本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、
勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
彼は鉄の杖で彼らを牧する。
土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。
という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
まず、この約束を理解するうえで、最も基本的で大切な二つのことを確認しておきます。
一つは、ここで、
諸国の民を支配する権威を与える。
と言われているときの「権威」は、栄光のキリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威であるということです。
もう一つは、その父なる神さまが御子イエス・キリストにお委ねになった権威は、メシアの国の王としての権威であって、王であり、主であるイエス・キリストが、しもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちを捨てくださったことに現されている権威です。
今お話ししているのは、栄光のキリストが、
諸国の民を支配する権威を与える。
彼は鉄の杖で彼らを牧する。
土の器を砕くように。
と約束してくださっていることは、遠い先のことではなく、すでに、原理的・実質的に、私たちご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっているということです(もちろん、その完全な実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます)。
そして、その栄光のキリストの約束が私たちの間の現実になっていることを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されているみことばについてお話ししています。
そこには、
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
と記されています。
これまで、4節ー5節に記されている、
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
というみことばについてお話ししてきました。
これまでお話ししてきたことで、今日お話しすることとかかわっていることをまとめておきましょう。
ここでは、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。その父なる神さまの「大きな愛」は「背きの中に死んでいた私たち」、罪のために、霊的な戦いにおいて、神さまの敵となって歩んでいた私たちを、愛してくださって、御子イエス・キリストをも私たちの罪のための宥めのささげもとして遣わしてくださった愛です。
神さまが御子イエス・キリストを私たちの罪のための宥めのささげもとして遣わしてくださったのは、「背きの中に死んでいた私たち」をご自身の子としてくださり、ご自身の「御前」、すなわち、御臨在の御許に住まわせてくださり、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださるためでした。1章4節ー5節に、
神は、世界の基が据えられる前から、この方[イエス・キリスト]にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
と記されているとおりです。
ここで、「世界の基が据えられる前から」と言われているとおり、この神さまの愛は永遠の愛です。その愛は、私たちを「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と言われているように、私たちがご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことをも踏まえています。それで、神さまは「背きの中に死んでいた私たち」を、「その大きな愛のゆえに」、「キリストとともに生かしてくださいました」と言われています。そのように、神さまは私たち自身を愛してくださいましたし、今も、また、永遠に愛してくださいます。
このように、神さまが私たちを愛してくださっていることは、永遠からのことですが、それが、神さまによって造られた私たちの現実になったのは、神さまの創造の御業においてです。
繰り返しお話ししてきたことですので説明は省きますが、ヨハネの福音書1章1節ー3節に記されているように、創造の御業は、永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる「ことば」すなわち御子が遂行されました。このことは、天地創造の御業は、父なる神さまが、御子によってご自身の愛を、ご自身の外に現された御業であるということ、父なる神さまが御子によって、お造りになったものに、ご自身の愛を注がれた御業であるということを意味しています。
そして、この神さまの私たちへの愛は、神さまが創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことによって、歴史とともにより豊かなものとなり、ついには、人が最初に神のかたちとして造られた時の、神のかたちとしての栄光より豊かな栄光における、神さまとの愛の交わりとして完成します。
その知恵と力において無限である神さまは、一瞬にして、この世界のすべてを完成したものとしてお造りになることができます。しかし、実際には、天地創造の御業の六つの日にわたって、段階的に創造の御業を遂行されました。その意味で、天地創造の御業自体が歴史的な御業でした。
前回も取り上げた、創世記1章1節に記されている、
はじめに神が天と地を創造された。
というみことばは、いくつかのつのことを示しています。
第一に、この「天と地」ということばは、秩序と調和のうちにあるこの世界の「すべてのもの」を表しています。そして、この、
はじめに神が天と地を創造された。
というみことばは、この世界の「すべてのもの」は、神さまが創造されたものであるということを示しています。
第二に、引用を繰り返しませんが、このみことばは、この世界の「すべてのもの」には、「はじめ」があり、その「はじめ」は神さまの創造の御業によっているということを示しています。そして、このことは、この世界の時間の流れも、創造の御業とともに始まっており、空間の広がりも、創造の御業とともに始まっていることを意味しています。
第三に、これら第一のことと第二のことを併せて見ると、神さまはこの世界の時間も空間も含めて、何もなかった状態、すなわち「無」から創造されたことが分かります。これを「無からの創造」と呼びます。
