本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、
勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
彼は鉄の杖で彼らを牧する。
土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。
という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばについてのお話を続けます。
これまで4回にわたって、この約束を理解するうえで大切なことをお話ししました。まず、ほぼこれまでの繰り返しになりますが、最も基本的なことを振り返ってから、お話を進めていきます。
ここで、「勝利を得る者」に、
諸国の民を支配する権威を与える。
と言われているときの「権威」は、イエス・キリストが、
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。
と述べておられるように、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。
そのイエス・キリストの権威は、メシアの国の王としての権威です。それは、王であり、主であるイエス・キリストがご自身のしもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちをお捨てになったことに現されている権威です。
ヨハネの福音書10章18節に、
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。
と記されているとおり、メシアの国の王であるイエス・キリストは、ご自身の権威により、また、ご自身の意志によって、父なる神さまのみこころに従って、十字架におかかりになって、いのちをお捨てになりました。
このことは、ヨハネの福音書10章では、これに先立って11節に記されている、
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
というイエス・キリストの教えを受けています。
この強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で表されている教えは、イエス・キリストが契約の神である「主」ヤハウェであられることを示しています。そして、神である「主」であられるイエス・キリストが私たちご自身の民にとって、「良い牧者」であられ、私たちご自身の「羊たちのためにいのちを」お捨てになる方であることを示しています。そして、実際に、イエス・キリストは、神である「主」として、すべてのことを導いて、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の贖いの代価として、いのちを捨ててくださいました。
ですから、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた権威は、契約の神である「主」ヤハウェとしての権威であり、「良い牧者」として、私たちご自身の民を愛して、私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったことに現されている権威です。そして、「勝利を得る者」は本質的にこれと同じ権威を与えられるのです。
前回はイエス・キリストが「勝利を得る者」に、
諸国の民を支配する権威を与える。
彼は鉄の杖で彼らを牧する。
土の器を砕くように。
と約束してくださっていることが、原理的・実質的に、私たちご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっているということをお話ししました。
そして、そのことを示しているみことばの一つとして、エペソ人への手紙2章1節ー10節に記されている、
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
というみことばについてお話ししました。
前回は、ここに記されていることを理解するために必要な、三つのことについてお話ししました。それを復習しておきます。
第一のことは、神さまが創造の御業において、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったということです。
神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちとして造られている人の本質的な特質も愛です。また、それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、自分たちの間にご臨在してくださる神である「主」との愛の交わりに生きることにあります。そして、その「主」との愛の交わりの中心は、「主」を神として礼拝することにあります。さらに、「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きている人が造る歴史と文化は、やはり、「主」を神として礼拝することを中心とした歴史と文化です。
第二のことは、暗闇の主権者であるサタンの働きです。サタンはもともとは優れた御使いとして造られたのに、神のようになろうとして、自分に従った悪霊たちとともに、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。サタンと悪霊たちは徹底的に堕落してしまっていて、そのなすことすべての目的も動機も神さまに逆らうこと、具体的には、神さまのみこころの実現を阻止しようとすることにあります。
その意味で、サタンは神である「主」に対して霊的な戦いを転回しています。エペソ人への手紙6章12節に、
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
と記されている教えは、このことを背景としています。
しかし、サタンも一介の被造物です。神さまと直接的に戦うことはできません。それでサタンは、創造の御業において、人をご自身との愛の交わりに生きる神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしました。神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化が造られていく上での鍵を握っている存在、「主役」となっている存在を、神である「主」に背かせるように働いたのです。
具体的には、サタンは、最初の女性であるエバを誘惑して、神である「主」に背かせました。そして、エバをとおして最初の人にして、人類の契約の「かしら」として造られているアダムを誘惑して、神である「主」に背かせました。
このようにして、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したと思われる状態になってしまいました。
第三のことは、サタンの働きによって創造の御業において現された神さまのみこころの実現が阻止されてしまった状況にあって、なお、神である「主」は、人はもとより、サタンにも、御使いたちにも、思いもよらない方法によって、ご自身のみこころを実現されることをお示しになったということです。
それが、創世記3章15節に、
わたしは敵意を、おまえと女の間に、
おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
彼はおまえの頭を打ち、
おまえは彼のかかとを打つ。
と記されている、「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後で働いていたサタンに対するさばきの宣告の形で示された「最初の福音」です。
これについては、前回お話ししたこととは別の観点からお話します。もちろん、前回お話ししたことを踏まえた上でのことです。
この時点において、神である「主」が直接的に、サタンに対する最終的なさばきを執行して、サタンと悪霊たちを滅ぼしておられたなら、罪によってサタンと一つになってしまっている最初の人アダムと最初の「女」エバもサタンとの一体においてさばきを受けて滅ぼされていたことでしょう。そうなると、創造の御業において現された神さまのみこころは実現しないことになります。それは、霊的な戦いにおいてサタンが勝利することを意味しています。
ここでは、歴史をとおして「女」と「女の子孫」の共同体と、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の間に、創造の御業において示された神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いが継続していくことが示されています、
これは、サタンに対するさばきの宣告ですので、歴史をとおして、「主」のさばきが、霊的な戦いを戦う「女の子孫」によって執行されていくこと、そして、最後には、「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることが示されています。その意味で、サタンに対する最終的なさばきは、「女の子孫」のかしらとして来られる方が来られる時まで引き延ばされることが示されています。
そして、この霊的な戦いにおいては、「女」と「女の子孫」の共同体が、神である「主」に敵対しているサタンとサタンの霊的な子孫の共同体と戦うことになります。その意味において、「女」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「主」の側に立つもの、その意味で、神である「主」の民となっています。このことに、「女」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。
この意味で、これは「最初の福音」と言われます。そして、このことが、神である「主」が与えてくださっている「福音」の最も基本的な意味です。「主」の「福音」は、創造の御業において示された神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いの中で与えられているということです。
この「女の子孫」のかしらとして来られる方こそが、約束のメシア(キリスト)です。この方は「女」と「女の子孫」の共同体のかしらとして、創造の御業において現されている神さまのみこころを実現される方です。そして、新約聖書はいくつかの個所において、この方が、それを実現しておられることを示しています。「女」と「女の子孫」の共同体は、この方との一体にあって救われ、神である「主」の民とされます。
黙示録2章26節ー28節前半に記されている、「勝利を得る者」に与えられている約束のみことばも、このような、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いの状況の中で与えられたものです。
前回は、これら三つのことを踏まえて、エペソ人への手紙2章1節ー3節に記されている、かつての私たちのことについてお話ししました。今日から、続く、4節ー10節に記されている、今の私たちのことについて、順次、お話しします。
4節ー5節には、
あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
と言われています。
ここでは、まず、神さまのことが「あわれみにおいて豊かであられる」(直訳)ことが示されています。そして、その「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださった(アガパオー)その大きな愛(アガペー)のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。それで、ここでは、
あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
と言われています。私たちが救われたのは、この神さまの「大きな愛」に基づく「恵み」によっています。8節ー9節でも、
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
と言われています。
私たちの救いは、「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ています。そして、その神さまの愛は、「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた「私たちを愛してくださった」愛です。私たちはその神さまの「大きな愛」に基づく恵みによって「キリストとともに生かして」いただくことによって救われました。
そうであれば、私たちにとって最も大切なことは、ご自身に背いて生きていた私たち、敵であった「私たちを愛してくださった」父なる神さまの「大きな愛」を受け止めることです。その父なる神さまの「大きな愛」は、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、
神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって
私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって
神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
と記されている愛です。
これは、神さまが私たちそのものを、しかも、ご自身に背を向けていた私たち自身を愛してくださった愛です。真にこの愛を受け止めた者は、神さまがくださるもの自体ではなく、神さまご自身を愛するようになり、神さまとの愛の交わりを喜びとするようになります。もちろん、その神さまとの愛の交わりが、先ほどお話ししたように、神のかたちとして造られている人のいのちの本質であり、人の本来のあり方です。
これには、さらに、深い意味があり、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いに関わっています。それは、神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことに示されているみこころです。
神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたことについては、いくつかのことを取り上げなければなりませんが、今日は、その前に、そのこととの関連で、特に注意すべきことをお話したいと思います。
神さまが創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになって、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになったというと、何となく、神さまが求めておられるのは人の働きであるというように感じられてしまいます。
