黙示録講解

(第436回)


説教日:2020年8月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(189)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 この約束で、栄光のキリストが、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっている「権威」は、栄光のキリストご自身が父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。そして、その父なる神さまが栄光のキリストにお委ねになった権威は、メシアの国の王であるイエス・キリストが、しもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちを捨てくださったことに現されている権威です。それで、栄光のキリストが「勝利を得る者」に約束してくださっている「権威」は、このイエス・キリストの愛を映し出すことにおいて発揮される権威です。
 今お話ししているのは、ここで、栄光のキリストが約束してくださっていることは、すでに、原理的・実質的に、ご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっているということです。そして、そのことを示しているみことばの一つとして、先ほどお読みしました、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばを取り上げています。
 今は、4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししています。
 ここでは、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。その父なる神さまの「大きな愛」は「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、罪のために、造り主である神さまに背を向け、霊的な戦いにおいては、神さまの敵となって歩んでいた私たちを、愛してくださって、御子イエス・キリストを私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださった愛です。
 この父なる神さまの愛は、他に何の理由はなく、何の計算もなく、たとえば、いいところがあるとか、役に立つというようなことからではなく、ただ、私たち自身を愛してくださった愛です。
 前回は、ここで、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われていることが、1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方[キリスト]にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、父なる神さまの永遠からの私たちへの愛から出ているということをお話ししました。
 これは、2章4節ー5節に記されている、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことに示されている神さまの「大きな愛」は、神さまの永遠からの私たちへの愛がどのような愛であるかを映し出し、証ししているということです。私たちには、神さまの永遠からの愛がどれほどの愛かを想像することもできません。その私たちとしては、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことに示されている神さまの「大きな愛」に触れて、それを知ることによって初めて、神さまの永遠からの私たちへの愛がどれほどの愛であるかを知ることができるのです。
 先ほどお話ししたように、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったことに示されている神さまの「大きな愛」は、他に何の理由はなく、何の計算もなく、ただ、私たち自身を愛してくださった愛です。自分のうちになおも罪の本性を宿していて、愛することにさえ、無意識のうちに、何らかの計算が働いてしまう私には、これをうまく言い表すことはできないのですが、私たち自身を目的とし、私たち自身を愛してくださること自体を目的としている愛、と言ったらいいでしょうか。そして、それが、神さまの永遠からの私たちへの愛なのです。神さまの永遠からの私たちへの愛は、私たち自身を目的とし、私たち自身を愛してくださること自体を目的としている愛であり、罪を犯してご自身に背くことになる「私たちをイエス・キリストによってご自分の子に」してくださって、永遠に子として愛してくださる愛です。
 けれども、自分のうちになおも罪の本性を宿していて、愛することにさえ、無意識のうちに、何らかの計算が働いてしまう者には、この神さまの永遠からの私たちへの愛がどれほどの愛かを十分に知ることができません。私たちはこのことに心が痛みます。
 それでも、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されています。
 ここでは、

 それによって私たちに愛が分かったのです。

ということが最初に出てきます。直訳調には、

 これによって私たちは愛を知りました。

となります。この場合の「知りました」は[完了時制で表されていて]、ある時に知るようになったことが今も私たちの現実であることが示されています。
 それとともに、これと同じく[完了時制で表されている]「知る」ということばが、この手紙には8回出てきます[ここの他は、2章3節(「自分が神を知っていることが分かります」の「神を知っている」の方です。「分かります」は現在時制です)、4節、13節、14節に2回、3章6節、4章16節]が、今の私たちのあり方、生き方において知っているという意味合いを伝えています。この3章16節では、愛を知っているということですので、私たちがその愛を知的に理解しているとともに、実際に、その愛のうちを歩んでいるという意味で知っているということになります。
 このことは、この[完了時制で表されている]「知る」ということばから分かるだけではありません。ここでは、私たちがどのようにして「」を知ったかというと、

 キリスト[直訳・この方]は私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。

ということによっていると言われています。
 愛についてはいろいろなことが言われています。愛についていろいろなことを言うとき、その人は愛のことを知っていると思っています。かつての私たちもそうでした。しかし、私たちは、福音のみことばの証しをとおして、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。

ということを知るようになりました。もちろん、それを私たちが知ることができたのは御霊のお働きによっています。ここでは、御子イエス・キリストが私たちを愛してくださって、「私たちのために、ご自分のいのちを捨てて」くださったことを知ったとき、私たちは初めて「」を知るようになったと言われています。それまで知っていると思っていたた愛は、本当の愛ではなかったということです。これがどのようなことかについては、後ほどいくつかのことをお話ししますが、突き詰めていくと、私たちは「」にとって最も大切なこと、「」の核心にあることを知らなかったのです。
 大切なことは、ここでは、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに神の愛が分かったのです。

