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説教日:2020年6月14日 |
先主日は、これら三つのことを踏まえて、エペソ人への手紙2章4節ー5節に記されていることについてお話ししました。まず、その要点を振り返ってから、お話を続けます。 4節ー5節では、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と言われています。 ここでは、まず、神さまが「あわれみにおいて豊かであられる」ことが示されています。そして、その「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。 私たちの救いは、「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ています。それで、私たちにとって最も大切なことは、ご自身に背いて生きていた私たち、敵であった「私たちを愛してくださった」父なる神さまの「大きな愛」を受け止めることです。 その父なる神さまの「大きな愛」は、私たちそのものを、しかも、ご自身に背を向けて「背きの中に死んでいた私たち」自身を、愛してくださった愛です。決して、私たちの奉仕を当てにしてのものでも、私たちから何かを得ようとしてのものではありません。この神さまの愛を真に受け止めた人は、神さまご自身を愛するようになり、神さまご自身を喜びとするようになります。またそれで、その人は神さまとの愛の交わりを喜びとするようになります。そして、そのような、神さまご自身を愛して、神さまご自身を喜びとする、神さまとの愛の交わりが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質であり、人の本来のあり方です。 先主日には、これには、さらに、深い意味があり、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いに関わっているということをお話しし始めました。 その神さまのみこころとは、神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことに示されているみこころです。 神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことは、神さまの創造の御業が、神さまの愛から出ているということと深く関わっています。 このことについては、すでに繰り返しお話ししてきましたが、いくら強調しても、し過ぎることはないことですので、改めて、まとめておきます。 神さまの創造の御業が、神さまの愛から出ているということは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されているみことばから汲み取ることができます。 1節の、 初めにことばがあった。 というみことばと、2節の、 この方は、初めに神とともにおられた。 というみことばに出てくる「初めに」は、創世記1勝1節に、 はじめに神が天と地を創造された。 と記されているときの「はじめに」ということばに相当します。 そして、この、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばは、この新改訳の訳が示しているように、独立した文で、創世記1章1節ー2章3節に記されている、創造の御業の記事全体に対する「見出し」に当たります。この場合の「天と地」は(メリスムスという表現方法で)、「秩序だてられているこの世界のすべてのもの」を表しています。それで、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばは、この宇宙とその中の「すべてのもの」は、神さまの創造の御業によって造り出されて、存在するようになったということを示しています。 このような意味での天地創造の御業によって始まった「はじめ」は、この世界の時間の初めでもあります。時間や空間は神さまがお造りになった歴史的な世界の時間であり、空間であって、この世界がなければ時間も空間もありません。それで、時間は神さまの創造の御業とともに始まっており、空間も創造の御業とともに広がり始めています。 ヨハネの福音書1章1節では、その「すべてのもの」の、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。 と言われています。また、2節でも、「この方は」その「すべてのもの」の、 初めに神とともにおられた。 と言われています。 この1節ー2節には、「あった」(「おられた」)ということば(エーン)が4回出てきます。これは未完了時制で、過去のある時において、継続して「あった」ことを示しています。この場合は、天地創造の御業の「初めに」において、「ことば」が継続して「あった」ということを示しています。それで、 初めにことばがあった。 というみことばは、「ことば」が、この世界の「初めに」遂行された天地創造の御業によって造り出されたのではなく、天地創造の御業がなされたときには、すでに存在し続けておられたことを意味しています。ですから、「ことば」すなわち御子は、時間を越えた永遠の存在です。1節の最後に、 ことばは神であった。 と記されているとおりです。 また、 ことばは神とともにあった。 というみことばは「ことば」すなわち御子が、「神」すなわち父なる神さまと区別される方であることを示しています[注] [注]古代教会においては、御父、御子、御霊は単一の神の三つの顕現様態であり、御父は、その単一の神が、旧約の時代に、創造者また立法者として現れたもの、御子は、新約の時代に、贖う者として現れたもの、御霊は、その後の時代に、いのちを与える者として現れたものであるという考え方がありました。これは、様態論的モナルキア主義と呼ばれますが、サベリウス主義、あるいは、天父受苦説としても知られています。しかし、ここヨハネの福音書1章1節ー2節では、御子が父なる神さまとともにおられということ、すなわち、同時に、別々の方としておられるということが示されています。 さらに、この、 ことばは神とともにあった。 というみことばと、2節の、 この方は、初めに神とともにおられた。 というみことばに出てくる「神とともに」(プロス・トン・セオン)ということばは、「ことば」が「神」の方を向いていていることを示しています。このことは、「ことば」と「神」の間に、愛の交わりがあることを示しています。しかも、ここでは、そのことが1節と2節に繰り返されていて、強調されています。 ヨハネの福音書のプロローグ(序論)に当たる1章1節ー18節の結びである18節に、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されています。ここでは御子が父なる神さまの愛の「ふところ」におられると言われていていて、御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが、より明確に示されています。 この、 ことばは神とともにあった。 ということは、天地創造の御業の「初めに」におけることであって、この世界はまだ造られていないために、存在していません。神さまはご自身において無限に豊かな方であり、愛においても永遠に完全な充足のうちにおられます。 もし、神が一位一体の神であったとしたら、無限に豊かで永遠の人格は一つしかなく、その神には、無限に豊かで永遠の愛にある交わりはないということになります。