しかし、それは、堕落後の人である私たちが、人の価値を働きや能力を中心として考えてしまうための「錯覚」です。また、そのために、神との関係を一種の「取り引き」の関係として考える、この世の一般的な発想に馴れてしまっているための「錯覚」です。
このことを創造の御業の第7日の祝福と聖別との関わりで取り上げるのは、創造の御業の第7日が、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たす期間、言わば、時間的、歴史的な舞台となっているからです。
神さまが人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったことの動機と目的、また、神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことの動機と目的も、ご自身の愛を人に注いでくださることにあります。そして、神のかたちとして造られている人が、この神さまの愛を受け止めて、神さまご自身を愛する愛のうちを生きるようになることにあります。歴史と文化を造る使命は、その神さまとの愛の交わりが、人にとっての現実において実現するようになるために与えられています。
そのことは創造の御業の初めから一貫しているのですが、私たちが堕落後の人の発想に馴れてしまっているために、なかなか気づくことができまていません。もし、私たち「主」の民が神さまが歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことの動機も目的もご自身の愛を注いでくださることにあるということに気づかないでいるなら、そして、神さまも私たちの奉仕を必要としているかのように考えてしまっているなら、それは、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いにおける敗北の第一歩となってしまいます。
しかし、私たちは、私たちの救いが「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ていることを、そして、その神さまの愛は、「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた私たち、神さまに敵対していた「私たちを愛してくださった」愛であることを、福音のみことばをとおして、また真理の御霊に心を照らしていただいて知るようになりました。
神さまは、私たちがご自身にとって役に立つからということで愛してくださったのではありません。私たち自身を愛してくださいましたし、今も、また永遠に変わることなく、愛してくださっています。そして、神さまはその変わることのない愛を、ご自身に対して罪を犯して、ご自身に背を向けて歩むようになってしまった私たち、神さまの聖なる御怒りによって滅ぶべきものとなってしまった私たちに注いでくださいました。そして、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子を「宥めのささげ物として」お遣わしになりました。
確かに、このことによって、神さまの私たちに対する愛はより豊かに示されるようになりました。しかし、それは、神さまの私たちに対する愛が変わったということではありません。それは、神さまの初めからの愛がどれほど深く豊かな愛であるかが、より鮮明に現されたということ、明らかにされたということです。
それで、繰り返しの引用になりますが、ローマ人への手紙5章8節には、
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
と記されています。ギリシア語原文では、「明らかにしておられます」「私たちに対するご自分の愛を」「神は」、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって」という順序で表されていて、現在時制で表されている「明らかにしておられます」が冒頭におかれて強調されています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって」現されている父なる神さまの愛は、今も変わることなく私たちに注がれていますし、永遠に注がれます。
このことを受けて、続く9節ー10節には、
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
と記されています。ここでは私たちの救いの確かさが示されていますが、その根底には、御子イエス・キリストにあって、永遠に変わることなく注がれている、父なる神さまの私たちに対する愛があります。
それで、これに続く11節には、
それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
と記されています。父なる神さまが、御子イエス・キリストにあって、私たち自身を愛してくださっているように、私たちも、御子イエス・キリストによって、父なる神さまご自身を愛し、私たちの喜びとしています。言うまでもなく、それは神さまとの愛にある交わりにおいてのことです。
このことは、古い契約の下にあった「主」の契約の民にも共通していたことです。それは、「主」の契約の民が受け継ぐ相続財産の中心は、「主」ご自身であるということ、言い換えると、「主」との愛の交わりであるということに示されています。
そのことを示すみことばはいくつもありますが、直接的にそのことを示すみことばは、特に、詩篇に記されているので、それを見てみましょう。詩篇16篇5節には、
主は私への割り当て分 また杯。
あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。
と記されています。また、73篇25節ー26節には、
あなたのほかに
天では 私にだれがいるでしょう。
地では 私はだれをも望みません。
この身も心も尽き果てるでしょう。
しかし 神は私の心の岩
とこしえに 私が受ける割り当ての地。
と記されています。さらに、119篇57節には、
主は私への割り当てです。
私は あなたのみことばを守ると申し上げました。
と記されています。
また、詩篇以外の哀歌3章23節ー24節にも、
「あなたの真実は偉大です。
主こそ、私への割り当てです」と
私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。
と記されています。
これらのみことばに出てくる「割り当て」と「割り当ての地」は同じことば(ヘーレク)で、土地や戦利品などの「受けるべき分」、相続財産を表しています[詩篇16篇5節の「割り当て分」の「分」は別のことば(メナート)]。これらのみことばは、「主」を告白することばですが、「主」こそが、自分が受くべき相続の土地、相続財産であると告白しています。それは、「主」との愛にある交わりこそが「主」の契約の民の受け継ぐべき相続財産であるということを意味しています。相続の土地や相続財産そのものは、私たちがこの世界の具体的な状況の中で、「主」との愛にある交わりに生きるためのものです。
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