとしてお遣わしになりました。そして、前回お話ししたように、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってくださったことによって、私たちは罪を赦されたばかりでなく、神の子どもとしていただき、父なる神さまと信仰の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる者となったことによって、愛を私たちの間の現実として知るようになりました。 このように、私たちは、ご自身に対して罪を犯して、背を向けて歩んでいた私たちをなおも愛してくださって、私たちのために、ご自身の御子を宥めのささげものとして遣わしてくださった父なる神さまの愛の現実に触れて、父なる神さまの永遠からの愛がどれほどの愛であったかを知るようになりました。それはまた、神さまが創造の御業において注いでくださった愛がどれほどの愛であったかをも示しています。 神さまの愛は無限、永遠、不変です。この場合の無限や永遠は、私たちが考える「どこまでも」広がっているという意味での量的な無限ではありませんし、「いつまでも」続くという意味での量的な永遠ではありません。それは、ご自身が無限、永遠、不変の方である神さまだけが知っておられることで、被造物である私たちも御使いたちも、それとして知ることができないことです。 けれども、父なる神さまの愛が無限、永遠、不変であるということは、私たちにとって大きな意味をもっています。 そのことは、いくつかの点から考えることができますが、今お話ししていることとの関わりで考えておきたいことがあります。 終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、私たちの救いを完全に実現してくださり、私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださいます。その時のことが、ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。 と記されています。 これは、先ほど触れたエペソ人への手紙1章5節に、 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されていることが実現することです。 これは、また、ローマ人への手紙8章29節に、 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 と記されている、父なる神さまの永遠からの愛に基づくみこころが実現することでもあります。 このローマ人への手紙8章29節に記されていることについて少し説明してから、お話を進めたいと思います。 ここで、神さまが「あらかじめ知っている人たち」と言われているのは、私たちご自身の民のことです。 そして「あらかじめ知っている」ということは、神さまのことですので、「永遠において知っている」ということです。 また、この「知っている」ということは、単に、知的な意味で知っているということではありません。言い換えると、神さまが私たちについての情報を得ておられるかのように、私たちについて何かを知っておられるということではありません。というのは、神さまはすべてのことを完全に知っておられますから、とりたてて、「あらかじめ知っている人たち」というように限られた人たちのことを知っておられると言われる時には、特別な意味があります。そして、この場合は、私たちを、ご自身が愛しておられる「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということにつながることです。ここで「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言われているときの「御子」はもじどおりには「彼の御子」すなわち「ご自分の御子」で神さまの愛が示唆されています。それで、これは、聖書にしばしば出てくるヘブル的な意味合いで、私たち自身を親しく知ってくださっているということ、私たちを愛してくださっているということを示しています。 ここでは、さらに、 それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 と言われています。これは、私たちご自身の民が御子を「長子」とする神の家族に加えられることを示しています。このことは、このローマ人への手紙8章では、14節ー16節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 と記されていることにおいて、実質的に実現しています。ただし、その完全な実現は、23節に、 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。 と記されているように、終わりの日におけることです。 それで、ここ29節で、 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 と言われていることは、先ほどのエペソ人への手紙1章5節に、 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されていることに相当することです。 そして、ローマ人への手紙8章では、続く30節において、 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 と言われています。 ここで「あらかじめ定めた人たち」と言われているのは、29節で、 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。 と言われている、神さまが永遠から愛してくださって、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」「人たち」のことで、私たちご自身の民のことです。 ここで注目すべきことが二つあります。 一つは、ここで言われている「あらかじめ定めた人たち」、「召した人たち」、「義と認めた人たち」が切り離し難く結び合わされているということです。30節を直訳調に訳すと、おそろしく、ぎこちなくなりますが、 神は、あらかじめ定めた人たちを、この人たちをさらに召されました。そして、召した人たちを、この人たちをさらに義と認められました。また、義と認めた人たちを、この人たちをさらに栄光化されました。 というようになります。これによって、神さまは、永遠から愛してくださって、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」「人たち」を、必ず、召してくださり、召してくださった人たちを、必ず、義と認めてくださり、義と認めてくださった人たちを、必ず、栄光化してくださるということが示されています。ここでは、これらのことは、神さまがなしてくださることで確かなことであることを示しています。 もう一つ注目したいことは、ここで用いられている「あらかじめ定めた」、「召した」、「義と認めた」、「栄光化した」という動詞はすべて(「召した」と「義と認めた」は、同じ形で繰り返されていますが、それも含めて)、不定過去時制で表されているということです。 しかも、私たちが栄光化されることは、終わりの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって起こることです。このことさえも、不定過去時制で表されているのは、ここに記されていることが、永遠にすべてのことを定めておられる神さま、それゆえに、終わりのことを初めからご存知であられ、初めから告げられる神さまのなさることとして記されているからであり、それゆえに、確実なことであるからであると考えられています。私たちにとっては、過去のことはすでに決定していて、変えることができません。その意味で、確定していることです。ここでの不定過去時制は、私たちの栄光化が、それと同じくらい、確かになされることでであることを示しています。 このことは、ここに記されていることの具体的な内容からも汲み取ることができます。