と言われているのではないということです。もちろん、御子イエス・キリストが「私たちのために、ご自分のいのちを捨てて」くださったことによって、私たちに対する神さまの愛がこの上なく豊かに示されましたし、私たちは神さまの愛を知るようになりました。4章9節には、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。

と記されています。
 しかし、ここでは、より一般的に、

 それによって私たちに愛が分かったのです。

と言われています。それは、ここでの主旨が、これに続いて、

 ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と言われていることにあるからです。そのことは、これに先立つ14節ー15節に、

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

と記されていることを受けて、16節に、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されていることから分かります。
 このことを踏まえますと、ここで、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と言われているときの、「私たちに愛が分かった」ということは、私たちが、御子イエス・キリストが「私たちのために、ご自分のいのちを捨てて」くださったことに現されている愛に生きるようになることをも意味していることが分かります。


 14節ー15節に記されていることについて、一つのことを注釈してからお話を進めます。
 15節には、

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

と記されています。このようなみことばを読みますと、自分は人を殺したいほど憎んでいるわけではないと思ってしまうかもしれません。しかし、ここで、

 だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

と言われていることは、いわゆる殺人者、この世の刑法における殺人罪を犯した人には「永遠のいのちがとどまることは」ないということではありません。何らかのことで殺人を犯してしまった人でも、悔い改めて、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じるなら、神さまの御前ではその罪は赦され、「永遠のいのち」に生きるようになります。ここで、

 だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

と言われていることは、14節で、

 愛さない者は死のうちにとどまっています。

と言われていることを言い換えたものです。それで、ここでは、兄弟を「愛さない者」は「兄弟を憎む者」であり、「人を殺す者」であるということを意味しています。
 このようなことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の時代に生きている私たちには、分かりにくいことです。しかし、神のかたちとして造られている人のもともとのあり方、その意味での本来のあり方を理解すると、分かりやすいと思います。それで、神のかたちとして造られている人の本来のあり方について確認しておきましょう。
 先ほど、かつての私たちも、愛についていろいろなことを考え、いろいろなことを言っていましたし、愛のことを知っていると思っていたということをお話ししました。確かに、かつての私たちも、私たちなりにですが、愛を知っていました。そのことは、すべての人に当てはまります。すべての人が、その人なりに、愛を知っています。
 それは、二つのことによっています。
 第一のことは、根本的で根源的なことです。人が何らかの意味で愛を知っているのは、ヨハネがこの手紙の4章8節と16節で、

 神は愛です。

と証ししている神さまが、創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったことによっています。
 神のかたちとして造られている人は、ただ愛という特質をもっているだけでなく、造られたその時から、神さまとの愛の交わりに生きていました。また、同じく神のかたちとして造られた人と出会ったその時から、その人との愛の交わりに生きていました。そして、その愛の交わりが途絶えるということはなかったのです。物理的な距離が離れてその人が見えないところにいたとしても、愛においてはいつも結ばれているのです。それで、人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりにありますし、同じく神のかたちとして造られている隣人(アダムにとってはエバが隣人でした)との愛の交わりにあります。神のかたちとして造られたときの状態にある人にとっては、一時でも、神さまとの愛の交わりがないということはありえないことでしたし、隣人との愛の交わりがないということもありえないことでした。神のかたちとして造られている人は、本来、そのような意味で、実際に、また、常に、造り主である神さまと隣人との愛の交わりに生きていることにおいて愛を知っていたのです。
 これは、神のかたちとして造られている人にとっては、到達すべき、あるいは、とても到達できない理想の状態ではなく、もともとそうであった状態であり、それが自然な状態であり、本来の状態です。
 しかし、人は、造り主である神さまに対して罪を犯したために、この本来の状態から堕落してしまっています。それで、造り主である神さまを神として愛することもなく、兄弟姉妹たちを愛することもないということは、神のかたちとして造られている人としての本来のいのちを失っていることを意味していますし、神さまの御前においては、兄弟姉妹たちの神のかたちとしての栄光と尊厳を無視することを意味しています。
 ヨハネが、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と言うときの「私たちに愛が分かった」ということは、このように、神のかたちとして造られている人が、もともと、造り主である神さまと隣人との愛の交わりに生きていて、愛を知っていたという本来の状態が、キリストが「私たちのために、ご自分のいのちを捨てて」くださったことによって、原理的に、実質的に、回復されているということを意味しています。

