黙示録講解

(第430回)


説教日:2020年6月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(183)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 この約束を理解するうえで、最も基本的で大切ななことは、ここで、「勝利を得る者」に、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と言われているときの権威は、イエス・キリストが、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

と述べておられるように、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威であるということです。
 そして、その父なる神さまが御子イエス・キリストにお委ねになった権威は、メシアの国の王としての権威で、王であり、主であるイエス・キリストがご自身のしもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちをお捨てになったことに現されている権威です。
 さらに、イエス・キリストが「勝利を得る者」に、

 諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。

と約束してくださっていることは、すでに、原理的・実質的に、私たちご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっています。
 今お話ししているのは、その約束が私たちの間の現実になっていることを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されている、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

というみことばについてです。
 そして、前々回から、4節ー5節に記されているみことばについてお話ししています。
 これまでお話ししたことをまとめておきましょう。
 この4節ー5節に先立って1節ー3節には、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 ここでは、私たちが、かつては、「自分の背きと罪[どちらも複数形]の中に死んでいた者」であったこと、「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでい」たこと、そして、「自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であったことが記されています。
 これは、私たちが霊的な戦いの状況にあって歩んでいるということを踏まえています。それは、かつて、私たちが霊的な戦いの状況にあったということだけでなく、今も、そして、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、最終的なさばきを執行され、私たちご自身の民の救いを完全に実現してくださる時まで、霊的な戦いの状況にあるということです。
 そして、この4節ー5節では、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されています。
 ここでは、まず、神さまが「あわれみにおいて豊かであられる」ことが示されています。そして、その「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。
 私たちの救いは、「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ています。それで、私たちにとって最も大切なことは、ご自身に背いて生きていた私たち、敵であった「私たちを愛してくださった」父なる神さまの「大きな愛」を受け止めることです。
 その父なる神さまの「大きな愛」は、私たちそのものを、しかも、ご自身に背を向けて「背きの中に死んでいた私たち」自身を、愛してくださった愛です。この神さまの愛を真に受け止めた人は、神さまご自身を愛するようになり、神さまご自身を喜びとするようになります。またそれで、その人は神さまとの愛の交わりを喜びとするようになります。そして、そのような、神さまご自身を愛して、神さまご自身を喜びとする、神さまとの愛の交わりが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質であり、人の本来のあり方です。
 ここで、私たちのことが「背きの中に死んでいた私たち」と言われていることは、1節で、かつての私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったと言われていることに触れるもので、私たちが霊的な戦いの状況にあって、神さまに背いて生きていたということを示しています。
 そして、今は、神さまがその「大きな愛」によって、ご自身に背を向けて「背きの中に死んでいた私たち」を、愛してくださったということにはさらに深い意味があり、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いに関わっているということをお話ししています。
 このことに関わる神さまのみこころとは、神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことに示されているみこころです。
 神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことは、神さまの創造の御業が、神さまの愛から出ているということと深く関わっています。
 前回お話ししたことの結論だけをお話ししますが、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されているように、永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる「ことば」すなわち御子が、天地創造の御業を遂行されました。このことは、天地創造の御業は、父なる神さまが、御子によってご自身の愛を、ご自身の外に現された御業であるということ、父なる神さまが御子によって、お造りになったものに、ご自身の愛を注がれた御業であるということを意味しています。
 そして、神さまがお造りになったものの中で、創造の御業の初めから神さまが注いでくださっている愛を受け止めて、愛をもって神さまを礼拝することを中心として、神さまに応答する存在は、人格的な存在である御使いと人です。神さまのみことばは、その中でも、神のかたちとして造られている人が、特別な立場にあることを示しています。というのは、創世記1章26節ー27節に、

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された

と記されているように、神さまは、ご自身が造られた歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、御使いたちにではなく、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったからです。
 そして、神さまがご自身の安息の「日」として祝福し、聖別された創造の御業の第7日が、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしていく期間となっています。


