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説教日:2020年8月2日 |
神さまが御子イエス・キリストを私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださったのは、「背きの中に死んでいた私たち」を、イエス・キリストによって、また、イエス・キリストにあってご自身の子としてくださり、ご自身の「御前」、すなわち、御臨在の御許に住まわせてくださり、永遠にご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださるためでした。 そして、そのことは、神さまが創造の御業において、人をご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださるために、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったこと、さらに、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことと深く関わっています。 神さまが創造の御業において、ご自身の安息の日として祝福し、聖別された創造の御業の第7日は閉じていなくて、今日に至るまで続いています。そして、この創造の御業の第7日は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史となっています。 神さまは創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。それで、創造の御業の第7日は、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る期間となっています。 歴史と文化を造る使命というと、大げさなことをすることのように聞こえます。 しかし、これには、私たちがなじんでいる歴史とか文化のイメージが関わっています。私たちには、特別な才能を持っている人が特別なものを造り出したり、特別なことをしたときに文化が造られ、歴史が造られるというようなイメージがあります。 私たちが学んできた世界史や日本史においては、一つの国が興って、周囲の国々を征服して大国となり、繁栄し、やがて衰退していって、別の国に滅ぼされると、今度は、それを滅ぼした国が周囲の国々を征服して大国となり、繁栄し、やがて衰退していくというようなことが繰り返し起こってきます。 それは、まさに、ダニエル書7章に記されている、ダニエルが見た幻において、「四頭の大きな獣」が、次々と海から上って来たことに示されている、この世の国々の興亡のさまです。2節ー7節には、 私が夜、幻を見ていると、なんと、天の四方の風が大海をかき立てていた。すると、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から身を起こされて人間のように二本の足で立ち、人間の心が与えられた。すると見よ、熊に似た別の第二の獣が現れた。その獣は横向きに寝ていて、その口の牙の間には三本の肋骨があった。すると、それに『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった。その後、見ていると、なんと、豹のような別の獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また夜の幻を見ていると、なんと、第四の獣が現れた。それは恐ろしくて不気味で、非常に強かった。大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。 というダニエルの証しが記されています。 これら「四頭の大きな獣」についてはいくつかの見方がありますが、この世の国々の歴史を代表的に示していることは共通しています。そして、こでは、歴史の進展とともに、その凶暴性を増していき、ついには「反キリスト」の国が現れてくることも示されています。それとともに、これに続く、9節ー14節には、神さまがさばきの御座に着座されてさばきが執行されること、そして、「人の子のような方」として描かれているメシアの来臨とともにとこしえの主権が確立されることが示されています。 それでは、これらの国々は、歴史と文化を造ったのでしょうか。造り主である神さまの御前においては、それは、真の意味での歴史でも文化でもありません。それは、神さまの御前において、やがて、過ぎ去るべきものであることが明らかにされます。 それは、神さまのさばきによることですが、そのさばきには二つの面があります。一つは、このダニエルが見た幻において示されている、次々と現れてくる大国の興亡という歴史の流れの中で消え去っていくという形でのさばきです。もう一つは、最終的には、終わりの日に、再び来られるメシアが、永遠の主権を確立し、その御座に着いて執行される神さまの聖なる御怒りによるさばきによって、すべてがさばかれ、滅ぼされるということです。 これに対して、メシアの国においては、王であるメシアが、そのしもべたちを愛して、ご自身がしもべたちの罪を贖うための宥めのささげものとなられることによって、しもべたちの身代わりとなって、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださいました。それによって、メシアの国の民に対する最終的なさばきは、すでに、王であるメシアの十字架の死において執行されて、終っています。そればかりでなく、メシアの国においては、王であるメシアが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことによって、父なる神さまの御前に義を確立されるとともに、その完全な従順に対する報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。