黙示録講解

(第435回)


説教日:2020年8月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(188)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 この約束を理解するうえで、最も基本的で大切なことは、ここで、栄光のキリストが、「勝利を得る者」に、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっている「権威」は、栄光のキリストご自身が父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威であるということです。
 父なる神さまが栄光のキリストにお委ねになった権威は、メシアの国の王であるイエス・キリストが、しもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちを捨てくださったことに現されている権威です。それで、栄光のキリストが「勝利を得る者」に約束してくださっている「権威」は、このイエス・キリストの愛を映し出すことにおいて発揮される権威です。
 ここで、栄光のキリストが約束してくださっていることが完全に実現するのは、栄光のキリストが再臨される終わりの日のことですが、その約束は、すでに、原理的・実質的に、ご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっています。
 そのことを示しているみことばの一つが、先ほどお読みしました、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばです。
 今は、4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししています。
 ここでは、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。その父なる神さまの「大きな愛」は「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、罪のために、造り主である神さまに背を向け、霊的な戦いにおいては、神さまの敵となって歩んでいた私たちを、愛してくださって、御子イエス・キリストを私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださった愛です。
 今日お話することは、これまでお話ししてきたことから、少し逸れることになりますが、今日お話しすることとの関わりで、すでにお話ししたことを再確認しておきたいことがあります。
 それは、ここで、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われていることが、1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方[キリスト]にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている、父なる神さまの永遠の愛から出ているということです。
 新改訳(第3版、2017年版)が「愛をもって」と訳していることば(エン・アガペー)は、ギリシア語の原文では4節の終わりに出てきます。とはいえ、節の区切りは霊感されているわけではありませんので、これが、その前の部分につなげられるものか、その後の部分につなげられるものかについては、見方が別れています。これが前の部分につなげられるとすると、「愛にあって(エン・アガペー)聖なる、傷のない者」となり、私たちのあり方のことになります。新改訳は後の部分につなげられるものとして、神さまの愛のことを述べていると理解しています。
 これが、前の部分につなげられるべきと考えているA. T. Lincoln (WBC), p.17は、その理由としていくつかのことを挙げています。そして、それは、O'Brien (PNTC), p.101-102. によって支持されています。二人の優れた学者の理解ですが、私は、今一つ、納得できていません。
 新改訳のように、後の部分につなげる理解を支持する点をいくつか挙げておきます。
 一つは、エペソ人への手紙と、言わば、ツィン(双子)のように理解されているコロサイ人への手紙の1章22節には、

今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

と記されています。ここには、「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者」が「御前に」との組み合せで出てきます。最初の二つの「聖なる者、傷のない者」はエペソ人への手紙1章4節に出てくる「聖なる、傷のない者」と同じことば(形容詞・ハギオスとアモーモス)です。コロサイ人への手紙では、これにさらに「責められるところのない」がつけられていて、私たちの神さまの御前におけるあり方が強調されています。これは、エペソ人への手紙に記されている永遠の前からの選びにおいて神さまが私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ということが、御子の死による罪の贖いによって実現していることを示していると考えられますが、ここには、「愛にあって(エン・アガペー)」がありません。つまり、私たちが「愛にあって(エン・アガペー)、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者」となるということではないのです。
 もう一つは、エペソ人への手紙1章では、引用した4節ー5節に続いて、6節に、

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。4節では、私たちは「この方[キリスト]にあって」選ばれたと言われています。みことばの示すところでは、キリストこそが神さまに選ばれた方であり、私たちはこのキリストにあって選ばれています。このことは、先ほど挙げた二人の学者も含めて、広く認められています。この、神さまに選ばれた方のことが、6節では「神がその愛する方」(直訳「愛された方」。この受動態がdivine passiveで主体が神さまなので、新改訳は「神がその愛する方」と訳しています)と呼ばれています。これは、キリストにあって選ばれている私たちも愛されていることを思わせます。コロサイ人への手紙3章12節では、私たちのことが「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」と言われています。
 また、エペソ人への手紙1章5節では、神さまが私たちを「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」されたと言われています。イエス・キリストこそは父なる神さまが「愛する子」です(マタイの福音書3章17節、17章5節、また、これと並行するマルコの福音書とルカの福音書の個所)。私たちもイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストによって、神さまに愛されている子としていただいています。エペソ人への手紙5章1節には、

 愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

と記されています。
 さらに、テサロニケ人への手紙第一・1章4節には、

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。

と記されています。ここでは、「神に愛されている兄弟たち」が「神に選ばれている」と言われていていて、神さまの選びと神さまの愛のつながりを汲み取ることができます。
 消極的なことですが、エペソ人への手紙において、「愛にあって(エン・アガペー)」ということばが圧倒的に信徒のあり方のことを述べているときに用いられているということは、エペソ人への手紙が全体において信徒のことを述べているのですから、当然のことです。それで、これは統計的に処理することができないことです。
 また、これからお話しすることは、新改訳が示している理解に沿っていますが、これからお話しすることも参考にしてください。
 このことを踏まえてのことですが、エペソ人への手紙1章5節に、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されていることにおいては、「愛をもって」ということばが最初に出てきて強調されています。ここで、父なる神さまの愛が強調されていることはとても大切なことです。これは、永遠における神さまのみこころによることであり、私たちがいまだ存在していないときのことです。それで、そのすべては、神さまの一方的で、何ものによっても影響されたのではない、その意味で、神さまの主権的な愛から出ています。
 2章4節ー5節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されていることにおいても、同じように、すべては、神さまの一方的で、主権的な愛から出ているということを汲み取ることができます。
 この場合、「その愛のゆえに」(直訳「ご自身の愛のゆえに」)と言うだけで、それが神さまの愛から出ていることが伝わりますが、ここでは、「その大きな愛のゆえに」(直訳「ご自身の大きな愛のゆえに」)というように、その神さまの愛が「大きな愛」と言われていていて、神さまの愛の豊かさが強調されています。そればかりでなく、さらに、(ギリシア語では関係代名詞でこれに続けて)「私たちを愛してくださった」を加えて、さらに、神さまの私たちへの愛が強調されているのです。
 繰り返しになりますが、神さまがこれほどまでに愛してくださったのは、「背きの中に死んでいた私たち」です。神さまに対する罪によって神さまに敵対して歩んでいた私たちであり、神さまの聖なる御怒りによって滅びるべき私たちです。それで、神さまは私たちに何かご自身のみこころにかなうことがあるから私たちを愛してくださったのではありません。本当に、私たちの思いを越えたことですが、神さまは私たち自身を愛してくださっているのです。
 これは、1章4節ー5節において、神さまが永遠から、いまだ存在していない私たちを愛してくださったと言われていることを、さらに越えて、私たちを驚かせます。というのは、私たちには、2章1節ー3節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されている、かつての私たちのの現実があり、その現実をみことばをとおして教えられており、それを御霊によって悟らせていただいているからです。
 とはいえ、翻って見てみますと、1章4節ー5節に、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方[キリスト]にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されているときの、

