黙示録講解

(第433回)


説教日:2020年7月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(186)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 まず、この約束を理解するうえで、最も基本的で大切な二つのことを確認しておきます。
 一つは、ここで、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と言われているときの「権威」は、栄光のキリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威であるということです。
 もう一つは、その父なる神さまが御子イエス・キリストにお委ねになった権威は、メシアの国の王としての権威であって、王であり、主であるイエス・キリストが、しもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちを捨てくださったことに現されている権威です。
 今お話ししているのは、栄光のキリストが、

 諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。

と約束してくださっていることは、遠い先のことではなく、すでに、原理的・実質的に、私たちご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっているということです。
 そして、その約束が、すでに、原理的・実質的に、私たちの間の現実になっていることを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばについてお話ししています。
 これまで、4節ー5節に記されている、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

というみことばについてお話ししてきました。
 いつものように、これまでお話ししてきたことで、今日お話しすることとかかわっていることをまとめておきましょう。
 ここでは、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。その父なる神さまの「大きな愛」は「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、罪のために、霊的な戦いにおいて、神さまの敵となって歩んでいた私たちを、愛してくださって、御子イエス・キリストを私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださった愛です。
 前回お話ししたように、神さまが御子イエス・キリストを私たちの罪のための宥めのささげものとして遣わしてくださったのは、「背きの中に死んでいた私たち」をご自身の子としてくださり、ご自身の「御前」、すなわち、御臨在の御許に住まわせてくださり、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださるためでした。
 そして、そのことは、神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたことと深く関わっています。
 このことを理解するために、すでにお話ししたいくつかのことを簡単にまとめてから、さらに、お話を続けていきたいと思います。
 第一に、ヨハネの福音書1章1節ー3節に記されているように、創造の御業は、永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる「ことば」すなわち御子が遂行されました。このことは、天地創造の御業は、父なる神さまが、御子によってご自身の愛を、ご自身の外に現された御業であるということ、父なる神さまが御子によって、お造りになったものに、ご自身の愛を注がれた御業であるということを意味しています。
 第二に、造られたものの中で、その神さまの愛を受け止めて、神さまへの愛をもって応答する存在は、人格的な存在である御使いと人です。神さまのみことばは、その中でも、神のかたちとして造られている人が、特別な立場にあることを示しています。というのは、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、その歴史と文化を造る使命を御使いにではなく、神のかたちとして造られている人にお委ねになったからです。
 第三に、神さまは人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになりました。それは、肉体と霊魂からなる人格的な存在として造られた人が神のかたちであって、霊魂だけが神のかたちであるということではありません。その神のかたちの本質的な特質が愛であるということは、神のかたちとして造られている人が、何よりも、造り主である神さまとの愛の交わりに生きるものとして造られていることを意味しています。
 第四に、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別された創造の御業の第7日は、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たしていく期間、いわば、時間的、歴史的な舞台となっています。
 第五に、創世記1章2節には、神さまが「」を造り出された時の状態が、

 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

と記されています。神さまは創造の御業において、この「」を最終的には人の「住む所」として形造られました(イザヤ書45章18節)。そのために、創造の御業の初めから、この「」にご臨在してくださって、この「」をご自身がご臨在される所として、聖別してくださっていました。そして、創造の御業の中で、この「」を、明るさや、温かさ、それぞれに固有の種をもって実を結ぶ多様な植物と多様な性質と生息の仕方をする生き物たちなど、ご自身の御臨在に伴う豊かさに満ちた所として形造られ、それを人の「住む所」としてくださいました。詩篇115篇16節には、

 天は の天。
 地は 主が人の子らに与えられた。

と記されています。そのようにしてくださったのは、ひとえに、神のかたちとして造られている人が、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるためのことでした。
 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、この「」のどこにおいても、見えない神さまの御臨在に伴う豊かさに囲まれており、それをとおして、神さまの御臨在の現実性(リアリティ)に触れることができました。それによって、人は自分たちの間に、ご臨在してくださっている神である「」との愛の交わりに生きることができたのです。
 このことが、神のかたちとして造られている人が、造り主である神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことの根底にあります。神である「」との愛の交わりに生きることなくしては、神さまのみこころにかなった歴史と文化を造ることはできません。


 しかし、実際には、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。
 今日は、このことについて、もう少しお話ししたいと思います。
 神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人については、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されています。
 この場合の「」は、聖書の中ではとても豊かな意味をもっていて、神のかたちとして造られている人のうちなる本性の全体を意味しています。この「」はその人の人格の中心にあり、知性や感情や意志など、人の人格的な働きのすべてがこの「」にあるとされています。
 そのことを表す典型的なみことばとして知られているのは、箴言4章23節に記されている、

