|
説教日:2020年7月26日 |
しかし、実際には、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。 今日は、このことについて、もう少しお話ししたいと思います。 神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人については、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されています。 この場合の「心」は、聖書の中ではとても豊かな意味をもっていて、神のかたちとして造られている人のうちなる本性の全体を意味しています。この「心」はその人の人格の中心にあり、知性や感情や意志など、人の人格的な働きのすべてがこの「心」にあるとされています。 そのことを表す典型的なみことばとして知られているのは、箴言4章23節に記されている、 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれから湧く。 というみことばです。 ですから、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 というみことばは、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の考え方と感じ方と生き方を根底から規定し、特徴づけているのは「神はいない」という思いであるということを示しています。 そのような状態にある「心」のことが、エレミヤ書17章9節ー10節には、 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。 と記されています。 このみことばについては、半年ほど前にお話ししたことがありますが、それを補足しつつ、振り返ってから、さらにお話しします。 新改訳2017年版では、これは5節から始まる「主」のみことばとなっていますが、「主」のみことばは8節までで、9節と10節は、エレミヤと「主」の対話となっていると考えられます[その根拠については、Lundbom, Jeremiah 1-20,AB ,p.786を見てください]。 ここでは、「人の心」が出てきますが、「人の」ということばはありません。けれども、この場合は[冠詞がついていて(特別な事例であるようです)]、エレミヤ自身を含めて、すべての人の「心」を表していると考えられます(Lundbom, , p.787)ので、一般化して「人の心」と訳されています。 この理解が示しているように、ここでエレミヤは、 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 ということを他人事のように述べているのではなく、自分自身のこととしても述べています。 ここで、 それは癒やしがたい。 と訳されていることは、新国際訳(NIV)と同じですが、新アメリカ標準訳(NASB)のように、 それは絶望的に病んでいる。 と訳すと、その深刻さがより分かりやすいかもしれません。また、ここで用いられていることば(アーナシュ)については「エレミヤ17・9では、心が霊的に病んでいるという点で、絶望的な状態にあることを示している。」(TWOT,#135)という、ほぼ同じ理解もあります。新共同訳は、新改訳2017年版の「ねじ曲がっている」という、一般的に「欺く」と訳されていることば(アーコーブ)とつなげて、 とらえ難く病んでいる。 と訳しています。 これに続く、 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 と訳されているときの「知り尽くす」と訳されていることば(ヤーダァ)は、「知る」ことを表しています。「知り尽くす」という訳は、一つの解釈を示しています。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 というと、ほぼ分かるけれども、分からない部分もあるというような意味合いを伝えます。しかしここでは、人がその「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいる「心」の状態を知ることができないということを示しています。 この場合、ここで言われている「心」は、先ほどお話ししたように、人のうちなる本性の全体を意味しており、人の人格の中心にあるもので、知性や感情や意志など、人の人格的な働きのすべてがこの「心」にあるとされている、ということをわきまえる必要があります。 人は、自分のことは自分がいちばんよく知っていると考えます。しかし、エレミヤが、 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 と問いかけるとき、「ねじ曲がっている」(欺きに満ちている)自分の「心」は、自分でも知り尽くすことはできないという思いを表しています。それは、自分に限界があるということだけでなく、それ以上に、自分のうちに罪の本性があって、自分自身が罪の闇に閉ざされてしまっているためのことです。いわば、罪の闇に閉ざされてしまっている自分自身が欺かれてしまっているのです。そのために、人はそのように、本当は、絶望的に病んでいる「心」の状態を、自然なことのように感じてしまいます。たとえば、「みんな同じだから、これでいいのだ」というように思うのです。そのようなわけで、人は自分の「心」が「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいることには気づくことができません。 このことは、この、 だれが、それを知ることができるだろうか。 ということが、続く10節に記されている、 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。 という神である「主」のみことばにおいて、 わたし、主が心を探り、心の奥を試す と言われていることと対比されていることからも、汲み取ることができます。 ここでは、 わたし、主が(アニー・ヤハウェ) ということばが強調されていて、人にはできないことと対比されています。このことは、「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいる「心」の状態を真に知っておられるのは「主」ヤハウェお一人であるということを意味しています。