 御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

ということは、私たちが「汚れて、傷のある」者となってしまうこと、そのために、「御前」から退けられ、滅ぼされるべき者となってしまうことを神さまがご存知であられることを示しています。そして、神さまはそのような私たちを、キリストにあってお選びくださり、「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ばかりか、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」。
 このことから、2章4節ー5節において記されている、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たち」のために、御子イエス・キリストをの宥めのささげものとして遣わしてくださったことに現されている愛は、1章4節ー5節に記されている、私たちに対する父なる神さまの永遠からの愛がどれほどの愛であるかを示していることが分かります。
 このようなことを見ますと、すべては、父なる神さまの永遠からの、一方的で、主権的な、この上なく豊かで大きな愛から出ていることを汲み取ることができます。
 ただ、先ほどお話ししたように、私たちはかつては「背きの中に死んでいた」者です。自らの罪がもたらす霊的な暗闇に閉ざされていて、自分がどんなに「汚れて、傷のある」者であり、神さまの聖なる御怒りによって「御前」から退けられ、滅ぼされるべき者であるかを知りませんでした。
 しかし今は、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と記されている、「あわれみ豊かな神」が「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「キリストとともに生かして」いただいています。
 そうであっても、私たちのうちにはなおも、罪の本性が残っています。そのために、私たちは、自分の罪がもたらす霊的な暗闇を完全に取り去られているわけではありません。私たちはかつての私たちがどれほど深刻な罪の中にあって歩んでいたのか、それに対する神さまの聖なる御怒りがどれほどのものかを、十分には、知ることができていません。また、そのために、私たちは御子イエス・キリストが十字架の上で私たちに代わって受けてくださった、父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰がどれほどのものであったのかも、十分には、知ることができていません。
 そのために、私たちは、父なる神さまが私たちを愛してくださって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを「御前に聖なる、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」にしてくださるために、ご自身の御子をも遣わしてくださったことを知っているのに、その父なる神さまの愛を、十分には、知ることができていません。また、御子イエス・キリストが私たちを愛してくださって、私たちのために十字架におかかりになって、ご自身のいのちを贖いの代価としてくださったことを知っているのに、その御子イエス・キリストの愛も、十分には、知ることができていません。
 この現実がもたらす苦しみに、私たちはどれほど悩まされていることでしょうか。
 父なる神さまと御子イエス・キリストに、こんなにも愛していただいているのに、どうして、その愛を、十分に知ることができていないのだろうかという苦しみがあります。
 そのことから、さらに、自分が神さまの愛を本当に知っていれば、あの試練、この問題が襲ってきたときに、神さまの愛への確信がぐらついてしまうことはなかっただろうにとか、兄弟姉妹に対してもっと深く思いやることができただろうに、何であのようなことを言ってしまったのだろう、何であのようなことをしてしまったのだろう、というような思いにさいなまれてしまいます。
 もちろん、その都度、神さまの御前に悔い改めるのですが、私たちのうちに罪の本性がなお者凝っているという現実は、私たちが地上の歩みを続けている間は、変わることがありません。
 しかし、神さまは1章4節ー5節に記されているみことばをいたずらに啓示してくださったのではありません。そのみことばを啓示してくださった神さまは、私たちがそのような自分の罪の現実に悩まされ、苦しむ時にこそ、私たちがそのような罪をうちに宿しているものであることをご存知であって、なお、永遠から私たちを愛してくださって、私たちをキリストにあって選んでくださり、ご自分の子にしようと定めてくださった、ということを思い起こすよう招いておられます。このみことばをめぐって、思弁を巡らせて、選びや予定の教理は恐ろしいというような捉え方をすることは、このみことばを啓示してくださった神さまのみこころではありません。
 また、2章4節ー5節に記されているみことばについても同じです。このみことばを啓示してくださった、あわれみ豊かな神さまは、私たちがそのような罪をうちに宿しているものであることをご存知であって、なお、「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったということを、私たちがそのような自分の罪の現実に悩まされる時、苦しむ時にこそ、思い起こすよう招いておられます。


 もちろん、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって、私たちの救いが完全に実現し、私たちがイエス・キリストにあって栄光のからだによみがえり、罪を完全にきよめられて、罪がもたらす霊的な暗闇がまったく取り去られたとしても、御子イエス・キリストの十字架の死の苦しみがどれほどのものであったかは、私たちの思いをはるかに越えたことであり続けます。そのことにおいて現されている父なる神さまと、御子イエス・キリストの愛がどれほどのものであるかも、私たちの思いをはるかに越えたことであり続けます。そうであるからこそ、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛は、永遠に、私たちにとっては新鮮な愛であり続けます。
 しかし、私たちは被造物としての限界の中にあってのことではありますが、真に、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を知るようになります。私たちはその希望の中に生きています。
 ヨハネの手紙第一・3章1節ー2節には、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されています。
 2節の初めに、