 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。
 いのちの泉はこれから湧く。

というみことばです。
 ですから、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

というみことばは、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の考え方と感じ方と生き方を根底から規定し、特徴づけているのは「神はいない」という思いであるということを示しています。
 そのような状態にある「」のことが、エレミヤ書17章9節ー10節には、

 人の心は何よりもねじ曲がっている。
 それは癒やしがたい。
 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
 わたし、が心を探り、心の奥を試し、
 それぞれその生き方により、
 行いの実にしたがって報いる。

と記されています。
 このみことばについては、半年ほど前にお話ししたことがありますが、それを補足しつつ、振り返ってから、さらにお話しします。
 新改訳2017年版では、これは5節から始まる「」のみことばとなっていますが、「」のみことばは8節までで、9節と10節は、エレミヤと「」の対話となっていると考えられます[その根拠については、Lundbom, Jeremiah 1-20,AB ,p.786を見てください]。
 ここでは、「人の心」が出てきますが、「人の」ということばはありません。けれども、この場合は[冠詞がついていて(特別な事例であるようです)]、エレミヤ自身を含めて、すべての人の「」を表していると考えられます(Lundbom, , p.787)ので、一般化して「人の心」と訳されています。
 この理解が示しているように、ここでエレミヤは、

 人の心は何よりもねじ曲がっている。
 それは癒やしがたい。
 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

ということを他人事のように述べているのではなく、自分自身のこととしても述べています。
 ここで、

 それは癒やしがたい。

と訳されていることは、新国際訳(NIV)と同じですが、新アメリカ標準訳(NASB)のように、

 それは絶望的に病んでいる。

と訳すと、その深刻さがより分かりやすいかもしれません。また、ここで用いられていることば(アーナシュ)については「エレミヤ17・9では、心が霊的に病んでいるという点で、絶望的な状態にあることを示している。」(TWOT,#135)という、ほぼ同じ理解もあります。新共同訳は、新改訳2017年版の「ねじ曲がっている」という、一般的に「欺く」と訳されていることば(アーコーブ)とつなげて、

 とらえ難く病んでいる。

と訳しています。
 これに続く、

 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

と訳されているときの「知り尽くす」と訳されていることば(ヤーダァ)は、「知る」ことを表しています。「知り尽くす」という訳は、一つの解釈を示しています。

 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

というと、ほぼ分かるけれども、分からない部分もあるというような意味合いを伝えます。しかしここでは、人がその「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいる「」の状態を知ることができないということを示しています。
 この場合、ここで言われている「」は、先ほどお話ししたように、人のうちなる本性の全体を意味しており、人の人格の中心にあるもので、知性や感情や意志など、人の人格的な働きのすべてがこの「」にあるとされている、ということをわきまえる必要があります。
 人は、自分のことは自分がいちばんよく知っていると考えます。しかし、エレミヤが、

 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

と問いかけるとき、「ねじ曲がっている」(欺きに満ちている)自分の「」は、自分でも知り尽くすことはできないという思いを表しています。それは、自分に限界があるということだけでなく、それ以上に、自分のうちに罪の本性があって、自分自身が罪の闇に閉ざされてしまっているためのことです。いわば、罪の闇に閉ざされてしまっている自分自身が欺かれてしまっているのです。そのために、人はそのように、本当は、絶望的に病んでいる「」の状態を、自然なことのように感じてしまいます。たとえば、「みんな同じだから、これでいいのだ」というように思うのです。そのようなわけで、人は自分の「」が「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいることには気づくことができません。
 このことは、この、

 だれが、それを知ることができるだろうか。

ということが、続く10節に記されている、

 わたし、が心を探り、心の奥を試し、
 それぞれその生き方により、
 行いの実にしたがって報いる。

という神である「」のみことばにおいて、

 わたし、が心を探り、心の奥を試す

と言われていることと対比されていることからも、汲み取ることができます。
 ここでは、

 わたし、が(アニー・ヤハウェ)

ということばが強調されていて、人にはできないことと対比されています。このことは、「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいる「」の状態を真に知っておられるのは「」ヤハウェお一人であるということを意味しています。それで、「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いて、絶望的に病んでいる「」の状態が、いくら、自分自身を含めて、人の目から隠されているとしても、「」はその「」のすべてを知っておられます。人が思うことも、考えることも、感じることも、なすことも、また、その動機も目的も、完全に知っておられるというのです。そして、ここでは、