 すべての人が、その人なりに、愛を知っているということにかかわる第二のことは、一般恩恵に基づく御霊のお働きです。
 実際には、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られて、自分たちの間にご臨在してくださる神さまとの愛の交わりと、隣人との愛の交わりに生きていた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人の本性は罪によって腐敗してしまいました。そのために、人は造り主である神さまを神として礼拝することもなく、むしろ、霊的な戦いにおいて、罪によって暗闇の主権者であるサタンと一つとなって、神さまに敵対しているものとなってしまいました。
 私たちは、福音のみことばを通して、これがかつての私たち自身の現実であったことを知っています。同時に、かつての私たちは、罪が生み出す霊的な暗闇に閉ざされていたために、この自分自身の現実を知らなかったことを知っています。また、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪をきよめていただいたことによって、自分が造り主である神さまを神としていなかったばかりか、神さまに背を向けて歩んでいたことを知るようになったことも知っています。つまり、すでにお話ししたエペソ人への手紙2章1節ー3節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されている状態が、そのまま、かつての自分たちの状態であったことを認めているのです。
 けれども、私たちは罪がもたらす本性の腐敗がどのようなものであるかを、ある程度知っているだけであって、すべて自分の現実として知っているわけではありません。どういうことかと言いますと、神さまはご自身の一方的なあわれみのゆえに、一般恩恵に基づいてお働きになる御霊によって、人の罪が極まって、人の本性が腐敗し切ってしまうことがないようにしてくださっているからです。
 終わりの日に至るまでの人類の歴史の中では、罪が極まって、その本性が腐敗し切ってしまうことは、ただ一度だけ起こりました。それは、ノアの時代の大洪水によるさばきが執行される前の時代のことです。その時代の人々の状態は、創世記6章5節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

と記されています。これは、人の内側の本性が罪による腐敗が極みに達してしまっていることを意味しています。そして、そのことによってもたらされた世界の状況のことが、11節ー12節に、

地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

と記されています。
 神さまは人類の歴史の中で、ただ一度だけ、人の罪がどのようなものであるかを、ただことばによって示されたのでなく、歴史の現実によってお示しになりました。人の罪は、そのまま放置されるなら、どんどん深まっていき、本性の腐敗も進んでいって、ついには、極まってしまうということです。そして、そのことに対して、神さまはさばきをもって人の罪と罪の力によって縛られた人が造り出した歴史と文化を清算されるということをお示しになりました。
 しかし、大洪水によるさばきが執行された後の時代においては、神さまは再び大洪水によるさばきを執行されることはないと約束してくださっています。9章11節に、

わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。

と記されているとおりです。
 これは、たとえ、ノアの時代の大洪水の前の時代のように、人の罪が極まって、人の本性が腐敗し切ってしまうことがあっても、大洪水によるさばきを執行されることはないという意味ではありません。そうではなく、神さまは一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人の罪が極まって、人の本性が腐敗し切ってしまうことがないようにしてくださるということを意味しています[実際には、神さまはこのことのために三つのことをしてくださっていますが、今は、そのことはおいておきます]。これによって、神さまは終わりの日に至るまで、終末的なさばき、人をその罪のゆえに滅ぼし、人が自らの罪を現すことによって生み出した歴史と文化を最終的に清算されるさばきを執行されることなく、人類の歴史が保たれるようにしてくださっているのです。
 もちろん、神さまがそのようにして人類の歴史を保ってくださっていることには目的がありました。神である「主」は、そのようにして保たれている歴史において、福音のみことばに約束してくださっている、ご自身の契約の民のための贖いの御業を遂行してくださり、約束されたメシアである御子イエス・キリストによって、ご自身の民のための救いを実現してくださったのです。
 かつての私たちは一般恩恵に基づく御霊のお働きによって罪を極まらせてしまうことがないように保たれていましたし、より積極的に、いわゆる「市民的善」と呼ばれる善いこと、造り主である神さまを神とすることはないのですが、自分たちなりの愛を現し、善いと考えることを行うようにと啓発されていました。それは、また、今も、造り主である神さまを神としていない人々に、神さまが与えてくださってる一般恩恵に基づく御霊のお働きです。
 この、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって保たれ、支えていただいているので、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、造り主である神さまを神として愛することはありませんが、家族愛、友愛、隣人愛など、さまざまな形で愛を現すことがあるのです。
 かつて私たちもそのように生きていましたし、それが自然なことであると思っていました。しかし、ヨハネが言うように、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって[初めて]私たちに愛が分かったのです。

 かつて、私たちは愛を知っていると思っていましたし、愛に生きていると思っていました。しかし、私たちは愛の核心にあること、すなわち、ヨハネがこの手紙の4章7節で、

 愛は神から出ているのです。

と言明していることを知りませんでした。しかし、今は、

 愛は神から出ているのです。

ということを私たち自身のこととして知っています。
 造り主である神さまご自身が愛であり、私たちを愛してくださって、私たちを愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったので、また、私たちが罪を犯して堕落してしまった後にも、その愛を変えたもうことなく、御子イエス・キリストを遣わしてくださって罪を贖ってくださったので、私たちは造り主である神さまを神として愛し、お互いを愛するのです。そして、その愛のうちに生きることにおいて、私たちは神さまご自身を知り、私たちお互いを真の意味で知るようになります。先ほど部分的に引用しましたが、4章7節と8節に、

 愛する者たち。
 私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、
 神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。
 神は愛だからです。

と記されているとおりです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第435回)へ戻る

「黙示録講解」
(第437回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church