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説教日:2020年7月5日 |
このこととの関わりで、一つのことに触れておきましょう。それは、先ほど引用した、創世記1章26節ー28節に記されているように、神さまは創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになったけれども、それは、神のかたちとして造られている人に、ご自身が造られた歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を与えて、神さまのために働かせるためだったのではないか。それなら、本当に、神さまは、人から何かを得るためではなく、その人自身を愛してくださっていると言えるのだろうかという疑問です。 このような疑問は、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の時代に生きている人の発想に基づいて生まれてきます。それは、洋の東西を問わず、また、あらゆる時代を通じで、堕落後の人がもっている発想です。 その一つの事例が、聖書が記された古代オリエントの文化の中で記された神話の一つである、バビロニアの創造神話『エヌーマ エリシュ』に表されている、神と人との関係についての基本的な考え方に見みられます。その中では、人は神々への奉仕をするために造られたと言われているのです。 バビロニアの神話における主神はマルドゥクで、そのマルドゥクがこの世界を造ったとされています。ただし、マルドゥクの創世の働き以前に、神々も含めたこの世界の素になる「原初の水」が存在しているとされています。それは「原初の大洋」であるアプスーと「波立つ海」であるティアマトです。この二つが混ざり合うところから、神々を初めとするあらゆるものが生まれてきます。マルドゥクもそこから生まれた神々の一人です。そして、波立つ海であるティアマトが、そのようにして生まれたすべてのものを滅ぼしてしまおうとしたときに、マルドゥクがティアマトと戦って勝利します。そして、このティアマトの屍を、魚を裂くときのように二つに裂いて上の部分で天蓋を、下の部分で大地を造り上げます。ですから、そのマルドゥクの働きは「無からの創造」ではありません。 人が造られた状況については、『エヌーマ エリシュ』のY板の5行ー8行に、次のように記されています。 私は血を固まりとして集め、骨を造り出そう。私は野蛮なものを造り上げよう。その名は「人間」としよう。確かに、私は野蛮なものである人間を造ろう。人間には神々に奉仕するという務めを与えることにする。それによって、神々が安楽に過ごすようになるためである。[J.B.Pritchard. ed., Ancient Near Eastern Texts. 3rd ed., 1969 (Princeton:Prenceton University Press), p.68] ここで人を造る素材とされているのは「血」ですが、それは、波立つ海であるティアマトの軍隊の最高指揮官であるキングーの血です。人は、反逆者の血から造られ、神々への奉仕の務めを負わされたと言われています。人の罪がこのように説明されているわけです。これによって、神々が楽になったというのです(33行ー36行参照)。 このような神話は、堕落後の人が抱いている、神と人の関係についての考え方をよく表しています。それは、神と人の関係は、基本的に、奉仕と働きの関係、取り引きの関係であるという考え方です。人が神に仕えると、神はそれに報いて、人のために働いてくれるということです。このように考えられている神は、決して自己充足している神ではありません。人の奉仕を必要としている神です。 罪によって堕落した後の人の考え方では、神と人の関係は基本的には奉仕と働きの関係です。これは、それぞれの働きが、互いにとって必要であるということの上に成り立っている関係です。 それでは、神さまのみことばである聖書ではどうなのでしょうか。先ほど引用した創世記1章26節ー28節に記されているみことばは、神さまが人をご自身にに奉仕させるためにお造りになったかのように見えます。しかし、これを創世記1章1節ー2章3節に記されていることの全体的な流れで見ると、そのような見方が、まったく、間違っていることが分かります。 創世記1章1節には、 はじめに神が天と地を創造された。 と記されています。この1章1節は独立した文で、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の「見出し」に当たるものです。 「天と地」は[メリスムス(Merismus)と呼ばれる表現の仕方で]、「この世界のすべてのもの」、その一つ一つのものも、それぞれの関係も含めて「すべてのもの」を意味しています。ですから、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばは、今日のことばで言うと、神さまがこの壮大な宇宙のすべてのものを、秩序立てられた、調和のある世界としてお造りになったということを述べています。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられ、そのために必要なさまざまな能力を与えられている人が、科学的な研究をして、この世界のさまざまな法則を見出しているのも、神さまがこの世界を秩序立てられた、調和のある世界としてお造りになったからです。 