そして、天に上って、父なる神さまの右の座に着座されることによって、永遠の主権を確立されました。これが、メシアの国が永遠の御国であるということの核心にあることです。 そして、繰り返しになりますが、このメシアの国を特徴づけているのは、王であるメシアが、ご自身をお遣わしになった父なる神さまを愛して十字架の死に至るまでそのみこころに従いとおされた愛ですし、ご自身の民である私たちを愛して十字架におかかりになった愛です。その父なる神さまとイエス・キリストの愛は、私たちの間では、イエス・キリストが父なる神さまの右の座からお遣わしになった聖霊によって、私たちの間の現実になっています。 ローマ人への手紙5章1節ー5節には、 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 と記されています。 このようなことを踏まえて、改めて、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを考えてみましょう。 まず、確認しておきたいことですが、神さまは、神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を果たすために必要な、すべての賜物をお与えになっておられます。それには、人に与えられているさまざまな能力が含まれています。 もし、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったとしたら、どのような歴史と文化が造られていたでしょうか。これについては、想像する他はないのですが、確かなこともいくつかあります。その場合には、すべての人が神である「主」の御臨在の御許に住まい、「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていたでしょう。そこには、神である「主」への愛における完全な一致があり、罪の自己中心性が生み出す争いはなく、そのために、相手を打ち負かすための武具や武器も造り出されることもなかったでしょうし、人の知恵が巧妙な欺きを生み出すために使われることもなかったでしょう。 これを言い換えますと、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったとしたら、ひとは神さまが与えてくださっているさまざまな能力を、これらのもののために浪費することはなかったということです。 それで、大国の興亡の歴史はなかったでしょう。また、この世の国が覇権を争う中で犠牲になった数知れない人々の悲しみや苦しみも、絶望もなかったことでしょうし、おびただしいいのちの血や涙が流されることもなかったことでしょう。 これは人の世界だけのことではありません。神さまのみことばは、神さまが全被造物を神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体にあるものとされたことを示しています。それで、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、全被造物が、人との一体にあるものとして虚無に服してしまっているということを示しています。ローマ人への手紙8章19節ー22節に、 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。 と記されていることは、このことを踏まえて初めて理解することができます。 人との一体にある被造物が、人が罪を犯したことにより、虚無に服したのであれば、人が御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかり、復活の栄光にあずかって「神の子ども」として回復されるなら、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」。 もし、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったら、被造物が虚無に服して、さまざまな形での不毛な状態が生み出されることもなかったでしょう。それ以上に、人が自分たちの欲望を満たすために被造物を搾取して、神さまが創造の御業においてご自身のご臨在される所として聖別されたこの「地」を荒廃させることもなかったでしょう。そうであれば、荒廃した自然が牙をむいて、人に襲いかかってくるようなこともなかったことでしょう。 これらのことを考えますと、もし、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかった場合に造られたであろう歴史と文化は、私たちがなじんでいる歴史と文化とはまったく様相の違ったものとなっていたことを想像することができます。 イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始められたとき、御霊に導かれて荒野に行かれ、そこでサタンの試みにあわれました。マタイの福音書では三つ目の試みが、4章8節ー10節に、 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」 と記されています。サタンが見せたのは「この世のすべての王国とその栄華」だと言われています。それは契約の神である「主」にいっさいの栄光を帰して礼拝する歴史と文化ではなく、人の罪の自己中心性が表現されている歴史と文化です。それは突き詰めていくと、暗闇の主権者であるサタンを神として礼拝する歴史と文化です。 