 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

と記されています。これに先立って、1節には、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

と記されています。私たちは、すでに「神の子ども」としていただいています。そして、それが父なる神さまの「すばらしい愛」によることであることも知っています。けれども、私たちはなお、

 御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

と命じられています。この「考えなさい」と訳されていることば(エイドン)は「見る」ことを表します。命令法ですので「ご覧なさい」ということで、この父なる神さまの愛に目を向けて、深く思い巡らすように促しています。新改訳2017年版の「考えなさい」はこの意味合いを伝えています。新改訳第3版のように、このみことばを、感嘆文として、

 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

というように訳すこともできますが、この父なる神さまの愛に目を向けて、深く思い巡らすように促していることには変わりがありません。
 ここでは、その愛のことが「どんなにすばらしい」と言われていますが、このことば(ポタポス)は、もともと、「どの国から」ということを意味しています。私が子どもの頃は、「舶来品」というと、とても高級で手が届かないものを意味していました。ここでの父なる神さまの愛は、言ってみれば、「どの国から」のもの、「舶来品」どころか、「この世のものとは思えない」と言うべきものでしょう。
 先ほどお話ししたように、私たちは、すでに「神の子ども」としていただいていて、それが父なる神さまの「すばらしい愛」によることであることを知っていますが、それが「どんなにすばらしい愛」であるかを、十分には、知ることができていません。それで、私たちはいつも、父なる神さまの愛を思い巡らし、考え続けなければならない状態にあります。
 父なる神さまの愛のことを思い巡らし、深く考えるためには、私たちのためにご自身の御子をもお遣わしになったことに現されている父なる神さまの愛と、私たちのために十字架におかかりになって、ご自身のいのちを贖いの代価としてくださったことに現されている御子イエス・キリストの愛に目を向け、その愛をさらによく知るようにする他はありません。3章16節に、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されており、4章9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されているとおりです。
 その父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を現実のこととして知るようになるためには、私たち自身が、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、イエス・キリストと一つに結ばれて新しく生まれた神の子どもとして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きていなければなりません。
 コリント人への手紙第二・3章18節には、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されています。これは、私たちの今の状態のことを記しています。ここに記されている、私たちの今の状態も、私たちが「御霊なる主」によって、イエス・キリストと一つに結ばれて、新しく生まれた神の子どもとして、父なる神さまと栄光の主イエス・キリストとの愛の交わりに生きていることの中で起こります。
 このことが終わりの日に完成することが、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されているのです。
 私たちが「キリストが現れたときに、キリストに似た者になる」と言われていることは、やはり、御霊のお働きによることです。そして、ここで、「キリストをありのままに見る」と言われていることは、その御霊のお働きによって、私たちの父なる神さまとの愛の交わりと、栄光のキリストとの愛の交わりが、より栄光に満ちたものとして完成するようになることを意味しています。
 その日には、私たちは、私たちのためにご自身の御子をもお遣わしになった父なる神さまの愛と、私たちのために十字架におかかりになって、ご自身のいのちを贖いの代価としてくださった御子イエス・キリストの愛に触れ、父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの愛に満たされて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きるようになります。
 その時に、どのようなことが起こるでしょうか。もちろん、みことばに基づいて想像するほかはないのですが、真に、父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの愛に触れるようになるとき、私たちに示された父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの愛がどれほどのものであるかを真に悟ったとき、私たちはひれ伏す他なくなることでしょう。愛と恵みに満ちた栄光の御臨在の御前にひれ伏して、ひたすら、父なる神さまと御子イエス・キリストを讃える他はないことでしょう。その時には、すべてが、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛から出ていることを揺るぐことなく納得し、確信するようになるでしょう。


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