 ここで、少し立ち止まって、神さまが、ご自身が造られた歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、御使いたちにではなく、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったということを示している、ヘブル人への手紙2章5節ー18節に記されていることについて触れておきましょう。
 このことを取り上げるのは、そこでは、神さまが、ご自身が造られた歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、御使いたちにではなく、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったことが霊的な戦いと深く関わっていることが示されているからでもあります。
 ヘブル人への手紙2章5節には、

 神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではない

と記されています。
 そして、続く6節ー8節前半においては、

 ある箇所で、ある人がこう証ししています。

と言われた後、詩篇8篇4節ー6節[の七十人訳]を引用して、

 人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたがこれを顧みてくださるとは。
 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。
 これは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、その人に、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われている、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れるものです。ですから、みことばは、神さまが創造の御業において造り出された歴史的な世界も、ここで言われている「来たるべき世」も、一貫して、神のかたちとして造られている人に委ねられていることを示しています。
 ここに出てくる「来たるべき世(ヘー・オイクーメネー・ヘー・メルーサ)」は、十字架の死によって私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださった後、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上って父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、そこから遣わしてくださった御霊によって治めておられる新しい世界を指しています。[注]

[注]ここで「」と訳されていることば(オイクーメネー)は、「住む」、「居住する」ことを表す動詞(オイケオー)の現在分詞・受動態・女性形・単数で「人が住んでいる世界」、「人が住んでいる地」という意味合いをもっています。ヘブル人への手紙では、ここと、1章6節で「そのうえ、この長子[御子のこと]をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。」と言われている中に出てきます。この「来たるべき世」を時間的に見れば、「この世」「この時代」と対比される「来たるべき時代」「新しい時代」になります。

 この「来たるべき世」は、1章3節において、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

と証しされている、栄光のキリストが、御霊によって、治めておられる世界のことです。
 この1章3節で、

 御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

と言われていることは、ダビデ契約に関わることで、

 大いなる方の右の座に着かれました。

と言われていることは、メシアのことを預言的に述べている「メシア詩篇」である詩篇110篇の1節ー2節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」
 はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。
 「あなたの敵のただ中で治めよ」と。

と記されていることを受けています。
 そして、その前に、

 御子は罪のきよめを成し遂げ、

と言われていることは、この時点では明確に示されているわけではありませんが、御子の大祭司としてのお働きに触れるもので、同じ詩篇110篇の4節に、

 は誓われた。思い直されることはない。
 「あなたは メルキゼデクの例に倣い
 とこしえに祭司である。」

と記されていることを受けていると考えられます。
 ここでは、祭司的な王であるメシアのことが預言的に語られています。ダビデが、時に、祭司的な働きをしたと考えられることは、サムエル記第二・6章14節(エポデをまとったこと)、17節ー18節(いけにえを献げ、民を「」の御名によって祝福したこと)に見られます。一般的には、王がいけにえを献げたと言われているのは、王が祭司をとおして献げたという意味ですが、ここでは、ダビデ自身が祭司がまとうエポデをまとっていたと言われていますし、ダビデが「」の御名によって民を祝福したと言われています。これらのことは、祭司的な働きです。それで、このこととの関わりで見ると、いけにえを献げたことも、ダビデがなした可能性があります。
 ここで注目されるのは、詩篇110篇では、メシアの王的な働きについて述べるときだけでなく、祭司的な働きについて述べるときにも、それが霊的な戦いの状況においてのことであることが示されているということです。4節において、メシアがとこしえの祭司であることが預言的に語られた後、5節ー6節に、

 あなたの右におられる主は
 御怒りの日に 王たちを打ち砕かれる。
 国々をさばき 屍で満たし
 広い地を治める首領を打ち砕かれる。

と記されています。これは、一般的には、王としてのメシアのことを述べていると考えられています。その場合でも、これは、とこしえの祭司であると言われている王のことであると考えられます。
 このことを反映して、ヘブル人への手紙10章12節ー13節に、

キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。

と記されています。
 これには、注目したいことがあります。ここで、

 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。

と言われていることは、詩篇110篇1節に記されていることを受けています。その意味で、これはメシアの王的な働きに触れることです。ところが、ヘブル人への手紙9章ー10章においては、一貫して、聖所において動物のいけにえが献げられることに基づく、古い契約の下における礼拝のことと対比される形で、その本体であるメシアがご自身をささげられたことによって、私たち「」の民を永遠に全うされたということ、そして、メシアは天の聖所に入られそこで大祭司として仕えておられるということが語られているということです。引用した、10章12節ー13節も、その前後をめて見てみると、10節ー14節には、

このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

と記されています。つまり、ここでは、大祭司としてのメシアのお働きが語られている中で、霊的な戦いにおける「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」と言われているのです。
 このつながりを念頭に置いおいて、ヘブル人への手紙2章5節以下に記されていることを、さらに見てみましょう。先ほど取り上げた6節ー8節前半において、詩篇8篇4節ー6節を引用した後、続く8節後半ー9節において、

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と記されています。
 ここでは、「御使いよりもわずかの間低くされた方」として来られて、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられ」たイエス・キリスト、すなわち、栄光のキリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられることを示しています。「「御使いよりもわずかの間低くされた」ということと「栄光と誉れの冠を受けられた」ということは、2章7節に引用されている、

 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、

という詩篇8篇5節のみことばを受けています。それで、ここでは、イエス・キリストが、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人として来てくださり、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられ」たことによって、歴史と文化を造る使命を成就しておられることが示されています。そして、ここでは、さらに、そのイエス・キリストの死は「多くの子たちを栄光に導くため」の死であり、その栄光にあずかっている私たちが「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たすようになることが示されています。
 そして、このことは、続く10節において、

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

と記されていることによって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たち「」の民が栄光の状態に入れられること、そして、5節ー9節に記されていることとのつながりでは、イエス・キリストの復活の栄光にあずかって神の子どもとされている私たちが「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たすようになることが、創造の御業によってすべてのものをご自身のご栄光のために造り出された神さまにふさわしいことであることが示されています。
 そして、このことが霊的な戦いの状況の中で起こっていることが、この10節によって導入されている10節ー18節に示されています。それはいくつかのことから汲み取ることができますが、特に、14節ー15節に、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されていることに示されています。ここでは、「イエス」(人としての名)が、霊的な戦いにおける敵である「悪魔」すなわちサタンを滅ぼすことが記されています。
 これは、メシアの王的なお働きに触れるものです。メシアの国においては、王であるメシアが、「悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放」してくださるために、まことの人となって来てくださり、ご自身のいのちを捨ててくださったというのです。
 また、このことを受けて、この後の17節ー18節には、

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

と記されています。
 イエス・キリストが「試みを受けて苦しまれた」ことは、ご自身に罪があったためではありません。それは突き詰めていくと、イエス・キリストのメシアとしてのお働きの初めにあった、いわゆる「荒野の試み」に見られるように、イエス・キリストのお働きを妨げようとして働いていたサタンの働きによることで、霊的な戦いの状況においてのことです。[注]

[注]もちろん、イエス・キリストがサタン(悪霊たちを含む)の挑戦を受けたのは、その「荒野の試み」で終ったわけではなく、メシアとしてのお働きを続けておられたすべての日においてであり、特に、その生涯の終わりに十字架におかかりになるに至る日々において、より激しくなりました。

 また、それで、

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

と言われているときの「試みられている者たち」も、同じように、霊的な戦いの状況において、「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たしていく中で試みを受けている神の子どもたちのことです。
 ここで、注目したいのは、メシアの国の王として、「悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放」してくださる方が、私たちと同じようになられて、「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださったと言われていることです。
 このように、御子イエス・キリストは、メシアの国の祭司的な王(王であり、祭司であられる方)として、ご自身が「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられ」て、創造の御業において造り出された歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を成就しておられるばかりでなく、その死によってサタンを、原理的・実質的に滅ぼし[サタンの働きは続いていますが、それを十字架の死によって無力化して]、私たちご自身の民を死の力から解放してくださり、さらに、ご自身の栄光にあずからせてくださって、「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たしていく神の子どもとしてくださっています。そのために、私たち神の子どもたちを、王として御霊によって治めてくださり、導いてくださっていますし、大祭司として、試練と苦難の中にある神の子どもたちのために、とりなしてくださっています。


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