このことは、先ほどの、バビロニアの主神マルドゥクの創世の働き以前に、神々も含めたこの世界の素になる「原初の水」が存在しているとされていることとはまったく違います。その神話では、神々もこの世界に住んでおり、依存しているのです。 また、この、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばは1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の見出しに当たりますから、神さまが歴史的な世界をお造りになり、創造の御業の第7日を祝福し、ご自身の安息の日として聖別されたことまでのすべてを含んでいます。 そして、このことが、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていながら、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていたけれど、神さまの一方的な愛と恵みによって罪を贖われて、ご自身の民としていただいている人に啓示されているということは、空間的に、この世界のすべてのものは、神さまによって創造されたものであるということを意味しているだけではありません。時間的、歴史的に、創造されたすべてが、今日に至るまで神さまによって支えられ、導かれてきているということをも意味しています。 とはいえ、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばから、このような歴史的なことまで汲み取ることは読み込み過ぎであると言われるかもしれません。 しかし、この、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばは、「天と地」すなわちこの大宇宙の「すべてのもの」には「はじめ」があり、その「はじめ」は神さまの創造の御業によっているということを示しています。このことは、このみことばは、まず、神さまが創造されたこの世界の御業の歴史性(神さまは歴史的な世界をお造りになったということ)を示しています。 その上、このみことばは、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の見出しに当たります。そして、1章1節ー2章3節に記されている神さまの創造の御業は、創造の御業の六つの日にわたって遂行された御業、その意味で、歴史的な御業です。 この場合、最初に造り出されたものがあり、その上に、次に造り出されたものがあり、さらに、それらの上に、その次に造り出されたものがあるというように、時間的、歴史的な積み上げ、その意味での発展があります。その場合、先に造り出されたものも、その次に造り出されたものも、さらに、その次に造り出されたものも・・・というように、神さまは、次々と造り出されたすべてのものを真実に支えてくださっておられました。つまり、一般的には、創造の御業の後にも、神さまがお造りになったすべてのものをご自身のみこころにしたがって支えてくださり、導いてくださっているということを意味する、神さまの摂理の御業は、創造の御業の後に始まったのではなく、すでに、創造の御業の中で始まっていたということです。 * このことを踏まえて、今お話ししていることとの関わりという点から、創世記1章に記されている、神さまがお造りになったものを見てみましょう。 神さまは最初に、2節に、 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。 と記されている状態の「地」をお造りになりました。 広く、注目されているのは、ここで、 地は茫漠として何もなく と言われているときの「茫漠として」と訳されていることば(名詞トーフー)が、イザヤ書45章18節に、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 これを堅く立てた方、 これを茫漠としたものとして創造せず、 住む所として形造った方、 まことに、この主が言われる。 と記されている中に出てくるということです。ここでは、「茫漠としたもの」(トーフー)が「住む所」(シェベト)と対比されています。新改訳第3版では、この「住む所」は「人の住みか」と訳されています。ここには「人の」ということばがないので、2017年版は「住む所」と訳しています。そして、これは人ばかりでなく他の生き物の「住む所」を意味しているという注解者もいます。ただ、このイザヤ書45章の文脈からは、そこに他の生き物たちのことは触れられていませんし、数節前の12節には、 このわたしが地を造り、 その上に人間を創造した。 と記されています。それで、ここでは「人の住みか」を意味していると考えられます。ただし、訳としては「住む所」で、これが文脈から「人の住みか」を表していると説明することになります。 このことに照らして見ると、創世記1章2節に、 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。 と記されている状態の「地」は、とても人が「住む所」とは言えない状態にあったことを表していると考えられます。 これは最初に造り出されたときの「地」の状態ですが、この後、「地」が明るく、温かく、豊かな「地」として形造られ、整えられていきます。それは、人が「住む所」にふさわしく形造られ、整えられて行くことを意味しています。 