その場合、神には無限に豊かで永遠の愛という「性質」はあっても、それは決して十分に表現できないということになります。というのは、無限に豊かで永遠の愛を完全に受け止めることができるのは、無限にして永遠の人格だけだからです。あらゆる点において限りのある被造物には、神さまの無限に豊かで永遠の愛を完全に受け止めることはできません。しかし、実際には、神さまの愛は、御父と御子と御霊の間において、その無限の豊かさをもって、永遠に表現されており、完全に受け止められています。あるいは、アウグスティヌス的に言いますと、御父と御子の間には、御霊によって、無限に豊かな、永遠の愛の交わりがあります。 これは、神さまは三位一体の神であられることを示しているみことばの重要な事例の一つです。 このように、ご自身において無限に豊かであり、愛において永遠に、まったく充足しておられる神さまが、天地創造の御業を遂行されました。それが、3節に、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されていることです。 ここでは、 すべてのものは、この方によって造られた。 と言われています。これは、「この方」すなわち御子が天地創造の御業を遂行された方であることを示しています。このことは、その前の1節ー2節で、繰り返されて強調されている、 ことばは神とともにあった。 ということと切り離すことができません。それで、ここでは、永遠に、父なる神さまとの無限に豊かな愛の交わりのうちにあられる「この方」すなわち御子が、天地創造の御業を遂行されたということが示されているのです。このことは、天地創造の御業は、父なる神さまが御子によってご自身の愛を、ご自身の外に現された御業であるということを意味しています。言い換えると、父なる神さまが御子によって、お造りになったものに、ご自身の愛を注がれた御業であるということです。 それで、神さまはご自身が造られたすべてのものの存在をお喜びになり、それぞれにご自身の愛に基づくいつくしみを注いでおられます。そのように、神さまのいつくしみを受けている被造物の中で、その神さまの愛を受け止めて、愛をもって応答する存在は人格的な存在である御使いと人です。 それで、もともと優れた御使いとして造られたサタンも、本来、その神さまの愛を受け止めて、愛をもって応答すべき存在です。サタンはサタンとともに神である「主」に対して罪を犯して堕落した悪霊たちのかしらです。本来は、その悪霊となってしまった御使いたちのかしらとして、自らが先頭となって神である「主」を愛し、「主」を神として礼拝して、いっさいの栄光を「主」に帰すべき者です。そのように造られた者が、自分が神のようになろうとして、神である「主」に対して罪を犯して、堕落してしまったことによって、「主」に敵対する者となり、「主」への愛を憎しみに変えてしまいました。そして、その「主」への憎しみから、「主」に対して霊的な戦いを仕掛けたのです。 このようなことを踏まえると、霊的な戦いの根本には、父なる神さまが御子によって遂行された創造の御業において、ご自身の愛をお造りになったこの世界に注がれたということがあることが分かります。また、造られたものの中で、人や御使いが、その神さまの愛を受け止めて、愛をもって神さまを礼拝することにおいて、神さまに応答する人格的な存在として造られているということがあることが分かります。 ですから、私たち「主」の民は、このようなわきまえをもって、サタンとその霊的な子孫との霊的な戦いを戦う必要があります。また、このことから、私たち「主」の民が、この時、ここで、造り主である神さまを礼拝していることには、霊的な戦いにおいて、大きな意味があることが分かります。 このように、被造物の中で、創造の御業の初めから神さまが注いでくださっている愛を受け止めて、愛をもって神さまを礼拝することを中心として、神さまに応答する存在は、人格的な存在である御使いと人です。神さまのみことばは、その中でも、神のかたちとして造られている人が、特別な立場にあることを示しています。というのは、みことばによると、神さまが創造の御業によって造り出された世界は歴史的な世界であり、神さまは、ご自身が造られた歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、御使いたちにではなく、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったからです。 創世記1章26節ー27節には、 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された と記されています。 ここでは、神さまが創造の御業において、人を「神のかたちとして」お造りになったことと、男も女も同じく「神のかたちとして」造られているということが示されています。そして、神さまの本質的な特質が愛であるように、「神のかたちとして」造られている人の本質的な特質も愛です。 これに対して、植物の創造を記している11節には、 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。 と記されています。また、動物たちの創造を記している24節には、 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。 と記されています。 これらのみことばは、同じく、神さまによって造られたもの(被造物仲間)であるけれども、植物や動物はその「種類ごとに」造られているのに対し、人は「神のかたちとして」造られていることを示しています。 その意味で、「神のかたちとして」造られている人は、植物や動物とは区別されて、造り主である神さまとの人格的な関わりにおいて見られるべきものです。 その「種類ごとに」造られている植物や動物は、いわば、それ自体の中で一種の完結性をもっています。その「種類ごとに」造られているもの同士が、群れをなして生息することはありますが、その「種類」を越えての交流をするということはほとんどありません。まして、造り主である神さまを意識するというようなことは全くありません。 これに対して、愛を本質的特質とする「神のかたちとして」造られている人は、その交わりという点において、基本的に、造り主である神さまとの愛の交わりに生きるものです。人は、その「種類」に造られていますが、それ以上に、「神のかたちとして」造られています。それで、何よりもまず、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きることを、その本質的な特質としています。そして、その神さまとの愛の交わりの中心に、神さまを愛して、神さまを礼拝することがあります。人は造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きる者として、また、造り主である神さまを愛して、礼拝する者として出会って、心を合わせて、神さまを礼拝することを中心として、お互いの愛の交わりに生きるようになります。 このことが、神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことにつながっています。 これについては、日を改めてお話しします。 |
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