メシアの国の王として、ご自身のいのちをしもべたちの罪の贖いの代価としてお与えになるために来られた御子イエス・キリストは、人の目に「この世のすべての王国とその栄華」と見えるものの陰で、どれほどの偽りと欺きがあり、どれほどの戦いがあり、どれほどの血が流され、どれほどの涙が流されてきたか、また、その時も、どれほどの苦しみと悲しみがあるかをすべてご存知だったはずです。 契約の神である「主」を礼拝し、「主」にのみ仕えることは、「この世のすべての王国とその栄華」を手に入れることよりはるかにまさるというのではありません。「主」を礼拝し、「主」にのみ仕えることと、「この世のすべての王国とその栄華」を手に入れることは相容れないことなのです。それは、また、メシアの国とその栄光は、「この世のすべての王国とその栄華」とはまったく相容れないものであるということを意味しています。 しかし、これには注意しなければならないことがあります。それは、「この世のすべての王国」とメシアの国は地理的、空間的に区別されるものではないということです。聖書においては、「国」ということば(ヘブル語・マルクート、ギリシア語バシレイア)は、第一義的には、「王権」や「王が支配すること」を表します。メシアの国は、王であるメシアが、父なる神さまの右の座から遣わしてくださった聖霊によって治めてくださっていること、それによって、ご自身の民がご自身と父なる神さまとの愛の交わりに生きるようにしてくださっていることによって成り立っています。同じ時に、同じ所にいて、同じことをしているのに、メシアの国に属してる人と属していない人がいることがいくらでもあります。 そして、再び繰り返しになりますが、そのようにして成り立っているメシアの国の特質は、王であるメシアが、ご自身をお遣わしになった父なる神さまを愛して十字架の死に至るまでそのみこころに従いとおされた愛ですし、ご自身の民である私たちを愛して十字架におかかりになった愛です。 * 先ほど、サタンがイエス・キリストに見せたのは「この世のすべての王国とその栄華」であったということをお話ししました。その「栄華」は武具や策略などを駆使して覇権を争って勝ち取ったものです。他より高く、他より強く、他より大きいものです。この世では、そのようなものが、歴史を造り、文化を造ってきたと言われています。しかし、そこには打ちひしがれた人々、貧困にあえぐ人々、見捨てられた人々が数知れずいます。これに対して、メシアの国においては、そのような、他より高く、他より強く、他より大きいものというような、栄光の基準がありません。大群衆の中で個人が埋没して、忘れ去られるということがないのです。 たとえば、ノアの時代の大洪水によるさばきが執行される前の時代状況においては、契約の神である「主」を礼拝するのは、ノアとその家族だけになってしまいました。その他のすべての人が「主」を神として礼拝することはなくなってしまいました。しかし、創世記7章1節には、 この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。 と記されています。新改訳2017年版では、「あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである」となっています。しかし、この場合は、「分かったからである」は、より文字通りの「見たからである」と訳した方がよいと考えます。ことばの順序としては、「あなたを」「わたしは見た」「正しいと」となっていて、「あなたを」が先に、しかも、強調の形で出てきて、より強調されています。いずれにしても、「主」の御目には、ノアはその時代のすべての人々の中に埋没していないどころか、「主」の御目はノアにこそ向けられていたのです。 マルコの福音書13章1節ー2節には、 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」 と記されています。弟子たちはエルサレム神殿の壮大さに目を奪われていました。そのために用いられていた石の大きさも相当なものであったようです。ラビたちも、そのエルサレム神殿について、「この神殿をその全体の構造において見たことがない人は、その生涯において、栄光に満ちた建物を見たことがない人である」と言っていたということが伝えられています。しかし、イエス・キリストは、それがやがて「主」のさばきによって徹底的に破壊されるべき、空しいものであることを見据えておられました。 また、この前の12章41節ー44節には、 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。 と記されています。「レプタ銅貨」はその当時、パレスチナで出回っていた硬貨の最小単位でした。「コドラント」はローマの硬貨の最小単位の銅貨でした。イエス・キリストの眼差しは、「群衆」の中の「レプタ銅貨二枚を投げ入れた」「貧しいやもめ」に向けられていました。 神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、神さまの御前では、私たちがごく日常のこととしてなしている、飲むこと食べることのようにほんの小さなことにおいても果たされるものです。私たちは何かを食べるとき、それが、神さまが創造の御業において備えてくださり、私たちに与えてくださっているものであることを信じて、神さまの御臨在を身近に感じつつ、感謝とともにいただきます。それは、神さまとの愛の交わりの機会であり、ただ目の前にある物を、ありがたく食べるということとはまったく違う、豊かな意味をもったこと、その意味で、文化的なこと、神さまの御前で、文化を造ることです。私たちはそれを、毎日、繰り返しています。それは、私たちそれぞれが、あらゆることにおいて、ともにいてくださる主とともに人生の歩みを歩んでいるという歴史を造ることです。このことは、私たちがなしているすべてのことに当てはまります。 |
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