けれども、この最初に造り出されたときの状態の「地」は、自らの力で、何かを生み出したり、その後に造られるものを支えたりするだけの力をもっているものではありません。 しかし、そこには、「神の霊」、神さまの御霊の御臨在、すなわち、御霊による神さまの御臨在がありました。この意味で、私たちが住んでいるこの「地」は初めから神さまの御霊がご臨在される所として聖別されていたのです。 そして、神さまは、その御臨在の御許から発せられた、 光、あれ。 というみことばによって、「闇が大水の面の上にあり」と言われている「地」に光をもたらされました。この「光」は、人が「神は光である」(ヨハネの手紙第一・1章5節)と証しされている神さまを理解するための手がかりとなっています(イザヤ書60章19節とコリント人への手紙第二・4章6節、黙示録22章5節も見てください)。そして、「光を昼と名づけ、闇を夜と名づけ」られました(3節ー5節)。これによって、人ばかりでなく、生き物や植物も含めた、後に造られるもののための1日のリズムが確立することになります。 その後、「大空」によって、その上にある水と、その下にある水を分けて、大気圏を創造されました。それによって、澄んだ空気の大空があり、光が「地」に豊かに射し込むようになり、「地」が暖められ、水が循環して、「地」を適度に潤し、適度に乾燥させる備えをされました(6節ー8節)。 そして、地殻変動による「地」の隆起陥没によって、水を一所に集められ、「地」と「海」を形造られて、「地」にさまざまな植物、草や果樹を芽生えさせました(9節ー13節)。これは、後に造られる生き物たちと人の食べ物となります(29節ー30節)。 次に、大気がさらに澄んだものとなることによってでしょう、天体が「地」との関係で、神さまが与えられた「時々のため、日と年のためのしるし」となる役割を果たすようにされました(14節ー19節)。たとえば、ぶどうの季節、渡り鳥の季節、ウミガメやサンゴなど生き物の産卵の時期、鳥が大空を飛び、人が大海を航海するときの指標などです。 そして、水の中に生きる生き物と、「鳥」、より広くは、飛ぶ生き物をお造りになりました。ここで、初めて、「いのちのあるもの」が造り出され、生きておられる神さまをより豊かに表すものが造られました。神さまはこの「いのちのあるもの」を祝福してくださいました(20節ー23節)。これは、創造の御業における神さまの最初の祝福です。このことは、創造の御業における神さまの祝福が、いのちの豊かさに関わっていることを示唆しています。 次に、「地」に棲む生き物たち(「家畜や、這うもの、地の獣」)をお造りになりました(24節ー25節)。 そして、このようにして、すべてが人が「住む所」にふさわしく形造られ、整えられた後、最後に、神さまは、神のかたちとしての人をお造りになり、これを祝福して、歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。(26節ー31節)。 * すでにお話ししたように、神のかたちとして造られている人も含めて、これらすべては、神さまがご自身のみこころにしたがって造り出されたものであり、その後も真実に支え続けてくださっているものです。 そして、大切なことは、ここに見られる明るさや、温かさ、多様な植物と生き物たちは、この「地」にご臨在しておられる、神さまの御臨在に伴う豊かさであるということです。 これが肉体と霊魂からなる人格である人、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が住む世界の環境です。そして、もっとも基本的で、もっとも大切な「環境」は、そこにご臨在してくださっている神さまご自身です。 神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまがお造りになった多様な植物と生き物たちを支配する使命を委ねられています。その支配は、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落する前に委ねられたものですので、本来の支配です。それは、最初にお話しした、王であられ主であられるのに、ご自身のしもべである私たちのためにいのちを捨ててくださった、メシアにおいて回復されている、本来の権威による支配です。 人は自分に与えられた能力を傾けて、神さまから委ねられた多様な植物と生き物たちに接し、そのお世話をして、植物の場合は、豊かな実が結ばれ、動物の場合は、豊かないのちがはぐくまれるように仕えるのです。それによって、人は、これらのものをとおして、これらのものをお造りになった神さまの知恵と力、そして、自分を含めて、これらのものを変わることなく支えておられる神さまの真実といつくしみを現実的に汲み取って、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝するようになります。 こうして、人は歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、この「地」にご臨在しておられる、見えない神さまの御臨在を身近に感じ取ることができるようになっています。その意味で、人にとって歴史と文化を造る使命を果たすことは、決して、神さまの必要を満たすためのものではありません。むしろ、人が神さまの御臨在に接するために与えられている恵みであり、祝福です。 |
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