29節で、 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。 と言われているときの、私たちが「御子のかたちと同じ姿に」なることは、30節で、 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 と言われている一連のプロセスを経て、最終的に、栄光化されることによって完全に実現します。この一連のプロセスにおいては、神さまが私たちを召してくださったことと、義と認めてくださったことは、すでに、神さまが私たちを愛してくださって、ご自身の御子によって、私たちご自身の民に対してなしてくださっていることです。そうであれば、神さまが私たちを「御子のかたちと同じ姿に」栄光化してくださることも必ずなしてくださることです。 このように、父なる神さまは、永遠からの愛によって、必ず、私たちをご自身の「御子のかたちと同じ姿に」栄光化してくださいます。神さまは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによる再創造のお働きによって、私たちを栄光の状態によみがえらせてくださいます。 それは私たちご自身の民だけのことではなく、ローマ人への手紙8章19節ー21節に、 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 と記されているように、神さまは今は「虚無に服し」ている被造物をも、「滅びの束縛から解放」してくださり「神の子どもたちの栄光の自由に」あずからせてくださいます。 これがどのような事情によっているかは、すでに繰り返しお話ししていることですが、その出発点は、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことにあります。それによって、人はこの被造物を治める「かしら」の立場に置かれ、被造物は人との一体に置かれています。それで、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人との一体において、被造物も「虚無に服し」てしまったのです。そうであれば、私たち「主」の民が神の子どもとして栄光化されるなら、被造物も神の子どもたちとの一体において栄光化されます。 それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが再創造のお働きによって、新しい天と新しい地を造り出してくださることによっています。そのことは、黙示録21章1節ー4節に、 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」 と記されています。 新しい天と新しい地は、神さまが創造の御業において造り出された天と地と同じ状態に復帰することによるものではありません。神さまが創造の御業において造り出された天と地においては、そこに神である「主」の栄光の御臨在がありました。新しい天と新しい地においては、それよりさらに豊かな神である「主」の栄光の御臨在があります。 そのことは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことから分かります。イエス・キリストは最初の人アダムと同じ人としての性質を取って来てくださって、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、そのことへの報いとして、より豊かな栄光によみがえられました。そして、私たちが神さまの永遠からの愛によって、「御子のかたちと同じ姿に」栄光化されることは、イエス・キリストがより豊かな栄光によみがえられたことにあずかることによって実現します。さらに、これによって、ローマ人への手紙8章21節に記されている、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 ということが実現するようになるのです。この全被造物の栄光化の土台であり、中心には、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、栄光へのよみがえりがあります。 このように。新しい天と新しい地は、より豊かな神である「主」の栄光の御臨在にふさわしいものとして栄光化されるのです。私たちはその新しい天と新しい地において、「主」のより豊かな栄光の御臨在の御許において、「主」との愛の交わりに生きるようになります。そして、その神である「主」との愛の交わりが永遠のいのちの本質です。 神さまの愛が無限、永遠、不変であるということは、このことにおいて、大きな意味をもっています。私たちは(いつまでも続くという意味での)永遠に、「主」の豊かな栄光の御臨在の御許において、「主」との愛の交わりに生きるようになります。その永遠に続く愛の交わりの中で、私たちは神である「主」をさらによく、また、親しく知るようになります。しかし、その神である「主」との愛の交わりが永遠に続いても、その神さまの無限、永遠、不変の愛は、私たちにとって、常に新鮮に湧き上がってくる泉のように、常に新鮮であり、汲み尽くすことができないのです。 今私たちは、すでに神の子どもですが、なおも、この世にあってうめきながら生きています。 コリント人への手紙第二・5章4節ー5節には、 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。 と記されています。 ここで、「この幕屋」と言われているのは、今の私たちのからだのことです。そして、「天からの住まい」と言われているのは栄光のキリストとともに栄光によみがえることによるからだのことです。 このように対比されるとしても、今の私たちのからだが否定されるのではありません。パウロは、今私たちがうめいていることについて、 それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。 と言っています。 また、ピリピ人への手紙3章21節には、 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。 と記されています。私たちの今のからだは否定されるのではなく、栄光化されるのです。さらに言いますと、神さまが創造の御業において造り出された被造物たちも否定されるのではなく、神の子どもたちとの一体において、栄光化されます。 今、私たちはうめいていますが、それは、今、「卑しいからだ」を宿としている私たちのうちには、なおも、罪の性質が残っていて、罪の自己中心性が、私たちの神さまへの愛と、兄弟姉妹たちへの愛を歪めてしまうという現実があるからです。また、そのために、私たちは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛が、私たちの思いをはるかに越えた豊かな愛であることを、福音のみことばをとおして理解しており、知っているのに、現実には、その愛を十分に受け止め切れていないからです。 これだけですと、絶望的なことになりますが、私たちには豊かな希望があります。私たちは、それ以上に、やがて私たちが神さまの永遠からの愛によって、「御子のかたちと同じ姿に」栄光化されて、「主」の豊かな栄光の御臨在の御許において、永遠に「主」との愛の交わりに生きるようになることを、福音のみことばをとおして理解しており、知っているので、そのことの実現を待ち望んでうめいていますし、全被造物が私たち神の子どもたちとの一体において、栄光化されることを、福音のみことばをとおして理解しており、知っているので、そのことの実現を待ち望んでうめいているのです。 先ほど引用した黙示録21章3節ー4節に、 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」 と記されていることは、父なる神さまが、私たちが今うめきながら待ち望んでいることを、御子イエス・キリストによって、実現してくださることを記しています。 |
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