 それぞれその生き方により、
 行いの実にしたがって報いる。

と言われています。「」は、人が思うことも、考えることも、感じることも、なすことも、また、その動機も目的も含めて、すべてをおさばきになります。このことは、ヘブル人への手紙4章13節に記されている、

神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

というみことばを思い起こさせます。
 ここでは、あの大預言者エレミヤが、自分自身のこととして、「何よりもねじ曲がって」(欺きに満ちて)いる「」は「癒やしがたい」(絶望的に病んでいる)と嘆くように告白しています。もはや、人にはどうすることもできなくて、ただ「」のさばきに服する他はないということになります。

 このような、エレミヤが自分自身のこととして嘆きつつ、告白していることの根底には、詩篇14篇1節に記されている、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

という現実があります。
 詩篇14篇では、これに続く1節後半ー3節に、

 彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。
 善を行う者はいない。
 は天から人の子らを見下ろされた。
 悟る者 神を求める者がいるかどうかと。
 すべての者が離れて行き
 だれもかれも無用の者となった。
 善を行う者はいない。
 だれ一人いない。

と記されています。
 ここに記されていることは、パウロが「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある」ということを示すために、ローマ人への手紙3章10節ー12節に引用しています。そのことから分かるように、これらのみことばが示していることは人の罪の現実を示す典型的なことですが、そのすべての根底にあるのは、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

という、罪の力に縛られてしまっている人の現実です。やはり、もはや、人にはどうすることもできなくて、ただ「」のさばきに服する他はないということになります。
 しかし、パウロは、このような、罪の下にある人の絶望的な現実を指摘することから進んで、信仰による義と、神さまの一方的な愛に基づく、恵みによる救いを明らかにしていきます。
 同じように、エレミヤは、この17章9節ー10節の数節後の14節において、

 私を癒やしてください、よ。
 そうすれば、私は癒やされます。
 私をお救いください。
 そうすれば、私は救われます。
 あなたこそ、私の賛美だからです。

と「」に願い求めています。
 ここでは、「私を癒やしてください、」「そうすれば、私は癒やされます。」というように、「癒やす」ということば(ラーファー)が重ねられていて、「」への信頼の告白を伴う願いがなされています。また、「救う」ということば(ヤーシャァ)を重ねて「私をお救いください。」「そうすれば、私は救われます。」というように、やはり、「」への信頼の告白を伴う願いがなされています。この二つのことばにおいては、「癒やす」ということばはより特殊なことを表しますが、「回復する」とか「健全な状態にする」ということも表します。また、「救う」ということばは「解放する」ということも表し、より広い意味合いをもっています。この二つのことばは、この場合もそうですが、ほぼ同じようなことを表すことがあります。ここでは、

 私を癒やしてください。
 そうすれば、私は癒やされます。

と言われていることと、

 私をお救いください。
 そうすれば、私は救われます。

と言われていることが並行法的につながっています。このように、ほぼ同じことを繰り返すことによって、その願いの切なることと、この場合は、「」への信頼が告白されているので、その「」への信頼が揺るぎないことを告白しています。
 そして、

 あなたこそ、私の賛美だからです。

と言われていることでは、この訳が示しているように、エレミヤが、

 私を癒やしてください、よ。

と呼びかけた「」を親しく「あなた」と呼んでいます。そして、その「」こそが「私の賛美」であると告白しています。これは実質的に「は私の賛美」という呼び名である、あるいは、「は私の賛美」という呼び名を踏まえての告白であると考えられます。これによって、このような「」への揺るぎない信頼とともに切なる願いをすることが、「」を讃えることを動機とし、目的としていることが示されています。
 罪の力に縛られてしまって、罪のもたらす霊的な暗闇に閉ざされているために、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と言われている状態にあった人が、神である「」の一方的な愛と恵みによって、「」を親しく「あなた」と呼んで、

 あなたこそ、私の賛美だからです。

と告白し、「」との親しい交わりにあって、「」を讃えることを動機とし、目的として生きる人に変えられるのです。
 私たちは、神である「」の一方的な愛と恵みによって、「」を親しく「あなた」と呼ぶ「」との愛の交わりに生きる」の民としていただいており、さらに言いますと、父なる神さまを「アバ、父」と呼んで、父なる神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとしていただいています。このことが、神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別してくださったみこころ、すなわち、神のかたちとして造られた人を、より豊かな栄光において、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださるというみこころが実現していることの現れです。


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