これは、世界の至るところにある神話においては、神や神々がすでにある世界の中に住んでいるとされていること、また、この世界に起こってくることに働きかけ、それを好転させて、幸運をもたらすとされていることとは、まったく違います。
この世界の「すべてのもの」は造り主である神さまのみこころによって存在するようになったものであって、すべてが神さまの御前に意味あるものとして存在しています。そして、すべてが神さまの御手によって支えられており、神さまのみこころに従って導かれています。
第四に、これらのことは、この世界の「すべてのもの」をお造りになった神さまと、神さまによって造られたこの世界の「すべてのもの」すなわち被造物の間には、「絶対的な区別」があることを意味しています。
神さまはあらゆる点において、無限であり、永遠であり、不変です。私たちはあらゆる点において、有限であり、時間的であり、移り変わる(経過する)ものです。そして、この造り主である神さまと神さまによって造られた被造物の間の「絶対的な区別」が、神さまの「聖さ」の本質です。
ただし、私たちは被造物としての限界があるものですので、神さまに当てはまる無限も永遠も不変も、それ自体がどのようなものか知ることができません。それで、私たちにはこの神さまと被造物の間の「絶対的な区別」も、それが実際にどのようなものであるかを知ることができません。このことは、御使いたちにとっても同じことです。
そうであるとすると、神さまがあらゆる点において、無限であり、永遠であり、不変であるということを、私たちが知っても意味がないのではないかと言われそうです。けれども、このことはとても大切なことです。
私たちの理解や想像を越えたことですが、神さまが無限な方であり、永遠な方であるので、神さまは、この広大な宇宙のあちこちに広がって存在している無数とも思われるものを、この時に、また常に、一つ一つみこころに留めてくださり、それぞれにふさわしく支えてくださり、導いてくださっているのです。
今この時にも、多くの「主」の民が、さまざまな状況の中で、さまざまな形式で、さまざまなことばで神さまを礼拝しています。神さまは御子イエス・キリストにあって、その一つ一つの集いにご臨在してくださり、その礼拝を受け入れてくださいますし、その中の一人一人のうちに住んでくださるという形で、とともにいてくださり、一人一人の思いとことばを親しく汲み取ってくださり、一人一人とその礼拝を受け入れてくださっています。それは、神さまが無限な方であり、永遠な方であるからこそ、おできになることです。
この週も、私たちそれぞれが異なった場所で、さまざまな歩みをします。その私たちが、どこにあって、どのようなことをなすとしても、私たち一人一人が、詩篇139篇1節ー6節に記されているように、
主よ あなたは私を探り 知っておられます。
あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ
遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ
あなたはそのすべてを知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み
御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとって
あまりにも不思議
あまりにも高くて 及びもつきません。
と告白することができます。それは、私たちには「あまりにも不思議」であり「あまりにも高くて 及びもつきません」が、私たちは確かにそうであると信じることができるのです。それは、私たちが信じている神である「主」が、存在においてばかりでなく、愛といつくしみにおいても無限な方であり、永遠な方であるからです。
創世記1章に戻りますと、1節に、
はじめに神が天と地を創造された。
と記されていることは、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の「見出し文」に当たります。そして、これは神さまがお造りになった「すべてのもの」を視野に収めています。
これに続く、2節には、
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
と記されています。この2節からは、神さまがお造りになった「すべてのもの」のうちの「地」に焦点が合わされています。その他のものも同時並行的に形造られているのですが、この2節からは、この記事の関心は「地」に向けられています。しかも、この記事は、あたかも、「地」に住んでいる者が造り主である神さまの御業を見ているかのように記されています。それは、この記事が神のかたちとして造られている人、特に、神である「主」の贖いの御業によって「主」の民としていただいている人に与えられた啓示であるからです。
前回お話ししたことの結論をお話ししますが、イザヤ書45章18節に記されているように、神さまは最終的には、この「地」を人が「住む所として」形造られました。この創世記1章2節に、
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
と記されているのは、神さまが最初に造り出された時の「地」の状態で、まだ、とても人が「住む所」とは言えない状態にありました。しかし、その時、すでに、「神の霊」がそこにご臨在しておられました。神さまが御霊によってご臨在しておられたのです。このことは、今私たちが住んでいるこの「地」は、初めから、神さまが御霊によってご臨在しておられる所として聖別されていたし、今も、聖別されているということを意味しています。[注]
[注]人は神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、神さまが御霊によってご臨在しておられる所として聖別されているこの「地」において、造り主である神さまを神としない歴史と文化を造っているのです。
そして、この「地」を、御臨在の御許から発せられた、3節に記されている、
光、あれ。
というみことばを初めとする、一連のみことばによって、人が「住む所」として形造っていかれました。今私たちが住んでいるこの「地」の明るさや、温かさ、澄んだ空気と、適度な乾燥と適度の潤い、「地」と海に芽生えた多様な植物と、その間に生息する多様な生き物たちは、この「地」にご臨在しておられる、神さまの御臨在に伴う豊かさです。神のかたちとして造られている人は、この「地」のどこにおいても、神さまの御臨在を指し示すものに囲まれていて、常に、神である「主」の御臨在を身近に感じることができるようになっています。
ただ、今は、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、被造物が虚無に服してしまっているという現実をも身近なこととして、汲み取らないではいられない状況があります。
*
人はこの「地」において、神さまの御臨在を指し示すものに囲まれているだけではありません。
イザヤ書66章1節ー2節には、