それで、「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいる「心」の状態が、いくら、自分自身を含めて、人の目から隠されているとしても、「主」はその「心」のすべてを知っておられます。人が思うことも、考えることも、感じることも、なすことも、また、その動機も目的も、完全に知っておられるというのです。そして、ここでは、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。 と言われています。「主」は、人が思うことも、考えることも、感じることも、なすことも、また、その動機も目的も含めて、すべてをおさばきになります。このことは、ヘブル人への手紙4章13節に記されている、 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。 というみことばを思い起こさせます。 ここでは、あの大預言者エレミヤが、自分自身のこととして、「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いる「心」は「癒やしがたい」(絶望的に病んでいる)と嘆くように告白しています。もはや、人にはどうすることもできなくて、ただ「主」のさばきに服する他はないということになります。 このような、エレミヤが自分自身のこととして嘆きつつ、告白していることの根底には、詩篇14篇1節に記されている、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 という現実があります。 詩篇14篇では、これに続く1節後半ー3節に、 彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。 善を行う者はいない。 主は天から人の子らを見下ろされた。 悟る者 神を求める者がいるかどうかと。 すべての者が離れて行き だれもかれも無用の者となった。 善を行う者はいない。 だれ一人いない。 と記されています。 ここに記されていることは、パウロが「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある」ということを示すために、ローマ人への手紙3章10節ー12節に引用しています。そのことから分かるように、これらのみことばが示していることは人の罪の現実を示す典型的なことですが、そのすべての根底にあるのは、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 という、罪の力に縛られてしまっている人の現実です。やはり、もはや、人にはどうすることもできなくて、ただ「主」のさばきに服する他はないということになります。 しかし、パウロは、このような、罪の下にある人の絶望的な現実を指摘することから進んで、信仰による義と、神さまの一方的な愛に基づく、恵みによる救いを明らかにしていきます。 同じように、エレミヤは、この17章9節ー10節の数節後の14節において、 私を癒やしてください、主よ。 そうすれば、私は癒やされます。 私をお救いください。 そうすれば、私は救われます。 あなたこそ、私の賛美だからです。 と「主」に願い求めています。 ここでは、「私を癒やしてください、」「そうすれば、私は癒やされます。」というように、「癒やす」ということば(ラーファー)が重ねられていて、「主」への信頼の告白を伴う願いがなされています。また、「救う」ということば(ヤーシャァ)を重ねて「私をお救いください。」「そうすれば、私は救われます。」というように、やはり、「主」への信頼の告白を伴う願いがなされています。この二つのことばにおいては、「癒やす」ということばはより特殊なことを表しますが、「回復する」とか「健全な状態にする」ということも表します。また、「救う」ということばは「解放する」ということも表し、より広い意味合いをもっています。この二つのことばは、この場合もそうですが、ほぼ同じようなことを表すことがあります。ここでは、 私を癒やしてください。 そうすれば、私は癒やされます。 と言われていることと、 私をお救いください。 そうすれば、私は救われます。 と言われていることが並行法的につながっています。このように、ほぼ同じことを繰り返すことによって、その願いの切なることと、この場合は、「主」への信頼が告白されているので、その「主」への信頼が揺るぎないことを告白しています。 そして、 あなたこそ、私の賛美だからです。 と言われていることでは、この訳が示しているように、エレミヤが、 私を癒やしてください、主よ。 と呼びかけた「主」を親しく「あなた」と呼んでいます。そして、その「主」こそが「私の賛美」であると告白しています。これは実質的に「主は私の賛美」という呼び名である、あるいは、「主は私の賛美」という呼び名を踏まえての告白であると考えられます。これによって、このような「主」への揺るぎない信頼とともに切なる願いをすることが、「主」を讃えることを動機とし、目的としていることが示されています。 罪の力に縛られてしまって、罪のもたらす霊的な暗闇に閉ざされているために、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と言われている状態にあった人が、神である「主」の一方的な愛と恵みによって、「主」を親しく「あなた」と呼んで、 あなたこそ、私の賛美だからです。 と告白し、「主」との親しい交わりにあって、「主」を讃えることを動機とし、目的として生きる人に変えられるのです。 私たちは、神である「主」の一方的な愛と恵みによって、「主」を親しく「あなた」と呼ぶ「主」との愛の交わりに生きる主」の民としていただいており、さらに言いますと、父なる神さまを「アバ、父」と呼んで、父なる神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとしていただいています。このことが、神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別してくださったみこころ、すなわち、神のかたちとして造られた人を、より豊かな栄光において、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださるというみこころが実現していることの現れです。 |
|
||