主はこう言われる。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
あなたがたがわたしのために建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしの安息の場は、
いったいどこにあるのか。
これらすべては、わたしの手が造った。
それで、これらすべては存在するのだ。
――主のことば――
わたしが目を留める者、それは、
貧しい者、霊の砕かれた者、
わたしのことばにおののく者だ。
と記されています。
ここでは、「主」は「天」を「王座」とし、「地」を「足台」としておられると言われています。ここには「天」と「地」の組み合せが出てきます。そして、これは、王が王座に着座していることを表象として表されています。それで、これは、「主」が「天」と「地」にご臨在しておられて、「天」と「地」、すなわち、「すべてのもの」を支配しておられることを表しています。
それとともに、ここでは、「天」と「地」の違いも踏まえられています。「天」は、イザヤ書にいくつか出てくるのですが、たとえば、40章22節ー23節に、
主は、地をおおう天蓋の上に住む方。
地の住民はバッタのようだ。
主は、天を薄絹のように延べ広げ、
これを天幕のように張って住まわれる。
君主たちを無に帰し、
地をさばく者たちを空しいものとされる。
と記されていることに見られるように、「主」がいと高く栄光に満ちた所にご臨在しておられ、すべてを治めておられる方であることを表しています。
それは、ここ66章1節で、
天はわたしの王座、地はわたしの足台。
と言われていることが、これに続いて、
あなたがたがわたしのために建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしの安息の場は、
いったいどこにあるのか。
と記されていることから察することができますが、「主」がユダの民を糾弾しておられるからです。そのことは、3節に、
牛を屠る者が、人を打ち殺す者。
羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。
穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。
乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。
実に彼らは自分の道を選び、
そのたましいは忌まわしいものを喜ぶ。
と記されていることから分かります。ここでは、ユダの民はささげ物としては指定されたものを献げてはいますが、その一方で、「主」が忌み嫌われることを行っていることが明らかにされています。そのような状態にある人に対しては、「主」が「天」にご臨在しておられることが、さばきとしての意味をもっていることが示されることになります。
詩篇2篇2節ー4節には、
なぜ 地の王たちは立ち構え
君主たちは相ともに集まるのか。
主と 主に油注がれた者に対して。
「さあ彼らのかせを打ち砕き
彼らの綱を解き捨てよう。」
天の御座に着いておられる方は笑い
主はその者どもを嘲られる。
と記されていますし、11篇4節ー6節には、
主は その聖なる宮におられる。
主は その王座が天にある。
その目は見通し
そのまぶたは人の子らを調べる。
主は正しい者と悪者を調べる。
そのみこころは 暴虐を好む者を憎む。
主は悪者どもの上に網を下す。
火と硫黄
燃える風が彼らへの杯。
と記されています。
また、ローマ人への手紙1章18節にも、
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
と記されています。
このようなことがあるので、イザヤ書66章2節後半には、
わたしが目を留める者、それは、
貧しい者、霊の砕かれた者、
わたしのことばにおののく者だ。
という「主」のみことばが記されています。これは、その前の部分、特に、1節に記されている、
あなたがたがわたしのために建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしの安息の場は、
いったいどこにあるのか。
というみことばとのつながりで見ますと、「主」がこのような人々の間にこそご臨在される、このような人々の間に住まわれるということを意味しています。
私たち「主」の民は、救われた後も、自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に、思いとことばと行いにおいて、罪を犯してしまいます。古い契約の下でのいけにえは、そのような「主」の民が自らの罪を認めて、告白し、悔い改めをもって献げるようにと「主」が備えてくださったものです。詩篇51篇16節ー17節には、
まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。
神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。
と記されています。
また、悔い改めて「主」の恵みによって赦された者として、「主」の求めておられる愛、契約の神である「主」への愛と隣人への愛のうちを歩むことこそが「主」が求めておられるものです。
ホセア書6章6節には、
わたしが喜びとするのは真実の愛。
いけにえではない。
全焼のささげ物よりむしろ、
神を知ることである。
と記されています。
ここで「神を知ること」と言われているのは、私たちご自身の民の間にご臨在してくださる「主」を、「主」との愛の交わりにあって知ることで、それには、「主」の愛をしっかりと受け止め、その愛に応えて、愛のうちを歩むことも含まれます。
そのように、「主」の一方的な愛と恵みによって、「主」との愛の交わりに生きている「主」の民にとっては、
天はわたしの王座、地はわたしの足台。
と言われる「主」が天に座しておられることは、豊かな慰めとなります。天に座しておられる「主」は、「すべてのもの」の主権者として、ご自身の契約において約束してくださっていることを必ず成し遂げてくださる王であり、主であられるからです。
そのように、「主」の一方的な愛と恵みによって「主」の民としていただいている私たちにとっては、詩篇19篇1節に、
天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
と記されているように、「天」を仰ぎ見ることは、そこにご臨在されて、天の万象を真実に支え導いておられる「主」の御臨在に触れることとなります。そして、それによって、その主権者である「主」が、「地」にある私たちをも真実に支えてくださっていることを汲み取ることができるようになっています。
ですから、私たち「主」の民は、「地」にあって「主」の御臨在の現れに囲まれているだけでなく、「天」を仰ぎ見て「主」の御臨在の現れに触れているのです。
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